石田雄氏の思い出
 
 石田雄氏(一九二三‐二〇二一年)の訃報に接してから早くも一ヵ月以上の時間が経ってしまった。様々な思いが去来して、なかなか頭がまとまらないが、そろそろ四十九日が近づいてきたことでもあり、記憶に残るいくつかの事柄について記しておきたい。
 私が石田さんとはじめて接したのは、東京大学社会科学研究所(社研)の助手(今の助教に当たる)になったときのことである。当時の社研では、教授・助教授(今の准教授)と助手の間にあまり明確な線を引くことをせず、年齢や研究歴は違ってもみな同じ研究者共同体のメンバーとみなすという雰囲気があった(その後、こうした雰囲気は一般的なものではなく、むしろ例外的だということを知った)。石田さんは当時、所長を務めていたが、決して権威ぶることなく、私を含む若輩者たちをあたかも「親しい後輩」であるかのごとくに遇してくれた。「石田先生」よりも「石田さん」という呼び方がしっくり感じられるのはそうした事情による。
 当時の社研は経済系、法律系、政治系という三つの部門に分かれていたが、私はそのうちの政治系に属し、それに伴って、石田さんをキャップとするグループの一員ということになった。私はそれまであれこれの分野を雑食的に学んでおり、とりたてて政治学という分野に属するという感覚はなかったし、政治学者から教えを受ける機会もあまり多くはなかった。そのため、石田さんとの接触は、私が政治学者と親しく接して頻繁にあれこれの話を聞く最初の機会だった。まだ若かったせいもあり、当時聞いた話のうちのいくつかはその後も強く印象に残っている。
 その一つは、思想史を見る際の観点に関わる。あれこれの知識人が思想的転回を経験する――たとえばマルクス主義からキリスト教社会主義へなど――という例は珍しくないが、石田さんによれば、まさに転回を経験しつつある時期に最も緊張度の高いすぐれた作品が生まれるという。これに対して、いったん転回が完成してしまうと、緊張感が失われがちで、議論が平板になりやすいというようなことを指摘していた。私自身は当時もその後も思想史にはあまり取り組んでこなかったので、この指摘を直接自分の仕事に生かすことはなかったが、ものを見る眼という点ではずっと頭に残っている。
 もう一つは、比較の方法に関わる。何かを比較する際に、二つの対象の比較ではどうしても一本の座標軸上に両者を位置づけた単線的比較になってしまう。それを避けるため、三つ以上の対象を取り上げることで立体的な比較をするよう心がけるべきだという話を聞いた覚えがある。これはその後の私の研究スタイルにかなり影響している。私が何かを比較するとき、三つ、四つあるいはそれ以上の対象を取り上げ、必ず二本以上の座標軸を設定するようにしているのは、そのあらわれである。
 私が石田さんと日常的に接していたのは社研にいた三年間だけであり、その後、接触の機会は大分少なくなったが、それでも何かにつけて議論をする機会は断続的にあった。一般論として、もともと若輩だった人間がある程度成長して「一人前」という自意識を持つようになると恩師・大先輩に対して生意気な態度をとるようになるというのは、ごくありふれた現象であり、石田さんの後輩や弟子たちの間でも、先行者としての石田さんに批判的な口吻を洩らす傾向がわりとあった。私もそうした風潮とまんざら無縁ではなかったが、他面、そうあっさりと片付けてしまいたくないという気分もあり、ある程度の隔たりをもちつつも、折に触れて対話を重ねてきた。石田さんも私の書いたものに対してときおり批判的コメントを寄せてくださったし、私もそれに応答したりということを何度か繰り返した。石田さんが東大も千葉大も辞めた後に『社会科学再考――敗戦から半世紀の同時代史』という著作(東京大学出版会、一九九五年)を準備していた時期には、わざわざ私の研究室を訪ねてこられ、私の熟さない批判的思いを辛抱強く聞いてくれた(同書の二九七頁に、そのことへの言及がある)。
 それ以来、直接お目にかかる機会はなくなったが、頭の中ではずっと一定の位置を占めていた。比較的最近まで、まだお元気らしいという話を聞き、市民サークルのような場に出席しているということも風の便りで知ってはいたが、そのような場に私が出ていくのは「余所者」感が大きいだろうという気がして、押しかけていくのは避けた。それでも、丸山眞男に関する我流の試論を書いてホームページにアップロードしたとき(二〇二〇年五月)、誰よりも先ず石田さんに批評していただきたいと考えて、プリントアウトしたものをお送りしたのだが、その頃にはもうかなり健康を害しておられたようで、感想を伺う機会はなかった。それから数ヶ月後――今にして思えば、亡くなる五ヵ月前――に『日本の政治文化――同調と競争』の感想をフェイスブック上に書いたとき(今年の一月一〇日)には、大分病状が進んでいるとの話をご子息から伺って気懸かりだったが、とうとうお目にかかる機会のないままお別れとなってしまった。
 私は石田さんの直弟子ではなかったし、ある時期以降、ものの考え方にも微妙な隔たりを感じるようになったが、自分の文章に対して石田さんから批判を受け、それに応答することが自分の議論を磨く上で大切な契機だと考えてきた。晩年にお目にかかる機会のないまま永久の別れとなってしまったのが心残りだ。石田さんは昨今の政治情勢を見て、とても安らかに眠ることなどできないという心境だったろうが、その無念を引き継ごうとする人たちが少数ではあれ絶えてはいないことはせめてもの慰めかもしれない。
 
(二〇二一年七月一三日にフェイスブックに投稿した文章)。