マイケル・イグナティエフとロシア・ウクライナ
マイケル・イグナティエフといえば、カナダとイギリスをはじめ世界を股にかけて言論活動を繰り広げているユニークな学者・ジャーナリストであり(1947年生まれ)、一時は政治家としても活躍したことがある。著作も数多く、その多くが邦訳されていて、世界的にも日本でも知名度が高い。政界との関わりについていうと、21世紀に入ってから、60歳近い歳でハーヴァード大学教授の職を辞して、現実政治に身を投じ、カナダ自由党の党首(首相候補でもある)になったが、その志を達成することができず、政界から引退したようだ。先祖はロシアの貴族であり、官界で活躍した人たちを含んでいる(曾祖父ニコライはコンスタンチノープル大使、内務大臣などを歴任、祖父パーヴェルは農業省勤務を経て文部大臣になった)。私はかねて彼の著作およびその軌跡に多大の興味を覚え、感想や批評を何度か書いてきた(それらのまとめとして、『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』有志舎、2011年、第3章およびその補論)。そのイグナティエフについて、最近になって、彼とウクライナの関わりが気になり、一連の旧著――『民族はなぜ殺し合うのか』(原題はBlood and Belonging)、The Russian Album; 『火と灰――アマチュア政治家の成功と失敗』――を読み直してみた。
周知のように、彼の先祖は「ロシアの」貴族として自他ともに認められており、彼もそういうルーツを――それに囚われまいとする一方、それでもやはり囚われずにおれないというアンビヴァレンスをかかえながら――意識していた。先祖たちはロシア帝国内外のあちこちで活躍したが、最も重要な場が帝国の首都ペテルブルクだったことはいうまでもない。しかし、これまで読み飛ばしていた文章を注意深く読み直してみると、例えば曾祖父ニコライはコンスタンチノープル大使を務めていた1860年代に、現ウクライナ・ヴィンニツァ州の農村に地所を購入したという記述がある。その時点では単に余所者として田舎の地所を買っただけのようだが、官界から引退した晩年にはそこで暮らし、墓地もそこにあった。
祖父パーヴェルはこの村で生まれ、少年時代を過ごしたほか、公的活動もキエフから始めた(もっとも、「ウクライナのキーウ」というよりは「ロシア帝国のキエフ」と意識されていただろうが)。彼はウクライナ語もできたようで、ロシア革命後にカナダに亡命してからも、ときおりウクライナ語の単語を使ったという。
では、パーヴェルの息子でありマイケルの父に当たるジョージ(ロシア風にはゲオルギー)はどういうアイデンティティを持っていたのだろうか。彼は幼時に親に連れられて亡命し、カナダで外交官となった。職業上、世界の各地で勤務し、家庭内ではロシア語を使わなかったが、ロシア語を流暢に話したし、亡命ロシア正教会に通っていた。カナダの外交官としてソ連を訪れたとき、ソ連側外交官は彼を「伯爵」と呼び、祖国(ソ連)に戻ってはどうかと誘ったが、反ソの立場だった彼はそれにとりあわず、「ロシア人」ではなく「ロシア系カナダ人」というアイデンティティーを堅持していた。そこにおいてロシア語・ロシア正教は重要な伝統としての位置を占めていたが、その「ロシア」の中にウクライナの要素が含まれていた形跡はない。パーヴェルがウクライナ語を使うことがあったといっても、それは「たまに方言を使ってみる」といった感覚であり、家族にウクライナ語・ウクライナ文化が継承されたわけではなかったように見える。カナダには大きな規模のウクライナ人ディアスポラ・コミュニティがあり、反ソの立場からウクライナ独立運動を続けていたが、「ロシア系カナダ人」としてのイグナティエフ家から見れば、これはまるで現実離れした運動と映ったようだ。
そういう家庭に育ったマイケルは、父祖の伝統に縛られることを嫌って、ロシア語を学ぼうとしなかったが、ともかく「ロシア貴族の末裔」という意識をいだいていた。他方、ウクライナはロシアの一部だという考えを常識として受け入れており、ウクライナ語を学ぶということはおよそ選択肢に入らなかったようだ。
そのような背景を持つマイケル・イグナティエフは、ソ連解体後の1993年にウクライナを訪問し、先祖の墓地に詣でたほか、キーウ/キエフ、リヴィウ/リヴォフ、クリミヤ、ドンバスなどを訪問して、それらの地のウクライナ人、ロシア人、クリミヤ=タタール人と広く接触した(ロシア語もウクライナ語もできないので、通訳を伴って)。面会の相手は、当時の大統領クラフチュークをはじめとする政治家たち、知識人、聖職者、民族運動活動家、兵士、炭鉱労働者、ビジネスマン等々と多彩である。この選択は十分意識的であり、彼が事前にウクライナの地域差および社会層に関するかなりの知識を持っていたことを物語る。『民族はなぜ殺し合うのか』(Blood and Belonging, 1993)の第3章は、単に先祖の墓詣でというセンチメンタル・ジャーニーにはとどまらず、随所に興味深い知的観察を含んでいる。
面白い観察は数多いが、とりあえず眼にとまった個所を一つだけ取り上げるなら、クリミヤ=タタール人たちはタタール語でもウクライナ語でもなくロシア語を話すという観察を記した上で、タタール人にとってはウクライナが独立国か否かはどうでもよいことであり、ウクライナ・ナショナリストの側もタタール人の要求に耳を貸す可能性はあまりないと書いている。昨今の情勢では、ウクライナとタタール人は一体となってロシアに抵抗しているというイメージがマスコミで広められているが、ソ連時代末期からウクライナ独立直後の時期に即していうなら、ウクライナ・ナショナリズムはクリミヤ=タタールに何の関心も共感も示していなかったから、イグナティエフの叙述は当時の実態に即している(その後の変化はまた別問題)。
本書には、いわば第3者的な観点からの観察と並んで、彼自身の個人的感慨のにじみ出た個所もあり、そのことがこの本を興味深いと同時に、読み解きにくい微妙な書物としている。子供時代にカナダのウクライナ人ディアスポラの独立運動ををまるで非現実的なものと片付けていた彼は、現にウクライナ独立が実現したのを見て、「狂信者の彼らの方が実は正しくて、間違っていたのはわれわれだった」と認める。では、ウクライナが本物のネイションだということを受け入れるのかといえば、彼は留保をつけずにおれない。ウクライナ人というネイションが昔からあり、何世紀ものあいだ抑圧を受け、遂に自由を獲得した、というナラティヴは欺瞞を含んでいる。ウクライナ人の中には、抑圧されるどころか帝国の傘のもとでうまく世渡りしていた人たちも少なくない。過去半世紀のあいだ、ウクライナ・ナショナリズムは現に弱かった。ペレストロイカとグラースノスチの時代情勢の中で独立運動が登場してからも、それが分厚い大衆的支持を受けたのは西部だけであり、それ以外の地域では独立運動は弱かった。独立が実現したのは、1991年8月クーデタという突発事態のなかで、地元共産党のクラフチュークが巧妙に立ち回ったからだ、と彼は記している。
この記述はかなり辛辣で、現在の過熱した情勢下では批判を招く余地があるが、ソ連時代末期のウクライナに関する叙述としては相当程度正当である。だが、そこにイグナティエフはもう一つの留保をつける。自分がウクライナをあまり真剣に受け取ることができないのは、ナショナリズム一般に懐疑的で、コスモポリタニズムに傾斜する信念のためだとはいえ、それがすべてではない。自分の中に、「小ロシア人(ウクライナ人)」を見下す「大ロシア人」の痕跡が残っているからだ。この個所は、「大ロシア人」としての自己の感覚を反省するかのごとくである。では、ウクライナ・ナショナリズムをそのまま受け入れるのかといえば、それはまた別問題となる。
先祖の墓地がある村を訪れたイグナティエフは、その墓地を管理している神父と会う。ここで厄介なのは、ウクライナ正教会が分裂していて、教会間に激しい紛争があるという事情である。イグナティエフと会った神父は「キエフにできた成り上がりの教会」には権威を認めず、昔ながらの教会(一定の自治を持ちながらロシア正教会の圏内にとどまっているウクライナ正教会)に従っている。ソ連時代の抑圧や大規模な飢饉を呪い、ソヴェト時代を否定する立場だが、世俗権力から政治的後押しを受けている新しい独立ウクライナ正教会には賛同できないという考えのようである(ウクライナにおける教会間の紛争については、高橋沙奈美『迷えるウクライナ――宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い』扶桑社新書、2023年が詳しい)。この神父がイグナティエフの先祖を立派な地主として記憶しているということは、ロシア帝国の支配はソ連時代よりはよかったという含意があるように見える。イグナティエフはこの墓参りの経験を通して、コスモポリタン的信条の揺らぎを覚え、先祖とネイションの重要性を認めるに至った。問題は、そこでいう「先祖」「ネイション」は何を指すかということである。詳述はされていないが、実質に即して考えるなら、「先祖」とはウクライナを一地方として統治したロシア帝国の官僚であり、「ネイション」とはそうした官僚や地主の配慮によって育てられた(ウクライナを含む)ロシア・ネイションが念頭におかれていたものと考えられる。少なくとも、ウクライナ・ナショナリストが想定するようなウクライナ・ネイションと異なることは確かである。
なお、この本は世界各地の民族問題をテーマとして、各地を探訪して観察を積み上げたルポルタージュ風の書物だが、中でも著者自身の出自と直接関わる章としては、カナダのケベックに関する第4章がある。ここで著者は、英語系カナダ人として育ち、フランス語系カナダ人についての理解が足りなかったことを反省しているが、だからといってケベック・ナショナリズムに同調しようとしてはいない。そのことは、ロシア貴族の末裔という自己意識を持つ彼がウクライナにおける民族主義の高揚に戸惑いながら、ある程度の理解と他面での批判とを併存させたのとパラレルであるように見える。
以上では、1993年のウクライナ旅行を中心に見てきたが、その十数年後、彼は政界に身を投じ、カナダ自由党から議会選挙に立候補した。これはウクライナの「オレンジ革命」(2004年)をうけてカナダのウクライナ人ディアスポラの民族運動が一段と高揚した時期に当たる。この選挙戦のなかで、ウクライナ人ディアスポラはイグナティエフを「ロシア国粋主義者」=ウクライナ差別主義者と決めつける悪罵を投げつけて、彼の選挙キャンペーンを妨害した。イグナティエフの『火と灰』(原著は2013年刊)の第3章はこの経験に触れて、このレッテル貼りは自分の著作の誤読に基づくものだったと書いている。しかし、上に見てきたように、彼がウクライナ・ナショナリズムに冷淡だったのは事実であり、論敵の批判は誤読だと主張する彼自身が、実は過去の著作の内容をごまかしているという印象を免れない。そのことには、それなりの理由がないわけではない。それまで学者として、論争相手に敬意を払いながらの論争というものに慣れていた彼が、現実政治の中で泥仕合的な中傷合戦に引きずり込まれて戸惑ったという事情もあるだろう。また、カナダのウクライナ人ディアスポラの中には、「遠隔地ナショナリズム」特有の純粋ナショナリズム志向があり、第2次世界大戦前後の時期にソ連と戦うためにナチ・ドイツと手を組んだ勢力の流れを汲む人たちもいる。そのようなナショナリストの立場はコスモポリタン的自由主義を奉じるイグナティエフとは相容れない。また、ウクライナ人・ディアスポラからのイグナティエフ批判はかなり乱暴なレッテル貼りの色彩が濃いことも否定できない。そうしたことを考えるなら、『火と灰』における自己弁護もあながち理解できないわけではない。ただとにかく、イグナティエフのロシアおよびウクライナに対する態度が、実はウクライナの主権を尊重していたのだといった自己弁明だけでは済まされないアンビヴァレンスをかかえていることは確かである。
『火と灰』の原著が書かれてから1年後の2014年には、ウクライナで新しい危機が生じ(マイダン革命、クリミヤ併合、ドンバス戦争)、それは2022年には本格的な戦争に転じた。こういう新しい展開をイグナティエフはどのような思いで見つめているのだろうか。
(2023年6月4日、フェイスブックに投稿)。