資料としてのゴルバチョフ著作集第30巻――『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』への若干の補足
 
 
 2年ほど前に「資料としてのゴルバチョフ著作集――第29巻(1991年10-11月)を中心に」という文章を書いて、ホームページ上に公開したが、このほど同じ著作集の第30巻を入手して、その内容を検討したので、前稿の続編を書きとめておきたい*1。前稿で述べたように、この著作集は既公刊の発言を集成するだけのものではなく、各種アルヒーフからの未公刊資料を多数収めており、巻末注や付録も相当の分量にのぼるので、資料としての価値はかなり高い。今回取り上げる第30巻の収録範囲は1991年11月14日から12月25日まで、つまりゴルバチョフ辞任に至る約6週間であり、在任中の著作・発言に関してはこれが最後の巻ということになる。退陣後の彼も旺盛な言論活動を――この巻が出てから約9ヵ月後に死去するまで――繰り広げていたが、それらの発言類が著作集の続巻にまとめられることになるかどうかはまだ分からない*2
 本巻の対象時期のゴルバチョフについては、もはや「死に体」だったというのが大方の見方である。ごく巨視的にいえばその通りというほかないが、歴史的経過に即して細かく見るなら、彼はギリギリまで「粘り腰」を見せて、何とかして活路を探ろうと試みていた。そのことは拙著『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』(東京大学出版会、2021年)の最終章で、当時入手可能だった範囲の資料に基づいて一通り叙述しておいたが、この巻が出たことにより、あれこれの補足が可能となった。以下、特に重要と思われる個所について、若干の内容紹介と感想を書き記したい。
 
T 11月14日の国家評議会
 
 同盟条約作成プロセスの大詰めに当たるこの会合については、ゴルバチョフに近い人々のとったメモや回想類によってこれまでもある程度知られており、私自身、それらの資料に基づいた紹介をしてきた*3。これに対し、本巻では、ロシア国立現代史アルヒーフ(通称ルガニ)に保管されている速記録からの記録が――ゴルバチョフ自身の発言は本文に、他の人たちの発言の多くは巻末注や付録に――収められており、そのことによって、この会議の模様はこれまでよりも一段と詳しく分かるようになった。その全容の紹介は冗長となりすぎる――それに、話し言葉を録音から起こしたらしく、そのまま読んだだけでは意味をとりにくい個所も少なくない――が、いくつか特に眼にとまった個所を書き記しておく。
 この会合におけるゴルバチョフとエリツィンの論争が同盟の性格規定――コンフェデレーション(国家連合)かフェデレーション(連邦)か、関連して憲法や大統領を持つ国家なのかそうでないか――を中心としており、ゴルバチョフは「コンフェデレーション的・民主的国家」という両義的な表現でエリツィンを説得しようとした。ここまでは以前から知られていたことだが、速記録には、この論争の中でゴルバチョフが次のように発言したことが記録されている。「直接選挙で選ばれ、単なる飾り人形ではない大統領が必要だ。その職に就くのは私ではないだろうと確信する。私はもう肉体的に枯渇してしまっている。私の力は限られている。しかし、とにかく人民のためにその職が必要だ」(直訳では意味が通りにくいので、ある程度意訳した。以下も同様*4
 これはかなり思い切った発言である。従来知られていた資料でも、自分はポストに固執しているわけではないといった発言が記録されていたが、大統領になるのは自分ではないという明言は――それが本心だったのか、一種の駆け引きとしてのレトリックだったのかはさておき――この著作集ではじめて確認されたという意味で注目に値する。続く個所に「私は自分が絶対に正しいと言い張るつもりはない。ひょっとしたら、あなた〔エリツィン〕の方が正しいのかもしれない。あなたの見地を尊重する。その代わり、あなたも私の見地を尊重してほしい」とあるのともあわせて、ゴルバチョフがエリツィンにかなり歩み寄る姿勢を見せたことが窺える。
 二人の意見の相違は、ウクライナの動向に関する予測とも関わっていた。エリツィンはウクライナは自分たちの軍や通貨を持とうとしていると指摘し、これは大統領選挙キャンペーンとも関わっているが、この立場は変わりそうにないという見通しを示し、もし15のうちの4共和国しか残らないならどうするのかと問いかけた。ゴルバチョフは、同盟の輪郭がはっきりするならウクライナも加わるだろうし、4共和国だけということはありえないと応じた。ウクライナ問題については25日の次回会合でも議論されるので、そこで検討することにしたい。
 激しい意見の応酬があった後に休憩に入り、その後、ゴルバチョフ案とエリツィン案を対比しながら逐条審議が行なわれた。ここでも種々の対立が続いたが、その対抗は休憩前ほど鋭角的なものではなくなっている。専門家として出席した法学者のクドリャフツェフやカザフスタンのナザルバーエフが調停的発言を行なったこともおそらく作用して、妥協と歩み寄りによる合意形成にたどりついたというのが大まかな流れである。その結果、「コンフェデレーション的・民主的国家」という定式を持つ同盟条約案がまとまり、次回会合での仮調印が予定されたことは周知の通りである。この時点でのエリツィンの本心――本気でこの妥協に納得していたのか、実は納得しておらずゴルバチョフを欺くために表向き妥協に応じて見せたのか――の確定は難しいが、この速記録における応酬からは、ある程度実質的な歩み寄りがあったかの印象が生じる。この印象の妥当性について考えるためには、25日の次回会合に眼を向ける必要がある。
 
U11月25日の国家評議会
 
 14日の国家評議会をうけて25日には同盟条約仮調印がなされる予定だったが、その予定が狂ったことは周知のところである*5。この会議についても、ゴルバチョフに近い人々のとったメモや回想類が従来から知られていたが、ゴルバチョフ著作集第30巻に収められたアルヒーフ〔ルガニ〕所蔵の速記録を読むと、これまでより格段に詳しい模様が分かる。この会議は内容的にも14日の会議よりも重要度が高く、新たに分かった部分もより多い。以下、やや長くなるが、特に眼を引いた点を紹介することにしたい。
 会合への出席者は、巻末注によれば、エリツィン、シュシュケヴィチ、カリーモフ、イスカンダロフ(タジキスタン)、アサンバエフ(カザフスタン)、アカーエフ、ニヤゾフという7つの共和国の最高公職者ないしその代理であり、ムタリボフは共和国内情勢複雑化(この点について詳しくは後述)のため出席できなかった(なお、テル=ペトロシャンは14日の国家評議会については在米中のため欠席とあったが、この日の会合については言及がない〕。その他に、アリムジャノフとルベンチェンコ(両院議長)、シラーエフ、シェワルナゼ、バカーチン、シャポシニコフも出席した*6
 会議冒頭でゴルバチョフが今日は同盟条約案の仮調印が課題だと述べたのに対し、エリツィンが異を唱え、激しい応酬になった。そのこと自体は従来から知られていたことだが、速記録の発言を丁寧に見ると、エリツィンおよび彼に同調した人たちの論拠は複数のものがあったことが分かる。エリツィンは先ず、テキストの中に議論されていなかった定式があると述べて、前回合意されたテキストがゴルバチョフ側によって変改されたかに示唆した*7。しかし、続く発言では、ロシア最高会議のいくつかの委員会で試行的に討論したところ、批准するのはよいが、「コンフェデレーション的・民主的国家」ではなく、「民主的・主権的諸国家のコンフェデレーション」とすべきだという意見が多数だったと述べている。これは前回合意した定式そのものへの異論があるという意味にとれる。ゴルバチョフがそれに対して、前回会議で長時間討論した上で合意したのに、それを取り消すのかと問い詰めると、エリツィンは、私が言っているのは、もしロシア最高会議がこれを受け入れないのならどうなるのかを予測してみようということだと述べた。つまり、自分自身が同盟条約調印に反対というのではなく、ロシア最高会議内に異論があるから、慎重を期してすぐは仮調印しない方がよいという考えを示したことになる。
 エリツィンの提示した複数の論拠のうち最後のものは相対的に穏和なもので、他の出席者たちにも受け入れやすいものだったように見える。シュシュケヴィチは、私はそれほどきっぱりと修正を提起する気はないが、ただ共和国最高会議の委員会で議論するだけの時間がない、仮調印に反対する議員もいる、と発言した。彼はまた、わが議会では4分の1もの代議員が反対を声明していると述べ、ゴルバチョフがそれなら75%は賛成ということではないかと問い詰めると、とにかく批准の確率は下がると応じた。彼はさらに、10日ほどの時間をかければ議会を説得することができ、批准もされるだろう、急ぎすぎることはかえってリスクを高めると述べた。つまり、彼自身は条約案に賛成であり、共和国議会も時間さえかければ批准するだろうという見通しを持った上で、急ぎすぎはよくないので、今日のところは仮調印せずにおこうという趣旨にとることができる。
 前回会合に出席しなかったカリーモフ(出席の予定だったが、モスクワへの到着が間に合わなかった)は、シュシュケヴィチに同意して、仮調印するからには、議会がそれを認めるだろうという確信が必要だと述べ、われわれは条約案に賛成だけれども、仮調印するのは共和国最高会議の委員会で審議した後にすべきだと主張した。
 誰もが仮調印に難色を示したわけではなく、アカーエフのように、前回会合通りでよいとする発言もあったが、条約案そのものに反対ではなくともとりあえず時間をおいた方がよいという論法は多くの出席者の共感を呼んだように見える。苛立ったゴルバチョフは、「正直に言って非常に悲しい。幻滅だ、幻滅だ!」と叫んで、休憩を宣言した。休憩後に、仮調印抜きで条約草案を共和国に送るという決定が採択されたことは拙著で述べたとおりである*8。しかし、速記録をたどると、この間の経緯はもう少し細かく追うに値するという印象を受ける*9。もともと休憩以前の段階でエリツィンは、条約案中のいくつかの条項について議事録に残す声明を出したいと述べ、ゴルバチョフはそれを退けていたが、休憩後にはゴルバチョフが同盟条約案を再度読み上げ、エリツィンが逐条的にコメントした。これは休憩以前のエリツィン発言にあった「議事録に残す声明」の内容を示すものと思われる。
 休憩後の議論は様々な論点に関する細かい応酬となっているが、正面衝突というよりは相互妥協を含む実務的議論であるかの様相を呈している(アカーエフはときおり中間的な発言をしており、そのことも妥協的合意形成に貢献したのかもしれない)。結論として採択された決定が仮調印抜きで条約案を共和国最高会議に送るというものだったことは上記のとおりだが、ゴルバチョフが「仮調印とは、元首がこの案を擁護するということを意味する」と述べたのに対し、エリツィンは「〔仮調印抜きでも、条約案を〕擁護はする」と応じているのは、条約案そのものには一応賛成だという意思表示であるかにとれる(但し、このやりとりは休憩以前のもの*10)。
 国家評議会の議論がここまで進んだ段階で、ゴルバチョフは単独で記者会見を行ない、国家評議会会合の前半部が終わって同盟条約案を共和国最高会議およびソ連最高会議に送ることになった、テキストは国家評議会の場での議論によって加工されたものだが、仮調印はしないことになったと説明した。彼はさらに、11月14日に合意された案に今回施された修正を列挙して、どれもあまり本質的ではないものばかりだと述べ、「コンフェデレーション的・民主的国家」という規定が維持されたと語った。出席していた記者が12月初頭に条約が調印される可能性は残っているのかと尋ねたのに対し、ゴルバチョフは12 月初頭は無理だが、中旬もしくは下旬には可能だ、各最高会議の委員会における審議を経て調印全権代表団が形成されて調印に至る、これをできるだけ早く進めなければならない、と語った*11。その後の経緯を知っている者の目から見ると過度に楽観的な展望だが、シュシュケヴィチらが10日ほどの時間をかければ共和国議会で批准されるだろうと語っていたことを想起するなら、この時点でゴルバチョフがそのような展望をいだいたのは驚くべきことではないのかもしれない。
 11月25日の国家評議会はこれで終わったわけではなく、経済改革を議題とする第2部へと続いた。この部分は従来あまりよく知られていなかったが、ロシアの経済改革が主題であり、ゴルバチョフの冒頭発言をうけてエリツィンが長大な演説を行なった。この演説の途中、ゴルバチョフは各所で口を挟んでいるが、原則的な反対意見ではなく、補足や確認といった性格の発言となっている。この二人以外にも多くの出席者がそれぞれに意見を表明していて、議論は複雑な様相を呈したが、経済改革をロシアが単独ででも進めようとすることに対して、他の共和国が懸念――全面反対ではないが――を表明していること、そしてゴルバチョフは基本的にエリツィンを擁護しつつ、他共和国との調停を試みていることが窺える*12
 最大の問題は、この会合に代表を送っていなかったウクライナが独自通貨発行に踏み切るかどうか、関連して共通ルーブリ圏が維持されるかどうかという点にあった。ゴルバチョフもエリツィンもウクライナなしの同盟はありえないということと、ウクライナの独自通貨は危険だという認識で一致していたが、その上での相違は以下の点にあった。すなわち、エリツィンはウクライナが同盟条約に入らずに独自通貨に向かうだろうという予測のもと、それならロシアは国際価格に移行するという脅しをかけることでウクライナを同盟に引き戻すという戦術を示唆した。これに対しゴルバチョフは、ウクライナが独立しても同盟条約に参加する可能性はある〔新しい同盟は独立した諸国の同盟だという論理〕というシナリオに賭けていたように見える。経済専門家として会議に出席していたヤヴリンスキーは、その長大な発言の中で、ウクライナが独自通貨発行に踏み切れるとは思わないとの見通しを述べた。ウクライナの政治家が独自通貨を語っているのは大統領選挙を前にした軽々しい思いつきが作用しているのではないか、外国の専門家たちもそう言っている、今日の状況で通貨はロシアの手に委ねられており、他の通貨を導入することはできない、というのが彼の展望だった。彼はまた、ロシアがすぐにでも踏み切ろうとしている価格自由化問題に触れて、私有化と競争がまだ実現していない条件下での価格自由化は本当の自由価格にならない、これに伴う困難は6ヵ月では済まず、どれほど続くか見当も付かないという厳しい見通しを示した。この見通しはエリツィンの楽観的展望〔6ヵ月で危機を通り抜けることができる〕への批判を含意するが、にもかかわらず彼は、今は誰もがロシアのまわりに結集するほかない、われわれはみな同じ船の人質になっており、その船の舵を取っているのはエリツィンだとして、たとえ信頼できなくてもエリツィンを支持するほかないという暗い展望を示した。
 こうして経済改革をめぐる議論の構図は錯雑しているが、ゴルバチョフとエリツィンは正面衝突の関係ではなく、ウクライナおよび他の諸共和国への対応をめぐる戦術で分岐していたように見える。信頼できないエリツィンをそれでも支持するほかないというヤヴリンスキーの発言は、ある意味ではゴルバチョフに近いが、ゴルバチョフはヤヴリンスキーの悲観主義をたしなめており、困難ではあっても何とかなるはずだという楽観主義を示している。こういう意見分布の中で、エリツィンは種々の点でゴルバチョフと対立しつつも、なおしばらくゴルバチョフとの協調を必要としていたように見える。この会議が最終的決裂の形をとらなかった理由はその点にあったのではないかと思われる。
 なお、11月25日の国家評議会では、この他にナゴルノ=カラバフ問題も取り上げられたが、それについては項を改める。
 
Vナゴルノ=カラバフ問題
 
 ナゴルノ=カラバフ紛争の歴史的経緯については『国家の解体』の関係各所で詳しく述べた。はじめは言論戦だった紛争はやがて暴力的衝突を含むようになり、その暴力の規模も次第に拡大したが、ソ連中央が仲裁に入る力を持っている間は、暴力的衝突の規模はある程度限定されていた。しかし、ペレストロイカ末期にソ連中央の調停能力が衰える中で、衝突の規模は一段と拡大した。1991年8月政変直後には「ナゴルノ=カラバフ共和国」宣言が発せられ(9月2日)、アゼルバイジャン当局との対抗は一層深化した。それでも、9月16日のソ連国家評議会におけるムタリボフとテル=ペトロシャンの暫定的合意をうけて、9月22-23日にはエリツィンとナザルバーエフの仲介による交渉が行なわれて共同コミュニケが発表され、停戦が合意されるなど、ソ連レヴェルでの平和解決の試みもまだ続いていた。その停戦が破れて緊張が再激化したのは、11月20日にナゴルノ=カラバフ領土内でアゼルバイジャンのヘリコプターが墜落して、アゼルバイジャン高官らが死亡するという事件をきっかけとしていた*13
 ヘリコプター墜落事件の直後に開催された11月25日の国家評議会にはムタリボフもテル=ペトロシャンも出席していなかったが、ムタリボフはゴルバチョフに電報を打ち、それをゴルバチョフが読み上げた。電報の内容は、ナゴルノ=カラバフ紛争が一層激化している、9月の共同コミュニケでいだかれた期待は現実化しなかった、アルメニア側からの攻勢が強まっていると指摘した上で、次の3点を提案していた。@国境の両側5キロメートルにソヴェト軍を配置する。Aアルメニアからのヘリコプター飛行を遮断する。Bナゴルノ=カラバフのあらゆる武装部隊を武装解除する*14
 この提案のうち、最大の議論を呼んだのは@である。アルメニアがこれを受け入れないことは、出席者たちによって確実視されていた(エリツィンは、アルメニアはアゼルバイジャンの先手をとって、十分な軍事力を持っており、だからこそアゼルバイジャンはソヴェト軍の部隊を欲しているのだと指摘した)。問題は、国境のアゼルバイジャン側だけに配置することが可能かどうかという点であり、ヤヴリンスキーは、もしソヴェト軍を送るなら、兵士が双方から攻撃されて傷つくことになると指摘した。これに対して、ゴルバチョフは、もしわれわれが国境地帯を管理しないなら、アゼルバイジャン全体で聖戦が始まるだろう、すべてのムスリム国家がアゼルバイジャンを支持することになるだろう、と指摘した。ヤヴリンスキーが再び発言して、現在は2国〔アルメニアとアゼルバイジャン〕が相争っているが、ソヴェト軍を送るなら3者が争い合うことになる、シニカルかもしれないが、2国だけに争わせておくのがよい、と述べた。またエリツィンは、あらゆる方面から軍が非難されていると述べて、軍の派遣に消極的態度を示した。
 この討論の背後にあるのは、「ソヴェト軍」といっても、その主要部分はロシア人からなってお、ロシアだけが負担を担うことになるのではないかという懸念だった。ゴルバチョフはそのことを念頭において、ロシア人しか送らないというような話は誰もしていないと指摘したが、ヤヴリンスキーは客観的事実としてそうなっているのだと応じた。ゴルバチョフは続けて、ではどうすべきか、やがてアゼルバイジャンは自ら立ち上がって、武器を要求し、女性や子供にも武器を配ろうとするだろう、至るところで軍の武器が奪われており、ソヴェト軍に対して「武器を残していけ。後はわれわれが解決する」という態度がとられている、と指摘した。
 ソヴェト軍(その主たる担い手はロシア人)が平和維持部隊として介入するなら、双方の紛争当事者から攻撃されて犠牲を出すおそれがあるが、全く介入しないのは無責任ではないかという疑問が投げ出される中で、ゴルバチョフは、とにかく何らかの態度を示さねばならず、国家評議会として決定を採択しないわけにはいかないと述べた。そうした中で、この日の会議に来ていないムタリボフとテル=ペトロシャンの両方を呼ぶべきだという声が数人の出席者から出された。明日〔26日〕にでも呼び寄せるべきだという声に対して、ゴルバチョフは、明日はアゼルバイジャンで最高会議会期が予定されていると指摘した。エリツィンは、電話をかけて最高会議を延期させるべきだと述べたが、カリーモフは、アゼルバイジャンではたとえ大統領でも最高会議を取り消すことはできない、もし大統領〔ムタリボフ〕がアゼルバイジャン最高会議に欠席するなら滅茶苦茶な騒ぎになることは確実だ、と指摘した。
 こうしたやりとりの後、ゴルバチョフがムタリボフと電話で話し合ったところ、ムタリボフが共和国最高会議に出席しないわけにはいかないと主張したため、明後日〔27日〕ということになった。ゴルバチョフはテル=ペトロシャンとも電話で話し合って、27日の国家評議会開催を決めた。その際、テル=ペトロシャンはもしアゼルバイジャン最高会議が26日にナゴルノ=カラバフ自治廃止の決定を採択するなら、自分はモスクワに行くことができないと付け加えた。ムタリボフは最高会議で激情がかきたてられることのないよう、できる限りのことをするとゴルバチョフとの電話で語った。ここには、アゼルバイジャン国内の政治的攻防の複雑化が反映している(後述)。こうして、とにかく27日に両共和国大統領を含めて国家評議会を開くこととなった。
 11月27日にナゴルノ=カラバフ問題だけを特別の議題とする国家評議会が開かれたこと、そしてその場で停戦を呼びかける決定が採択されたことは従来から知られており、拙著でも一応の紹介を行なった*15。しかし、これまで知られていなかった討論の模様はゴルバチョフ著作集第30巻に収録の速記録によってはじめて明らかとなったので、その概要を紹介してみたい。
 この会議の出席者は、ゴルバチョフのほか、ムタリボフ、テル=ペトロシャン、エリツィン、シュシュケヴィチ、イスカンダロフ(タジキスタン最高会議副議長)、ニヤゾフ、アサンバエフ(カザフスタン副大統領)、シェリムクノフ(キルギス最高会議議長)、ハミドフ(ウズベク副首相)という各共和国の首脳であり(うち何人かは飛行機の都合で遅刻)、その他に、シェワルナゼ、バランニコフ、バカーチン、シャポシニコフ、カリニチェンコ(国境防衛隊司令官)、ロボフ(軍参謀本部長)、サッヴィン(内務部隊司令官)、ヴォロノフ(ロシア最高会議副議長)も参加した*16。つまり、紛争の両当事国だけでなく、ウクライナとモルドヴァを除くすべての共和国から代表が集まったということになる。
 ゴルバチョフの冒頭発言の後、最初に発言したのはムタリボフである。彼は悲劇的事態が進行しているという事実を確認した後、次のように続けた。先日、私はテル=ペトロシャンと友好的な会話を行ない、受話器を置いてすぐに〔アルメニアに対する〕天然ガス封鎖を解除するよう指示した。もともと封鎖は私の指令ではなく、私の関知しないところで行なわれた。しかし、〔封鎖への報復として〕アルメニア人の村から射撃が行なわれた。これによって憤激が高まり、大衆から指導部へのものすごい圧力がかけられた。ガス抜きのため、最高会議会期を開かないわけにはいかなかった。昨日、私は会期で好戦的雰囲気を鎮めるための発言を行なった。最高会議の中に民族評議会がつくられた*17。私はモスクワに来るときに、事態が正常に進行するものと信じていた。ところが、〔バクーから〕電話がかかって、ナゴルノ=カラバフ州の自治を廃止するという決定が絶対多数で可決されたとのことだ。この状況から脱出するには、境界線と非軍事ラインを確定する必要がある。アルメニアの同志たちはアゼルバイジャンからの攻撃を恐れているが、そのおそれを取り除くには内務部隊の増強が必要だ。こうした背景のもとで、コミュニティ間の交渉、人民外交が必要だ。9月23日の共同コミュニケに基づく交渉は4次にわたって行なわれ、第3回と第4回で運輸の回復や人質に関する協定案ができるなどの成果があった。ヘリコプター事件さえなければ……〔ここで発言が途切れている〕*18
 これに対して、テル=ペトロシャンは次のように発言した。事態はナゴルノ=カラバフ州自治の廃止にまで至った。あなた〔ムタリボフ〕の発言から、事態を決定しているのは人民であり、アゼルバイジャン人民戦線であると理解した。こういう状況では、共通了解に到達することができるか疑わしい。もう1ヵ月もガスが来ておらず、鉄道が封鎖されている。ナゴルノ=カラバフ住民の安全が保証されていない。この国家評議会でナゴルノ=カラバフの法的位置を定めねばならない。
 ムタリボフが再び発言して、あなた〔テル=ペトロシャン〕はアルメニア人の保護について語るが、6000人ものアゼルバイジャン人が流出を余儀なくされている、私自身は昨晩までナゴルノ=カラバフ自治廃止決定を抑え込んできた、もし私が賛成の立場をとったなら民族的英雄になれたろうが、敢えてそうしなかったのだ、と自己弁護した。
 この後、サッヴィン(内務部隊司令官)が発言して、両共和国の境界に10キロメートルの非武装地帯をつくり、ロシアとカザフスタンの哨所を置き、ソヴェト軍を配置するのがよいと提案し、エリツィンが内務軍は何人増強することが必要かと尋ねたのに対し、15,000人弱だが、現状では1800人しかいないと答えた。これを聞いたエリツィンが、またしてもロシアから駆り出されると述べたのに対し、ゴルバチョフは、〔ロシアだけでなく〕全共和国からだと応じた。これは2日前の議論でも出された点だが、エリツィンはソヴェト軍の部隊は基本的にロシアから派遣されており、ロシアばかりが負担を担わされることに不満を唱えるのに対し、ゴルバチョフは平和維持はロシアだけでなく全体の課題だとして、説得を試みるという構図になっている。
 ムタリボフとテル=ペトロシャンの間、またゴルバチョフとエリツィンの間で押し問答があった後、当時ソ連内務大臣を務めていたバカーチンが、5キロメートルの非武装地帯を一方の側に設置しただけでは機能しないので、両側でなくてはならないと指摘した上で、次のように述べた。国家評議会としては新しい同盟の中央の役割を規定し、停戦を呼びかける声明を発しなくてはならない。軍は大部分がロシアからのものとなるだろう。そのようにして政治解決を図るか、あるいは独立国となった2ヵ国の責任に任せるのかのどちらかだ。もし介入しないなら、1990年1月〔バクー事件〕と同様のポグロムが起きるだろう。昨日のアゼルバイジャン最高会議決定をナゴルノ=カラバフ側が拒否している以上、なおさらだ。結局のところ軍を導入する必要があるが、共和国最高会議〔複数〕はそれを承認しないだろう。とすれば、ソ連最高会議が承認しなくてはならないが、〔ソ連最高会議は存続自体が疑われている状況なので〕そのようなことを法的に確認することはできそうにない。軍に関しては袋小路であり、戦争となるかもしれない。
 バカーチン発言が袋小路の指摘で終わったのを聞いて、ゴルバチョフは、そこでとどまるわけにはいかず、何とかして進まねばならない、今朝、私は現地を訪問してきた人たちと会ったが、いくつかの案があると述べた。ここでいう「いくつかの案」とは、巻末注に収録されているシャフナザーロフのメモによれば、以下の5つが挙げられた。@アゼルバイジャン人民戦線のリーダーと接触することができるかもしれない。A欧州共同体や国連の仲介を仰ぐ可能性も考えられる。Bトルコとイランを介して働きかける可能性。C経済制裁の最後通牒。理性の喪失はアルメニアだけでなくアゼルバイジャンでも起きているが、責任をムタリボフからアゼルバイジャン最高会議および民族評議会に転嫁する可能性がある。Dモスクワに代表者たちを呼んで仲介者の参加の下で交渉する*19
 ゴルバチョフは続けて、各共和国は独立を宣言しているが、今は過渡期であり、何らかの形で同盟と結びついている、今はまだソ連の軍や内務部隊がある、これらを投げ捨てるならソ連軍はアゼルバイジャンを去り、アゼルバイジャンは武器を要求するだろうと述べた。ここでエリツィンが口を挟んで、武器を渡すことはできないと述べたのをうけて、 ゴルバチョフは次のように続けた。武器を譲り渡すことなく、活路を見出さねばならない。同盟が葬られようとしている。同盟条約も調印へと進んでいない。中央アジアからは、ムスリムが投げ捨てられようとしているという苦情が出ている。安全を保障できないなら何のための同盟かという声もある。通信も分断されている。その果てにどうなるかといえば、流血だ。エリツィンはロシアは共和国外に兵を出さないということだ(エリツィン。その通り)。これは袋小路だ。それでも、解決を見出さねばならない――政治的解決か流血かのどちらかだ。
 この発言に見られるとおり、ゴルバチョフは流血の拡大を食い止めるべく、政治的解決の道――その具体的内容は不明確であり、成功可能性もあまり高くなかったが――を見出すべきだと説き、そのためには同盟がともかく生き延びることが必要だと主張した。シェワルナゼも、どんなに困難であろうと停戦交渉を始めねばならない、さもないとカタストロフィだ、戦闘が続いてロシアの若者が死んでいるというのに、エリツィンは恥ずかしくないのか、あと何千もの兵士を送ることになるならエリツィンは辞職しなくてはならなくなる、と発言した(ここでエリツィンが口を挟んで、私が兵を送っているのではない、私抜きに派遣されているのだ、と述べた)。
 これ以外にも何人かの出席者によって押し問答が続いたが、とにかく何らかの決定を採択しないわけにはいかないということで、休憩を挟んで国家評議会決定の案が作成された*20。休憩後にゴルバチョフが読み上げた決定案の骨子は、@両共和国の最高会議にナゴルノ=カラバフに関わる不法な決定の廃止を呼びかける、A交渉の再開、B両大統領が10日以内の戦闘休止について語っていることに留意する、C両共和国人民に数々の遺恨にもかかわらず運輸・通信の再開を呼びかける、となっていた。このうちのAについては、「再開」よりも「継続」とした方がよいとの発言があり、「継続」と修正された。また、Bについては、非合法武装部隊のことに言及するかどうかゴルバチョフは決めかねていたが、両共和国大統領に非合法武装部隊撤退の措置をとるよう勧告するという文言になった。これ以外にも各所で文言上の修正が施された上で、国家評議会決定は採択された。見られるように、この決定は十分具体的なものではないが、とにかく双方当事者に対して停戦と歩み寄りを促そうとしていた。この決定に対して両共和国はそれぞれに両義的な反応を示した――特にアゼルバイジャンでは、ムタリボフ周辺と急進ナショナリストの間で態度の違いがあった――ことは拙著で述べたとおりである*21。こうして、結果的にソ連最後の国家評議会となったこの会議での停戦努力は報いられることなく終わった。
 ナゴルノ=カラバフ紛争はその後、様々な曲折を経たが、2023年9月にいたって遂にアゼルバイジャンは全面制圧に突き進み、同地に住んでいたアルメニア人の大半はアルメニア本土へと流出した。そのような経緯を目の当たりにした直後にこの討論を読むと、複雑な思いが去来する。
 
W ベイカー米国務長官との会話(12月16日)
 
 12月8日のスラヴ系3共和国首脳によるソ連解体宣言がゴルバチョフおよび彼の同盟条約構想への大きな打撃だったことはいうまでもない。ゴルバチョフは自分の頭越しにこのような宣言が発せられたことに衝撃を受けつつも、この宣言はまだ最終結論を出すものではなく各共和国議会による批准を要する、また中央アジア諸国などの反応を待つ必要がある、などとして最後の反撃を試みた。その際、彼は独立国家共同体(CIS)構想を全面的に退けるのではなく、自己の推進してきた同盟条約構想と並ぶ「一つの案」と受けとめるという態度を表明したが、これは彼がCIS構想との間に何らかの妥協を見出そうとしていたことを物語る*22
 スラヴ3共和国の議会は12月10-12日に相次いでCIS協定を批准した。また、中央アジア諸国は12-13日のアシハバード会議で、条件つきながらCISへの合流の態度を示した。ほぼ同時期にアルメニア、アゼルバイジャン、やや遅れてモルドヴァもCIS合流を決め、もはや同盟条約の展望はほとんどなくなり、大半の共和国がCISに結集することが明らかとなる――内戦が始まりつつあったグルジアのみ例外――情勢が生じた*23。そうした時期に、ベイカー米国務長官は15日から18日にかけて旧ソ連諸国を歴訪し、その一環としてゴルバチョフとも16日に会った。このゴルバチョフ=ベイカー会談はベイカー自身の回想に物語られており、拙著でもそれに基づいた叙述をしておいたが*24、ゴルバチョフ著作集第30巻には、この会談の模様についてベイカーの回想よりも詳しい記録が収録されている(典拠はゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフ)。以下、その概要を紹介してみたい。
 この会談でゴルバチョフは先ず次のように述べた。11月25日の国家評議会で同盟条約案を共和国に送付することが決定され、締結に向けた作業が続いていた。それなのに、こんなことになったのは、われわれの責任であり、私にも失策と大きな間違いがあったのだろう。あなた方〔米国のこと〕にもあったのかもしれない。とにかく現実と向き合わねばならない。持てる力をすべて使って、進行中のプロセスがより大きな解体とならないよう努めなければならない。私も、同席している同僚〔ヤコヴレフとシェワルナゼを指す〕も、独立国家共同体の原則と制度および継続性を保障する手続きの作成に参加したいと考えている。私は彼ら〔エリツィンらを指す〕に成功してもらいたいと思う。うまくいくとは信じられないが、にもかかわらず、その成功を願望する。さもないと、われわれがなしてきたことすべてが脅威にさらされる。あなた〔ベイカー〕は二人の大臣〔シェワルナゼとシャポシニコフ〕およびエリツィンと話しあったとのことだが、あなたの評価を聞きたい*25。この冒頭発言はベイカーの回想における記述とほぼ照応しており、差異は比較的小さい*26。しかし、これ以降の部分はベイカーはあまり詳しく書き残していないので、やや丁寧に見る必要がある。
 ベイカーは、ブレスト合意がまだ外観にとどまっているというゴルバチョフの見解に同意し、それだけでなく、そこには矛盾もあると付け加えた。これをうけてゴルバチョフは、ウクライナは既に国境開放・自由往来、軍事外交における調整などを疑問にさらしている〔ベロヴェジャ協定批准時の留保を指している〕と指摘し、次のように続けた。ウクライナ最高会議はクーポン発行を決定した。クラフチュークはアルマアタ会議には出席しないかもしれず、そのことをナザルバーエフは気にしている。アシハバード会議では、より成熟した態度が表明された。ロシアでは不穏な気分があらわれ、権威主義化の兆候もある。ポポフはもう辞職を決めた。私はCIS協定が挫折することのないよう願っている。
 今度はベイカーが質問する側にまわり、今朝聞いたところでは、あなた〔ゴルバチョフ〕とエリツィンの間で、12月半ばから1月半ばにかけての移行期について話し合われているということだったが、あなたは外交的承認についてどう考えているのか、軍についてはどうか、と尋ねた。これに対してゴルバチョフは、アジアの諸共和国のことを考えねばならないし、まだ残っているソ連官庁についても考える必要がある、ところが彼ら〔ロシア権力〕はもうソ連外務省の閉鎖を宣言している、国家承認についてはCISが国際法主体なのかどうかをはっきりさせねばならない、と応じた。ベイカーがいま問題になっているのはCISの承認ではなく、個々の諸国家の承認のことだと述べると、ゴルバチョフは、それは分かっているが、そのこととCISの生存能力とを結びつける必要があり、それをはっきりさせることが軍の問題にも関係すると応じた。彼はまた、ウクライナの政治家たちはアジアの諸共和国の参加を望んでいない、彼らはロシアの資源だけを当てにしている、ロシアは核兵器も対外債権・債務も全部ロシアが単独相続すると宣言しているが、こういう態度は高慢という印象を与えるだろうと述べた。
 ベイカーが次の問いとして、アルマアタ会議でブレスト合意が支持された場合、それを合憲的な枠で進めるためにはどうすればよいだと考えるかと尋ねたのに対し、ゴルバチョフは、ソ連最高会議の最終会期の開催が必要であり、批准書交換の後にソ連最高会議がソ連の存在終結と独立国家共同体存在の開始を確認するべきだ、それに加えて防衛同盟および対外政策の調整についての確認も必要だと述べた。
 ベイカーはさらに、仮にレファレンダムが行なわれて、全体としては〔ゴルバチョフの構想する〕同盟に賛成だが、4つの共和国ではCISの方が賛成多数という結果になったらどうなるだろうかと質問した。この問いに対してゴルバチョフは、もしレファレンダムが行なわれたなら同盟賛成が多数になるだろう、多くの調査はそのことを示している、政治家たちはCISに賛成だが、一般の人々は依然として同盟を放棄しようと思っていないなどと述べた。
 同席していたシェワルナゼがここで口を挟んで、これ〔レファレンダムのこと〕抜きでは決定は合憲的なものにならない、現に〔3月に〕レファレンダムがあったのだ、誰もそれを取り消していないと述べ、ゴルバチョフは「民主派」は人民の民主的選択を葬ろうとしているのだと付け加えた。これを聞いたベイカーが、しかし別のレファレンダムで彼らは独立に賛成したではないかと指摘すると、ゴルバチョフは誰もが独立には賛成すると応じた〔独立と同盟条約締結は両立するという理解〕。彼はさらに、同盟条約プロセスが罠にはまって、時間を空費している間に、数ヶ月後にはすべてが洗い流され、経済崩壊が始まるだろう、このような政治的分裂症に終止符を打たねばならないと述べ、ベイカーは全くその通りだと応じた。
 この後、食糧援助や軍の統一性の問題が話し合われ、ゴルバチョフはキエフ軍管区では将校の80%はロシア人だ、ウクライナの民主派は彼らの粛清を要求しているが、これはナンセンスだ、国籍の問題もあると述べ、次のように続けた。アルマアタで調印される諸文書ではCISの原則やメカニズムが明確にされねばならない。私はエリツィンに、バルトの独立を承認したのはよいが、その地のロシア人は二級市民とされているではないかと指摘した。これを聞いたベイカーは、いまあなたが言ったのは本当に正しい、アメリカ政府内で、バルト諸国の独立を承認すべきだという強い圧力がかけられたとき、私は現地のロシア人――リトアニアではポーランド人も――が二級市民になるおそれを挙げて抵抗した、国家解体がどういうことをもたらすかはチェチェン=イングーシ、沿ドネストル、ユーゴスラヴィアで起きたことを見れば明らかだ、と述べた。
 会談の最後にゴルバチョフは、CISが十全な生存能力を持つものとして形成されることを目指すと述べ、ベイカーはそれに同意を表明した。
 このやりとりを読むと、この時点のゴルバチョフは自己の立場が弱まりつつあることを自覚しつつも、それでもなお自分にはなすべきことが残っていると考えていたことが窺える。同盟条約かCISかという選択に関して、ゴルバチョフがよりよいと考える前者の道はほぼ閉ざされ、後者しかありえなくなっているという現実を認めた上で、CISが具体的にどのような存在となり、ソ連からCISへの移行がどのようにして進行するがまだ確定していない以上、その過程に働きかけて、なるべく困難の少ない移行となるよう助力したいというのが彼の考えだったように見える。このようなゴルバチョフの考えに対するベイカーの反応は、彼自身の回想にはあまり詳しく述べられていないが、ゴルバチョフ側の記録によれば、多くの点で賛意を示したということになっている。この記録の正確性を疑う余地はあるが、記述にかなりの具体性がある以上、その全体が捏造ないし歪曲だとも考えにくい。ゴルバチョフが既に同盟条約の方針を諦めていることを前提するなら、ソ連からCISへの移行がなるべくスムーズに進むのはアメリカの観点から見ても望ましいことであり、ベイカーがこの点での同意を示したのは驚くべきことではない。
 ベイカーとの会談後まもなく、ゴルバチョフはアルマアタ会議参加者宛ての呼びかけを発表した*27。その内容は広く公開されており、拙著でも紹介したが、ベイカーとの会談の細部を知った上で読み返してみると、その趣旨をもう少し立ち入って理解することができる。私の旧著では、この呼びかけは「全体としてみれば、これは主権国家同盟構想の断念とCISの受容であり、事実上の敗北宣言を意味した」と書いた。この評価自体は今でも維持できると考えるが、アルマアタ会議前夜のゴルバチョフは、敗北をかみしめつつも、同時に、少しでもCISへの移行過程に働きかけようとして、一種の後退戦を戦おうとしていたと考えることができる。旧著で簡略に書いた内容をもう少し丁寧に敷衍するなら、この手紙でゴルバチョフは、CISが生存能力ある存在になるために不可欠な最小限の条件を描いてみたいとして、次のように述べていた。@共同体の多民族的性格を明示すべきであり、そのための名称として「ヨーロッパとアジアの諸国家の共同体」がふさわしい。A人権および民主的自由の宣言を承認するだけでは足りない。数世紀にわたって幾百万の家族が交差し、多数の混合結婚が存在する巨大な空間において国境の開放および国籍の問題を練り上げねばならない。ナショナリズムと分離主義に侵されていないすべての人にとって、「大きな祖国」の喪失の感覚は不可避だ。国家的分離が進行するが、国籍(市民権)の条件は人々の生活に直接関わる。各国家の国籍と並ぶ「共同体の市民」の基準について合意すべきだ。B社会志向の市場経済発展、あらゆる所有形態の保護のために、11月に調印された経済共同体条約が遵守され、そこで予定された補足協定類の完成によって共通ユーラシア市場が生まれることが必要だ。C戦略的軍事安全保障システムの一体性を維持しなくてはならない。軍縮についても共同決定が必要だ。D各国ごとの自主的・主権的対外活動と並んで、共同体も欧州共同体のような形で国際法主体となるべきだ。E科学、文化、民族間交流語、記念碑保護、博物館、文書館等々に関する調整も必要だ。F法的継承性にも注意を払うべきだ。そのため、CIS結成文書の批准書を交換した後にソ連最高会議の最終会期を開き、ヨーロッパ=アジア国家共同体への権限引き渡しを決定すべきだ*28
 これらの提案のかなりの部分は中央アジア諸国がアシハバード会議で提起した修正案とも重なっており、ベイカーの合意を得たものでもあって、その限りでは全く現実性がなかったとは言い切れない。しかし、エリツィンはこの提案をほぼ全面的に蹴った。そのことにより、ゴルバチョフの「後退戦」も敗北のうちに終わった。ソ連最終局面の流れはこうしたものとして理解することができる。
 
(2024年1月)

*1なお、奥付けによれば第29巻は2020年8月刊であるのに対し、第30巻は2022年11月刊で、前の巻が出てから2年以上の間が開いており、編集に大分時間がかかったことになる。私は数ヶ月前に第30巻を入手していたが、諸般の事情から一気呵成に読むことができず、断続的にあちこちを読み、最近になってようやく最後までたどり着いた。
*2もともと著作集の刊行が始まった時点では、「第1期(1991年まで)全22巻」と予告されていた。結果として、「第1期」は予定よりも大分巻数が増えて30巻となったわけだが、今後に「第2期」が続くことになるかどうかはまだ明らかでない。
*3塩川『国家の解体』2045-2047頁、より詳しくは「ソ連解体の最終局面――ゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフの資料から」『国家学会雑誌』第120巻第7=8号(2007年)、124-128頁。
*4 М. С. Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, М., 2022, с. 22. 以下、この著作集からの紹介は、基本的に原文の流れを追う形で行ない、当該個所の特定は難しくないので、典拠指示は比較的簡略なもの」にとどめる。
*5塩川『国家の解体』2047-2049頁、「ソ連解体の最終局面」128-133頁。
*6 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 622. なお、シュシュケヴィチは後の回想で、この会合には出席しなかったと書いている。С. С. Шушкевич. Моя жизнь, крушение и воскрешение СССР. М., 2012. c. 185.この記述が信用できないことは『国家の解体』2145頁の注98でも指摘したが、速記録によってより一層明らかとなった。
*7 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 176.以下の一連の発言はこれに続く頁にあるので、典拠指示を省略する。
*8塩川『国家の解体』2048頁。
*9なお、休憩中の国家評議会メンバーたちの意見交換は巻末注に紹介されているが、さまざまな意見が羅列されていて、論争の構図も結論もあまり明確でない。Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 622-625. (典拠は国家評議会会合と同じアルヒーフ文書)。
*10 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 185.
*11 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 235-239.
*12 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 240-277.エリツィンおよびヤヴリンスキーの長大な発言は付録に収録されている。Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 563-584.
*13この経緯の概観は、塩川『国家の解体』2073-2075頁。
*14 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 257-259. 以下の一連の発言はこれにすぐ続く頁にあるので典拠指示は省略する。
*15塩川『国家の解体』2075頁。
*16Г орбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 630-631.
*17アゼルバイジャン最高会議における元来の力関係は、旧共産党が多数、野党〔人民戦線〕が少数だったが、後者の方が勢いが強くなりつつあり、政権・野党勢力同数からなる小議会たる民族評議会(ミリ・メジュリス)の設置が要求されていた。民族評議会設置は10月30日に認められ、11月26日――ナゴルノ=カラバフの自治を廃止する決定が採択されたのと同じ日――にそのメンバーが選出された。塩川『国家の解体』2071-2073頁。
*18 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 307-308.以下の一連の発言はこれにすぐ続く頁にあるので典拠指示は省略する。
*19 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 632.
*20この問題に関する国家評議会決定の文案については、11月25日の段階でもゴルバチョフが最初の提案をしているが、即興のものだったため、途中で何度も言い直している。Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 265-266. 11月27日の議論はこれをうけている。
*21塩川『国家の解体』2075-2076頁。
*22塩川『国家の解体』2185-2189頁。
*23塩川『国家の解体』2090-2197, 2201-2208, 2227頁。
*24ジェームズ・A・ベーカー『シャトル外交 激動の四年』(新潮文庫、1997年)、下、470-501頁、塩川『国家の解体』2227-2228頁。
*25 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 460-462.以下の一連の発言はこれにすぐ続く頁にあるので典拠指示を省く。
*26ベーカー『シャトル外交』下、478-480頁。なお、邦訳書で「二人の外相とも話をした」とあるのは「二人の大臣」の誤り。
*27塩川『国家の解体』2229-2230頁。なお、この呼びかけは12月19日付となっており、20日付けの各紙に公表されたが、ゴルバチョフの回想によれば、これを関係者に送付したのは12月18日のことだったという。М. Горбачев. Декабрь - 91. Моя позиция. М., 1992, с. 91.
*28 Горбачев. Собрание сочинений. т. 30, c. 489-493.