アレクシエーヴィチ『セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと』を読む*1
 
 
 著者アレクシエーヴィチはある時期まで「知る人ぞ知る」といった感じの存在だったが、二〇一五年にノーベル文学賞を受け、二〇一六年には来日もしたので、今では相当広く知られているだろう。本書『セカンドハンドの時代』は五冊からなる聞き書きシリーズの最終巻だが、ジャーナリストによる聞き書き集成という性格の書物にノーベル文学賞が与えられるというのはやや異例なことかもしれない。文学作品としての評価は私ごときが口出しすべきことではないが、日頃ものを書いたり語ったりすることに慣れていない無名の人びとから、簡単には語れないような重い内容をもつ言葉を引き出している著者の聞きとり能力には感嘆するほかない。
 本書の内容を一言でいうなら、ソヴィエト時代およびポスト・ソヴィエト時代を生きてきた人びとからの膨大な聞き書きにより、そうした人たちの感覚や意識を多声的(ポリフォニック)に再現した書物といえるだろう。第一部は一九九〇年代に行なわれた聞き書き群からなり、「赤いインテリアの十の物語」という見出しがつけられているのは「赤い」時代の記憶がまだ鮮明だった時代を象徴している。第二部は二〇〇〇年代の聞き書き群で、「インテリアのない十の物語」という見出しは、かつてのシンボルに代わるものを探しあぐね、部屋の中も心の中も空虚な時代を象徴しているかのようだ。
 「多声的」という言葉は彼女の作品を特徴付ける際によく使われる言葉のようだが、実際、本書に再現されているさまざまな人びとの声は、きわめて多様である。そこには、相互に矛盾しあうものも多く、その意味では不協和音をふんだんに含んだポリフォニーとも言えるだろう。それらがどのようにして一つの絵柄をなすのかは、簡単に説明しきれるものではない。ある意味では、しいて整理などせずに、混沌とも見える多声性をそのまま受け取るのがよいのかもしれない。
 本書に登場する人びとの大半は、ハイポリティクスに関与することのない市井の人たちだが、そういう人であっても時として政治に積極的に関わろうとすることがある反面、どういう激変が起きようが、それに自分から関わろうとしたり理解しようとしたりしない人たちもいる。ソヴィエト時代に郷愁を覚える人たちがいる一方で、それを呪詛する人たちもいる。ゴルバチョフのペレストロイカは短くも美しかった夢と高揚の時代だったと振り返る人たちがいる一方、ゴルバチョフへの幻滅と反感をあらわにする人たちもいる。エリツィンへの毀誉褒貶も個々人ごとの差が大きい。全体として女性の声が多いが、中には男性の声も混じっている。民族間の激しい対抗・衝突に巻き込まれた人も少なくなく、誰かに傷つけられたという恨みを煮えたぎらせている人たちがいる一方で、親同士は敵でも子供たちはロメオとジュリエットのような間柄だという例もある、その他その他。こうした雑多な声が、どれもその人にとっては切実なのだろうと感じさせられる形で記録されているのが本書の大きな特徴である。
 
 書物の性格からして、本書を読むのは、ロシア・ソ連に特別に深い関心をもつ研究者には限られず、むしろあまり深い関心や予備知識をもたない一般読者もかなり含まれるだろう。そうした読者も対象について完全に白紙ではなく、何らかの先入観とか漠たる印象とかをあらかじめ持っているだろうが、どのような先入観を持っていた読者も、本書の中のあれこれの個所に、「ああそうだ、やはりそうだったんだ」という感想を懐くことができるのではないかと思われる。その反面、他の個所についてはあまりピンとこないとか、共感できないといった感想もあるだろう。そういう反応はある意味で自然だが、それだけで終わるなら、もとから持っていた先入観の確認に終わってしまい、新発見がない。むしろ、「どうしてこういう発言があるのか飲み込みにくい」と感じられるような個所をゆっくりと丁寧に読んでいくと、「そういう面もあったんだなあ」ということに気づき、あの国の多面的な性格がよりよく分かってくるのではないだろうか。
 本書の主題は、多様でありながら共通体験で結ばれた「ソヴィエト人」である。「ソヴィエト人」という言葉は、特にブレジネフ期のソ連に関するレッテルとして使われることがよくあり、それは人間の個性を摩滅させ、完全に均質化させられてしまった人間類型を指していわれることが多い。やや丁寧にいえば、当時のソヴィエト政権自身が人びとの矛盾や対立の解消を展望し、あらゆる人びとの麗しい一体性と団結を標榜したのに対し、それに批判的な観察者たちが、それは偽りの一体性であり、個性および自由の否定だと指摘してきた歴史がある。しかし、本書で描かれている「ソヴィエト人」の像は、そのどちらとも異なる。人びとの声は極端なまでに多様であり、麗しい一体性もなければ、無個性で画一的な存在でもない。そこに秩序だった自由はないが、いわば粗放な自由ないし無秩序がある。彼らの生きてきた経路も、現在おかれている状態も、いだかれている感覚や思いも、それぞれ非常に多様であって、決して単色ではない。そのように多様でありながら、ある特定の時代を生き抜く中で共通の体験をしてきたという限りで、そこには主題の共通性がある。これは、見方によっては、ソヴィエト社会に関する文化人類学的考察に貴重な素材を提供するものともいえそうな気がする*2*。
 このような「ソヴィエト人」を形容する言葉として、現代ロシアで流通している新語の「粗連人(ソヴォーク)」という表現が本書には頻出する。これは蔑称だが、著者はその蔑称を他人に貼り付けるレッテルとして使うのではなく、むしろ自らのものとして引き受けようとしているように見える。今日の価値基準からすれば軽蔑とか非難の対象とされるものであっても、それが自分たちの人生の核をなしてきた以上、単純に忘れ去るわけにはいかない。だからといって、それを復権させようとしたり、単純に懐かしむというわけでもない。むしろ、本格的に清算するためにも、それをあっさりと忘れることなく、意識の中で反芻してこそ、新しい未来に向かって進むことができるという感覚が著者を突き動かしているのではなかろうか。
 こうした発想は、やや抽象化していえば、ソ連に限らず、戦争とかテロといったような痛ましい経験を持つ人びとの誰にとっても有意味であるように思われる。日本であれ、中東であれ、その他世界中のどこであれ、見方によってはこれと相通じるところのある悲劇的な歴史的経験があり、それを反芻する作業にも、ある種の共通性があるのではないか。そう考えるなら、本書で直接描かれているのは紛れもなく「ソ連時代」という特異な経験をもった人たちの事例だが、それだけには限られないある種の普遍性もそこに見出すことができるように思われる。
 「ソヴィエト人」のもう一つの意味として、さまざまな民族に属する人たちが民族間の差異を持ちつつも、そうした異質性にもかかわらず共通経験を持ってきた限りで、彼らの総称としてそう呼ぶことができるという面がある。本書に登場する人たちのうちの最大多数はロシア人だが、他の諸民族に属する人びとも少なくない。タジク人もいれば、ユダヤ人もおり、チェチェン人も出てくる。グルジア人とアブハジア人の対抗とか、アルメニア人とアゼルバイジャン人の対抗といった関係も描かれている。それらの諸民族は決して麗しい団結の関係にあるわけでもなければ、民族的個性を失って均質化したわけでもなく、むしろ極端なまでの多様性と、時として激しくぶつかりあうような異質性をもっているが、それでも互いに無関係な存在ではなく、「ソヴィエト人」もしくは「粗連人(ソヴォーク)」と呼ぶしかない共通の刻印を帯びている。
 著者のアレクシエーヴィチ自身、単純な紹介としては「ベラルーシ人」ということになるが、彼女のアイデンティティはそういうだけでは片付けられない複層性をもっている。生まれたのはウクライナであり、その取材対象は広大な旧ソ連各地にわたっている。そして、その著作はどれもベラルーシ語ではなくロシア語で書かれている(おそらく聞き取りも、基本的にロシア語で行なわれたものと思われる)。ベラルーシでロシア語が広く使われているという事実は、わりとよく知られているかもしれない。もっとも、事情をあまり知らない外部の人の推測としては、ベラルーシのロシア語話者は民族意識を失った「保守派」であり、「進歩的」でリベラルな知識人はベラルーシ語を守ろうとしている、といった風に図式化されることがある。実際、ベラルーシ・ナショナリストの一部にはそのように説く人もおり、そういう考えから、ロシア語で著作する人たち――アレクシエーヴィチもその一人――を非難する風潮もあるという。しかし、優れたベラルーシ論を書いたグリゴリー・ヨッフェによれば、「ロシア語を話すリベラル」ともいうべき人たちが都市部知識人の間では多数であり、ベラルーシ語話者だけがナショナリズムを独占すべきだという考えは一面的だという。それどころか、世論調査によればロシア語話者の方がベラルーシ語話者よりもルカシェンコ支持率が低いという結果さえも示されている。ヨッフェ著には、アレクシエーヴィチの言葉として、「ベラルーシ人はロシア語を占領者の言語だとは感じていない」、「私は自著でベラルーシへの愛をロシア語で伝えているのだ」という発言も紹介されており、まさに「ロシア語を話すリベラル」の代表例と見なされている*3
 
 出版社がつけた帯の宣伝文に「国家の圧政に抗いながら」という文言がある。これは著者を手っ取り早く紹介しようとする際に多くの人が使う言葉であり、そう言いたい気持ちはよく分かる。だが、ただ単にこう言ってしまうだけでは、大事なものがこぼれ落ちてしまうのではないかという気がする。
 「国家の圧政に抗う」という表現は、ややもすると、民衆から離れたところにいる悪辣な権力者vs無垢な民衆という二項対置を連想させやすい。そして、その「圧政」を倒すことが「解放」につながるという期待もそれに伴っている。だが、本書で描かれているのは、「国家の圧政」からの解放と考えられたものが、期待していたものをもたらさなかったという苦い思いである。ロシア革命後のソ連の人びとも、ソ連解体(=「民主化革命」?)後の現代ロシアの人びとも、そうした苦い思いをいだいて生きてきた。「セカンドハンドの時代」というタイトルは、圧政を倒したはずの後にやってきた索漠とした状況を噛みしめる感覚を象徴している。本書の冒頭近くにある次の文章も、そうした感覚を鮮明に物語っている。
 
「ほら、これだ――自由!わたしたちが待っていたのはこんな自由だったのか。わたしたちは、自分たちの理想のために死ぬ覚悟でいた。戦闘でたたかう覚悟でいた。ところが、始まったのは「チェーホフを彷彿とさせる」くらし。歴史をもたないくらし。……新しい夢は、家を建てること、いい車を買うこと、スグリを植えること……自由とは、ロシアの生活においてふだんは横っ面をはたかれている俗物根性の復権のことだったのだ」(七頁)。
 
 これは一九世紀フランスの思想家トクヴィルの言葉を思い起こさせる。彼によれば、「政治的自由への渇望は人々を突き動かしてきたが、この種の欲求が特定の除去可能な原因――専制的政府の邪悪な行為――による場合には、それは短期的なものに終わる。当初の状態が過ぎ去ると、独立への欲求は弱まり、自由への本物の愛とみえたものは、実は圧政者への憎悪に過ぎなかったことが分かる*4」。フランス革命についていわれたこの言葉は、一九九〇年前後の脱社会主義革命にも当てはまる。もっとも、これを一種の運命論的な法則のようなものと見なすのは、あまりにもシニカルな見方になるだろうし、本書もそのようなことを論じているわけではない。ただとにかく、「圧政への反抗」「自由への渇望」が勝利したかに見えたその直後から始まる幻滅と索漠とした思いが「ソ連以後」の人びとに噛みしめられていることが本書に描き出されているとは言えるだろう。
 しかも、勝ち取ったはずの自由がすぐ失われるのは、あれこれの為政者だけのせいではない。スターリンとかプーチンとかルカシェンコとかいった特定の名前を挙げて、彼らにすべての責任をかぶせるのではなく、むしろ大衆自身の側に目を向けている点に本書の価値があるように私には思われる。「圧政」を担うのは、われわれと無縁なところにいる悪辣な権力者たちだけではなく、私やあなたと同じような「普通の人びと」だ――本書冒頭のまえがきが「共犯者の覚え書き」と題されているのは、そのような洞察を物語るのではないだろうか。
 
 本書の中には印象的な個所が多数あり、多くの文章を引用したくなるが、ここでは最後に一つの個所だけを――ほかの多数の文章もこれと同等以上に印象的だということを断わりつつ――引用しておく。
 
「ソルジェニーツィン・ブームやソルジェニーツィン風の歴史のブームは去りつつある。以前は『収容所群島』のせいで投獄されていた。人々はこっそり読んだり、タイプライターでコピーしたり、手書きで写したりしていた。わたしは信じていた……たくさんの人が読んだら、すべてが変わるだろうと信じていたんです。改悛し涙するだろうと。ところがどうなりましたか。出版されないとわかってて書かれたものがすべて出版されて、ひそかに考えてたことがすべて公開された。それからどうなった?これらの本は書籍市に並べられて、ほこりをかぶっている。その脇を人びとが足早にとおりすぎていく……」(三四〇頁)。
 
(二〇一七年三月)
 

*1スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと』岩波書店、二〇一六年。
*2ソ連時代に関する文化人類学的研究としてはいろんなものがあるが、ユニークな観察として広く注目を集めている作品に、アレクセイ・ユルチャクの『なくなるまでは永遠だった』がある。Alexei Yurchak, Everything Was Forever, Until It Was No More: The Last Soviet Generation, Princeton University Press, 2006(半谷史郎氏による邦訳がみすず書房より刊行予定)。塩川伸明「《成熟=停滞》期のソ連――政治人類学的考察の試み」(東京外国語大学)『スラヴ文化研究』第九号(二〇一〇年)参照。だいぶ趣を異にするが、ウズベキスタンにおけるオーラル・ヒストリーの集成として、ティムール・ダダバエフ『記憶の中のソ連』筑波大学出版会、二〇一〇年も興味深い。
*3Grigory Ioffe, Understanding Belarus and How Western Foreign Policy Misses the Mark, Lanham: Rowman & Littlefield, 2008, pp. 82-89.本書に関する紹介文を塩川伸明ホームページの「新しい仕事」欄に載せてある。
*4Alexis de Tocqueville, The Old Regime and the French Revolution, (tr. from the French), Gloucester, Mas.: Peter Smith, 1978, p. 168.私はこれと同じ個所を『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』勁草書房、一九九九年、五三九‐五四〇頁でも引用した。