青野利彦『冷戦史』(上・下)*1を読んで
前史および発端から始まって終結およびその直後にまで至る冷戦史全体をグローバルな視点から包括的に概観しようとした野心的な書物である。新書2冊で全史を書ききるというのは相当な力業であり、各方面で好評を博しているのももっともである。私自身は、以下で述べるようにあちこちに引っかかるものを感じてかなり批判的ではあるが、本書が全体として有意義な書物であることを否定するつもりはない。私が本書に対して批判的になってしまうのは、たまたま著者のいちばん弱い部分が私の専門に関わるという不幸な事情に由来するのであって、それがすべてだと言おうとするわけではないことを断わっておきたい。
やや奇妙な断わり書きから書き始めてしまったが、本書の基本的な構成を確認しておきたい。本書は大まかには時系列に沿って書かれているが、「4つの地域」(米ソ超大国、ヨーロッパ、東アジア、第三世界)という視点に立って、それらの動向をかみ合わせる形で歴史を描いている点に最大の特徴がある。冷戦史を米ソ超大国の対抗だけに帰するのではなく、他の様々な地域を視野に入れて、グローバルな観点から捉えるという発想は、ウェスタッド以降かなり広まりつつある研究動向だが、著者はそこに日本を含む東アジアを付け加えることで、欧米の研究の限界を超えようと試みている。このような構想は大いに有意義であり、また非常に野心的なものである。
「野心的」というのは、世界各国・各地域を満遍なく視野に入れるというのは途方もなく巨大な課題だからである。そのように巨大な課題に挑んだ結果、ある部分は説得力が高いが、ある部分はやや手薄だといったアンバランスが生じるのはやむを得ないことだろう。だから、これこれの部分には疑問があるといったことを指摘しても、本書全体の価値を根本的に損なうことになるわけではない。ただ、世評の高い書物であるだけに、どの部分にどのような疑問があるかを具体的に指摘しておくことも全く無意味ではないだろう。以下の感想は、そうした趣旨から、他の読者にとってはともかく私にはこうした点が気になるということを記したものである。
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私が本書を読んで懐いた感想を大まかにいうなら、先ず、アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツといった諸国の相互関係に関しては、同盟内の分岐ないし対抗と調整が精細に描かれていて、教えられるところが多かった。また、第3世界と東アジアに関する記述は、それがどこまで的確なのか私には判定できないが、とにかく参考になる。これに対して、ソ連・東欧諸国については疑問個所が多い。これは著者が欧米諸国については最新の研究動向を幅広く摂取しているのに対し、ソ連・東欧についてはそうでないという事情によるのではないかと思われる。実際、欧米諸国を取り上げた個所では、新奇な印象を与える記述が多数あり、そうした個所には「誰それの新しい研究によれば」といった説明がつけられている。これに対し、ソ連・東欧についてはそれがごく少ない。多くは旧来の常識ないし通説をなぞったような記述であり、たまに多少新奇と感じられる記述がある場合にも、ほとんどの場合、根拠が示されていない*2。
中国の位置づけも疑問を呼び起こす。中ソ対立が表面化した後の冷戦はもはや米ソ2極構造ではなく、米中ソ3極構造となり、アメリカが中ソを手玉にとることで漁夫の利を得ることができるようになった。ところが、本書では一貫して「二極構造」という言葉が使われていて、それが三極構造に変容したことの意味が論じられていない。もちろん、中ソ対立という歴史的事実自体が完全に無視されているわけではなく、あちこちで一応触れられてはいるが、それが冷戦の基本構造にとってどういう意味を持ったかは問題とされていない。
関連して、第8章以下では「米中ソ・デタント」という言葉が頻出する。この言葉を表面的に受け取ると、あたかも3国の間に緊張緩和が進行したという意味であるにとれる。実際には、「米ソ・デタント」と「米中デタント」があった一方で、中ソ間には「デタント」はほとんど成り立つ余地がなく、むしろ緊張の昂進こそが特徴的だった(そこからの脱出の模索は1970年代にゆっくりと始まり、曲折を経て89年の中ソ関係正常化に至るまで続いた)。
以上、ソ連・東欧諸国・中国に関する記述に疑問個所が多いということを述べてきたが、そのことは個別の細部に関わるだけでなく、全体構造の理解――そもそも冷戦とは何かという根本問題――とも関わっている。
著者の冷戦定義は実はかなり揺れている。先ず、冒頭では、「東西二つの陣営の間の、地政学的な利益とイデオロギー(政治・経済体制の原理)をめぐる対立」とある(上、3頁)。そして、地政学的利益とイデオロギーという二つの対立軸のどちらがより本質的だったのかという議論も戦わされてきたことが紹介されている。その上で、「近年の冷戦史研究では、冷戦期に東西双方のみならず、第三世界まで含めて、多くの国家や政治勢力の世界観や行動決定にイデオロギーが与えた影響が強調されている」と述べられている(上、8−9頁)。
イデオロギーが一定の影響力を持ったこと自体は明らかな事実である。また、アメリカなり第3世界の一部なりにおいて、従来思われていた以上にイデオロギーが重要だったということも大いにありうる。だが、ソ連に関していう限り、むしろ従来思われていたよりもイデオロギーの役割は小さかった――もちろん、皆無ではなかったが、それは地政学的利益を追求する行動の合理化として機能することが多く、地政学的利益に比べて従属的な位置を占めた――というのが実態である。ところが、著者は、「ソ連はしばしば地政学的利益を確保するための行動をとったが、全世界の共産主義革命という究極目標は冷戦後期まで決して放棄されなかった」という(上、9頁)。この個所を読んで私は思わず天を仰ぎ、一体何という突拍子もないことを言うのかと呆れざるを得なかった。
この見地は本書の後の方でも貫かれており、「〔1970年代前半に〕「第三世界の状況に、ソ連の指導者たちは、全世界の共産主義革命という年来の目標を実現する好機を見いだした」と書かれている(下、91頁)。もっと後の方になると、さすがに「かつてソ連がめざしていた世界革命を推進するという方針は放棄されていた」とあるが(下、185頁)、これはどうやらゴルバチョフ登場の頃になってようやくそうなったという理解のようである。
このように、遅い時期までソ連は「全世界の共産主義革命」を目指していたという理解は、冷戦の本質はイデオロギー対立にあったという理解と結びつく。実際、第10, 11章では「「イデオロギーの優劣をめぐる対立」としての冷戦」という表現が繰り返される。書物の冒頭では、「地政学的な利益とイデオロギー(政治・経済体制の原理)をめぐる対立」として冷戦が定義されていたのに、いつのまにか、二つではなく一つの軸(イデオロギー)における対立へと単純化されてしまっている。そのような冷戦理解は、「世界革命」イデオロギーがソ連によって放棄されたことが冷戦終焉を意味したという単純きわまりない話に行き着いてしまう。
終章では、全体の総括として、米ソとも自らが信奉する「普遍的」価値の実現に強く固執していたという把握が示されている。しかし、ソ連の方は早くに「普遍的」価値を棚上げするようになっていたというのが実態である。むしろアメリカの方こそ、自らの「普遍的」価値に固執していたし、今もそうではないかと思われてならない。著者はアメリカとソ連をいわば左右対称のような関係と見て、どちらも同じように「普遍的価値」に固執していたとするが、いわば外観的な対称性の影に大きな非対称性を宿していたというのが冷戦の実態だろう。そのことを著者が見ようとしないのは、ソ連が遅い時期まで「世界革命」を目指していたという理解に固執しているからである。
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ソ連の対外関係に関する研究は、古くから多くの専門家たちによって積み重ねられてきたが、そこにおいては、《コミンテルンに代表される国際共産主義》と《一個の国家としてのソ連外交》の二元性という問題が長らく論じられてきた。ごく短い最初期においては、国家としての外交が長期にわたって必要とされるとは考えられておらず、外務人民委員部の課題は帝政ロシアの秘密外交に関する文書公開だけであり、それが済めばすぐに店じまいするなどと初代外務人民委員トロツキーは語っていたが、そう簡単に店じまいなどできないということは直ちに明らかとなった。そのことは、国家としてのソ連の安全保障に特に関係の深い隣国たるドイツやトルコとの関係に示された。ドイツ革命の展望が潰えてからもドイツと友好的な外交関係を結ばねばならず(ラパロ精神)、国内で共産主義運動を激しく弾圧するケマル・アタチュルクのトルコとも友好的な外交関係樹立が必要とされた。同様の事情は他の多くの国との関係でもあらわれ、ソ連は多くの場合、各国共産党の利害を犠牲にして「ブルジョア政府」との友好関係を追求した。
だからといってコミンテルンおよび各国共産党が全く不要となったわけではない。ただ、それは往々にして「ソ連防衛」という国家的利益を追求する上での道具として利用された(それに反撥して「革命路線」を貫こうとする共産党員は、しばしばその隊列から追放された)。いくつかの国で共産党を含む左翼政権が樹立されたときにも、多くの場合、ソ連は性急な社会主義化がソ連の利害を損なうことをおそれ、穏健路線を共産党員に強いた。
ソ連の対外政策の歴史における国際共産主義の要素と国家としてのソ連外交の関係は、個々の局面ごとに複雑な展開を示したので、とても一言で概括することはできないが、とにかく「世界共産主義革命」の実現が最重要の課題だったわけではないことは明らかである。
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このことはイデオロギーの重要性という問題とも関係する。ソ連・東欧諸国においてイデオロギーが一貫して重要な位置を占めていたことは周知の事実である。だが、しばしば見逃されているのは、公認イデオロギーが単一であっても、その解釈や適用には幅があり、また正統教義をどこまで熱心に信奉するかも一様ではなかったという事情である。この点で興味深いのは、「トルー・ビリーヴァー(真の信者)」(エリック・ホッファーの用語)の大小およびその増減という問題である。革命直後においては、革命的理念への熱狂――それは大量の犠牲を正当化する独善と表裏一体だった――が多くの人々を捉えていたが、時間の経過ともに「真の信者」は減少し、イデオロギー儀礼化の傾向が長期的趨勢として進んだ。それは一直線に進んだわけではなく、ときとして儀礼化に抵抗するイデオロギー復興論が噴出することもあったが、とにかく大きな趨勢として「真の信者」は減少していき、ブレジネフ期にはイデオロギーの儀礼化が頂点に達した。「儀礼化」とは単純な無意味化ではなく、公的な場においては絶対的尊重を要求するが、その場を離れると事実上忘れてもよいというシニカルな態度が優勢となった。
イデオロギーの儀礼化が頂点に達したブレジネフ期に、対外面では第3世界のいくつかの国への勢力拡張が試みられたのは事実である。だが、それは本書がいうように「全世界の共産主義革命という年来の目標を実現する好機」ということではなく、ソ連の地政学的利益の確保を主要動因としていた。デタントの影での勢力圏拡張をめぐる対抗にせよ、アフガニスタン侵攻を皮切りとする「新冷戦」にせよ、イデオロギーの役割が最重要というよりはむしろ地政学的な対抗としての色彩が濃くなっていた。もっとも、アメリカの側は、ソ連の行動を共産主義イデオロギーに突き動かされたものと捉え、それに自己流の「普遍的」理念を対置しようとしていたのかもしれず、そうだとすればアメリカにとってはイデオロギー闘争が第一義だったのかもしれないが、ソ連にとってはそうでなかった*3。
このことは、ペレストロイカおよびソ連解体を経て現在に至る長期的展望をどう把握するかという問題とも関係する。冷戦の二つの軸のうちイデオロギーの方は、ソ連においてはペレストロイカに先だって空洞化が進行し、ペレストロイカ後期における体制転換の選択によってこの面での対立は完全に解消した。これに対して、欧米との地政学的対抗という軸は冷戦後期にむしろその重要性を増しつつあり、それはその後のロシアにも連続した。ロシアの政治家も一般国民も、共産主義イデオロギーを投げ捨てることにはあまり痛みを感じないが、ロシアの地政学的地位の低下には強い抵抗感を覚えるからである。
昨今、「新しい冷戦」という言葉がしばしばささやかれるが、これをかつての「古典的冷戦」と対比するなら、いくつかの共通性と並んで重要な差異があることに注目しなくてはならない。これまで述べてきたように、古典的冷戦の二つの柱のうちイデオロギーおよび体制選択の問題は冷戦末期までにその比重を低下させており、ペレストロイカ後期における体制転換によって完全に無意味化した。これに対して、地政学的・軍事的対抗の方は、古典的冷戦期を通じて重要な位置を占め、ゴルバチョフ期に緩和の兆しを一時的に見せたものの、1990年代以降に再び前面に立ち現われ、今日でも大きな問題であり続けている。「新しい冷戦」はこのようなものとして位置づけられる。
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経済の問題は本書であまり大きな位置を占めていないが、イデオロギーと関わる体制選択の問題が基本的には経済体制の選択だった以上、これも無視できない位置を占める。この点で重要なのは、1960-80年代にソ連・東欧諸国で進行した各種経済改革の試みの評価である。本書ではこの問題にごく短いスペースしか割いていない(下巻、21, 80-82頁)。「市場経済の要素の導入」という言葉が出てくるが、それが共産党支配を弱めることは決して許されなかったことが強調され、「プラハの春」の軍事鎮圧によって経済改革も葬られたという図式が示唆されている。
ソ連・東欧諸国における各種経済改革の試みは、それぞれの国・時代ごとに多様な形をとった。現実にとられた政策だけでなく経済学者たちの理論的営為をも視野に入れるなら、そこには相当広い幅があった。それらが厳しい政治的制約下にあったのは確かだが、それでもなおかつその枠を食い破ろうとする動きがあったという事実も見過ごすことはできない。中でも重要な位置を占めるのは、1968年以降のハンガリーにおける経済改革である。これは同時期におけるチェコスロヴァキアの改革が押しつぶされるのを横目でにらみながら進められたため、政治的には慎重な形をとったが、それでも社会主義経済に市場メカニズムの要素を最大限に取り込もうとする試みとして重要な意味を持った。その後のハンガリーは一進一退の複雑な歩みをたどったが、1989-90年に本格的な体制転換が選択されるに当たって、ハンガリーではそれまでの準備が最も高度に進んでいたため、ある程度の連続性を保った転換が可能となった(もちろん、断絶の要素もあったが)*4。このようなハンガリーの歩みはポーランド、チェコスロヴァキア、さらにはソ連の一部の経済学者にも影響を及ぼしており、それらの国の市場型経済改革を準備する役割を果たした。
本書はこのような動きを見落としているために、経済イデオロギーにおける冷戦終焉は中国と第3世界で先行し、ソ連と東欧はその後を遅ればせについていったという図式を描いている(下巻、126-132, 217頁)。これは「東側世界」がゴルバチョフ登場まで何の変化もなく、ひたすら旧套を墨守していたという偏見のせいではないだろうか。
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以上では、本書の大きな見取り図と関わる論点をいくつかとりあげて論じてきた。それ以外に、個々の記述の細部で気になる点もいくつかあるが、そうした点を重箱の隅をつつくようにして批判しても、あまり意味はないだろう。ここではただ、比較的大きめの細部として、政党システムの問題に触れておきたい。
本書では、社会主義時代の東欧について、「共産党一党支配」という言葉が使われている。しかし、ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ブルガリアには、共産党(正式名称は国によって異なるが、事実上の共産党)以外にもいくつかの政党が存在していた。これは、ジョヴァンニ・サルトーリの政党システム論の用語で言えばヘゲモニー政党制に該当する。もちろん、ヘゲモニー政党制は一党制と同様、非競争的な政党システムであるので、その差異はそれほど大きなものではない。非アカデミックな議論の場では、そのような小さな差は無視しても構わないと言えば言える。しかし、最先端の研究成果をも吸収して学術的基礎を持った議論をしようというのであれば(本書はそのような野心を秘めているはずである)、やはりそこには差があると言わなくてはならない。
共産党主導の政治体制の中で許容されていた諸政党は、通常時においては従属的な地位に甘んじていたが、ときおり異例な変動の中で自主性を発揮することがあり、それは体制転換の過程で一定の役割を果たした。そのことを考えるなら、体制転換を含む冷戦史を描く上でこれは無視できない論点である。本書がそれを無視するのは東欧諸国における体制転換についてあまり掘り下げようという意欲を持たないことと関連する。実際、本書における東欧変動に関する記述はごく短いもので、上っ面を撫でるにとどまっており(下巻、147-149頁)、欧米諸国に関する丁寧な叙述とは対照的である。
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いささか注文の多すぎる感想文になってしまった。冒頭に述べたように、私の本書への評価が辛いものになってしまうのは、たまたま著者のいちばん弱い部分が私の専門と関わるという不幸な事情によるので、これが本書全体への評価に直結するわけではないことを再確認しておきたい。欧米諸国における同盟内の分岐と調整に関わる記述は私の目から見て精彩を放っているように感じられるし、東アジアや第3世界をも含めてまさしくグローバルな観点から冷戦全史を描くという本書の狙いは壮とすべきだろう。あれこれの個所でこの野心的な狙いが空回りに終わっているとしても、ともかくその試みには十分な意味があるものと思われる。
(2024年2-3月)
*1青野利彦『冷戦史』(上巻:第二次世界大戦終結からキューバ危機まで、下巻:ベトナム戦争からソ連崩壊まで)、中公新書、2023年。
*2例外として、第11章で北方領土交渉を取り上げた個所では、最新の研究として長谷川毅の名が挙げられている。だが、長谷川『北方領土問題と日露関係』(筑摩書房、2000年)の精細な記述と本書を対比するなら、長谷川著のうちのあまり本質的でない個所を取りだしてつまみ食い的な紹介をしているにとどまり、落胆させられる。
*3冷戦史の大きな見取り図として、塩川伸明『歴史の中のロシア革命とソ連』(有志舎、2020年)、第6章を参照。
*4余談になるが、今日「改革からの逆行」「権威主義化」が指摘されるハンガリー政権を率いるオルバンおよび彼の政党フィデスは、1990年前後の時期には、最も非妥協的でラディカルな民主派と見なされていた。