グリゴリー・ヨッフェのベラルーシ論
 
 
 ベラルーシという国は欧米でも日本でもあまりよく知られていない。そもそもあまり関心の対象にならないと言ってしまえばそれまでかもしれない。他面、ベラルーシは広義でのヨーロッパの一角に位置し、バルト諸国・ポーランド・ウクライナなどと隣接する国として、それらとの比較――とりわけ対ロシア関係における共通性と差異――が問題になるという意味では、いわば間接的に関心の対象となることがある。そのためか、ベラルーシ自体については何の知識も関心も持たない政治家・ジャーナリスト・評論家などが、「欧州最後の独裁国」とか「ロシア化の圧力のせいで民族性も言語も奪われてきた」といった紋切り型の言葉を繰り返し、それが世間一般にもかなり浸透しているように見える。
 この国のことがあまりよく知られていないのは専門家が少ないせいだが(なお、日本では服部倫卓が孤軍奮闘している)、それだけにとどまらない要因もあるということを、グリゴリー・ヨッフェという人が指摘している。彼によれば、欧米における数少ないベラルーシ関連情報源は多くの場合、ポーランド出身もしくはベラルーシ最西部出身のベラルーシ・ディアスポラであり、彼らの意識は往々にしてベラルーシ本国のメンタリティと遊離しているため、彼らだけに依拠したのではベラルーシを理解することはできないという。
 このヨッフェという人は、ユダヤ系ベラルーシ人の家系の出で、本人はモスクワ生まれ、モスクワ育ちだが、祖父母や叔父・従兄弟たちの住むミンスクを幼時より毎年訪れて、ベラルーシ社会を肌で観察し続けてきた経験を持つ。ソ連最末期に出国してアメリカにわたり、アメリカの大学教授となった(その後も定期的にベラルーシを訪問しているとのこと)。ベラルーシ情勢に精通している数少ない社会科学者の一人だが、エスニックなベラルーシ人ではないこともあり、ベラルーシ・ナショナリズム――実をいえば「ベラルーシ・ナショナリズムとは何か」ということ自体が大問題であり、アメリカで知られているのは複数の潮流のうちの一つに過ぎないとヨッフェはいう――から距離をおいていることが彼の観察を特異なものにしている。
 彼は21世紀初頭に、Europe-Asia Studies誌に3回連載という異例の長編論文を書き(vol. 55, no. 7; vol. 55, no. 8; vol. 56, no. 1, 2003-2004)、それをもとにして、Grigory Ioffe, Understanding Belarus and How Western Foreign Policy Misses the Mark, Rowman & Littlefield, 2008という著書(以下、本書という)を書いた。いろいろな意味で刺激的かつ論争的な――欧米における代表的なベラルーシ研究者たるザプルドニクおよびマープルズへの辛辣な批判を含む――書物である。私は雑誌論文の段階で彼の議論に新鮮な刺激を受けていたが、本書の存在に気づくのが遅れ、最近ようやく読むことができた。雑誌論文と重なるところもかなりあるが、とにかくユニークな洞察を含む本である。
 欧米で優勢なベラルーシ観が濃厚に反ロシア・反ルカシェンコであるため、それと距離をおくヨッフェの議論は、外観的にいうと、あたかも親ロシア・親ルカシェンコ――そして間接的には親プーチン、また歴史的には親ソ連――であるかに見えるところがある。本人の意図としては、一方の極から他方の極に走るというのではなくて、様々な極論を含む多様な情報や論争を見比べながらバランスのとれた議論を出そうと努めているのだろうが、何が適切なバランスかというのは難しい問題であり、結局のところ主流と逆の極論に陥っているのではないかといった批判にさらされる可能性もある。論争の書であり、決定版というわけでないのは、ことの性質上、やむをえない。それにしても豊富な情報に基づいて綿密な議論を積み重ねていることは明らかであり、結論への賛否はさておき、知的刺激に富んだ作品だということは確言できる。
 本書の内容は多岐にわたるが、いくつか興味深い個所をつまみ食い的に紹介してみたい。但し、我流の解釈および補足をあちこちに付け加えるので、必ずしも忠実な紹介とは限らないことをお断わりしておく。いってみれば、以下の小文はヨッフェを主たる情報源とする私なりのベラルーシ論の試みである。もちろん、ヨッフェの所論と私見が完全に合致するわけではない。ところどころで、「……とヨッフェはいう」といった書き方をするが、あらゆる個所でそうするのは煩瑣に過ぎるので、私見と彼の見解の区別がやや曖昧になる場合もありうる。重要な点についてはそうした混同は避けるように努めるが、それでも個々の論点が気になる読者は、本書そのものと拙文を読み比べてくださるようお願いしたい。
 
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 先ず序章から。
 自己紹介的な文章のうちの最重要の部分は先に紹介したが、それ以外にも興味深い部分がいくつかある。ヨッフェが長らく暖めていたソ連出国の考えを実行に移したのは、まさにソ連が民主主義に進もうとしているペレストロイカ期のことだった。逆説的ながら、その変化に伴って安全の感覚が失われたからだと彼はいう。ソ連では草の根の秘かな反ユダヤ主義は絶えることなく持続していたが、それが公然たるユダヤ人への攻撃という形をとることは――戦後初期の「反コスモポリタン」キャンペーンの時期を除き――基本的に抑制されていた。その抑制が「民主化」の始まりとともに解除され、安全の感覚が失われたというのは皮肉な話である。
 ヨッフェは出国時にソ連国籍を剥奪され、アメリカに難民として受け入れられた。そうした経験をもつ者として、ソ連体制の欠陥は肌身で感じて、よく承知している。しかし同時に、ソ連時代の全てが捨て去るべきものだったとは思わないとも彼は書いている。ソ連体制下で受けた教育は種々のイデオロギー的特殊性を帯びていたが、全く無価値というわけでもなかったというのが、そのもとで育った彼の実感のようである。彼はまた、自分の先祖はベラルーシのユダヤ人であり、ソ連が独ソ戦に勝たなかったら、両親はホロコーストに遭い、自分は生まれていなかったろうとして、そうである以上、自分にとって、スターリニズムとナチズムは決して等価でなく、スターリニズムの方が「より小さな悪」だったと書いている。この言明は、ポーランドやバルト諸国で優勢な「二つの全体主義」論――スターリニズムとナチズムを等価と見なし、むしろ期間の長かった前者の方の非難に力点をおく――とは真っ向から衝突する考えで、大きな論争点だが、自己の背景に基づいているだけに、簡単には無視できない重みをもつ。
 
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 第1章から第3章にかけては、言語・宗教・アイデンティティ・文化などといった一連の問題について論じている。本書の中でとりわけ興味深い部分である。あちこちに関連する叙述があり、部分的重複もあることから、本書の構成に沿った忠実な紹介ではなく、我流にまとめ直して、興味深い点を抜き出してみる。
 ベラルーシはポーランドとロシアに挟まれる位置にあり、言語的にも両者の影響を受けやすい。歴史をさかのぼれば、リトアニア大公国時代(13-16世紀)に、現代ベラルーシ語の祖とされるルーシ語というものが公的な場で使われたことがあったが、これはポーランド=リトアニア連合王国時代(16-18世紀)に公的使用から排除され、その伝統はいったん途絶えた。その後、長いこと、現在のベラルーシに当たる地域の都市部はイディッシュ、ポーランド語、ロシア語の世界であり、ベラルーシ語は農民の話し言葉だった。話し言葉には当然地域差があり、西に行くほどポーランド語に近く、東に行くほどロシア語に近い形をとる。19世紀以降、一部の知識人が文章語としてのベラルーシ語創出を試み始めたが、その際、西寄りの知識人(多くはカトリック)はポーランド語に近い形を標準語化の基礎とし、ラテン文字を使ったのに対し、東寄りの部分ではロシア語に近い方言が広がっており、正教の聖職者たちはキリル文字を使うという食い違いがあり、そのことが単一の標準文章語創出を困難にした。
 20世紀に入って、ベラルーシ語化の試みは1920年代(コレニザーツィヤの時代)、1950年代初頭(ベリヤの短命な「自由化」の試み)、1988-94年(ペレストロイカからソ連解体直後にかけて)という3次にわたって繰り返されたが、どれもあまり成功しなかった。それでも、とにかくソヴェト政権のもとでベラルーシ語は独自の言語として認定され、民族の言語という意識だけは根付いた。1920年代に標準語化の主導権をとったのはポーランドから流入したカトリック系知識人だったが、その基礎におかれた西寄りの形が住民の多数をなす東寄りの部分で広まっている形から遠かった上、上からの政策による「強制的なベラルーシ語化」だったせいもあって、定着しなかった。
 1933年の政策転換は標準ベラルーシ語の基礎を東寄り(ロシア語寄り)の形に置き直した。これは西寄りのナショナリストからは「ロシアへの従属」と非難されるが、実際問題として、住民の多数派の俗語と合致していた。もっとも、なまじロシア語と近い以上、それならロシア語そのものを習得した方が全国的活躍に有利だということで、この時期に都市に流入し始めたベラルーシ人の多くは、ロシア語を主に使うようになった(但し、語彙はロシア語でも発音はベラルーシ式という混成語=トラシャンカが主流)。欧米に多い西寄りのベラルーシ・ナショナリストの目からは、ロシア語やトラシャンカを使うのは堕落とされるが、それはイデオロギー的な見方だとヨッフェは指摘する。一般論として、どの方言が上等(純粋)で、どの方言が下等(堕落)というのは、純言語学的に決まるものではなく、政治とイデオロギーによるという社会言語学の知見を思い起こすなら、この指摘はうなずける。
 西と東で文化および言語が異なるというのはウクライナとも似ているが、ベラルーシの場合、西的な部分(特にカトリック)の多くが戦間期のポーランドで同化政策のもと「ポーランド化」したために、現代のポーランドで「ベラルーシ人」とされているのはごく少数になっているし、ベラルーシ本国でも最西部に少数残るだけなので、東的な部分が圧倒的多数という特徴がある。そのため、名目的にはベラルーシ語を民族語と意識しながら、現実の言語使用においてはロシア語を主に使うのが圧倒的という状況になっている(公式統計上の「母語=ベラルーシ語」率は実態から大きくかけ離れている)。そして、そのことは少数の知識人を除けば「自然なこと」と受け止められているとヨッフェはいう。
 ソ連解体直後の1990年代前半には急激な「上からのベラルーシ語化」政策がとられたが、これは「言語的ジャコバニズム」だったと考える人が今では増えている。もっとも、それはベラルーシ語化そのものへの反対を意味するわけではなく、漸次的な推進をよしとする考えもある。ロシア語に「もう一つの国家語」の地位を付与する1995年レファレンダムは圧倒的多数の支持を得たが、これはルカシェンコだけのせいだったわけではない。実際問題として、「上からのベラルーシ語化」の強行に無理があった以上、そこからの反動は自然だった。もっとも、多少の変化がないわけではない。ベラルーシ語協会は活動を続けており、主にベラルーシ語で話す人も徐々に出現しつつある。これがさらに発展するだろうという慎重な楽観主義が正当化される可能性もないではない。ただ、それは粘り強い地道な活動の積み重ねの上に成り立つもので、上からの法律による押しつけではありえない、というのがヨッフェの考えである。
 「西と東」という問題は宗教とも関係している。伝統的に、正教はロシアと、カトリックはポーランドと結びつけられてきた。もっとも、16-19世紀には、「儀式は正教式だが、教義はカトリック」という独自の宗派ユニエイトが住民の多数を捉えていた。そのユニエイトが消滅した――ウクライナの場合、オーストリア領に入った地域(ガリツィア)にユニエイトが残ったのに対し、ベラルーシではそうならなかった――ことがベラルーシ人固有のアイデンティティ消滅の主たる要因だという見方もある。もっとも、ユニエイト存続とベラルーシ人固有意識のどちらがどちらの基礎かと問うのは卵と鶏のどちらが先かというようなものだ、とヨッフェは言う。
 ベラルーシ・ネイション形成の困難性は、通常ナショナリズム形成の担い手とされる都市中間層が長らく欠如していた事実に由来する。ロシア帝国期からソヴェト政権初期を通じて、都市住民の多数派はユダヤ人、ポーランド人、ロシア人であり、徐々に都市に住むようになったベラルーシ人も、農村から移動してまもない新住民だった。初期にネイション観念の担い手となった少数の知識人たちは、ポーランドあるいはリトアニアに住むカトリックと、ロシアに親近感を覚える正教徒に分裂していた。そのため、二種類のネイション観が並立する形になり、一方を「本物」とする観点からは他方が「まがい物」と見なされるという関係が生まれた。
 都市部でベラルーシ人が本格的に増大したのは第2次大戦後のことであり、その多数派を捉えるナショナル・シンボルはソヴェト期に形成されたもの――その最大の象徴は1941-44年の対ナチ・パルチザン戦――である。つまりネイション意識の核にソヴェト的要素がつきまとっているというのが、ベラルーシのもう一つの特殊性である。これに挑戦しようとする西寄りナショナリストは、かつてのリトアニア大公国の伝統をアイデンティティのよりどころとし、白・赤・白の三色旗を国旗とした(1991年9月から1995年5月まで)。しかし、この三色旗および関連する国章はナチ占領時代に利用されたという汚点があるため、1995年に取り消されたが、これに代わるものとしてはソヴェト期のものしかない。他の旧ソ連諸国が――ロシアを含め――ソヴェト期のシンボルを捨てている中で、ベラルーシはそれを復活した唯一の例となった(なお、本書の表紙には、1918年および1991年9月-95年5月に利用された国章・国旗とそれ以降の国章・国旗がデザインされており、二つのネイション観がグラフィックに表示されている)。
 これまで見てきたように、多数派ベラルーシ人の意識のロシアとの親近性は否定すべくもないが、だからといってロシアへの従属が運命づけられているとか、独立をあまり重視していないということになるわけではない。各種世論調査は、ベラルーシ語をそれほど尊重しない代わりに、ベラルーシ国家の独立性は尊重するという態度の広がりを示している。そのことが明瞭に示されたのが、2004年以降のロシアとの経済戦争(天然ガスの価格改訂に端を発した対立)である。元来、ベラルーシのロシアへの統合という考えに特に反撥していなかったベラルーシ国民も、この経済戦争以降、対ロシア独立性維持論に大きく傾斜した。ルカシェンコはこれを巧妙に捉えて、強い語調でロシアを非難し、これによって彼の人気は上昇した。それまでルカシェンコ政権を非難してきたEU諸国もこの頃から経済関係改善に乗りだしたので、ルカシェンコとしてはロシアとEUを両天秤にかけることができるようになった。
 言語と政治意識の間には一定の相関があるが、それはややもすれば想定されがちなように、《ベラルーシ語を主に使う人たちは民族意識が高く、親西欧的・民主的、ロシア語を主に使う人たちは民族意識が低く、親ロシア的・権威主義的》というような形をとってはいない。1980年代末から90年代初頭にかけてベラルーシ人民戦線の指導者だったゼノン・ポズニャク(ジャノン・パズニャク)はヴィリニュス出身のカトリックだが、濃厚な親ポーランド・反ロシア主義を特徴とする彼の言説はベラルーシの在野勢力の間でも孤立し、彼はアメリカに出国した。その後のベラルーシで活動し続けている政権批判的な在野勢力は、どちらかといえばロシア語で発信する傾向がある。ある世論調査によれば、ロシア語話者の方がベラルーシ語話者よりもルカシェンコ支持率が低く、EU加盟賛成率が高い。これは一見したところ逆説的だが、都市部にロシア語話者が多く、ベラルーシ語話者は農村部に多いことを思えば、驚くべきことではない。独立直後の数年間は、ベラルーシ語話者だけがナショナリストかつ民主化志向だと考えられがちだったが、近年ではむしろ「ロシア語を話すベラルーシ人リベラル」という人たちの存在が注目されるようになっている。その代表例が、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(本書刊行数年後の2015年にノーベル文学賞受賞、2016年に来日)だとヨッフェはいう。
 複数あるナショナリズムのどの潮流に属そうとベラルーシからノーベル賞受賞者の出るのを期待するのは共通の願望であり、その最有力候補がアレクシエーヴィチだというのは、実際に授賞の決まる前の時点でも衆目の一致するところだった。だが、もしロシア語話者が彼女のための宣伝活動の主導権をとるなら、ベラルーシ語至上主義派は、「これはベラルーシ語を死に追いやろうとするものだ」と非難するのではないかと述べた人がいるということが紹介されている。アレクシエーヴィチ自身、「ベラルーシ人はロシア語を占領者の言語だとは感じていない」、「私は自著で、ベラルーシへの愛をロシア語で伝えているのだ」などと書いている。
 ベラルーシ・ナショナリズムの分類として、ある時期まで、原初主義的発想――ロシア植民地主義からのベラルーシ民族の復活を目指すという考え――に立つ親西欧派(ポズニャクが代表的)と、「ロシア語を話すベラルーシ人リベラル」の二つが重要と見なされてきたが、それらとは別に、「クレオール・ナショナリズム」ともいうべき発想が政権周辺で生み出されつつある。大衆の間にロシアへの文化的親近感が根付いており、ロシア語あるいはトラシャンカ(混成語)が大多数の人々によって話されていること、歴史的経験として第二次大戦中の対ナチ抵抗戦争(ソヴェト体制下でロシアとともに戦った)の記憶が今なお大きな位置を占めていることからして、反ロシア的宣伝は大衆を捉え得ないが、かといって完全にロシアに呑み込まれることを欲するわけでもないという中間的状況の故に、ロシアと西欧のあいだで両天秤をかけるルカシェンコ政権の政策は大衆的支持を得やすい。2004年のルカシェンコ演説は、われわれはポーランドやバルト三国と違って西欧文化圏の一員ではない、汎ヨーロッパ文明の一部ではあるが、カトリック・プロテスタント文化圏の一部ではなく、ロシアとともに正教圏に属すると強調し、トラシャンカを話す国民に根ざしたクレオール・ナショナリズムを開拓しようとした。これはイデオロギーとしては洗練性を欠くが、にもかかわらずベラルーシで最も広まったイデオロギーだとヨッフェは書いている。
 
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 第4章から第7章にかけては、経済と政治の動向が論じられている。
 先ず経済についてみると、欧米では長らくベラルーシの経済政策は保守的であり、従ってうまくいくはずがない、公式統計で経済成長が記録されているのは統計上のごまかしか、あるいは仮に実態を反映しているとしてもせいぜい短期的な要因によるという見方が有力だった。しかし、実際問題としてベラルーシ経済は旧ソ連諸国の中では異例な良好さを示しており、2005年頃からはそのことを西欧諸国の専門家たちも認めるようになった。
 もともと第2次大戦後のベラルーシは急速な工業化を経験し、ソヴェト体制固有の欠陥にもかかわらず、ソヴェト版成功物語だった。ソ連内の地域分業としてベラルーシは研究開発およびハイテク産業に特化し、しかもその人材は基本的に共和国内で養成された。地理的にモスクワと東欧諸国を結ぶ位置にあることも有利に作用した。首都ミンスクの人口は1959年の51万から1989年の161万へと急増したが、この成長率はソ連の大都市の中で最高だった。
 ソ連解体後、独立の用意がなかったベラルーシの経済は1994年まで急落を続けたが、その後に(つまりルカシェンコの登場と軌を一にして)、急速に回復した。ロシアの経済成長は石油・ガスの価格上昇のおかげだが、ベラルーシは燃料輸入国であるにもかかわらず成長を遂げた。一つの要因として、ソ連解体直後に欧米のアドヴァイザーによって推奨されたネオリベラル的政策――急激な価格自由化、急速な私有化などを含む「ショック療法」――が実際にはあまり適合的でなく、多くの旧社会主義国の経済が大きな落ち込みを経験したのに対し、ベラルーシはショック療法をとらなかったことが結果的に成功した。ベラルーシは電子時計用のマイクロチップや電算機用のマイクロチップ生産で世界の最上位を占めている。国営や企業・労働組合の提供する医療・福祉施設がソ連時代よりも増大しているが、これは旧ソ連諸国中で唯一の例である。
 欧米のベラルーシ観がマイナス面の誇張に傾いていることの例として、腐敗の度合いという問題がある。国際透明度調査によれば、1998-2002年のベラルーシは比較的良好で、ポーランドより上位、ロシアやウクライナよりずっと上位だったが、2003年にアメリカでベラルーシ民主化法が採択されると、順位が急落し、最低ランクに位置するようになった。わずか数年の間にこんなに大きな変化が生じるのは不自然であり、ここには政治的思惑が絡んでいるのではないかとヨッフェはいう。 
 近年の動向として重要なのは、先にも触れたロシアとの経済戦争である。ロシア国内では、地政学的観点からベラルーシを友好国にとどめるためガス料金の補助金を続けるべきだという立場と、経済的観点から打ち切るべきだという立場の両方があり、政策が統一されていない。いずれにせよ、ロシアはベラルーシを吸収できた時期にその機会を逸した。2004年頃から、ベラルーシの政治エリートは対ロシア自主性を強め、ロシアの側もそれへの不満を募らせた。ルカシェンコはこういう情勢を利用して、自己を国民的利益の代表者として押し出すようになった。
 EUの側でも、21世紀初頭まで圧倒的だったベラルーシ観を改めようとする動きがある。一つには、ベラルーシがある程度ロシア離れを進めようとしていることへの呼応という面があり、もう一つには、ネオリベラリズムへの反省が西欧でも広がる中で、「社会志向の市場経済」というベラルーシの公的モデルへの評価も一時期のように否定的なものでなくなっている。ロシアとEUの間に位置するベラルーシは、その地理的有利さを生かして、ロシアとヨーロッパの間を巧妙に縫うことができるようになった。この点、アメリカとロシアの両国は、現実を見ずに硬直した政策をとってきたという共通性をもつ、とヨッフェは指摘する。なお、本書が書かれたのは、ルカシェンコが両天秤政策を採り始めてから間もない時期であるため、それが最新の動向として重視されているが、その後の展開は当然ながら本書の埒外の問題であり、別個に知りたいという欲求をかき立てられる。
 政治面に移る。ここで著者が背景として強調しているのは、ベラルーシでは都市化の進展が遅れ(初期の都市住民はもっぱらユダヤ人、ポーランド人、ロシア人だった)、近年になって現われたベラルーシ人都市エリートも大部分は元来農村出身者であるため、農民的メンタリティが優越しているということである。その文脈で、共産主義とロシア的東方性の親近性に関するベルヂャーエフの指摘が想起されている。ロシアではモスクワとペテルブルグという大都会で都市的知識人が登場し、それが体制転換の原動力になったが、ソ連全体からすればそれは部分的現象だし、ベラルーシはヨーロッパ・ロシアよりも更に都市化度が低い。このことは西欧経済学者の推奨する急速な市場化政策を進める基盤が、ベラルーシではロシア以上に小さかったことを意味する。
 こういった議論は、ロシアにもベラルーシにも民主主義の伝統がないという主張の伏線をなす。もっとも、単純に西欧社会=民主的としているわけではなく、たとえばパトナムの研究に描かれる南部イタリア社会はロシアとよく似ているとか、エリートと大衆の亀裂はロシアだけでなく他の国々にも見られるといった留保もつけられている。ロシア――ここでいうロシアは広義のそれであり、ベラルーシをその一部として含んでいる――は他国と異質というのではないが、ただその度合いが極端であり、他国で起きたことのより尖鋭で苛酷なヴァージョンがロシアなのだというのがヨッフェの主張である。そして、秩序が強権によって辛くも守られるような社会においては民主主義よりも秩序が重視されるとして、イラクもソ連解体後のロシアもこの点で同様だという。
 このような議論を踏まえて、ルカシェンコの統治は、一見して思われるほど奇怪なものではないと説くのが本書の特徴でもあり、論争的な点でもある。ヨッフェはルカシェンコ体制が権威主義的だという指摘には同意するが、欧米で広められている「独裁」のレッテルは言い過ぎだと主張する。西側との往来は基本的に自由であり、言論統制も完璧ではなく、反対派的傾向の出版物も出ていること、野党への厭がらせもあるが、とにかく複数の政党があること(執筆時点で17の政党が登録されている)などが挙げられている。
 ルカシェンコ体制を比較政治学上どのように位置づけるかについては、何人かの論者が「スルタン制」とか「ネオ共産主義」といった議論を出しているが、どれも現実に即していないとヨッフェはいう。そういう中で、日本の松里公孝の英語論文(Europe-Asia Studies, vol. 56, no. 2, March 2004)における「権威主義的ポピュリズム」論が、若干の留保はあるが相対的に最も成功したものと評価されている。
 ルカシェンコ個人については、ロシアも欧米も彼のことを正しく理解していないと述べ、ルカシェンコの最大の失敗は知識人を取り込むことができなかったことだが、にもかかわらず彼は内外の諸問題に取り組んで、成果を上げているという。世界中にはたくさんの非民主的な国があり、旧ソ連の中でいえばトルクメニスタンやアゼルバイジャンは決してベラルーシよりマシということはない。それなのに、ベラルーシについてだけアメリカが「民主化法」なるものを制定して、政権との公的接触を禁じ、反対派への援助を行なうのはどうしてかと彼は問う。
 このように見てくると、ヨッフェはルカシェンコを擁護しているのではないかという疑惑をかけられてもおかしくない。大衆がルカシェンコを支持しているのに彼を無理矢理政権から追おうとするなら、それは民主主義に反することになるとか、多くのベラルーシ人はトラシャンカを話し、ロシアとの共通性を強く意識し、同時に独立を保持したいとも願っていて、こうした点において大衆とルカシェンコは共通しているといった記述も、その印象を強める。だが、著者の知人であるベラルーシ人の多くはルカシェンコ支持者ではないし、自分自身、もしベラルーシに住んでいたなら――ルーツがベラルーシにある以上、全くありえない想定ではない――、彼を好きにはなれなかったろうとも書かれている。その上で、ベラルーシにおけるルカシェンコ支持者と反対者の間には地理的・文化的亀裂があり、外国に住む自分は両方の立場を知ることができる以上、欧米であまり知られていない前者の声を伝える義務がある、というのが彼の考えのようである。
 本書の一つの特徴は各種世論調査データが豊富に紹介されている点にあるが、そもそも権威主義的統治の行なわれている国で自由な世論が表出されるのかという疑問もありうる。この疑問に答えて、著者は、本書が重要な情報源としているのは独立社会経済政治研究所であり、これは政権から白眼視されながら市民の協力によって活動を継続しており、不利な条件にもかかわらず信頼性の高いデータを出しているという。また国民は言論統制下のマスメディアの影響を受けているが、当局の流す情報を国民がすべて無批判に受け入れているというわけでないという事実も紹介され、「世論」を論じる意味は十分あるとされている。
 政治意識に関わるデータはいろいろと紹介されているが、たとえば、権力によってひどい目に遭ったことがあるかとの問いに対しては、ないという人が多数であり、汚職への不満も低い。全体として、民衆の忍耐は限界に達してはおらず、ウクライナの「オレンジ革命」型の運動は起きそうにないと考える人が(反対派支持者の間でさえも)多数だという。
 外国への態度についてみると、友好的と感じられる国はロシア、中国、カザフスタン、キューバ、ウクライナ〔2014年危機以前の〕などであり、非友好的と感じられる国はアメリカ、グルジア、イギリス、ラトヴィア、エストニア、リトアニア、フランス、ポーランドなどということで、まるで冷戦期の区分が「鉄のカーテン」を少し東に移動させた形で再現したかのようになっている。但し、国に対する感覚と人間に対する感覚は異なり、たとえばポーランドとは疎遠でもポーランド人とは親しいといったズレがある。人間に対する親近感では、高い方からロシア人、ウクライナ人、ポーランド人、西欧の人々の順になっている。興味深いのは、親近感と生活水準の高さの評価は相関していないということで、たとえばポーランド、ラトヴィア、リトアニアの生活はベラルーシよりも高いと感じているが、だからといって彼らの真似をしようという感覚にはならない――物理的には近くても心理的には遠い国々という意識――という(これはそれらの国がNATO・EUに入るよりも前から)。
 自己意識に関するデータとして、自分を何と思うかとの問いに、「ベラルーシ市民」44.3%、「ベラルーシ人」43.7%、「ロシア人」4.1%となっている。この「ロシア人」比率は民族統計よりもずっと低いので、民族的ロシア人も「ベラルーシ市民」という自己意識をもっているということになる。アイデンティティは単一とは限らないので、より広いカテゴリーとして何に属するかというのがもう一つの問いになるが、「ソヴェト人」46.1%、「現代的ヨーロッパ人」41.3%となっている。ほぼ同じ率だが、過去のものとなったカテゴリーたる「ソヴェト人」が、「現代的」という肯定的修飾語を付けた「ヨーロッパ人」意識と並ぶということは、それが意識の深いところに根付いていたことを物語る(但し、「ベラルーシ市民」もしくは「ベラルーシ人」意識を排除するわけではなく、それらと重層的に共存するものとして)。
 プーチンが2006年に「ロシア人とベラルーシ人はほぼ同じ民族だ」と発言したことへの反応は、同意する54%、同意はしないが別に悪くは思わない29%であるのに対し、この発言に傷つけられたという回答はわずか7%にとどまる。このようにロシアとの親近性は強く意識されているが、ロシア連邦に加盟するのとEUに加盟するのとどちらを選ぶかとの問いに対しては、ロシア51.6%、EU24.8%となっていて、前者がそれほど圧倒的であるわけではない。逆説的なのは、ロシアの生活水準がベラルーシより高いと思う人の方がヨーロッパ志向が強く、ロシアの生活水準が低いと感じる人の方があまりヨーロッパ志向でないという対比である。ロシアの生活水準が低いと思う人にとっては、ロシアはベラルーシ自身の一部であり、それを切り離すことはできないという感覚があるという。
 世論調査と並んで、国民の政治意識を物語るものとして取り上げられているのが、2001年および2006年の大統領選挙である。このどちらについても、公式発表の数字は信頼できず、ルカシェンコの得票率(2001年では76%、2006年では83%)は大幅に水増しされているとの観測が当時から有力だった。この点についても独立の世論調査が多数あり、それらによれば確かに公式発表は大いに怪しいものだが、仮に水増しがなくても50%という当選ラインは越えていたと推測される。なお、この指摘はヨッフェだけのものではなく、プラハ(かつてはミュンヘン)に本拠を置くラジオ・リバティ・ベラルーシ・サービスや服部倫卓も同様の観測を示していた。2006年選挙後、国内の体制批判勢力は、不正選挙追及運動をある程度展開したものの、それよりもむしろ自らの弱さを見つめるべきだとの反省的な議論が多く出ているという。世代別で見ると、ルカシェンコ支持率は概して高齢層で高いが、18-19歳層でも高く、若者たちの間で彼への支持が広がっているという新しい動向が注目されている。
 
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 終章は比較的短く、本論の繰り返し的な部分が大きい。とりあえず目につく個所を要約すると、およそ次のようなことが述べられている。
 著者は先ず、自分の見地は多くの点で主流的見解を批判するものだが、ただ一点についてだけは通説に同意する、但しその理由付けは異なっている、と述べる。というのは、ヨッフェはベラルーシがロシアと合同せずに独立を維持した方がよいと考えているが、それはロシアと文化的に異質だからでもなければ、ロシアが本質的に非民主的だからという理由でもない。では、なぜ独立維持をよしとするかといえば、あまりにも大きな国家はうまく運営され得ず、ベラルーシのようにコンパクトな国家の方がロシアよりも経済的に成功しているのはそのためだからだという。そして、この点を別にすれば、通説の基礎にある暗黙の前提はすべて間違っているとされる。
 これ以降はほぼ本論の確認だが、ベラルーシ人は経済面ではネオリベラル的な一挙的私有化に反対しており、ルカシェンコはその期待通りの政策をとって成功している。確かに彼は専制的だが、それは現地の政治文化に合致している。ルカシェンコは多数派との社会契約を守っており、反対派は分裂して孤立している。権威主義的体制に批判すべき点があるのは確かだが、被支配者の市民的能力を超えて民主主義を押しつけようとする支配者はもっと恐るべき結果をもたらす。西側の政策はかえって信用を失墜する結果にしかならない。一般論として民族的覚醒は近代化・産業化・都市化と結びついているが、ベラルーシの場合、その過程はより大きな単位――ロシア帝国/ソ連――の中で進行したため、大多数のベラルーシ人はその大きな単位を疎遠な植民者だとは思わず、むしろ祖国と見なしてきた。1990年代を通じて、ベラルーシは親ロシアか親西欧かという選択に引き裂かれてきたが、ルカシェンコのもとで、ある種の中間的な道が確立した。ロシアと別個の国としての期間が長くなる中で、多くのベラルーシ人にとって、ロシア的なものはもはや「われわれ」ではなくなっているが、まだ「奴ら」になってはいない。ベラルーシをロシアと結びつけてきた臍の緒を断ち切るには、少数の反対派を外から支援して民主化を強制するのではなく、幅広い国民的団結を維持することが有効であり、アメリカの「ベラルーシ民主化法」はそれに役立たないというのが彼の結論的主張である。
 終章ではその他に、本論を補足する別個の論点もある程度触れられている。その重要な柱をなすのは、アメリカの対ベラルーシ政策のイラク戦争との比較である。イラクとベラルーシはもちろん同じではないが、多くのアメリカ人が対象国のことをほとんど知らないまま、「民主化」という大義名分を用いて介入しようとした点では似ている。イラクの場合、最初は大量破壊兵器が口実とされ、それから「民主化」が言われ出したが、実際には中東地域への地政学的利害が基本的な動機だった。ベラルーシの場合、大量破壊兵器は問題にならないので最初から「民主化」が言われたが、NATOをロシアのすぐそばにまで接近させるという地政学的動機があった。東欧諸国の場合には原初主義的ナショナリズムが反ロシア的色彩を帯びていたのを利用することができたが、ベラルーシはそうでなかったことがこのような介入の背景にあるのだと著者はいう。
 最後にヨッフェは、マルクスのフォイエルバッハに関するテーゼ(その第一一項)を逆説的な意味で想起している。このテーゼでマルクスは、「哲学者たちは世界をただ解釈するだけにとどまってきた。大事なのは世界を変革することなのに」と述べていた。しかし、この哲学に基づいて世界を変革しようとする試みは破局的な結果をもたらした。だとすれば、学者は「ただ解釈するだけ」にとどまるべきであり、政治家の領分に飛び込むべきではない、というのが本書の結びである。
 
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 以上に見てきたように、ヨッフェの見解は欧米で主流的な見方とは多くの点で対照的であり、高度に論争的である。本書にはところどころ首を傾げさせる個所もあり、誰もに賛同されるわけではない。とりわけ問題となるのは、ルカシェンコに甘いのではないかとの疑念だろう。敢えてヨッフェの意図を忖度するなら、おそらく彼はルカシェンコを擁護しようとしているのではなく、むしろ国内の反対派知識人に共感を寄せ、その立場から、欧米の一方的な反政権宣伝はかえって有り難迷惑だと説いているのではないかと思われる。そうだとしても、その立論が万全かどうかは議論の余地があり、決定版というよりは論争的な問題提起だということははじめにも述べたとおりである。それでも、刺激的な作品であることは間違いない。批判眼を持って注意深く読めば、多くの示唆を得ることができるだろう。なお、日本の場合、服部倫卓や松里公孝のおかげで、少なくとも専門家の間では、欧米ほど一面的なベラルーシ観が支配的ではない。とはいえ、彼らの作品はおそらくごく少数の人にしか知られておらず、大多数のジャーナリスト・評論家・一般読者のベラルーシ像は欧米で優勢なものと大差ないだろうから、その意味で、欧米における通説に挑戦する本書の問題提起は、日本にとっても十分刺激的といえる。
 最後に、本書の主要テーマの枠外となる二つの問題に触れておきたい。一つはルカシェンコとプーチンの比較である。ヨッフェによれば、ルカシェンコが権威主義的な統治手法をとっているのは確かだが、彼が国民から幅広い支持を得ているのも事実であり、その統治はそれなりの成果を上げているという。この観点はかなりの程度プーチンにも当てはまりそうに見える。では、両者はほぼ同じと考えてよいのか、それとも見過ごせない差異があるのか。本書にはルカシェンコとプーチンの比較に関わる示唆的な文章があちこちにあるが、どれも断片的なものにとどまり、結論は明らかでない。それは本書の課題設定からしてやむを得ないことだが、プーチンに関心をもつ読者が本書の示唆を受けて自ら探求することが期待される。
 もう一つはウクライナとの比較である。ウクライナとベラルーシは多くの共通性をもつと同時に、微妙な差異もあり、その比較は大変興味深い課題である。ある意味では、ウクライナを理解するためにはベラルーシのことをもっとよく知る必要があるように思える。さて、両国の大まかな共通性として、東(ロシア)と西(ヨーロッパ)の間に引き裂かれていること、しかし、二つの隣人はどちらも切り捨てることが難しく、「東一辺倒」とか「西一辺倒」とかにはなりにくいという事情がある。ところが、本書が刊行された2008年の6年後、ウクライナでは内戦的状況が勃発し、「東一辺倒でも西一辺倒でもない」という中間的な――それまでは多数を捉えていたはずの――立場は存立基盤を失ってしまった。こうした情勢がベラルーシにどのように影響しているのか、大いに気になるところである。
 
(2016年12月)