シモーヌ・ド・ボーヴォワール『モスクワの誤解』(人文書院、2018年)を読んで
この小説は元来1967年に執筆されたが、長らく公表されず、著者没後の1992年に雑誌に掲載されたものの、これもあまり広く知られず、2013年に単行本として刊行されてはじめて広く注目を浴びたらしい(これまでに世界26カ国で版権が取得され、各国で反響を呼んでいるとのこと)。こういう経緯自体が一風変わっている。
主要な内容は、ボーヴォワールとサルトルを思わせるカップル(但し、私小説ではなく、わざと実在の人物と違えて書かれている部分もある)がモスクワを訪れたときの模様であり、二人とも老いを感じ始めて、心理的に将来が不安になる中で、カップルの間にすきま風が吹き、種々の誤解(タイトルはこの点に由来する)とそれに基づく諍いが起きる過程が詳しく描かれている(最終的には、諍いを乗り越えて、関係を修復しようとお互いに努めるというハッピー・エンドだが、これで本当におさまるのかには疑問も残らないではない)。女性の側からみた個所と男性の側からみた個所が交互に出てきて、それぞれが相手を理解しようとしながらもすれ違ったり、苛立ったりしているさまが両側から描かれている点が面白い。もっとも、この二人がボーヴォワールとサルトルを想起させる以上、こういう書き方をするのは、「私は自分の言い分だけを一方的に述べているのではなく、サルトルの考えもよく分かった上で書いているのですよ」という自己主張があるようにも見え、それをサルトルが読んだらどのように受けとめただろうかなどと考えたくなる。
作品に描かれている1960年代のソ連は、スターリン批判によって変わった面と旧態依然たる面が入り混じっている。マーシャという登場人物――サルトルを思わせる男性の前妻の娘で、ロシア人と結婚して長くソ連に住み、かなり「ソ連人」化している――は、ある面ではソ連の現状に批判的だが、ある面ではソ連の政策を擁護したりするといった二面性をもち、モスクワを訪れた父親とイデオロギー論争をしたりしている(父は中国寄り、娘は中国に対してソ連を擁護)。ここら辺は当時のソ連に関わる描写として、わりとリアルであるように思える。主人公のカップルがソ連の現実にかなりの程度幻滅しつつも、それでもなお社会主義の理念には期待を託したいと考え、しかしその実現の展望をつかむこともできず、悩んでいるさまも、当時の欧州左翼知識人の知的雰囲気をよく反映しているように感じられる(もっとも、社会主義理念への未練がより強いのはサルトルの方であり、ボーヴォワールはもっと醒めていたといった感じの描写になっている)。
この小説が書かれたのは1960年代半ばのことだが、その後、サルトルはブレジネフ時代末期の1980年に死去し、ボーヴォワールはペレストロイカがようやく始まりかけた1986年4月に死去した。その後のペレストロイカの展開を見たなら二人とも大喜びして歓迎しただろうが、さらにその後のソ連解体を見ずに済んだのは彼らにとって幸いだったのかもしれない。
小説が元来執筆されてから半世紀を過ぎ、ボーヴォワール、サルトル、ソ連のいずれもが世を去った後になって、この作品がまるで新作のような装いで新刊書として刊行され、世界中で広く読まれるというのは一体何を意味するのだろうか。当時の状況をリアルタイムでは知らない現代の若い世代はこの小説をどのように読むのかという点にも関心がもたれる。
(追記)
この小説の一つの重要な主題は「老い」ということだが、主人公たちは60歳という設定になっている。今の感覚でいうと、まだ老けるには早すぎる年齢だという気がするが、当時はヨーロッパでも平均寿命が短くて、今の70歳くらいの感じだったのだろうか。そういえばボーヴォワールはこの小説の少し後に、まさしく『老い』というタイトルの本を書いたが、それは彼女が62歳の時だった。
(フェイスブックに2019年4月2日に書き込んだ文章をわずかに改訂したもの)