『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス、二〇〇六年)をめぐって
 
トークショー記録   稲葉振一郎×立岩真也×塩川伸明
(ジュンク堂池袋本店、二〇〇六年九月一六日)
 
 
稲葉 本日は、私と立岩真也さんで共著で作らせていただいた、まあ共著といっても対談ですけど、いろいろ後で書き足したりしているので、喋り流した無責任なものではないと自負しておりますが、これの刊行記念というか、ちょっとポスト・スクリプト的に、まあこれを踏み台にしてこの次をやっていかなくてはいけないので、このような会をジュンク堂書店さんのほうで設けていただいて、ありがとうございます。そういうことですので、本日は二人だけで閉塞してお互いに誉めあうというのも醜いので、厳しいコメントをいただけるゲストの方を考えておりまして、本日おいでいただいたのが東京大学法学部教授、ロシア・ソ連史をご専門にされておられる塩川先生です。時間も余りありませんので、ご紹介はそれくらいで。
 ファースト・スピーカーは塩川先生に我々の本を本でいただいたコメントをいただくのですけれども、まず、簡単になぜ私たちが塩川さんにコメントをいただこうと考えたかということを手短に。塩川伸明さんは世代的に言うとちょうど全共闘世代で、いろいろおありだったようですけれども、学生運動の経験もありながら社会主義研究の道を志されて、研究のキャリアを始められたのが七〇年代ですから、まだ一応いろいろな問題を抱えながらもソビエトとして社会主義体制が健在であった時代に、ソビエトを直接のフィールドとして実証的な歴史研究を進めておられた方なんですけど、ただそれだけにとどまらず、なぜソビエト社会主義を研究するかということを考えたときに、もはや現存する社会主義としてのソビエトというのは七〇年代当時においても理想としてはありえないけれども、それでも資本主義社会を批判し克服しようとしてでてきた社会であると。そしてそうした研究は西側に生きている人々にとっても何らかの意味を持っている。でもそれは一体なんだろうかということを丹念に歴史的実態を通じて研究してこられたのですが、いわゆる体制転換・脱社会主義というのが八〇年代末から九〇年代にかけて出てくる。その中で特に九〇年代には、狭義の歴史研究を離れて、現存したソ連や東欧の社会主義のみならず、そのバックグラウンドにあった社会主義思想を含めての理論的思想的研究を進めておられて、『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』(勁草書房, 一九九九年)や『「二〇世紀史」を考える』(勁草書房, 二〇〇四年)というような理論的・思想的な本も出されている。その間ももちろん歴史家としての研究もずっと続けてこられてて、最近ではロシア・ソ連の言語・民族状況についての研究もなさっておられるわけです。(*『民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T』(岩波書店、二〇〇四年)
 まあ現存する社会主義というのは机上の観念なわけですから、それを我々資本主義社会に生きるものが自己を反省する為の鏡として使うのは、ひどく倒錯した話でないわけではありませんが、そのような問題を含めて社会主義という歴史的経験というのはなんだったのかということは、今後、現存した(する?)社会主義というのは資本主義のオルタナティブではないというのは概ね決着はついたとしても、依然として、でもかつて資本主義への最有力の批判としてあった社会主義というのはなんだったのかという問いはまだ消えてはいないなというのが、この本を作業していて私が感じたことです。で、やはりどうしても社会主義に関してきちんと考えている方にお話を伺いたいということで、塩川先生は歴史的な研究に加えて思想的な問題も考えてこられていて、同時にやはり、この本の重要な欠点というのはですね、ネーションとエスニシティとか切ると血が出そうな話は少ないんですよね。塩川先生は、例えば七〇年代八〇年代はソビエトにおける労働者・労働市場・企業の問題、例えば現在だと言語とか文化とか多民族体制の問題とか、まさにちょうどこの本の死角に位置するような問題を考えておられる方でもあるので、ぜひお話を伺って、厳しいお叱りなどあればいただきたいということで、お招きいたしました。
 ちょっともう喋りすぎましたので、本日は、まず塩川先生から我々に対してコメントをいただいた上で、それにこちらが応答するという形で進めさせていただきたいと思います。時間も限られておりまして、フロアの方からの質問を受ける時間も限られているかと思いますが、最後のほうで可能であれば何とかしたいと考えております。ただやはり本日はなかなかこういう機会があるわけではございませんので、我々のエゴとしては塩川先生のお話をたっぷり伺いたいと。それは皆様方にとってもすごく意義のある時間になると思いますので、どうかご了承ください。それでは、塩川先生よろしくお願いします。
 
塩川  最初この催しに出ないかと誘われたときに、だいぶ戸惑いがありました。お二人の名前は、前から知ってはいました。若くて勢いのある人たちがどういう仕事をしているのかということは、私のような世代の人間にもやはり気になりますから、お二人の本をいくつか読んで、それぞれに刺激を受けていました。しかし、世代が違うだけではなくて、専門分野も違うし、要するに、私とは違うところで仕事をしている人が面白いことをやっているという風に受け止めておりまして、こういう風に一緒の場でお話をするということは、まったく予想しておりませんでした。そういうわけで、最初のうち非常に戸惑いましたけれども、この本を読んで、その後、お二人と電子メールでやり取りをするうちに、確かに直接の接点は少ないけれども、いわば裏と表みたいな形で、私の仕事ともつながっているところがあるのではないかと思ってきたところです。どういう点でつながるのかということがまだ頭の中で整理されておりませんが、何とかそれを探るような形でお話をさせていただきたいと思います。最初はとりあえず私自身の研究課題にひきつけて話させていただきますが、それはできるだけ手短かに終えて、お二人の本の感想とコメントに移りたいと思います。
 さて、いま稲葉さんもおっしゃいましたし、たいていの人が「現存した社会主義」に関して、いまさら言うまでもなく「あれはだめだ」ということで決着がついたと考えているだろうと思います。私もその結論自体に異議を唱えるつもりはありません。ただ「決着がついた」とはどういう意味なのかということについて、きちんと考えるということをしておかないと、分かり切ったはずのことについて意外なところで足を掬われたりすることがあるのではないかという気がしております。だからこそ、その問題に私はこだわっているわけです。
 例えば、「現存した社会主義」に対する一般的なイメージといえば、経済面で言いますと、中央集権型の指令経済というのが誰もが持つイメージだと思います。そして、これは非常に非効率的であり、だからこんなものが続く筈がない、というのが通り相場かと思います。これは巨視的な抽象論としては間違っていないんですが、現実のソ連なり東欧諸国に存在していた経済というのは、実はそんなに単純なものではなかったということを先ず言っておきたいと思います。いくらなんでも中央集権的な指令だけで経済が動くわけがないということは、当事者自身がちょっとやってみれば、試行錯誤的に感じることなんですね。そこで、実は、表に出ない形で、隠れた市場とか、互酬とかを補足的な要素として組み込んでいた、つまり中央集権的な指令だけではうまくいかない部分を、末端の人間関係で補うようなメカニズムがあったわけです。だからこそ、あの経済体制が何十年間かそれなりに機能していたという面があるということは確認しておく必要があると思います。特に、いわゆる近代化の初歩的な段階とか、戦時期とか、戦後復興とか、比較的経済構造がシンプルで、優先的な目標が限られている段階では、指令経済というのは資源を優先目標に集中動員するという点ではそれなりに実効的な面もあったわけです。三〇年代から戦後初期にかけて、資本主義世界でも計画経済の要素を取り入れようとする気運があったのはそのことのあらわれでもあったわけです。
 そうはいっても、中心的な部分が指令経済からなり、補足的に市場や互酬を組み込む体制というのは、ある段階で限界に達したわけですね。これも気づかれてから結構長いわけでして、何十年もの歴史をもっています。余談ですが、今年は一九五六年にスターリン批判が行われてから半世紀という記念すべき年なんですけれども、日本のマスコミ・言論界はこの「スターリン批判半世紀」をほとんど記念せずに通り過ごしたので、私は憤慨しているんです。古くさい社会主義が駄目だということが自覚され、それを何とかしなくてはならないということが言われ出したのは最近のことではなく、半世紀も前のことだというのは、社会思想史的に重要な意味をもっていると思うんですが、日本の言論界はそれを完全に素通りしたわけで、困った話だと思います。話を元に戻して、とにかく半世紀前からスターリン的な体制はまずいということを、外の人が言うだけではなく、その国自身の中で言われ出して、それ以来、なんらかの形で改革をしなければならないということで、あれやこれやの議論が積み重ねられてきたわけです。
 そういう中で、市場導入というのが段々強い流れとなっていったわけですが、そこでもう一つ重要なのは、これはこの本(『所有と国家のゆくえ』)で述べられていることとも関係するんですが、市場導入ということと社会主義をうまくつなげることができるかという問題が出てきたわけです。当初、多くの経済学者はそれが可能だと考えて、いわゆる「市場社会主義」というものを、手を変え品を変え模索してきたわけですね。ところが、八〇年代くらいまできますと、特にハンガリーとかポーランドとか、改革論がかなりの蓄積を持った国においては、どうも市場経済を導入しようと思えばそれに伴って所有制度の改革も必要なんじゃないかという考えが強まってきました。所有制度の改革というのは、単純に言ってしまうと、それまでの社会主義経済で圧倒的に中心の座を占めていた国有企業を、たとえば株式会社のようなものに改編していくということですね。それまでの社会主義改革論は商品市場だけを導入することを考えていたわけですが、それだけじゃなくて資本市場も導入していくという発想が出てきたわけです。ただ、これはまだ八〇年代半ば、つまり体制転換が全面的に言われだす直前の時期ですので、そこまで行ってももまだ社会主義改革の一部であるという風に説明されていました。比喩的にいうなら、「社会主義」という土俵のほとんど外まで出かかっているんだけれども、それでもぎりぎりいっぱい徳俵に足がかかっていて、土俵の内側だという説明をしていたわけですね。それがさらに明確に土俵の外に出ると決断するいうのが八〇年代末の体制転換だったわけです。
 ただ、この最後のところはなかなか微妙な問題を含んでいて、土俵の内か外かというのは一概に決めようがないところがあります。土俵をどう設定するか、どこに内と外の境目をおくかというのは、抽象的にいうと、いろんな線の引き方がありうるわけで、必ずしもこれが絶対的な境目だというものがあるわけではない。ある見方からすれば「これでもまだ社会主義である」といえるものが、別の見方からは「これはもう資本主義だ」といえるというような、どっちつかずの体制というものがありうるわけですね。実は、この本の中でも紹介されているアナリティカル・マルクス主義者たちが模索しているのも、多少そういうところがあるのではないかという気がします。つまり、彼らの目標としているものは、「改良された資本主義」ともいえるし「改良された社会主義」ともいえる、そのどっちの呼び方をとるかは単なるネーミングの問題で、どっちでもいいのじゃないかというようなところがあるわけです。しかし、これは余談ですので、話を元に戻します。
 さて、ここで話が抽象論および経済の話を離れて、政治とか歴史とかにかかわる、より具体的な話になってくるんですが、社会変動のプロセスというものがもうひとつの問題となります。大きな社会の変化というものは、それほど頻繁には起きないので、安定期にはなかなか想像しにくいのですが、現に起きた例を観察してみると、そうした大きな変化が起きるときには、大勢の人が熱狂的に立ち上がって、われもわれもと言ってこれまでの体制を批判し、打倒しようとする運動に参加するわけですね。こういうことは普段はめったに起きない訳ですけれども、いったん起き始めると、それまでおとなしかった人たちも、まわりに煽られるような形で、どんどん急進化し、ひたすらラディカルな変化、短期的な激動を求めるという方向に突っ走っていくということがあります。大衆運動というのは、一種のはずみのようなものがあって、それがどういう方向に流れるにしても、非常に激しい勢いで、どっちかの極に流れることがある。
 ですから、第三者的に外から抽象的に眺めている分には、社会主義体制の変革というのは、考えようによっていろんなバリエーションがありえたんじゃないのか、終着点は同じだとしても具体的なプロセスに関してもう少し穏やかな、破壊や痛みの少ない変化というのがありえたのではないかということがいえると思うんですけど、現実には、そういう考えは比較的少数の知識人タイプの人たちにしか支持されなくて、あまり大衆を捉えることはできないということがあります。いったん旧体制がだめだということになると、それをどのようにして改革していくかをゆっくり考えるのではなくて、とにかく一挙的な断絶を求めるという方向に大勢の人たちが流れていく。そういうことが体制転換のときには起きるわけです。
 ちょっと皮肉な話ですけど、一九一七年にロシア革命がおきてロシア帝国が崩壊してソ連となったそのときも、同じような経過がありました。帝政ロシアを倒してそこから先どう行くかという問題になったときに、最初は、リベラル派あるいは穏健社会主義者みたいな人たちが政権を握るわけですが、そうした人たちは権力を保持することができなくて、より急進的なレーニン率いるボリシェヴィキに打倒されるわけです。それから七〇年後の一九九一年のソ連の動きというのもちょうどそれをひっくり返したような形で、穏健改革論が洗い流され、急進改革路線が主導的になっていく。その当時のロシア人がよく「逆方向のボリシェヴィズム」と言ったんですが、どういうことかというと、かつてのボリシェヴィズムと方向は逆なんだけれども、やり方はボリシェヴィズムとそっくりだということですね。非常に極端な過激なやり方で、かつては社会主義化を目指したし、今度は資本主義化を目指す。その際、目的さえ正しければどのような手段も正当化されるというような乱暴な考え方が非常に流行ってしまうわけです。こうして、中道路線より急進路線が優位を占めて、最終的にソ連解体という帰結に落ち着いていったという流れがありました。
 この流れを見ますと、社会変動というのは、書斎で学者が考えている場合と、実際に起きるときとでは非常に異なった形をとらざるを得ないんじゃないかという気がしてきます。書斎で考えている際には、社会体制がどうあるべきかについて、ただひとつの考えが絶対正しいのではなくて、複数のヴィジョンがありうるんじゃないか、そして、そのうちのもっとも犠牲が少ないものを選ぼうという風に考えるわけですね。目標としての状態に関して犠牲が少ないものを目指すというだけじゃなくて、そこにいたるプロセスでも犠牲の少ない形で実現するのがいいんじゃないか、こういったことを書斎の中では考えることができるわけです。ところが、いざ現実に移すという段になると、なかなか思うようには行かない。むしろ、非常に犠牲の大きい、いわば急激な大地震のような形で変動が起きることの方が多いのじゃないか、そうしたことを痛感させられたのが、今から十数年前の出来事だったと思うわけです。
 前置きのつもりの話がちょっと長くなってしまいましたが、今までの話の中でも、お二人のご本と関係する論点がある程度出てきてはいます。とにかく、いましゃべったような私の観点から、この本についての感想や疑問を次に述べさせていただきたいと思います。
 お二人の間にももちろん微妙な差異があって、それはこの後の討論でだんだんはっきりしていくかと思いますが、差異をいう前にごく大まかに共通性を言えば、現にある社会の仕組みというものをそっくり肯定はしない、何らかの意味で批判的な視座を持とうとするという点が一つ。しかし、その際に、かつて失敗例があるわけですから、「現存した社会主義」と同じ道はとらない、というのがもう一つあると思います。この辺までは、お二人だけじゃなくて、かなり多くの人の共通了解になっているかもしれませんが、じゃあそこから先、具体的にどうするかという話が核心部になるかと思います。私自身はどちらかというと理論よりも歴史のほうに関心のある人間ですし、しかも失敗例の解剖に力点をおいて勉強してきた人間なものですから、抽象論として上手にできた話が出されても、「それが本当に実現できるんでしょうか?」という意地悪い疑問がついつい浮かんでしまうというようなところがあります。そうした疑問に対して、お二人から、そんなに非現実的なことを言っているわけではないんだというような反論をいただければありがたいと思っております。
 いくつか質問がありますけれども、最初はお二人の両方に関係する論点から始めることとして、この本の重要なテーマの一つである平等の概念について伺いたいと思います。よく「結果の平等」と「機会の平等」ということが問題にされて、この本でも取り上げられています。立岩さんはあえて挑発的に「結果の平等は評判が悪いから、言っちゃうんだ」という大胆な発言をされていて、私はかなり共鳴するところがありますけれども、それだけでも済まないんじゃないかという気もします。そこで、お二人に共通する質問ですが、「結果の平等」と「機会の平等」というと、平等には二種類しかなくて、そのどっちを取るかという問題の立て方が前提にあるような気がしてくるわけですが、しかし本当にそうなんだろうか、平等っていうのは二種類しかないんだろうか、という素朴な疑問を出させていただきたいと思います。言葉の解釈次第だとは思いますが、「結果の平等」という際に、非常に強いものを想像することが多いように思います。そしてそういう強い結果の平等というのは現実的でないという結論がわりと簡単に出てきて、そうすると、今度は最小限に圧縮された機会の平等しか残らないという論法がしばしばなされているような気がします。だけれども、本当にその二つしかないのだろうか、もっと平等概念を豊富化させていくことができるんじゃないだろうか、これは素朴な思いつきでしかないんですが、質問として出させていただきます。ちょっと長くなって、失礼しました。
 
立岩 こんばんは立岩です。今の点だけですね。平等っていうことを本の中にも書きましたが、第一次的に大切なものかと言うと、僕はそうでもないんですけれども、ただ現実に今の社会の今の状況よりはより平等的なほうがいいだろうと言う話はしているわけです。何でかというという話もそれなりにしているつもりです。今の塩川さんの話っていうのは、機会の平等と結果の平等という話を確かに対談の中でしているわけですよね。二つだけなのかと言われれば二つだけじゃないかもしれない。二つそれぞれにどんな意味を込めて喋っているのかを僕らはそんなに分かっているわけでもないにも拘らず、一方はいいけど一方はダメだという乱暴な話がされているんで、それはよろしくないっていう意味で言えば、僕は塩川さんが考えていることとそんな違うことを言っているのではないんじゃないかなと思っているわけですね。
 例えば結果の平等といったときにも、社会が与えられるものというのは常にある意味では機会なんですよ。その機会にはいろんなレベルでの機会がある。それは二つだけじゃなくて沢山あるかもしれない。そういうふうな順番で考えなくてはいけないと僕は思っています。もっと具体的に言えば、いまどきの機会の平等っていうのは一体何なのかといったときに、要するに人間が市場に出て働くその手前のところで人々の労働に関わる能力の問題がある。その労働の能力というものを得て高めるための機会ですね。簡単に言えば教育であるとかそういったもの。それをこれくらいだったらいいよ、もっとやってほうがいいよというのがいまどきの流れなんです。それ以外のことに対してはしない・する必要がないという流れに対して、それでいいのかというのが僕の基本的な問題意識ですね。
 本の中にも書いてあるけれども、一生懸命教育なら教育をやって、みんなが学校にいけるようになったとして、それで今の経済なり政治のシステムの中で何がおきるかという順番で考える。そうすると、そのレベルで例えば日本の社会というのは少なくとも明治維新からかもしれないし戦後からかもしれないし両方かもしれないけど、そういう意味での機会の平等はかなりやってきた。やってきて、その結果何が起こっているかというと、例えばこれがある種の考え方の中だと、人々がおんなじだけできるようになる。同じだけできるようになればマーケットの中でも受け取るものがさほど変わらないようになる。そういう全体のもとで行われてきたのだけれど、これはだけど、教育なら教育をきちんとやればきちんと結果として同じだけできるようになるのか同じだけ取れるようになるのか。そんなことはあるわけないだろうというのが僕の最初の発想ですね。そうすると、それだけで足りるはずがない。だとするとどこのレベルで、今の話は一つですよね。他のいろんな社会の地点・場所の中に仕組みを仕組むことができるはずです。そうするとどこにそれを設定するのかということですよね。
 それは本の中でも書いたことですけれども、例えば生産財の所有ということもあるだろう。それから労働に関わる労働そのものの機会、これもある種の機会ですけれども、こういうことも考えることができるだろう。そしてさらにいわゆる再分配という形で、所得をもう一回分配しなおすというやり方もあるだろう。そういう意味で言えば、塩川さんがおっしゃるように、平等ということに関わるようなことができる場面というのは一つではないし二つでもないし、三つも四つもある。そのなかでどこにどういうふうな仕掛けを作っていくのがいいのか。別言すれば、ひとつの場面だけで平等ということをやろうとすると、かえってそこの中でめんどくさいというか難しいことが起こる。ですから三つとか四つとかのレベルで何かができるのだとしたら、そのレベルの中に仕掛けをちょっとづつ作っていく。そうすると結果としてまあまあいいところに収まるという可能性もあると思うんですよね。そんなような事を僕は考えたいと思っています。
 長くなりましたけれど、ですから、答えだけ言えば、二つではない。三つも四つもあるだろう。そのなかのどれをどういう形でとっていくのかということが考えられるべき重要なテーマであろう。そのときに少なくともいえることは、いまどきの再チャレンジだかなんだか知りませんけれども、そういった類の機会の平等で何事かがまともな社会に向けてできるという考え方に関しては、僕はまったく考えない。別の立場をとる。そういった意味で、機会の平等だけでいいとみんなはいいっていっているけれども僕はそんなことは思わないよということをこの対談の中でお話したんだと思います。とりあえず以上です。
 
稲葉 あんまり長く喋らないほうがいいと思うんですが、結果の平等と機会の平等という対立概念には細かく言うと多くの問題がありすぎるので、できるだけ具体的な問題にあわせてうまい言葉の使い方をしなければならないと思うんですが、この本にひきつけて話すと、この本ではどういうふうに話したかと言うと、有名なロールズとかドゥオーキンとかが言ったことを引き継いで考えていくと。まあ、ノージックの言葉で言うと、プロセスとか手続きと言うことにものすごくこだわる。それは実はロールズもそうしたことにこだわっているけれども、ノージックはロールズにケチをつけるときには、あんたの手続きって言うのはそんなに純粋ではなくて、結局手続きをしながら人が取引したりいろんなことをしながらその結果こういういいことがある・悪いことがある。そういうレベルであなたは物事を判断して、そのレベルでできるだけ多くの人々がその手続きからいい結果を得られるような社会がいい社会だとロールズはいっていると。でもそれはなんかおかしくて、正義というのはひたすら手続きの問題であって、その手続きの結果いいことがあるとかいう事は二次的な問題なんだよとノージックはロールズに対していったわけです。
 この文脈で言うと、手続きと言うこと、とにかく人がチャンスを得ていろいろな物事に挑戦していく、一人でやったり他人と関わりあいながら社会の中で仕事をして経済活動をして政治活動をしてそういうことをするときに、こういう形で人と関わってもいい、こういう形で物を取り扱ってもよいけれども、これはやっちゃいかんとういプロセスの話が手続きである。この社会の基底の原理的な部分は手続きの話で、正義っていうのは手続きなんだよとリベラリズムの核心にあるのもそこのところなんだよとノージックという人は言いたい。ロールズもそういいたいんだよといっているけど、なぜ人が手続きを護って他人と関わりあって社会を作っていかなくてはいけないかと言うと、それを通じて幸せになる・なりたい・できるだけそうなったほうがいいと考えているからだと。じゃあ手順なんかは二の次で幸せが大事だというと功利主義になってしまう。ロールズはこの功利主義を一生懸命批判したいわけです。しかしノージックに言わせればロールズも手続きを大事にせずに結果の話をしている。功利主義者と変わらない。こういう話になるかとは思うんですけど。いわゆる機会の平等の話というのは手続きが大事だと。みんなが同じ手続きに服して同じように関わりあうと言うことが大事なんだ。それこそ優先したいというのが機会の平等を社会の中心原理にという考え方でしょう。それに対して、何のために人が手続きに従うのかと言ったら、結局人が幸せになりたいからでしょ・他人を不幸に陥れることを避けたいからでしょと言うことを言い始めると、これが結果の平等とイコールにしきれるかどうかは問題がありますけれども、ただ結果の平等は大事だといいたい人はどこかでやっぱり手続きの向こう側つまり手続きを通して人々が得られるものの方を大事にしている。
 僕は手続き論の明快さには惹かれる。これは理屈の上だけじゃなくて実行の上でも明快なほうがやりやすいに決まっているんだけれども、だけれども、手続きって言うのは手続きだけがあるんじゃなくて、手続きに入る前に人はある状態にいるんですよね。その状態に到達するためにはある手続きを経てその状態に到達している。ある状態からある手続きに入っていって、ある結果に到達する。あるいはあるプロセスの間中、人はある状態にいるんですよ。純粋なプロセスって言うのはありえなくて、人は動き回っている状態の中でもとりあえず生きていかなくてはいけなくて。生きているっていう状態はプロセスであると同時に、輪切りにしてその時点時点の状態としての結果としての局面ももっていて、つまりプロセスっていうのはある範囲の中でしかできない。例えば人間が生きるうえで踏み込んじゃいけない状態だとかそもそもそれができないようなゾーンがあったり、そのゾーンの中に入るかはいらないかっていうことはありえるわけです。そういう意味では手続きのみで純粋に物事を捉えるわけにはいかなくて、例えば手続きのみを捉えていればどんなに格差が大きくなったとしてもいいというふうに人間の社会はなっていなくて、これだけ格差が大きくなったら、お互い話が通じたり感覚が通じたりすることができなくなるくらい、プロセスを成り立たしめる条件自体が破綻するんですね。
 そういうことを考えるならば、結果というよりは状態ですね。社会をダイナミックに考えて、ある時点から時点へ移動するものとしてみるのではなくて、輪切りにしたスナップショットというレベルで見ていくことはどうしても避けられない。そういう意味でいうのならば、論理的には綺麗にいかないんですけど、人がどんな状態にいるのか苦しいのか楽しいのか我慢できないのかできないのか、我慢できないっていうけど正しい手順のもとでその状態にいるんだから我慢しろということは決していえなくて、我慢できなかったら人は死んだり狂ったりするということを考えると、結果の平等という概念自体を受け入れるか入れないかは別にして、平等に掛かっている結果という概念は捨てられないし、よい結果とか悪い結果ということを我々は考えざるを得ないというふうには思っています。ただそれを結果とよんでいいのかというのは微妙ですね。ある結果というのは人が生きていれば次のプロセス・結果への付点でもあるんですよね。その結果でもあるし、出発点でもあるのを状態といったんですが、これもノージックから借りた言葉ですけれども、それを考えてはいるんですが、そういったことは重要で無意味ではない。機会が無意味ではないのと同じように、結果も無意味ではない。手続きが無意味ではないように状態も無意味ではない。ということを考えてはいるんですけれども。
 
塩川 今の問題は非常に大きい問題で、続けていくときりがないんですが、時間も限られているので、少し角度を変えて別の質問を出させていただきたいと思います。実は、最初に出したのは、多少わざとやった面もあるんですが、お二人の間にニュアンスの差はあるにしても、それほど対立はない。ある意味では落ち着くべきところに落ち着くような問いを出したような感じだと思います。私もお二人の言うところにそれぞれに共鳴するところがあるんですけれど、次はもうちょっとデリケートなところに踏み込んでいくことにしたいと思います。
 お二人のうちでは、立岩さんのほうがより積極的な主張を出していて、それに対して稲葉さんが一定の共感をもちつつも疑問を呈しておられるという形になっているわけですね。私も立岩説に対して共感と疑問の両方を感じるのですが、その疑問は稲葉さんの疑問とは少し違うかもしれない。こういった話に移りたいと思います。
 上手く説明できるか分かりませんが、分配(あるいは「再分配」というべきなのかもしれませんが、とりあえずこの本での言い方に従って「分配」としておきます)という概念が、立岩さんの議論ではかなり大きな要素を占めていると思います。分配とは何かというと、あえて乱暴で素朴な言い方をしますと、要するに誰かが有り余るほど物を持っているから、お前そんなに要らないだろうと取り上げて、もっと切実にそれを必要とする人に分けるということ、それがすべてとは限らないかもしれないけれど、とにかくそういう局面を必ず含むだろうと思います。その際、それを外から第三者的に見ている分には、「あいつは金持ちなんだから、ちょっとは取られてもいいだろう」と言えるかもしれないし、私自身もそういう感覚に傾くことがあるんですけれど、しかし、とられる側にとっては、やはり「これは自分のものなんだから、取られてたまるものか」という議論が当然あるだろうと思うんですね。そういう人をどうやって納得させるのかというのが大問題です。理屈で説得するのか、それとも有無をいわせず強引に受け入れさせてしまうか、いろんな仕方があるかと思いますが、とにかく何らかの形で納得させないといけない訳ですね。いま言った意味での分配というのは、誰かが損をするわけですから、私のいい加減な経済学の理解でいわせてもらうと「パレート改善ならざる変化」ということになるんじゃないかと思うわけで、損をするのが金持ちならそれでいいじゃないかという感覚もないわけではないけれど、とにかく誰かに損をさせるような変化を引き起こすのはそう簡単なことではないだろう。
 いまはかなり抽象的な形でいいましたが、ある意味、累進課税とかはその一種かもしれないし、累進課税は今の日本で現に採用されていることですから、それほど大変なことではないとも言えるかもしれません。ただ、累進率を高めるという話になると、俄然抵抗が大きくなるだろうし、議論も激しくなるだろうと思います。詳しくは知りませんが、この間の流れはむしろ累進性を引き下げていくという方向にあるみたいですね。人によっては、累進課税をすっかりやめてしまって、所得税率をフラットにしようという議論さえもある。実は、私の専門にしているロシアは数年前の税制改革で所得税の累進制をやめてフラットにしたものですから、そういうことを思い浮かべるわけです。こういう例をあげて考えてみるとすぐ分かるわけですが、第三者的に見てこれはいいんじゃないかと見える制度であっても、ある当事者は激しく抵抗するということがある。抵抗があるからやめろというわけではありませんが、とにかく抵抗のあることを実現しようとするのであれば、やはりどういう手順で実現するのかということを考えておく必要がある。これは、実現不可能じゃないかということだけを言っているのではありません。何らかの条件下で短期的に実現可能であっても、後で「しこりを残す」といいますが、損をした人たちの間に恨みが蓄積していくおそれがあるわけですね。そうしたルサンチマンがたまると、後でバックラッシュといいますか、巻き返しを食らうことになるおそれが大きい。そう考えると、相手にそれほど恨みを買わないような形で納得させるということが必要なんじゃないのかという気がしてくるわけです。こうした点について、より具体的にはどのようにお考えなのかということを質問させていただきたいと思います。
 
立岩 これは私のほうへということなので、そうですね。まず納得したりするということをどれぐらいのものとして必要だったりするのかということがひとつあって、誰もが納得したり、誰もを説得できるものって言うのは、僕が言っていること以外の主張に関してもおそらくはない。ですから、あるところでそれはしょうがない、何をいたって言うことを聞かないやつはいるぞと言うことは認めざるを得ないということは、当たり前だけどある。とはいっても、現実に人の世は人が動かしているわけですから、その人たちに対して何をいっていくというのは当然ある。そういったときにそれじゃ納得しないだろうって言うときに、沢山もっている人がそこから移転するときに、それはおっしゃることはそうなんだけれども、僕は多分いままでやってきたことって言うのは、そうやってマーケットの中ではあるいは我々の社会の中での権利の付与の仕方では、結果としてもっている人というのが出てくるわけだけれども、それをすでにあなたが権利として持っているんだということではない。権利として持っているとあなたは言うかもしれないけれども、それをほじくってみるとそうとはいえないんだよということをまずは言ってみるということだと思うんですね。
 それは単なる理屈といえば理屈なんだけれども、単に我々がそういう今の人々にある分け前の状態っていうのを、僕がこれだけもっているんだから惜しいっていうのではなくて、それを当たり前だ・当然だというふうに思っているから奪われることに対して強くそんなのいやだと言うわけですよね。そういう意味でいえば、それは別に、すでに権利として所与のものとしてあなたに与えられているわけではないということをいくらかでもきちっということは意味があることだろうということで、物を言ってきているというのが一つにはあるわけです。ですから、居直るというのがそこに正しさが見込まれてあなたがそういう態度を取るのだとしたら、それは違うんだよということを僕としては言いたくて言ってきたんだというのが一つですね。
 じゃあ代わりの状態っていうのが何でいいのか、何であなたはこっちのほうがいいと思うのかということに関して、より例えば平等主義的な分配のほうがなんでみんないいと思えるのかということに対しては僕は何がしかのことが言えるだろうと思っていて、今度の本ではあまり言えていないかもしれませんが、二年ぐらい前に出した『自由の平等』(*二〇〇四年 岩波書店)という本の第三章(*「根拠」について)では書いております。今回それはちょっと詳しくは説明できませんが、しかじか考えていけば、かなり多くの人がそっちのほうがいいんだと思えて不思議ではないということを僕はそこでいおうとしたわけです。まず、そんなような、こうであることが当然だよと思っていても当然じゃないかもしれない、かもしれないじゃなくて当然じゃないということをいう。代わりにこっちのほうがいいということをこれこれしかじか考えていくと思えませんか?ということを言っている。そんなことぐらいは少なくとも物を書くものとしてはできるんじゃないのか。それはいっても言うこと聞かない人はいるわけだし、君の言っていることは分からないという人もいるだろうし、それはしょうがない。まあそんな感じです。
 塩川さんは累進課税のことをおっしゃったけれども、だけどじゃあさっきの話で、実際にどうなるの?ということだけれども、僕が言っていることは、塩川さんが言った最初の話にも関係があるんだけれども、そんなに急進的って言うわけでもない。とりあえず、累進課税じゃないよりも累進課税のほうがいいじゃないかという話ですよ。とりあえずは。例えば日本国ということは、ロシアはある意味ではよりラディカルなことをやったらしいですけれども、日本という国は景気の問題で累進の税率をよりフラットなほうに戻したわけですよね。僕にいわせればそれは別にいい政策ではないと思うんです。それで税金が足りないだの何だの言っているんですね。そういったときに、例えば一つさしあたって数年前に戻してしまっても別にいいじゃないの。そういうときにそれに反対する人っていうのはもちろんいるわけだけれども、とりあえず我々の社会っていうのは一人一票で形式的な意味での民主的な社会ということになっていて、そういったときに、累進課税の率ということをある状態に戻す・あるいは累進の傾斜を高めるということを多数決民主主義の下でできないかというと、僕はそんなに難しくなくできるだろうと思っている。むしろにも拘らず、できないというほうが不思議だと思う。そういうことをすべきではないということの中に、それは不当に奪われることだからよろしくないというロジックが入っているかもしれない。だとすると、もう一回話が戻るわけだけれども、それは別にそういうわけではない。沢山もっている人が沢山だすというので問題ないと私なら言う。そういう意味でいえば、すべての人を説得したり納得させたりすることができるとは思っていないけれども、相当に多くの人々が例えば今の累進の税率の関してもう少し累進率を上げていいというところに社会を持っていくのは可能であろうということぐらいを考えているというのはとりあえずの答えになるでしょうか。
 
塩川 今の話につながる論点があるので、続けて立岩さんに質問をしたいと思います。今最初のほうでおっしゃった、取られる人がこれは俺の権利だという主張は成り立たないんじゃないか、それを掘り崩すだけでも意義があるんじゃないかという指摘はなかなか鮮やかで、なるほどなと思いました。その上で、後のほうでおっしゃった話は、立岩さんの別の本(『自由の平等』)の主題と関わってくるんじゃないかなと思いながら聞きました。分かりやすくいうと、所得税率の高い国と低い国とがある場合を考えてみます。税率が高いというのは、国内的にはそれなりに然るべき理由があってそうしたのかもかもしれないけれど、でも、そういう国からは金持ちが逃げていってしまうんじゃないか、だから国際的な状況を考えればそういう政策はとれないんだという反対論がよく出されますよね。そういった議論に対して、立岩さんは国境で立ち止まる必要はないんじゃないかという議論を対置しておられると思います。私はこれは論理的には見事な徹底性をもっていて、一つの考え方だなあとは思うんですが、それでもどうしてもまだ分からないところがある。国境で立ち止まらないで分配を貫徹するっていうのは、抽象的な目標としては分かるような気もするけれど、より具体的にはどういうメカニズムを指しているのか、そこのところが私には飲み込めないものですから、ちょっとその点を説明していただけたらと思います。
 
立岩 多分今塩川さんがおっしゃった論点は唯一とは言いませんけど、一つ重要な問題で、確かにそういうことが言われだして、それは単に○○(五二:四九)にする議論以上のリアリティを持っている。つまり金持ちから税金をいっぱい取ると金持ちは国外に逃げていく、単純に言えばそういう話です。それから、逆のパターンですね。分配がきちんとなされる国にそれ以外のところからそれを求めてやってくる人がいるという話です。これは何かしらのリアリティをもっている。一つには物が動いていくというのと人が動いていくというのは摩擦係数みたいのが違ってきて、税率を高めたときに本当にどれくらい人は逃げていくのか。資本とか物とかは逃げやすいけれども、人間はそれに比べればまあ移動しにくい物体ではあったりするわけですよね。それを含めて考えなくてはならないんですが、でも少なくともそれを含めたリアリティっていうのは、単なる主張や言説だけじゃなくて現実性を持っている。これは認めざるを得ない。このときに次の一手は何かというと、二つしかないわけですね。ある種の人に関していえば移動を制限する。これは入ってくることを制限する。移民をシャットアウトか限定的にしか受け入れない。それから人が逃げていくのをとめる。そういう政策を取る。実際に例えばヨーロッパのいくつかの国はそれに近いことをやっている。日本はもっとやっているのかもしれませんが、その方向です。もうひとつはそうでない方向です。国によって分配率の差があるからこうしたことが起こっているのだから、世界的なレベルできちんと分配が行われていればそういうことは起こらない。多分、前者のほうが現実的なんですね。でも僕は似たようなことばかり言っているのかもしれませんが、まずスタンスとして二つはあるということを理屈としてだけでも押さえておかなくてはならない。
 今の塩川さんの話は、理屈としてそっちがあるのは分かったけど、どうするんだという話ですよね。ただ繰り返していうと、次に行く前のところで、初歩的な構えとして二つあるということを押さえておくということがあってしかるべきだろうと。ただ塩川さんの話だと、その先はどうなんだそれは厄介だろうという話なんだろうけど、ただですね、少なくともそっちのほうがいいんだということが言えると思います。少なくとも税金なら税金、さまざまな取引に関わるような税金というのを国境を越える形で課していく。それを所得の低いところにもっていくというアイディアはいくつか出ているんですね。プラス・マイナスいろいろあると思いますが、部分的には可能かもしれない。それでなにか根本的に解決するわけではないと思いますが、比べてどうかといったときにそれも一つありかもしれない。
 それから、例えば一気に所得保障というレベルで何かできるかといえば、それは現実的には難しいだろう。だけれど、例えば医療なら医療といった特殊な財やニーズに関しては、とりあえずそれがさしあたって大切だと重要だということが仮に言えたとしましょう。その特定の財やニーズに関して一国内に限定されないように構想することは不可能ではないと思う。例えば、僕が言ったことではないけれども、医療保険なら医療保険を日本国内でまわしているわけだけれども、それを特に限らないような形で行うこともできるじゃないかというふうに思っている。そうするとすぐに何かをするって言うことは難しいけれども、それに近づけるようないくつかの具体的な政策というものは可能であって、もちろんこれは国家間の取引の問題になりますから、いくつか厄介な問題があるとは思いますが、可能ではないかと思っています。とりあえず以上です。
 
塩川 いままで立岩さんに質問してきたので、今度は稲葉さんに質問したいと思います。これは稲葉さんと立岩さんの微妙な差異というところに関わると思うんですけど、稲葉さん、この共著の中でも触れられていますし、もうひとつ別の著作、『「資本」論』(ちくま新書)という恐ろしいタイトルの本でもっとはっきり書かれていますが、「人的資本」という考え方を出されて、これを強調しているわけですね。どういうことかというと、「人的資本」というものはたいていの人が持っている、そこでそれを最後の拠り所として立てられるのではないか、という話をしているわけです。これは一つ魅力的な議論だと思うんですが、立岩さんの議論と対比すると多少疑問が出てくる。というのは、立岩さんのラディカルな――必ずしも政治的にラディカルというのではなくて、理論的にラディカルな――ところは、みんなが労働力を持っているわけではないという点に着目して、それでも誰でもが生きていけるにはどうしたらいいのかという理論を立てているところじゃないかと思います。そこは立岩説の強さであると同時に弱さであるかもしれない。そういうことを念頭において、立岩さんと議論をされる稲葉さんが、例外はあるかもしれないけれど、たいていの人が「人的資本」をもっているよというのは、それで話は済むのでしょうか?という疑問が沸くんですが、どうでしょうか。
 
稲葉 これはあまり時間を引っ張らないほうがいいと思うんですが、あれは一つはおっしゃる通りなんですね。重度障害者の場合はどうするんだという批判は当然でてきて、いわゆる障害者が労働力を発揮できるかというのは理論的にはシチュエーション次第だといってもそれは理論的な問題でしかなくて、現実にはそうはいかないんだというのはその通りだとしか言いようがないので、労働力に関してはある種の資産として扱うというのは今まで多くの人がやってきたことなので、ごく陳腐なことでしかないんだけど、陳腐なんだけれどきちんと押さえて置きましょうよと。そのつもりでここでは言っていて、だから全然新機軸の話をだしたつもりはないんです。あえて新機軸があるとすれば、その後のエピローグの話でこれは知的財産とかあるいは将来的に出てくる人工生命にも展望をひらけば、ちょっとメインは人間が人間でなくなる世界の話につながるだろうなと、そういうところにそのお話のメインの基調はあると僕は個人的には思います。あまりそれでお答えになっているかは分からないんですが、よろしいでしょうか。
 私としてはむしろ気になっているのはその次にメモで用意されている塩川さんの論点で。左翼の話。
 
立岩 確かに今の話で、そこが稲葉さんと僕の結構違うところなはずで、わりとそこをしつこく突っ込んだつもりなんだけど、本の中ではそこがそのままするっといっちゃったかなと思うんですよ。僕の場合は塩川さんがおっしゃるとおりのスタンスです。短くしますけれども。ただ、とことん持ってない人がいるじゃないかというだけじゃなくて、それ以外にも多様に違うんですよね。だからたいていの人が持っていて、ちょっとの人が持っていないという話ではないだろう。たいていの人はいくらかはもっているけど、たいていの人はいくらかは持っていない。そこの差をどう考えるのかというのが僕にとっては結構重要な問題だった。そこの差をそのまま反映して結果が出るような社会は僕にはいいとは思えない。というところから論を立てている。これは繰り返しですが。
 でもそういったところで、労働者の権利なら権利、実際に働いて何かをしている人間を軽んじてしまう傾向の話になりはしないかという懸念はありえて、僕自身はそのつもりはないんだけれども、そういった懸念にはある程度もっともなところがあるから、そこはそことして、僕の話の続きとしてその話を続けていこうとは思っています。これ以上話をすると長くなるので、以上で。
 
塩川 まだまだ質問したいことがあるといえばあるんですが、残り時間が少なくなってきました。どうしましょうかね。
 
稲葉 塩川さんにお任せします。
 
塩川 じゃあ細かいことは一切抜きにして、非常に乱暴な大きな質問をして、締めくくりにしたいと思います。私のように社会主義圏の歴史をやってきた人間が現状を考える際に気になるのが、どこかで稲葉さんが書いていたと思いますが、あまりにも結果が明確に出てしまったものだから、あまりにもあっさりと結論が出されてしまって、それを十分に教訓化しないところがあるんじゃないかということですね。そのために、「あれはダメだ」とあっさり片づけていたものに、実は自分自身が気づかないうちにとらわれるということがありはしないかということを危惧するわけです。
 社会主義というのは、現実に出現したものはもちろん悲惨なものでしたけれども、掲げた理念というのは美しい理念だったわけですね。それがああいう無惨な結果になったものですから、一時期は、およそ理想を語ること自体が虚しいという、いわば身も蓋もない露悪趣味が流行する風潮がかなり広まったと思います。日本でもある程度そうだったように思いますが、ロシアなんかだと極端にそうなりました。
 ただし、それからもう一〇数年経ちまして、多少雰囲気は変わりつつあるのかもしれません。人間はもちろん理想だけでは生きていけないけれど、剥き出しのエゴイズムで生きていくのも味気ないなという感じが少しずつ復活してきて、理念とか正義とか公正とか、そうしたことを気にする人が多少は増えてきたかなという印象を漠然ともっています。それはそれで結構なことだと思いますけれども、ただその際に、かつての社会主義の経験をどこまで踏まえた上で今日の議論を立てているのかということですね。「現存した社会主義のような形ではなくて」とたいていの人はいうんですが、それは本当に「それではない形」を構想しているのか。実は、気づかずに同じ穴にはまっているのではないか、ということが時折気になることがあります。
 今日のお二人は、稲葉さんは経済学者ですし、立岩さんは社会学者ですけど、所有論というのは経済学のテーマでもあるということで、わりと経済的な話に議論が集中して政治的な話にあまり触れられていないんですが、政治学のほうでいいますと「ラディカル・デモクラシー」というのが一部で流行っていまして、それが既存の民主主義の限界を批判するという議論を立てているわけです。それは私もある程度共鳴するところがあるんですが、どこかで聞いたことのある話だなという気がすることもある。というのは、ソ連というのは民主主義とは縁もゆかりもないというのが一般的な認識かと思いますが、当事者の主観では、「ソヴェト民主主義はブルジョア民主主義よりも一〇〇万倍も民主的である」と言っていたわけです。結果的には噴飯ものですが、彼らが「ブルジョア民主主義」というレッテルを貼って西欧型民主主義を批判していたときに指摘していたことの中には、今日ラディカル・デモクラシーが現存民主主義を批判するときの論点とかなり似通っているところがある。そうした批判に立脚して、「より高次の民主主義」を実現するはずと想定された構想が何を生み出したのかということを、他人事としてではなく、自分たちにもはねかえってくる問題として教訓化する作業がどの程度なされているんだろうかという疑問を感じるわけです。そうした点を踏まえつつ、新しい批判理論を組み立てていくにはどうしたらいいかというのは、大変大きな問題で、簡単に答えが出せることではない。こうした問題について、お二人からそれぞれ考えを述べていただけたらと思います。
 
稲葉 最初の立岩さんの議論に関して、しかしそれで人は説得できるのかという質問とも関係しますが、それと、皆さんがお読みになれる塩川さんが書いたもののなかに『二〇世紀史を考える』という本の中で、いわゆる歴史修正主義とか教科書問題とかいっていて、その中で加藤典洋さんの議論に対して高橋哲哉さんが批判するという例のやつ(*加藤の敗戦後論への高橋の批判)を引用されていて、高橋哲哉の言っていることに内容では賛成したってかまわないけれどもこんな言い方で人はついてくるのか、そういう意味では加藤典洋のほうが物事を相手に通じる・通じないを考えているのではないかと複雑な思いに取られるというのとつながってくると思うんですね。
 僕が立岩さんの議論に対して抱く危惧って言うのは、私的所有は否定しない、肯定する。自由な市場経済も否定しない、むしろ肯定するといえば肯定する。ただささやかな健康で文化的な最低限度の生活を保障するという憲法の生存権条項の話をポジティブな話としていっているに過ぎないと立岩さんはおっしゃるでしょうが、それでもその水準を誰がどうやって決定して、みんなに供給していくかといったときに、結構、実は大きな過負荷を要求するというふうになってはいないかなと。立岩さんの問題ではないんですけど、分配的正義論って言うものがかつてのように資本主義を全部やめて社会主義や美しい共同体にということは誰も言わないけど、でもやっぱり取り残されて、しわ寄せを食っている人を何とかしようよとそれ自体は否定しようのない正義の議論を立てているし、だけどそのときにどうなのか。誰かに何かを正義を実現するために強いていくというのは当然あるんですね。上手い強い方・もしくは納得して強いずに納得ずくで引っ張れたほうがいいに決まっているんですが、そのロジックというものがなかなかちょっと見えにくい。
 例えば生存権という言葉を、憲法学をもっと勉強しなきゃいけないなと思いながら使いますけど、生存権って言ってしまうと権利になって普遍化されるわけですね。日本国憲法の生存権は日本国民それどころかある種の人権は日本で暮らしている外国人にも保障されるわけですから、日本にいて日本の主権下でコントロールを受けている人みんなにあるはずなわけですね。だけども他方で具体的に生存権条項を生かして政策的に救済の対象になる、生存権にのっとって日本国にクレームを出し、そのクレームが通って護られる人っていうのは、実際にはものすごく少ない数じゃないと上手くいかないわけですね。つまり、権利である以上、万人に保障されているものではくてはいけない。けれども同時に、不幸な人、疎外された人、抑圧された人々というのは、社会のなかの少数派であってくれないと困る。そうでないと、その権利を保障するってことをできないという問題が、こないだから頭から離れない。もうちょっと今後、時間をかけて経済学も法律学もきちんと勉強しながらつめていこうと思っていますが、今非常に直感的に言いますと、そういう問題というのは残っている。
 例えば立岩さんの私的所有論のなかで、私的所有・市場経済・自己決定の仕組みは肯定される。だけども、自分の所有を世の中に占められないけれども世の中に存在して生きている人がいる。そういう人たちの権利保障をどうするかといったときに、しかし我々はひたすら自分の快楽や幸福を追求するだけではなくて、他者を肯定するという気持ちを同時に持った存在として我々は現にあるじゃないかと。それをてこにして何かを考えられないかという話をしている。あれはもっともな話でまったく正しいんですが、あの議論は所有権というルールの隙間に落ちていく人間に対してどのように対するかというあるロジックを出していますが、心構えとかスタンスとか倫理の話にはなっている。これはもちろん馬鹿にはできない。だけど、制度の話になる議論がいまだにちょっと見えないんですね。あそこで提起された議論を制度に格上げしたときに名前をつけるとすれば「冷たい福祉国家」とか「分配する最小国家」と立岩さんの言葉ではなるんだと思います。ただ、その制度・政策でその倫理がどのように到達するのかという議論が僕は読みながらまだ見えていない。それは先ほど言った言葉で言うと、生存権という言葉で考えているんですが、生存権は万人のものである。でも具体的に生存権を実現していくということを世の中のどこで起きるかというと、みんながみんな生存権条項を振りかざし、世話にならなきゃいけない社会というのはフィージブルじゃないんです。成り立たないと思います。
 だけれども生存権に頼らなくちゃいけない社会はどういう社会なのか。そのときに生存権に頼らなくちゃいけない人たちって言うのが社会のなかで少数でいる場合、福祉の言葉で言えば、スティグマが張り付くのではないか。スティグマであるからこそ、権利という言葉を少数派の自立・エンパワメントのために使ってきたのではないか。引き裂かれた問題が生存権という言葉にはまとわりついているように思います。その困難というのは今日の先進国の左翼、かつての左翼というのは多数者革命だったと思うんです。だけども今日の左翼は弱い少数者のために存在している。そのときに人々の普遍的な権利を建てなければならないんだけど、それを押し立てすぎると、先進国の多数派はほどほどに満ち足りているわけですよ。ほどほどに満ち足りているくせに税金が重いと文句を言う。僕なんかその典型ですね。でもそこから零れ落ちる人たちを何とかしていかなくてはいけないというときに、普遍的な権利のロジックは必要なんだけど、下手に使うとこういう卑しい多数者は恨み言を言い始めるんです。強者のルサンチマンといいましたが、それをいかにごまかしかいくぐり、たまには頭を殴ったほうがいいでしょうが、ぶん殴ったら余計付け上がるのが強者のルサンチマンですので、そこをどうかいくぐるかが非常に厄介な課題になるだろうという気がしているわけなんですけど。質問に答えるというよりは質問を倍加したような気がして申し訳ないんですが。
 
立岩 お二人の話を受けて、一つは塩川さんの話ですけど、例えば理念なら理念が今どこら辺にいるのかという話で、日本の状況を考えると、一つは正面に据えて考えようという状況になっていない。今の状況で言えば即効に生じるかもしれないリスクを正面から引き受けるメリットの方があるんじゃないかなと僕は思っています。それで、実際にここ数年、正義という言葉が以前よりも恥ずかしげがなく使われているような気が僕はします。ただその内実たるや、少なくとも僕にとってはそれを正義として受け止めることのできないものが語られる状況にあってはそれを茶化すよりは、そうでないものを立てる、そういう戦略が少なくとも今のこの国の状況に関しては有効ではないかと僕は思っています。
 もう一つの話は稲葉さんの話で、それをお前言うのはいい、だけど現実にといったときにどうなるのという話ですけど、これは詰めなきゃいけないと思っているんですよね。僕はそれをする人なのか、そうしたことまで頭が回らないからもっとちゃんとした人にやってもらうのか、両方でやっていくのかということになると思うんだけど、まず、直感から言うと、稲葉さんと逆で、直感的にダメじゃないと思うんですよね。その直感がどこから来ているのかを考えてみてもいいんだけれども、そんな気はして、僕にとっては何でそれが無理だと思うの?どういう難しさと付加があるの?というのを、僕自身が考えてもいいんだけど、稲葉さんにしてもこういう難しさがあるじゃないか、じゃあこれをどうするんだということを言ってもらって、それに対してそうでもないんじゃないのと返していくというのを、この本の続きになるかどうか分からないけどしていきたい。
 だから今の稲葉さんの話にもいろんな要素があったと思うわけね。例えば総資源の問題として、お財布的に大丈夫なのかということをみんな心配しているわけじゃないですか。それは僕も気になる。それに対して抽象的なレベルでは何か言っているかもしれないけど、ちゃんとそろばん勘定したらどうなるかという問題はあるでしょうね。それだけじゃなくて、とりあえずマーケットの中で各人の財布に入っちゃっているものを出させるというときに、ルサンチマンというのかな、どういう言葉を使うのか分からないけど、そういう動機付けという問題もある。それがどの程度の問題なのか、そうしたときに何を言ったらいいのかという問題は、僕は塩川さんが最初に質問したことに対する答えを繰り返すことぐらいしかできないんだけど。結構難しいんじゃないの、という稲葉さんの質問にも、いろんな成分があるわけですよね。その成分をくくりだしていって、それを問いの形で明確化していって、それに僕は答えられると。それに対して稲葉さんがそれじゃ甘いとか言ってくれて、話しが前にすすむ。そんなことが必要なんだと思う。理念は理念としてごちゃごちゃになって、わけの分からないことも言われている割には、立ち位置を決めるだけのためにも必要だと思う。
 それを現実に移していくときにどういう困難が現れるのかということを、僕の見立てで言えば本当はない心配をしているような気がどこかであるんですよ。例えば財布の話にしても。いやそうじゃないんだ、もっとリアルな問題なんだ、という人もいるかもしれない。そうした議論がなされていくべきなんだろうし、それには参与していきたいなと思っています。長くなりました。とりあえず。
 
稲葉 その話だと、僕は相変わらず総額馬鹿というか成長馬鹿というか、税率上げるよりは税収が絶対的に上がるためには税収源が増えたほうがいいんだとかね。みんなある程度懐があったかければ多少税率が上がっても文句言わないし。税率下げたって税収は上がる。あるいは少数者が生存権を言ったときにもニコニコしてくれるような世の中のほうがいいだろうと。それで貧乏になると出せるものも出したくなくなるのが人情なので、深いこと考えずに、まあいいやと重い税率でも払ってくれるような世の中のほうがいいと言うと成長馬鹿になるんですが。じゃあ何でそんなに経済成長がすきなのかと聞かれると、困るわけですが。
 それは散々言ってきているように、単に波風が立たないという問題ではないんですよ。成長論礼賛論に対する一番のネックは環境問題であって、それに対してさしあたりの答えは書いている。これ以上の本格的な話は環境経済学を参照していただきたいと思いますけど。経済が成長すれば環境との問題も上手くいくということはありえないんですけど、おそらく経済がここまで来てしまっているのだから、経済成長を維持しながらでないと持続可能な地球環境の維持はおそらくできない。経済が左前になると環境破壊も悪化するというふうに来ていて、低成長で破綻する、あるいは高成長で破綻する。で、なんとか高度成長で破綻しないシナリオを書きたいんだけれどもうまくいくかという話に、環境問題にはなるんけど。定常型社会論(=ゼロ成長理論)というのに僕は反対しているわけですけれども、あれは立岩さんもコミットしていないんで、敵は別のところにいるということで。そんな感じで。
 もう時間がほとんどありませんが、会場からの質問を少しだけ受けたいと思います。
 
会場から 質問じゃなくて、先ほど直感といわれたんですけど、ジョージ・レイコフのモラル理論によれば正義って言うのは二つに分けられると。二つのときにそこで問題になるのが、社会主義の敗北というのがあるとしたら、先ほど言われたお二人の対立というのはそれに根を発しているもので、多分稲葉さんが半分間違っているんだけれど、半分問題は残っていて、そこで塩川さんに移りますけど、社会主義の理念は美しいとおっしゃるんですけど、今言ったような平等であるとか理念の内部での分裂というものがあたっと思うんです。それは平等と統制というような問題だと思うんですが。つまり、社会主義の理念というのが一つのものではなくて、ある種の分かれる部分を持っているのではないかと思うので、そこをお聞きしたいです。社会主義論をやるときに、理念と失敗というのであるんですけど、私には先ほど言ったように自己を統制する型のモラルと社会を統制する型のモラルの二つがあって、両方が社会主義に含まれていたと思うんですが、そのような分裂があったと思われますか?
 
塩川 質問の趣旨が十分理解できているか怪しいんですが、社会主義の理念のなかに複数の要素があって、そこに相互矛盾があったんじゃないのか、言い換えれば、「理念はよかったけど現実はダメだった」という単純な話じゃなくて、理念のなかに矛盾があったんじゃないかというご指摘でしょうか。それは一般論的に言えば一応そうだと思います。ただ、問題は、具体的にどういう矛盾かということですね。
 私は理論とか理念とかに力点をおいて研究しているわけではないので、あまりはっきりしたことはいえませんが、社会主義理念の中に「統制」という要素があったというのはちょっと違うんじゃないかと思います。それは現実であって、理念ではなかった。現実にはもちろん非常に強い統制がありましたし、それは単なる偶然ではないと思います。あるひとつの理念を徹底して実現しようとするなら、その理念に共鳴しない人まで駆り出さなきゃいけない、そこで統制せざるを得ないという面があるわけですね。ですから、理念の中に矛盾があるかないかということと別に、とにかく何らかの理念を強引に実現しようとする際に、半ば必然的に出てくる問題だろうと思います。
 もう一つは、今の質問とはずれるかと思いますが、稲葉さんがさっきおっしゃったことにかこつけて言いますと、社会主義は伝統的に生産力の発展が大事だと言っていたんですね。ただ単に平等に分ければいいというのではなく、平等分配の基礎には生産力発展があると考えていたので、そうした生産力発展の手段として統制その他の要素が使われた面がある。確かに、低い生産性でもいいという考え方にはある種の無理がありますが、生産性を高めるということを重視すると、今度はそのことが社会主義の無理を増幅したという面もある。これは今のご質問に対する正面からの答えになっていないかとは思いますが、先ほどの稲葉さんの説に対する疑問という感じにもなっています。