マイケル・イグナティエフと2014年ウクライナ危機(「マイケル・イグナティエフとロシア・ウクライナ」補遺)
数週間前に、「マイケル・イグナティエフとロシア・ウクライナ」という文章を書き、その末尾に、そこで取り上げた『火と灰』の原著が書かれてから1年後の2014年にはウクライナで新しい危機が生じ、2022年には本格的な戦争に転じたが、そういう情勢をイグナティエフはどのような思いで見つめているのだろうかと記した。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/IgnatieffandUkraine.pdf
この文章の末尾には2014年8月27日という日付が記されている。マレーシア航空機撃墜事件(7月17日)の少し後であり、ロシア正規軍のドンバスへの展開が始まろうとしているというタイミングだということがまず注目される。といっても、この文章の直接的な狙いは、眼前で展開している情勢に関する時事的な論評にあるわけではない。むしろ、主たる力点は現代ロシア――および中国――をどのように捉え、それと欧米諸国との関係をどう考えるかという大きな構図の描写がこの文章の主題である。そこでは、体制転換後のロシアはもとより、共産党支配を維持している中国も、基本的には資本主義国だということが前提として確認されている。但し、資本主義は政治的には雑婚的であり、自由と結婚することもあれば、権威主義的統治と同衾することもあるということをイグナティエフは重視する。さて、資本主義経済をとる限り、経済グローバル化への積極的関与も不可避となる。中国もロシアもグローバル化なしでは共産主義的経済を投げ捨てることができなかったろうと彼は考える。資本主義経済とグローバル化は一定の自由を必要とするが、それは必ずしもリベラル・デモクラシーに導くとは限らない。経済面で私的な自由を与えられた市民はそれだけで満足し、政治的自由を要求しなくなるということも十分ありうるからである(イグナティエフ自身の議論から離れるが、私的自由を与えられることで満足し、政治的自由の必要をあまり感じないというのは戦後の日本にも当てはまりそうである)。
イグナティエフ自身はリベラル・デモクラシーの価値――彼はそれを「西側」と同一視している――にコミットしており、中国・ロシアのような権威主義的資本主義を競争相手と見なしているが、その競争はグローバル化という条件下で一定の共通性をもちながらの競争だと考えているようである。「権威主義インターナショナル」〔ロシアと中国〕と西側は相互非難を強めているが、どちらの側も冷戦への逆行を望んではいない、ロシアも中国も経済成長のためにグローバリゼーションを必要としているのだ、と彼は指摘する。彼はまた、習近平の中国もプーチンのロシアも、スターリンや毛沢東の時代のような世界革命論による普遍的正統性を掲げてはいない点に注目する。彼らがイデオロギー的自己正当化を図るときの論理は、たとえば1999年のNATOによるセルビア空爆の際にベオグラードの中国大使館への誤爆があったり、コソヴォ独立の一方的承認がプーチンにクリミヤ併合への正当化材料を提供したという例に見られるように、「あいつらがやっていることを、こちらもやっているのだ」という類いの正当化であって、普遍的な革命の論理ではない。プーチンはイリインやレオンチエフといったロシアの哲学者に傾倒しているが、これは保守的ナショナリズムの論理であって、外に開かれた論理ではない。同性愛への敵意は中国とロシアに共通しているが、これも西側の道徳的堕落への保守的障壁を自認するもので、革命的論理ではない。
この辺までの議論の限りでは、イグナティエフはリベラル・デモクラシーと権威主義的資本主義を対抗者と見なしながらも、両者がグローバル経済を共有する点で対抗には限度があり、冷戦への逆行はありそうにないと考えているかに見える。しかし、この文章が書かれた2014年には、ウクライナ危機を契機にロシアと欧米の対抗は一段と高まり、果たしてグローバル経済の共有という前提条件が今後も維持されるかどうかが危うくなっているというのが、もう一つの大きな論点である。クリミヤ併合を契機とした経済制裁は欧米とロシアの間の貿易を縮小させており、ロシアの政治指導者は輸入代替を目指している。相互非難の応酬と下向きのスパイラルはアウタルキー化の可能性をはらんでいる。誰もグローバリゼーションを取り消したいと望んではいないが、アウタルキー化への歩みを完全にコントロールすることもできないというディレンマがあることが指摘される。
それだけではない。同年7-8月に至って、情勢は一段と緊迫の度を加えてきた。マレーシア航空機撃墜事件以前には、またロシアのドンバスへの関与拡大以前には、ウクライナに関するプーチンの狙いは限定されていると考えることもできた。ウクライナをEUが抱え込むのはお荷物になるとプーチンが考えて、それを放置するという想定もありえた。しかし、マレーシア航空機撃墜事件およびウクライナ軍の反攻によって、プーチンの選択はより厳しいものとなった。親露派地域がウクライナ軍に包囲されている状況を打ち破るために親露派への梃子入れを強めるのか、それとも地政学的平和とグローバルな統合を優先して、それら地域を見捨てるかという選択をプーチンは迫られている。他方、武器を持ち意気盛んなウクライナ・ナショナリストは、ロシアの熊を挑発しようとしている。ロシアが東部の残部国家の「保護」を掲げて全面介入するまでにほんの一歩しかない、という厳しい情勢認識が示されている。
こういう情勢の中で、西側はどう対応すべきか。西側はウクライナが分離主義者を打ち破るのを助けねばならないが、それと同時に、いったん軍事的勝利が得られたなら、ウクライナの過激派を飼いならさなければならない。ウクライナを分権化し、ロシア語系住民にも十全な位置を与えるべきだ。グローバル化がリベラル・デモクラシーと資本主義的権威主義のどちらにとってもよいものだとするなら、両者の間に超えられないほどの溝を掘らないようにすることが重要だ、とイグナティエフは主張する。
歴史的前例としては、かつてジョージ・ケナンの説いた「封じ込め」政策は「巻き返し」ではなかったことを想起すべきだと彼はいう。また、アイザイア・バーリンの言葉――共産主義への回答は、彼らと同様に熱烈で戦闘的な対抗信念であるべきではない――も想起される。冷戦期におけるイデオロギー的な自己劇化(sef-dramatization)は、国内ではマッカーシイズム、国外ではヴェトナムからニカラグアに至る冒険主義をもたらした。アメリカのパワーは慎重に用いられる限りではまだ信頼性を保っているが、問題は国内における民主主義の機能不全にある。もしアメリカ民主主義の機能不全が続くなら、危険性は国内の麻痺だけでなく対外的冒険主義にもある。ヨーロッパとアメリカの人々がわれわれの制度およびその改革を信頼し、われわれの方が権威主義的対抗者よりも長く生き延びるだろうという確信をもつことが重要だ、というのが最後の言葉となっている。
見られるように、自らを「西」の側に置き、中国・ロシアの「権威主義的資本主義」への対抗姿勢が明確だが、「西」の中の危険性にも目を配り、対抗相手を過度に追い込まないようにすべきだという発想が基調をなしている。振り返っていえば、この文章が書かれた2014年8月は、2月のマイダン革命から3月のクリミヤ併合に至る時期よりも事態が一段と緊迫しているが、まだドンバス戦争が――ましていわんやロシア=ウクライナ戦争が――全面化してはいないという微妙な時点だった。欧米諸国についていえば、民主主義の機能不全が危惧される状況が既に看取されてはいたが、ブレグジットや欧州複合危機、そしてトランプ米大統領登場という事態はまだ起きていなかった。イグナティエフはそういう微妙な時期に、ロシアの側もアメリカの側も危険な一歩を踏み出しかねないことを予期しつつ、その手前で踏みとどまるよう呼びかけているように見える。結果的には、その呼びかけは空しかったということになるだろうか。
(2023年7月)