和田春樹『ペレストロイカ――成果と危機』『歴史としての社会主義』
1 はじめに
著者、和田春樹は日本を代表するロシア史研究者であり、その著作は明快な図式と文章表現とによって、広い影響力をもっている。また、私にとっては、長い期間にわたって多くを教えられ続けた師でもある。その師に対して、私はここ数年(いつからとはっきりは覚えていないが、おそらく一九九一年の前後から)、様々な機会に種々の批判を書いてきた(1)。読む人によっては、「しつこい」「どうしてここまでこだわるのか」という印象をもったかもしれない。そこで、和田批判ということの意味について、先ず断わっておかねばならない。
第一に、和田の影響力が大きく、それだけに無視しがたいものがあるということは先に記した通りである。また、個人的には、永らく教え続けられ、尊敬し続けてきた師との隔たりがとうとうここまで大きくなってしまったということに深い感慨をもつが故に、書かずにはおれないということもある。私には、溪内謙をはじめ、他にも幾人かの師がいるが、最も長い期間にわたって濃密な接触を続け、最大の影響を受けた恩師といえば和田である。だからこそ、正面から向かい合うことが、師への最大の謝意の表示だと考えるのである。しかし、ここで改めて和田論に取り組もうというのは、それだけの理由ではない。
和田は、多くの人も知るとおり、「実践派」の学者であり、多くの市民運動に関与してきた「行動する歴史家」である。その和田に対して、あの点がおかしい、この点がおかしい、といって個々の事実認識を争っていると、あたかも「実践派」の和田に対し、私は没実践的な「専門馬鹿」の立場に立っているかにとられかねない。しかし、私としては、実践の問題を完全に無視しているつもりはなく、むしろ私なりの「学問と実践の関係」論があり、それが和田と食い違っているために、種々の違和感が生じているように思う。とすれば、その点を論じることは、社会科学と思想の関係についての私見を多少なりとも明確化することに役立つのではないかという気がする。以下では、個別の歴史認識に関する論争ではなく、そのような問題に集中して、議論を展開してみたい(2)。
2 社会科学・思想・実践
和田春樹は、一九世紀半ば‐二〇世紀初頭の近代ロシア史をはじめとして、ソ連史学史、日露・日ソ関係史、日本・朝鮮・ソ連関係史、その他きわめて広い領域にわたって多くの業績をあげているが、そのすべてを論評する力は私にはない。私が主として問題にしたいのは、ペレストロイカ論、そしてソ連史および社会主義史の全体的総括についてである。これらのテーマに関する和田の著作には、個々の点で不正確な個所や、解釈が微妙であるにもかかわらずあっさりと断定的に書いている個所も多い(実証的歴史家である和田の仕事にしては信じがたいことだが、純然たる事実誤認も、ペレストロイカ論に関する限り少なくない)。しかし、ここでは、その一つ一つをあげつらうのではなく(3)、その背後にある基本的な構えのようなものを問題にしたい。
『ペレストロイカ――成果と危機』に最も顕著な傾向だが、和田がペレストロイカを論じる際に目立つのは、いわゆる「改革派」および諸共和国の民族派への「応援団」的な立場に立ち、自分が応援する潮流にとって不利なことを伏せようとする態度をとっているということである。もう少し詳しくいえば、第一に、改革への反撥・抵抗は旧来の特権官僚からだけあらわれるとは限らず、民衆自体の中からもあらわれるという点(これはここ数年間、私がペレストロイカについて論じるときに一貫して強調してきた点だが、和田は、一貫してこれを無視し続けている)、第二に、諸民族の自立を求める運動は、それらの民族の間の調和的関係に導くとは限らず、むしろ民族運動の間での衝突、場合によっては大量流血をさえもたらすということ、そして第三に、「民主派」が政権につくと、政権維持のために権威主義的で非民主的な政策をとることがあるということ、などである。
もっとも、賢明な和田はこうした事柄を知らないわけではない。私が個人的な会話などでこれらの点を指摘すると、和田は必ず「そういう面があるのは当然だ」という。よく知っており、「当然」と考えていることを、活字にした文章や非専門家向けの啓蒙的講演では、触れずに済ますということがここで問題にしたい点である。頭の中ではよく知っており、専門家仲間の個人的会話では率直に認めることを、活字にした文章の中では敢えて一切抹殺してしまっているという点にこそ問題があるのである。
これは文章を書くときの姿勢の問題であり、社会科学者としての著述と政治的目的意識をもった市民運動家として発言するときの姿勢の関係という問題にかかわる。実践的問題意識の強烈な和田は、政治的アジテーションの性格を帯びた文章を書く傾向を元からもっていた。しかし、和田がヴェトナム反戦運動や日韓関係などの問題に取り組んでいる間は、「市民運動家としての和田春樹」と「社会科学者としての和田春樹」の間には明確な課題の違いがあったため、両者が混同されることはなく、また両者の間の厳しい緊張関係が自覚されていた。ところが、「市民運動家としての和田春樹」がペレストロイカ解説に取り組むようになると、啓蒙的発言のテーマと専門研究のテーマとが重なりあうようになり、次第に両者の境がぼやけ、緊張感が失われるようになってきたのではないだろうか。
こういう風にだけいうと、あたかも、実践的姿勢に立つ和田に対し私が没実践的な「専門馬鹿」の立場から批判をしているかのようにとられかねないが、そうではない。問題は次の点にある。即ち、和田は、自らの共感する「民主派」や「民族の再生」の運動に関して、希望的観測を強調する反面、その内的矛盾や否定的側面について一切口をつぐんでいるが、これはちょうど、かつての「進歩的知識人」が、ソ連や日本共産党(あるいは日本に限らず、それぞれの国の共産党)について、個人的には否定的側面を熟知しながらも、それを公然と語ると「帝国主義者を利する」として敢えて触れようとしなかったのと瓜二つである。和田の「民主派」評価には、ロマン・ロランやウェッブ夫妻のスターリン賛美を思い起こさせるところがある。われわれがスターリン主義の歴史的経験から学ぶ最大の教訓は、このような態度をとってはならないということではないのだろうか。
社会科学者であると否とを問わず、人がある種の政治的判断や希望をもつこと自体は自然なことである。私はそれを非としているのではない。問題は、自分の共鳴する傾向に都合の悪いことをできるだけ軽く書こうとするのかどうかということにある。これを軽く扱うのは、短期的には自己の味方する立場に有利かもしれないが、長期的にみれば、それは運動の堕落を招く。当面の政治闘争では勝っても、本来の目標は達成されないということになるおそれが大きい。だとすれば、むしろ、共感する潮流の内部矛盾や欠陥をこそ、声を大にして強調すべきではないか。「民主派」や「民族の自立」を目指す運動に共感するのはよい。だが、そのことが、彼らの自己矛盾やそこに含まれる堕落の契機に目を閉ざすことになってはならない。これこそが私が和田に対していだく違和感の最大のポイントである。つまり、それは非実践的なアカデミズムの問題というよりもむしろ実践に対するかかわり方、姿勢の違いである。
この問題は、和田が共感してきたソ連・ロシアの「民主派」の評価にもかかわる。私はある時期まで、彼らへの共感を和田と共有してきたし、その後、違和感が拡大してからも、大きな意味での基本目標に関しては特に反対というわけではない。問題なのは、彼らが、その目標を達成するに当たって、「目標さえ正しければどのような手段も許される」というボリシェヴィキ的思考法を示しだし、デマゴギーや破壊的手段、更には彼らが権力を掌握した後は権威主義的な統治手法に訴えだしたことにある。そこで、この点について、もう少し踏み込んでみよう。
3 革命か改良か――ペレストロイカ論
和田はペレストロイカ期を通して、一貫して、いわゆる「急進改革派」への共感を隠そうとしなかった。奥歯にものの挟まったものの言い方をする人が多い中で、はっきりと自己の立場を打ち出すことは勇気を要することであり、貴重なものである。また、「楽観的すぎる」という批評を当初からうけてきたが、そうした批評を覚悟の上で、敢えて明確なコミットをしてみせたのは、態度としては立派であり、敬意を払いたい。だから、こうした点に関する限りは、私はあまり批判する気がないということを先ず断わっておきたい。
和田との対比で私自身の態度についていうなら、ペレストロイカ初期から中期にかけては、和田はやや楽天的にすぎないだろうかという留保――および、細部での若干の認識の差――があったものの、基本的な姿勢としてはほぼ共感していた。つまり、私もどちらかといえば肯定論ないし楽観論――但し、手放しの楽観ではなく、多少の懸念ないし留保をもちつつ――に立っており、広い意味では和田と同じ陣営に属していた。だが、彼と私の距離はペレストロイカ後期から徐々に分かれだし、最終局面以降、大きく隔たるに至った。ソ連解体の直前から直後にかけての時期には、ほとんどバリケードの反対側にいるという感じさえ懐かざるを得なかった。どこで、どうして、そのような分岐が生じたのかについて、さらに考えてみたい。
和田は当初、ゲフテルにならって、ペレストロイカを「カタストロフィーを避ける改革」としてとらえていた(4)。「カタストロフィーを避ける」とは、別の言葉でいえば、革命的な破壊の道をとらないということである。私もそれに共感していた。ところが、ある時期以降のソ連の急進改革派はゴルバチョフの中道路線に苛立って革命的破壊の道に進み、和田もそれに共感を示すようになった(5)。これは、ソ連の知識人によっても指摘されたことだが、「逆方向のボリシェヴィズム」――社会主義から資本主義への転換という点で、方向こそ逆だが、ロシア革命におけるボリシェヴィキの誤りの繰り返し――というべきである。和田は急進改革派に共感するあまり、このような「逆方向のボリシェヴィズム」への警戒を失ってしまったのではないかというのが私の最大の疑問である。
もう少し一般的にいえば、「革命はコストが大きいので誤っている、革命よりも改良の道をとるべきだ」というのが、ある時期以降の和田の主張だった。私も、かつて革命を志したことのある者として、痛苦の自己批判をこめつつ、同様に考える。ところが、和田は、ペレストロイカ急進化の過程で、折角のこの認識を忘れ、またしても革命主義――エリツィンに象徴される急進路線賛美――の立場に立ってしまったのではないだろうか。私が何よりも強く抵抗を感じるのは、この点においてである。もし「革命よりも改良の道を」と考えるのであれば、一九九〇‐九一年の時点において、革命的急進路線を支持したり賛美したりするべきではなく、どんなに不人気であろうとも中道改革路線を支持すべきだったのではないだろうか。私はある小文で、もし和田がエリツィンのもとでのペレストロイカ継続説をとるなら、その場合にはゲフテル説を放棄しなければならないと指摘したが(6)、これもその点と関係している。ある時期以降の和田は、「カタストロフィーなき改革」ならぬ破壊的革命を支持するようになったからである。
もっとも、ここに述べたのは、あくまでも論者自身の実践的な価値観にかかわることであり、そのことと、客観的な政治的力関係の判断とは別問題である。大衆運動高揚期においては、どうしても感情的要因が優越し、革命vs反動の両極への分極化が進行し、中道路線は弱々しいものとならざるを得ない。そのような力関係の判断からいえば、中道改革路線は非現実的であり、それを支持するのは、負けると決まった勢力を応援するようなものである。しかし、そのことと、自分自身がどのような価値観をもつかということとは別の問題のはずである。当面の政治的力関係においてどんなに不利であろうと、信念として正しいと考えるものを曲げるべきではない。「革命より改良を」と考える人は、たとえ負け犬であっても中道路線を最後まで支持すべきではなかったろうか。
敢えて自分自身の判断をむき出しにしていえば、私は中道改革路線はソ連の現実の中では弱い勢力でしかありえず、あまり成功の蓋然性は高くないと考えていたが、それでもなおかつ自分自身の価値観としてはそれにコミットしていた*。「負けるだろう勢力を応援しても、無意味ではないか」といわれるかもしれない。しかし、われわれはソ連の政治に関しては所詮、部外者であり、観察者である。であるならば、何も勝ち馬を支持しなければならないということはないはずである。よその国でどの勢力が勝つかは、われわれが誰を応援するかによって決まるものではない。それよりも大事なのは、どれかの勢力が勝ちそうだからといって、自らの原則を曲げてまでその勢力を高く評価するというようなことをしないということである。こういうわけで、一九九一年前後に、和田だけでなく、多くの日本や欧米のソ連観察者が急進改革派支持の大合唱をしたとき、私はどうしてもそれに同調することができなかったのである。
*但し、現実のゴルバチョフがその中道改革路線をどこまで徹底して実現しようとしていたかは別問題である。政治家というものは周囲の状況の中で動く以上、一貫性をあまり期待することができないのは当然である。従って、私が支持したのは現実のゴルバチョフそのままということではなく、彼に象徴される中道路線の理念型ともいうべきものだった。また、私が急進改革路線に反対し、中道改革路線の方を相対的によしと考えるのは、改革の目標における差異――旧体制を維持しながらの改善か体制転換か――ではなく、戦術・手段のレヴェルでの差異――コストを最小限に抑える改革か、激烈な破壊を伴う革命か――についてのことだということを改めて強調しておきたい(7)。
4 政治へのコミットと「現実主義」
前節で述べたことは、実は、政治へのコミットの仕方の差にかかわるような気がする。前節末尾で述べたように、われわれは所詮ロシアの政治に関しては部外者だというのが私の考えだが、ロシア知識人――その中には政治家になった人も含まれる――と交流の深い和田は、自らがロシア政治の当事者になっているような気がしているのかもしれない。そして、現実政治にかかわる以上は、無力な理想論をいっていても仕方がないので、実際問題として有力な運動体に注目するという立場をとっているようにみえる。
和田春樹というと「市民運動派」というイメージが一般に強いが、比較的近くから和田を観察してきた私の目には、ある時期以後の和田は意外なほど現実政治への関心が強く、無力な理想論よりは「現実主義」をよしとする発想に近づいているような気がしてならない(8)。本題からそれるので詳しくは立ち入らないが、日本の政治における立場をみても、「理念の純粋性を守る」という立場ではなく、「現実主義」的姿勢を濃厚にしてきている(例えば、天皇制への評価、いわゆる「北方領土」問題への取り組み、また従軍慰安婦問題に関し「アジア女性基金」への参加など)(9)。私は、そのこと自体を批判しようというつもりはない。ただ、いくつかの条件をつけておく必要があるように感じる。
先に記した通り、かつての和田には、権力から縁遠い地点に立つ「市民派」というイメージがあった。それがいつのまにか、権力政治と関わりをもち、「現実的考慮」を重視する「現実派」になったわけだが、そうした変化をよく知らない人は、今でも和田に「市民派」のイメージをもっているだろう。私は、立場の変化――ある意味では「転向」――を否定するものではないが、少なくとも変化を明示すべきではないかと思う(10)。
政治というものにどのように関わるかについては様々な考え方がありうる。「自分は権力には一切関わりたくない。現実に力をもとうがもたなかろうが、ともかく、自分の信じる理念をいうのみだ」というタイプの人もいれば、「空論的理想を唱え続けるのは空しい。現実界においては妥協は不可避である。妥協しながらも、少しでも理想に近づくために、権力政治との関わりをおそれてはならない」というタイプの人もいる。どちらか一方がよいというのではなく、それぞれの特徴、得失――前者は自分の良心を汚さないですむ代わり、無力な自己満足に終わりがちであり、後者は現実に影響を及ぼす可能性がある代わり、危険な賭でもある――をしっかり押さえる必要があるというのが私の考えである。
私は、自分自身としては、とても現実政治への関与に賭ける自信がないので、そのような道を選ぶことはしないが、私よりもはるかに政治力をもった人が、十分な覚悟をもって賭に乗り出すことを否定するつもりはない。和田はおそらく、「自分は、その賭をする用意がある。自分は、単なる空理空論にふける無力な学者ではなく、したたかな権力政治の中で、妥協をもおそれず、かといって無原則的に堕落することもなく、しぶとく生き抜いていく自信がある」と決断したのだろう。それはそれで尊重すべき選択である。ただ、はたからみていると、そうした自信にもかかわらず、やはり甘すぎたのではないか、危険性への認識があまりにも弱かったのではないかという気がしてならない。これは余計なお世話かもしれないし、また自分がより見事に現実政治の中で生き抜く自信がない以上、高みに立った批判はできない。ただ、恩師が危険な賭に乗り出して、その自信にもかかわらず賭に負けかねないでいるのをみて、はらはらせずにはおれないのである。
やや議論が脱線したが、この問題は、ソ連や社会主義に対する見方にも微妙に関係している。というのも、やや意外なことだが、どうやら和田にとって社会主義の問題はそれほど切実な問題ではなかったようにみえるふしがあるからである。例えば、ペレストロイカ終期論争に関して私が「ペレストロイカは一九九一年で終わった」と判断する最大の理由は、「社会主義の改革」が「脱社会主義」に転化したという点にあるのだが、和田はこの論点をあっさりと無視している。脱社会主義であろうとなかろうと、とにかく「改革」でさえあればペレストロイカの継続だというのが和田の考えのようである。そこには、社会主義の運命に関する真剣な関心が感じられない(11)。
また和田は一貫して「国家社会主義」の破産という言い方をしているが、この用語法の意味を明確に説明したためしがない。破産したのは「国家社会主義」「ソ連型社会主義」など、特定の型の社会主義に過ぎないのか、それとも社会主義一般の破産なのかという問いに一度も答えていないのである。補足するなら、社会主義改革の実験を最も徹底的に推し進めてきたハンガリーの経験について、和田はほとんど言及したことがなく、ほぼ完全に無関心であるようにみえる。社会主義改革を最も徹底的に推し進めようとして挫折したハンガリーの例の検討を欠いては、社会主義改革の総括などできないにもかかわらずである。ユーゴスラヴィアについては、ある時期までは労働者自主管理に期待を寄せ、その後幻滅したようにみえるが、その間の事情を明示的なものとして論じていない。西欧における社会民主主義についても、中途半端な言及が時折あるが、どこまで期待し、どこに限界をみるのかが、はっきりしていない。
社会主義について何回も論じていながら、社会主義の運命に関してそれほど深刻な関心を寄せていないというのは一見奇妙なことのようににみえる。しかし、「現実主義」的発想からするならば、ある時期には「国家社会主義の破産」という表現で「(国家主導でない)真の社会主義」の再生をほのめかし、ある時期には、社会主義のことをきれいさっぱり忘れて市場経済化こそが民主化であり改革だと論じるといったロシア「民主派」の現実の動向に密着するのが自然であり、私のように一々それに疑問を提出するのは無用のわざとみえるのかもしれない。
「現実主義」的発想の歴史研究への投影を感じさせるもう一つの点は、指導者中心史観への回帰ということである。最近の和田の文章を読むと、ソ連史に関してはレーニン、スターリン、ブハーリンといった最高指導者についての叙述が多く、ペレストロイカに関してはゴルバチョフ、リガチョフ、エリツィンといったトップ・リーダーについての叙述が多い反面、マイナーな政治家や一般大衆の動向、社会経済状況などはそれに比べてやや軽視されているということに気づく。そうした文章を読むときの私の印象は、われわれはまさしく和田の薫陶を受けて、このような指導者中心史観を克服してきたのではないかというものである。どうして、近年の和田の歴史叙述において、これほど大きなスペースが最高指導者に関する叙述で占められているのか、私には理解しがたいのだが、これも、「現実政治に与える影響力の大きさ」という観点からいえば当然ということになるのかもしれない。
5 おわりに
以上、いろいろと批判がましいことを書きつらねてきた。しかし、振り返ってみれば、釈迦の手のひらの中の孫悟空でしかなかったような気もする。この小文でとりあげた論点は、実践的問題意識と冷徹な認識の関係、革命と改良の関係、社会主義を歴史の中でとらえる問題、指導者中心史観批判、民族問題の重要性、といったものであるが、そのすべてを私は和田から学んだつもりである。その意味では、私はいまなお忠実な和田学派ということになるはずである。ところが、どういうわけか、当の和田自身が最近はそうした自己の主張からはずれているのではないか、という疑念がこの小文の趣旨だった。これは単なる錯覚あるいは誤解なのだろうか?
(1)主なものとして、「世界戦争の時代」論については、塩川伸明『終焉の中のソ連史』朝日新聞社、一九九三年、九一‐九三頁(その後、若干の補足を、「伊東孝之氏の書評へのリプライ・補遺」私家版ワープロ原稿、一九九五年、第五節に書いた)、ペレストロイカ継続論に関しては、塩川伸明『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九四年、第W章。この小論の初稿執筆後に書いたものとして、「『二〇世紀』と社会主義」『社会科学研究』『社会科学研究』第五〇巻第五号(一九九九年)、五三‐五四頁。
(2)標題に掲げた著作の他にも多くの関連作品があるが、代表的なものとして、和田春樹『ロシアの革命――一九九一――』岩波ブックレット、一九九一年、「国家社会主義の成立と終焉」和田春樹、小森田秋夫、近藤邦康編『〈社会主義〉それぞれの苦悩と模索』日本評論社、一九九二年、所収、「ペレストロイカ」東京大学社会科学研究所編『現代日本社会』第三巻(国際比較・2)東京大学出版会、一九九二年、所収、「中国の改革、ソ連のペレストロイカ」および「展望」(いずれも近藤邦康氏と共同執筆)近藤邦康、和田春樹編『ペレストロイカと改革・開放――中ソ比較研究』東京大学出版会、一九九三年、所収、「ペレストロイカ再考」日本国際問題研究所『ロシア研究』第一八号、一九九四年など。以下では、これらも念頭においている。
(3)ただ一つだけ、どうしても気になる点に簡単に触れておきたい。それは、不正確な叙述が民族関係の個所で特に多いということである。そのほとんどは細かい間違いなので、一々具体的には指摘しないが、かつて厳密な実証的歴史研究を特徴としていた和田にしては、信じられないほどの粗雑さである。そのこと自体をどうこういおうというのではない。私自身も段々歳をとってきて、人間には間違いがつきものだということを悟るようになってきた。特に、急いで仕事をしたり、大きなテーマに取り組んだりするときには、どうしても細部にまで神経が行き届かないのはやむを得ないことである。ただ、他の領域に比べ特に民族関係で不正確な個所が多いということには注目しないわけにはいかない。しかも、和田は、同時に「民族の再生」をペレストロイカの大きな特徴として重視しているのである。ということは、和田が重視する「民族」とは、具体的な個々の諸民族ではなく、観念の中の「民族一般」だということを意味するのではなかろうか。これでは民族問題に接近しうべくもないのである。
(4)和田春樹『私の見たペレストロイカ』岩波新書、一九八七年、二三四‐二三五頁。
(5)後に和田は、この頃の気分について「私はゴルバチョフに期待はしていたけれども、最後はゴルバチョフにイライラしていたんです」と語っている。座談会「ロシア・ソ連研究の三八年」『社会科学研究』第四九巻第六号(一九九八年)一二一頁。当時の和田を間近でみていた私がいだいたのは、まさにそのような「イライラ」感覚こそが、忌むべき革命主義的熱病のあらわれではないかという感想だった。
(6)塩川伸明『ソ連とは何だったか』一〇二‐一〇三頁。なお和田は、その後、ゲフテル追悼講演で、今なおゲフテル流のペレストロイカ理解に立っているかの如くに述べている(和田春樹「ゲフテル――歴史家・市民」『ロシア史研究』第五八号、一九九六年、七四‐七五頁)。それでいながら、私の先の批判には何一つ答えていない。何とも不可解な態度である。
(7)これらの点に関する私見は、塩川伸明『社会主義とは何だったか』『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九四年参照。
(8)前項では、和田が自ら批判したはずの「革命主義」に回帰したのではないかということを述べた。そのことと本項で述べる「現実主義」とはつながっているというのが私の判断だが、これは、ある意味ではやや逆説的と映るかもしれない。「革命主義とは非現実的なものであり、改良路線の方が現実的だ」という発想が一般にあるからである。確かに、長期的にみて目標をどの程度実現するかという観点からはそのようにいえるかもしれないが、大衆運動高揚局面における現実の政治的力関係からいうなら、むしろ革命主義の方が政治的に有力――つまり、現実主義的――であり、中道改良路線は非現実的になるという傾向があるように思う。というのも、大衆運動高揚期においては感情的要因が優越するため、中道路線は弱々しいものとなり、革命主義の方が多くの人を捉えるという事情があるからである。そして、和田はロマンティシズムに酔ったからというよりもむしろその「現実主義」故に革命主義に走ったのではないかというのが私の判断である。従ってまた、私の革命主義批判は、「ロマンティックすぎて非現実的だ」というものではなく、「やや現実追随的に過ぎないか」という点にある。
(9)この点に関し、前掲座談会、一二八頁も参照。
(10)「転向」という言葉を使うからといって、それだけで倫理的に非難する意味あいではない。私の転向論は、『社会主義とは何だったか』第[章。
(11)前掲座談会には次のような発言がある。「〔大学入学直後くらいまでの時期について〕社会主義とか、ソ連とかいっても、理論的なものがあって、自分の人格と深くかかわっているということではなくて、僕にとって大きい問題は、平和の問題であったのですね」(『社会科学研究』第四九巻第六号、九二頁)。これは社会主義への関心の相対的低さを説明すると同時に、なぜあれほどまで「世界戦争の時代」云々にこだわるかも説明する発言のように思われる。対比的にいえば、私にとっては社会主義が第一義の問題関心であって、反戦・平和というのはそれにかかわる一つの個別テーマに過ぎなかった。
*和田春樹『ペレストロイカ――成果と危機』岩波新書、一九九〇年、『歴史としての社会主義』岩波新書、一九九二年
(一九九二‐九四年のいろいろな時期に断片的に書いたメモをまとめ直して、一九九五‐九六年に執筆。九八年六月および二〇〇一年二月に一部加筆)