井上達夫『他者への自由』
《著者への手紙》
いつも御論考を御恵贈くださり、ありがとうございます。その都度、拝読していろいろと刺激を受けつつも、どのように討論を交わすべきかを煮詰めることが難しく、「ありがとうございました」とか「面白かったですよ」といった無難な言葉でお茶を濁してきました。しかし、今回の『他者への自由』は体系的に論を展開した著作であるだけに、そうした表層的感想で済ませるのではなく、もう少し立ち入った感想をまとめねばならないと思いながら読ませていただきました。とはいえ、もちろん、専攻も問題意識も知的バックグラウンドも異なる者として、内在的に理解することは極度に困難であり、上っ面だけの理解・誤解に基づいて我田引水的に自己流の妄念を繰り広げることしかできないという事情に変わりはありません。以下、思いつくままに勝手な感想や疑問を書き連ねさせていただきますが、不十分な理解、曲解、また井上さんがあまり重視していない周辺的論点にばかりとらわれ、肝心の中枢的論点にはあまり触れないといったアンバランスなどについては、予めご寛恕を乞うしかありません。また、儀礼的・社交的賛辞を省いて、むしろ論争挑発的に疑問点を誇張気味に書かせていただくことについては、井上さんのような方に対しての場合、お許しを乞うまでもないことと思います。
一
私の読み方がどの程度的を射ているか分かりませんが、御著書の中心的な論点は、私の印象としては、一方において、価値とかそれらの相克といった問題を深刻なものとして受けとめつつ、他方において、それが独善主義や果てしない衝突に陥るのを避け、公正な対応を見出すにはどのようにしたらよいのか、という問題意識にあるという風に思われました。この両者の関係は、前者がいわば問題を考える上での前提条件をなし、後者がそれをうけた本論の内容をなすと整理することができるように思います。そこで、後者については後でじっくりと考えるとして、先ず前者から考えてみたいと思います。
御著書の各所で、「価値対立問題」の深刻性が指摘されていますが、私の勝手な読み方では、同じように「価値対立問題」が指摘される場合にも、実は、やや異なった二通りの文脈があるように感じました。その一つは民族紛争などを例として取りあげた文脈であり、そこでは、文化的・宗教的価値とかかわる価値紛争は利益紛争よりも深刻だ――たとえ現実的には利益紛争がこじれて解決が非常に困難になるようなことがあるにしても、原理的・哲学的レヴェルで考えるなら、価値紛争の方がより一層深刻だ――ということが説かれています(例えば九二‐九三頁)。「価値対立」という原理的・哲学的問題と現実の国際政治レヴェルで起きている民族紛争などとをどのように結びつけて論じるべきかという点に関する疑問もないではありませんが、その点については後回しにして(この小文の八)、とにかく、この種の問題が非常に深刻なものとして現代世界の注目の的となっていること自体は、誰も否定できない事実でしょう。
他方、現代日本の言論状況を念頭においたと思われる文脈においては、現代人は往々にして価値の問題をあまり深刻に考えず、むしろいい加減にやり過ごしていることが指摘され、それは誠実な態度とはいえないと述べられています。もっとも、これはそれほど明示的に強調されている論点ではありませんが、いわば背後に前提されている認識ではないかというのが私の推測です。「価値観を『真面目に捉える』こと」とか、「自己の価値観に誠実である」といった言葉が時々出てくるのはそのあらわれではないでしょうか(九七、一〇〇頁など)。これと直接結びつくかどうかは定かでありませんが、「まえがき」に、「アポリアの前に絶句する経験を忘れ言説を大量生産し続ける流行思想家」とか、「明るい頽廃」「軽やかなお喋り」などといった言葉がある(i‐ii頁)のも、そうした「真面目」さ、「誠実」が失われていることの指摘ととることができるような気がします。また前著『共生の作法』の冒頭近くでは、「軽薄さ」(「軽チャー」)の横行の中で、「正義」に代表される重量級の概念について考えることへの拒否反応が広がっていることが指摘されていました。人々が価値の問題を「誠実」に捉えないなら、そもそもそれらの相克とか衝突といった問題を深刻に考える必要性そのものが感じられず、井上さんの提出した問題の所在自体が見失われることになります。
このように考えると、先の第一の文脈においては、その解釈はともあれ、とにかく価値紛争が深刻らしいということ自体は誰もが認めるところであるのに対し、第二の文脈においては、むしろ価値の問題は棚上げにしようという風潮が広まっていることになります。単純化するなら、人々が価値をめぐって激しく争っている――少なくともそのようにみえる――状況もあれば、むしろ「金持ち喧嘩せず」とばかりに、そういう争いを回避する行動様式が広まっている状況もあるということになりそうです。前者については後まわしとして、ここでは後者について考えてみたいと思います。
私自身は、「誠実」という古風な徳目を大事にしたいと考える古風な人間ですので、「自己の価値観に誠実」かどうかということを問題にする井上さんの発想には、個人的に共鳴するところが大きいのですが、逆に、「自分のような古風な人間は、今の世の中ではごく少数派ではないか」という感覚も懐いているため、このことをそう簡単に前提化して先に進んでいいのだろうかという疑問も浮かんでしまいます。現代日本のように、「白けた」雰囲気が、知識人といわれる人たちをも含めて瀰漫している状況においては、「まえがき」にあるような「軽やかなお喋り」を楽しんでいる人たちから、「それでどこが悪いんだ。お前らのように、額に皺をよせて、正義とか誠実とか公共性とかエトセトラを考えていたって、何にもならないじゃないか」といわれたときに、どう言い返すことができるのだろうかということを自問自答するのです。
第三章の九五頁には、「己の価値観の恣意性を知りながら、それに帰依することを文明人の美徳とみなす人々が抱く倒錯した『価値観』」という言葉があります。「軽やかなお喋り」を楽しむ人たちは、自分が、あるときある場面でたまたま採用した価値観が恣意的であるのは言わずもがなであり、とりあえずはそれを採るかのような態度をとり、しばらくしたら、何の理由付けもせずに、別の態度をとるかもしれない、あるいは同じ時点でも、他の人が他の価値を採るのは全く自由だとして放置する、というのはごく当然のことと考えるでしょう。そうした「価値観」は「倒錯した価値観」だと言いたい気持ちは私にもありますが、本当にそう言いきっていいのだろうかという疑念もまた消えません。右の引用文の後に続く部分は、「……倒錯した『価値観』を除くすべての価値観」となっています。しかし、もしそうした「倒錯した価値観」をもつ人がかなりの多数にのぼるなら、それをそう簡単に「除いて」考えてよいものなのでしょうか。現に今の世の中で多数を占めている人たちの「価値観」を除いた上で、それ以外の、いわば「まじめな少数派」だけを相手にして議論をしていればよい、ということになるのでしょうか。
ちょっと袋小路に入り込んだような気もします。この問題にはまた後で戻るかもしれませんが、さしあたり、次の論点に進むことにしましょう。
二
価値の相克という問題を重要視する井上さんの議論の一つの柱は、「価値というものは所詮相対的なものだから、あまり深刻に考えても仕方がない」といった風な相対主義的発想への異議申し立てにあるように思います。(三五‐三六頁、その他各所)。前著においても「相対主義」への批判が大きな論点をなしていたことを思えば、これは井上さんの核心的な主張であるように思われます。
哲学に通じていない私の勝手な考えですが、相対主義――認識についてであれ、価値についてであれ――には、奇妙な逆説があるように思います。一方では、それは、特定の認識枠組みや価値観を絶対視して他者に押しつける傲慢な態度を批判し、寛容を基礎づける謙虚なものという性格をもつようにみえます。しかし、他面では、相対主義を盾にとって他者からの批判を拒絶し、とにかく自分はこう考えるのだということを「居直り」的に肯定し続けることを正当化し、かえって傲慢なものに転化することもあります。御著書においても、まさにそのような相対主義の陥穽が指摘され、批判にさらされているように思います。
この問題は、やや議論を広げていうと、文化人類学の世界において近年盛んに議論されている「文化相対主義」の見直しという問題とつながるように思います。私はもちろん文化人類学の専門家ではなく、生かじりの知識に基づいていうのですが、「文化相対主義」を基本的信条としてきた文化人類学の世界においても、相対主義への疑念や批判はかなり広まりつつあるようです(1)。
このような相対主義批判の高まりに対して、ギアツは、相対主義を擁護するというのではなく、「反・反相対主義(Anti-Anti-Relativism)」という形で答えようとしました(2)。ギアツおよび彼をうけた浜本満らの議論は、相対主義が「いいかげんな相対主義」「俗流相対主義」に陥ってしまうこともあるということを認めつつ、しかし、文化人類学者が大事にしてきた文化相対主義とはそういうものではなく、「反・自文化中心主義」という点に主眼があったとしているようです。これはやや折衷的な議論のようにもみえますが、ともかく「いいかげんな相対主義」「俗流相対主義」を退けて「反・自文化中心主義」に拠り所を求めようとする態度には理解できるものがあります(3)。
生半可な理解で勝手な議論をさせていただくなら、井上さんの客観主義(相対主義批判)とは、右にいう「いいかげんな相対主義」批判および自己の判断の可謬性自覚という意味で文化人類学者たちの主張と重なるものがあるように思われます。にもかかわらず、結論的な表現としては、片や「客観主義(相対主義批判)」、片や「反・反相対主義」というのはあたかも逆を向いているようにもみえます。この関係を一体どういう風に理解したらいいのだろうかというのが、私の懐く大きな疑問です。
敢えて私の思いつきを述べさせていただくなら、こういう風に考えてはいけないでしょうか。純然たる相対主義が「何デモアリ、Anything goes」という安易な態度に導きがちである一方、安易な客観主義(井上さんにいわせれば本物の客観主義ではないということになるのかもしれませんが)が独断論に導きがちだとするなら、両者をともに避けねばならないということは多くの人が一致できる点でしょう。しかし、一般に、あれもこれもそれぞれに問題があるということを指摘するのは容易でも、こう考えればよいという積極的結論を出すのははるかに困難です。そこで、解決困難なアポリアに直面した際に、「当面最も警戒すべきものは何か」を考えて、そちらの方の批判に力点をおくという戦術的発想がよくとられます。そして、ギアツの「反・反相対主義」とは、相対主義を積極的に擁護するわけではないが、反相対主義が独断論に陥りがちだということへの警戒を当面重視すべきだという、いわば戦術的判断であるようにみえます。他方、井上さんは、相対主義が主意主義に導くことへの警戒を強く表明しておられます。とすると、両者は、論理的に両立不能ではなく、ただ、当面何が最も警戒すべき陥穽かという戦術的判断において逆を向いている――こういう風に考えるたくなるのですが、これはあまりにも折衷的な理解でしょうか。
哲学に疎い私にとって、この難問にこれ以上深入りするのは無謀以外の何ものでもないのですが、私自身がこの間考えている問題とも重なるところがあるため、敢えて暴論を少し付け加えさせていただきます。御著書では、客観主義は独断的絶対主義とは異なるのだということが強調されています。とすると、客観的な真実とは、それに迫ろうとすることが要請されるものの、「それを自分は現に見いだした」と断言することは許されないということになるように思われます。御著書の次のような指摘も、そのような趣旨と受けとることができるでしょう。「究極的回答を既に所有しているという愚かな標榜をする必要はない」。「歴史の試練を経てきた理論的・制度的諸解答を尊重するが……批判的に継承するのであり、これらの諸問題を終わることのない探求の対象にする」。「その暫定的結論としての集合的決定は新たな挑戦と公共の論議を経た上での修正とに開かれていなければならない」(一一五‐一一六頁)。
「終わることのない探求」――同じ個所に「永遠に未完の企て」という表現もあります――というのは、哲学者にとっては十分了解できる立場でしょう(これは皮肉ではなく、私自身、そうしたものに憧れる性向があり、私個人にとっては、いつまでも延々と「終わりなき対話」を続けるというのは、わりとしっくりくる発想です)。しかし、現実的な諸問題に直面している人にとっては、「永遠の探求」を続けることは不可能であり、どこかで暫定的な結論を出すほかないのは当然でしょう。「正解」に迫ろうと試みるのを断念するのではないにしても、「正解」そのものを自分は獲得したと主張することはできない以上、現にあるのは、「永遠の探求」の途上における暫定的な「正解」候補ということになります。そうした「暫定的正解候補」はあくまでも暫定的でしかないのだから、絶対性を主張できないと考えるとしたら、これは、事実上、相対主義と区別をつけられないのではないでしょうか。前著にも、次のような個所があります。「ある答案が正解であることを確証できなくても、その答案が他の答案よりも、もっともらしいことを示すことができる場合がある。我々は現実に提出されている答案のうち、他と比べて相対的にもっともらしさの度合が一番高いものを、暫定的に、即ち、よりもっともらしい答案が現われるまで受容すべきである」(『共生の作法』二三頁)。この文章は、相対主義批判の文脈におかれていますが、それ自体の中に「相対的にもっともらしさの度合が一番高いもの」「暫定的」という言葉が出てくる以上、これもまた一種の相対主義――井上さんが批判対象としている相対主義とは別の種類ということになるでしょうが――だという言い方もできるような気がしてならないのですが、これは的外れの疑問でしょうか*。
*あるいは、こういうこともできるような気がします。相対主義には二種類のものがあり、一つは、「絶対などというものはない。だから、そういうものを追い求めても空しい」とするのに対し、もう一つは、「絶対的なるものを探求し続ける姿勢は必要である。ただ、その探求が無限の過程であるのに対し、われわれは有限な存在だから、現実に提出されているのはどれも『絶対』そのものではなく、その候補に過ぎず、そうした候補の中での選択は相対的でしかありえない」というものだとします。この場合、第一の相対主義は井上さんの採るところでないとしても、第二の相対主義は実は井上説と重なるのではないでしょうか。
三
さて、価値対立の問題が深刻なアポリアであることを確認するなら、ではそのアポリアにどのように立ち向かうかということが大きな問題となります。この問題を論じた個所で井上さんが提示しておられるのは、《価値観の正しさ》という問題と、《公権力による強制の正当化》という問題の区別ということのようだと読みとりました(典型的には一〇一‐一〇二頁)。そして、後者の問題を考える上での基準となるのが正義の基底性だというお考えではないかと思います。仮に私の読みとりに大過ないとして、これは非常に興味深く、教えられるところの多い議論ですが、それだけに、この点をめぐって、あれこれと更に考えをめぐらしたくなります。
先ず何よりも問題にしなくてはならないのは、「正義」とは具体的にどのようなことを指すのかという点です。この個所の議論を私流に言い換えさせてもらえるなら、様々な価値観に立つ人がそれぞれに「自分の価値観からは、こうした形で公権力が行使されるのが正しいと思う」と主張したときに、それに対して、「善き生」の内容に関する実質判断の見地からではなく、それとは独立した基準で、公権力による強制が正当化されるかどうかを判定するということのように思われます。では、その判定の基準は何でしょうか。
前著を拝読したときには、「等しきものは等しく扱え」というのが正義の基本的なメルクマールとされているようだと了解させていただきました。これに対し、今回の御著書では、管見の限り、「等しきものは等しく扱え」という原則のことは、もはや決着済みとされたせいでしょうか、あまり論じられておらず、やや新しい論点が展開されているように思いました。即ち、すべての価値が「善き生とは何か」という問いへの回答にかかわるわけではなく、むしろそのような問いを発し、自己の生をその探求に捧げることができるような道徳的人格としての人間存在の可能条件にかかわる価値がある、正義原理の正当化は、この次元に属する諸価値が何であり、それらが相互にいかに関係づけられ調整されるかについての理論の構築と解釈を通じて与えられる、ということです(一〇五頁)。「善く生きるとはどういうことか」という問いの回答にかかわる価値を「人格完成価値」、そのような問いを発し追求しうる道徳的人格の可能条件にかかわる価値を「人格構成価値」とする、という区別もおそらくこれとかかわっているでしょう(一〇六頁)。
これは成る程と思わされるところもありますが、本当にそう言っていいのだろうかという疑問もまた残ります。勝手な言い換えですが、諸価値が、その内容においてではなく次元において区別され、より基底的な次元における価値(「人格構成価値」)は、他の、内容において多様である諸価値(「人格完成価値」)を共通に支えるものだ、というお考えなのでしょうか。私自身は、そのような考え方に惹かれますが、と同時に、そういう考えを受け付けない人たちをどこまで説得し切れるだろうかといった疑問をどうしても感じてしまいます。
この問題と関連してもう一つ感じるのは、やや突飛な思いつきかもしれませんが、法学と哲学の関係――そしてそこにおける法哲学の位置――という問題です。どうしてこういうことを考えるかというと、法哲学という御専門から当然のことでしょうが、各所で「公権力による強制」ということが問題になっているからです。「善き生とは何か」という問題にかかわることを主に考えるのが道徳哲学者だとするなら、「公権力はどこまでのことを、どのように強制できるか」を考えるのが法学者であるように思います。公権力による強制とは、及ぶところの非常に大きなものですから、むやみと拡大すべきものではなく、正当化できる範囲を慎重に考慮し、その限界を超えるべきではないというのは自由重視の観点からは当然のことであり、法学者の主たる任務は、その限界確定にあるということなのだろうかと推察します。そこで、ある事柄について、法あるいは公権力がここまで出しゃばるべきではないということがいえるなら、そこで法学者の任務は終わり、それ以上のことをしゃべるのは余計なことだということになるでしょう。しかし、法学者ならぬ普通の人々――そして、哲学者とは、普通の人々が考えることを、より徹底して考え抜こうとする人種ではないかと思います――、そうした法や公権力が出しゃばるべきでない事柄について、「では、法以外の形で、どう考えるべきか」ということにも関心をもちます。単純化していうと、法学者はその任務が限定されており、それ故に、その範囲内で明快なことをいえるのに対し、法学者以外の人は、法の範囲外と宣言されたこと――たとえば、「法的制裁の対象にすべきでない非道徳的行為」について、どう対処したらよいのか――にも関心をもたざるを得ず、なかなかすっきりした結論を出せずに、のたうち回ることになります(但し、ここで「普通の人」と「哲学者」とが分かれ、前者は、のたうち回るうちに面倒だからそれをやめてしまい、後者だけが考え続けるのかもしれません)。こういう風に考えるとき、「法哲学者」たる井上さんの議論は、かなりの程度「哲学者」的に、あらゆる困難な問題に取り組んでおられますが、ところどころで「法学者」的になって、公権力や法の関与する範囲の問題という形で議論を限定しているようにもみえるのですが、これは私の僻目でしょうか。
たとえば、次のような個所があります。「公共的価値としての正義によって規制された政治的決定が、その決定に服する者に伝えるメッセージは『守らるべき価値はこれだけです。あとは趣味の問題ですからお好きなように』ではなく、『守らるべき様々な価値のうち、公共の力によって強行しうるのはこれだけです。あとはあなた自身の生き方と他者への説得や他者との自由な協力を通じて実現に努めて下さい』である」(一〇六頁)。これは、ここに書かれている限りでは、完全に正当であり、私も賛成です。その上で敢えて議論を吹きかけるのですが、これも「法学者」としては正当な言辞であっても、法学者ならぬ普通の人々や道徳哲学者にとっては、これだけでは問題の解決にならないという不満が残るような気がします*。仮に、先の引用文の第二のメッセージを受け取った人が、「口先では、一応『分かりました』といっておこう。でも、そんな面倒なことをいちいち実行してはいられない。強制されないのなら、あとはどうしようと俺の勝手だ」と考えたなら、どうでしょうか。そうした人が(おそらくは多数)出てくるということに対しては、防ぎようもないし、またそうした人たちが「公共の力によって強行しうる」範囲外のところで、「これは俺の趣味だから」といって非道徳的なことに耽った場合、それを法的強制によって排除することはできないとしたら、それは結果において、「あとは趣味の問題ですからお好きなように」というのと同じ効果を生むことにはならないでしょうか。もちろん、だからといって、ここで直ちに公権力が(当初の限定を超えて)出しゃばるべきだというのではありません。ただ、井上さんが、自分のメッセージは第一のものではなく第二のものだといくら力説しても、それが結果的に第一のものと変わらない効果のものになる可能性は否定できないように思います。それはそれでよいのかもしれません。しかし、もし、その結果として非道徳的行為が極度に広がり、いわば猖獗を極めるようになった場合にはどうでしょうか。
*第五章一四一‐一四二頁についても、同様のことを感じました。「我々自身にとってだけではなく、他者にとっても正しい、あるいは価値があると自ら信じていることを、彼らが意見を異にすることを知っていても……」という言葉は、そのような「他者にとっても正しい」はずのことを、現に他者が認めてくれないときに一体どう考えたらよいのかという、深刻な哲学的問題を提起するもののように読めます。ところが、その後の、「彼らに強要するために、法を定立し、変更し、利用する。……問題は、我々がこれを正統になしうるのは、一体どの程度までか、である」という部分は、法学者としての自己限定があるような印象を受けます。「法による強要がどこまで正当化されるか」と問題を出すなら、それはむやみと拡大すべきでなく、ある範囲内に限定されるべきだということになるでしょう。しかし、「法的に強要すべきではないが、やはり価値であり、ということはつまり私にとってだけでなく他者にとっても価値であるはずのこと」はもっとずっと広いはずです。そのような価値を、私は信じているが、他者は受けいれてくれない、こういう状況にどう対処すべきか――この問題は、法学という限定の外で、手つかずに残るのではないでしょうか。
ひょっとしたらこの疑問と関係するのではないかと思われるのは、一〇九頁における「善き生の追求においてもグレシャムの法則が妥当するという観点」への言及です。非道徳的行為が猖獗を極めるかもしれないという私の疑問も、「悪しき生は善き生を駆逐する」という「グレシャムの法則」認識に私自身が傾いていることから生じるのかもしれません。もっとも、私は「かもしれない」と感じているだけであって、そのような「法則」の「無条件的妥当を主張する宿命論」を説こうというのではありません。御著書では、そうした「宿命論」が反論されています。しかし、「無条件的妥当」「宿命論」が間違っているからといって、「ときとしてそういうことがありうる」という指摘が反駁されることにはならないでしょう。何らかの主張に反対するときに、相手の主張を「無条件的」「宿命論的」なものに仕立て上げて、「そうはいえない」とするのは安易な批判であるように思われます。問題は、たとえ無条件的宿命とはいえないまでも、ときとしてそういうこともありうるといえるのかどうか、いえるとしたらそれはどのような場合か、それにどのように対処すべきかなどを緻密に追求するところにあるでしょう。
その疑問への答えかもしれないと思える記述として、同じ頁の末尾に、「自律的個人が陶冶されるような社会の伝統」という言葉が出てきます(少し後の一一七頁にも「社会の公共的論議の伝統」という言葉が出てきます)。確かに、「グレシャムの法則」が勝ち誇らないための歯止めは「伝統」に求めるしかないのかもしれません。しかし、では、その伝統が崩壊しつつある状況の中では、どうしたらよいのだろうかという疑問がわいてきます。この問題については、共同体論をめぐる議論の個所(この小文の五)で立ち戻ることにしましょう。
四
いま述べたように、御著書には、法学者としての限定された文脈で論を展開しているようにみえる個所と、より広く、あらゆる人間的な問題に関心をもつ哲学者として議論を進めているようにみえる個所とがありますが、管見では、後者の側面が比較的強いのが第七章であるように思われます。この章では、自己と他者の関係という哲学的問題が出てきて、哲学に疎い者にとっては難解ですが、素人なりに問題意識を触発されるところが各所にあります。
たとえば、「自由を求める主体が他者を序列化し支配しようとするこのような権力への妄執から自己を解放しうるのは、自己を脱中心化し、他者の異なった視点の存在を事実問題としてではなく、権利問題として承認するときである」(二一一頁)とか、「私の視点に還元包摂されえない固有の視点から生の意味と価値を開示する他者との共生が、私の生の探求の地平を広げ、それが織り成す紋様を複雑にし、豊かにする」(二三四頁)といった個所は、非常に示唆的です。それだけに、無手勝流にではありますが、いろいろと議論を吹きかけたい気持ちをかき立てられます。
先ず問題にしたいのは、「妄執からの解放」とか「生の探求の地平の拡大」といったことは、一個の人間についての道徳的要請なのか、それとも政治体を維持するための国家/法的要請なのかということです。引用個所は、それ自体としては、国家/法に直接関わる形では書かれておらず、前者のように読めます。しかし、第二の引用文の直前には、「正義の基底性が政治的権力発動の正当化から善き生の特殊構想を排除するのは」という文言があり、「政治的権力発動」にかかわる文脈におかれています。あるいは、この二つを峻別すべきではないというお考えなのかもしれません。しかし、私のようにもっと散文的な政治の問題を取り扱っている者には、やはりこの二つはかなり次元を異にするように思われてなりません。
「政治というものは俗世的な、醜いものであり、そこに正義などを求めても仕方ない」という、シニカルな見方があります。これを丸ごと肯定してしまうなら、政治哲学も法哲学も空しいものになり、「汚い政治」と「無力な哲学」とが永遠に交わることなく併存するということになります。そうであってはいけないのだ、何とかして、現実の政治の中に規範を取り戻していく必要があるのだという問題意識は、私も分かるつもりです。しかし、それは途方もなく困難な課題であり、究極的な祈りとしてはともかくとして、当面の具体的展望としては、両者がそう簡単には交わらないという重い事実を見つめるほかないのではないか、という風に思われてなりません。
こういうことを考えるのは、一つには、私が、近年の旧ソ連や旧ユーゴスラヴィアの地域紛争をみる中で、極めて重苦しい印象をもつに至ったことが関係しているかもしれません。あのような泥沼的な流血の惨事をみると、どんなにはかなく、その場限りの、ご都合主義的な妥協によるものであっても、とにもかくにも休戦が実現する方が、休戦なしで武力衝突が続くのに比べればはるかにましではないかという気がしてきます。ところが、たとえば御著書の二〇八‐二〇九頁における「暫定協定」「戦略的妥協」への言及は、そうした協定・妥協を低くみるニュアンスがあるように感じられます。はかない協定・妥協では駄目だ、「自由を超えたものによる自己限定」こそが必要なのだ、という趣旨であるかにみえます。これは、一個の人間についての道徳的要請であれば十分に理解できますが、現実政治においてそのようなことを要求するのは非現実的であるように思われてなりません。紛争に満ち満ちた現実政治においては、たとえどんなにはかないものであっても「暫定協定」「戦略的妥協」が結ばれて、一時的にもせよ平和ないし休戦が実現されることを歓迎しないわけにはいきません。第一章にも、価値の多元性を利益の多元性に部分的に還元することによってこれを手なずける戦略は「問題の棚上げ以上のものではない」という個所がありますが(一一頁)、多くの紛争は、「問題の真の解決」にこだわる限り解決不能であり、ともかく「棚上げ」しようという合意が生まれるときにはじめて平和がもたらされるというのが苦い真実なのではないでしょうか。
そのように考える私としては、先の引用個所を、政治/国家/法に関わるものとしてよりはむしろ一個の人間についての道徳的要請として読みたい気がします。井上さん自身の意図にどの程度沿うものか分かりませんが、そのようなものとして読むとき、上記の引用文は極めて示唆深いものであり、私個人にとっても共感を呼び起こすものです。「私の自己超越の積極的契機として他者を受容するとき、私の自由は自己を限定する痛みを知ることによって、より大きな可能性の領野を得る」というような個所(二三四頁)も同様です。そうした共感を前提した上で、ここでも乱暴な疑問を出させていただきたいと思います。
本書でも前著でも「対話」ということが重視されており、それは「他者」の重視ということと結びついているように思いますが、では、「対話」というものはどういう風にして成り立つのだろうかというのが私の疑問です。この点は突っ込んでいくと非常に複雑な問題になりますが、敢えて大変乱暴な言い方をしますと、現実の人間関係において交わされている「対話」の大半は、実は本当のディアローグではなく、単にモノローグが飛び交っているだけではないかという気がするのです。「他者」としての対話相手が自己に対してどのような問題を突きつけているのかといったことを考えるのは「しんどい」ことであり、そのような面倒くさいことは抜きにして、自分が言いたいことだけを、相手の発話とは無関係にしゃべりまくる――そういう態度が至るところでみられるように思われてなりません。御高著の「まえがき」にある「言説の大量生産」「軽やかなお喋り」というのも、他者と真剣勝負するという面倒な作業を省くからこその現象ではないでしょうか。そうだとすると、そういう状況の中で「対話」というものをどのようにして成り立たせることができるのだろうかというのが、私が常日頃かかえている大きな問題です。
話が更にそれますが、論争というものがどのようにして成り立つのかということをこの関連で考えてみたいと思います。私とある人とが、あれこれの点について異なる見解をもつ――これだけであれば、ごく当然のことであり、何ら驚いたり困ったりすることではありません。もしその人と私の間で論争が、いわばフェアプレイの精神に基づいて展開され、そのことを通して理性的なコミュニケーションが成り立つなら、それは大変喜ばしいことです。その際、結果的に見解の一致がもたらされるかどうかはどうでもよいことですが、「フェアプレイの精神に基づく論争とは、また理性的コミュニケーションとはどういうものか」についての最小限度の共通理解がないなら、そうした論争はそもそも行なわれえないでしょう(ここで論争の主題にかかわる見解の相違を「善き生とは何か」に関する意見の違いになぞらえ、論争におけるフェアプレイ精神、理性的コミュニケーションの作法は「正義の基底性」に相当する、という風に考えたくなるのですが、無理なアナロジーでしょうか)。「見解を異にする者と持続的に対話しうる忍耐と度量」(一九五頁)という言葉も、こうした論争の基本的な条件を指しているように思われます。そして、実際問題として、そのような「忍耐と度量」をもたない人が圧倒的多数であるために、実りある論争が行なわれない――これが現実であるように思われてなりません。
日本人は論争が苦手だとか、日本では生産的な論争があまり行なわれないとは、よく聞く言葉です。私は、おそらく日本人としては異例に多くの論争をこれまでにしてきました。ただ、それは私が「論争好き」の性格だからというのではなく、むしろ性格的にはそういうことに向かないのだけれども、「日本人が論争を避けるのはよくないことだ」というような議論を真正直に、額面通りに受け取って実践したというようなところがあります。そして、自分としては、個人的な感情は抜きにしてザッハリッヒな論争をしようとしたのに、論争相手なり周辺の人なりからは感情的な受け止め方をされて、いわゆる「泥仕合」じみた様相を呈したり、誤解に基づく非難をされたり――それも正面から言われればまだしも反論の余地がありますが、陰に回ってこそこそと変な噂を広められるといったことも含めて――して、非常に悲しい思いをした経験が何度もあります。そうした感情的問題はさておくにしても、内容的にも、論点がかみ合わず、真正面からの「対話」「論争」ではなく、すれ違いの連続ばかりになって、精神的に消耗することもしばしばです。そういう経験を積むうちに、だんだん私は論争というものに臆病になってしまいました。もちろん、「物言わぬは腹ふくるるわざ」ですから、論争したいときにいつも黙っているという態度をとるのも面白いことではありません。かといって、思い切って発言すると、思いもよらぬ誤解を招き、生産的な論争には滅多に発展しない、これは実に辛く悲しい教訓です。いくら自分が「見解を異にする者と持続的に対話しうる忍耐と度量」をもって論争しようとしても、相手にそのような「忍耐と度量」を期待できない場合にはどうしたらいいのだろうか、という問いをいつもかかえており、おそらく「正解」などないのではないかと思いつつ、井上さんのお考えを伺いたく思っております。
五
大分議論がそれてしまいました。御高著の内容に即した議論に戻りたいと思います。
この小文の三の末尾で、「社会の伝統」という論点に触れました。リベラリズムという立場は往々にして単純に個人主義と等置されることもありますが、井上さんのリベラリズムは、個人を支えるものとしての共同体とか伝統というものを決して無視していないという点に一つの特徴があるように思います。実際、そうでなければ、狭義の個人主義がそれだけで自動的に秩序とか正義とかを実現することは困難でしょう(「見えざる手」による調和を想定することもできないわけではありませんが、それは予め保証されているものではないでしょう)。そうした関連で、いわゆる共同体論(コミュニタリアン)の問題提起をどう受けとめるかという論点が大きなものとして浮かび上がってきます。御高著の第二部「共同体論との対話」は、そうした観点から、多くのことを教えられました。私自身は英米の共同体論をめぐる論争の詳細には不案内ですが、最近の自分自身の問題意識と重なり合うものを感じ、強い関心を引かれております。そして、共同体論の問題提起には鋭いものがあるが、かといってそれを全面的に受容するわけにもいかないのではないかという感覚を懐いているので、井上さんの議論には共鳴するところが多いと感じます。
井上さんの共同体論へのスタンスを私流に要約するなら、その問題提起――とりわけ「負荷なき自我論」批判――は重要な問題に触れているが、それは、「共同体の歴史や伝統、およびそこに埋め込まれた善き生の構想が何であるかについて、解釈の複生を不可避とする」点を見落としているのが問題だ、ということになるのではないかと思います。そして、「逞しきリベラリズム」はある種の「共同体」の意味を否定するものではなく、それどころか「位置ある自我」論――あるいはむしろ「自己解釈的存在」論――によってこそ基礎づけられるが、その際、「構成〔的〕共同体が生ける構成的紐帯を保持しようとする限り、絶えざる分裂・再統合の過程にあること、従って、かかる共同体は非権力的・自発的結社であるべきこと」を忘れてはならない、というのが主要な点であると読ませていただきました(一三七頁)。この考えは、私自身がこの間自分一人で考えてきたことと重なる部分が大きく、共感を覚えます。その上で、ここでもやはりいろいろと疑問がわいてきます。
先ず、共同体論において念頭におかれている「共同体」とは具体的にどのような範囲の人間集団なのだろうかという問題があります。一三三頁には、「全体社会としての国家であれ、地域社会であれ」という表現があり、これを文字通りにとると、共同体の範囲は、小は村落のような地域社会から大は国家に至るまで、多様でありうるということになります。他方、別稿「多文化主義の政治哲学(4)」では、「共同体論は基礎単位としての共同体を国民国家や、国民的公共性へと人々を媒介するエスニシティ横断的な自治的共同体に求めるか、あるいは国民的統合に対抗するエスニックな文化的共同体に求めるかによってナショナリズムと多文化主義に分解される」と指摘されています(同論文九一頁)。これは成る程と思いました。実際、共同体というものについて考える場合、どの単位をそれとして認定するかは大きな問題であり、その点をめぐって論者の間で分裂が生じるというのはよく理解できます。この点についての私の目に触れた文献は、相当大きな多様性を示しています。たとえば、杉田敦氏は、「コミュニタリアンの多くは、自らの考える共同体の範囲を国民国家と重ね合わせます」として、「一つの国の中に複数の文化的共同体がある」というマルチカルチュラリズムの主張と対比しています(5)。他方、キムリッカは、共同体論は民族ではなく、民族の中の小集団を念頭においているとしています(6)。これらは、国民国家単位の文化的同質性を前提する共同体論と、国家内での文化的多様性を重視する立場の対立ととらえ直すこともできるでしょう。
私の勝手な解釈では、おそらく多くの共同体論者は、国民国家における文化的伝統の共有を前提しつつ、そうした同質的文化をもった「中間団体」が複数あるという状態を想定しているのではないでしょうか。国家そのものが共同体だといってしまったのでは国家主義になってしまうので、むしろ国家の中の小集団を重視するけれども、それらが相互に非和解的な衝突を引き起こしたりすることなく調和的関係を実現するのは、それらが一定の文化・伝統を共有しているからだと考える、ということなのではないでしょうか。こうした考えに対しては、そのような「共通の文化・伝統」なるものは、実は多数派民族の文化・伝統でしかなく、少数派の文化・伝統を抑圧するものだという抗議が当然あり得ます。しかし、杉田論文も指摘するように、少数派の文化・伝統といえども、実はそれ自体が固定的なものとなって個人を抑圧する可能性を秘めています。これは実に厄介な問題であり、私自身がこの間ずっと考えている問題でもあります(7)*。
もう一つの問題は、確かに、共同体の伝統は種々の再解釈に開かれているはずであり、そうした多様な再解釈が活発に繰り広げられる中で複生と分裂・再統合の過程にあるといえるでしょうが、その分裂があまりにも甚だしくなれば、もはや再統合もできなくなり、「共同体」たりえなくなるのではないかという点にあります。そして、いわゆる共同体論者が危惧しているのはまさにそうした事態なのではないでしょうか。どんなに分裂が進行してもかまわない、という立場もあるかもしれません。しかし、とことん分裂が進行するなら、究極的には個人にまで分解することになり、それは「負荷なき自我」となってしまうのではないでしょうか。かといって、共同体の分裂を防ごうとしてそれを固定的に捉えるなら、それが成員に対して抑圧的なものになるというのはご指摘の通りです。ここにあるのは次のようなディレンマであるように思われます。即ち、仮に望ましい共同体の性質として、「個人を鋳型に押し込まない柔軟性」と、「アノミー状況の歯止めとなるしっかりした伝統を保持する安定性」とがあると考えるなら、この二つは両立するとは限らないのではないか、という問題です。そして、後者が失われようとしていることに強い危機感をいだくのが共同体論者だとすると、井上さんは前者の重要性を説いているようにみえるのですが、問題は、この両者をどうやって双方とも確保できるのかという点にあるように思えます。
この関連で、キムリッカの所説に対する評価についても触れておきたいと思います。御著書では、「少数派文化の政治的な優先的保護措置を認める多文化主義がリベラリズムに統合可能であること」を示している議論の例として、キムリッカが挙げられています(二二一頁、また注の一五‐一六頁)。別論文にも、「キムリッカは……集団的権利と個人の自由・平等とを両立させるリベラルな多文化主義の可能性を示している」という個所があります(8)(なお、ついでですが、キムリッカ自身は、「集団的権利」という用語は避けて、その代わりに「集団別市民権」といっているように思います)。こうした個所から推察すると、多文化主義の問題提起をリベラリズムに吸収しようという志向を井上さん自身がおもちであり、その際の一つの有力な拠り所としてキムリッカの議論を位置づけておられるかにみえます。
しかし、他面、別稿「多文化主義の政治哲学」では、キムリッカの議論に若干の難点のあることが指摘されています。民族的マイノリティとエスニック集団の区別はうまくいくかどうかに疑問がある、また「民族的マイノリティの存在を否定して『単一民族神話』を押し付けるナショナリズムを多文化主義は批判するが、この批判は民族的マイノリティ自身の文化的アイデンティティ形成にも向けられないか」といった点です(9)。更に、「マイノリティの文化的自己保存のために個人の自由や平等に一定の制約を課す集団的権利の恒常的な承認を求める」多文化主義は、「関与問題」に関してはナショナリズムと接合してリベラリズムと対立するとしているという記述もあり(同右、九〇、一〇一‐一〇二頁)、その含意は、多文化主義および「集団的権利」論はリベラリズムと対立するということのように思えます。リベラリズムは「負荷なき自我」論に立つわけではないが、「様々な文化や帰属集団が個人のアイデンティティにとってもつ位置や重要性は、その個人の自己解釈に依存するとみなす点で、基本的なアイデンティティの単位を個人そのものにおく。〔中略〕究極の責任主体はその個人である」(九三頁)という記述も、集団的権利論と対立するようにみえます。とすると、リベラリズムによる多文化主義の包摂は、御著書で論じられている以上に困難な問題をかかえるということになるのではないでしょうか。ある個所ではキムリッカに依拠して、その包摂が可能だと説きながら、他の個所ではキムリッカの論が批判されているとなると、井上さん自身によるその一層の基礎付けを期待したくなります。
六
これまでの個所では抽象的な議論に終始してきましたが、ここでやや方向を転じて、多少具体的な例として、ジェンダー/セクシュアリティーおよび民族/エスニシティーの問題について考えてみたいと思います。
先ず、前提的に、種々の差別問題の性質にかかわることについて考えてみたいと思います。別稿「多文化主義の政治哲学」の冒頭に近いあたりに、次のような個所があります。即ち、女性や人種差別に関するアファーマティヴ・アクションは、「その終局的目的は偏見やステロタイプを解体し、人種隔離や性別分業を解消すること、すなわち、帰属集団の差を捨象した諸個人の統合の実現である。被差別者を『同じ人間として尊重し受容する』ために、偏見を是正する優先措置を一時的に採択する。……したがって、個人の自由・平等を基本に据えるリベラルな立憲民主主義の原理とこれらの差別是正措置との調和を図ることはさほど困難ではない」(同論文、八九頁、傍点塩川)。これに対し、「先住民や言語的マイノリティ集団にとっては、『同じ人間なのに偏見によって差別されること』以上に、『異なっているのに同化されること』の方が深刻な問題である」(九〇頁)。
ジェンダー問題とマイノリティ問題はしばしば「差別」の問題として同列視されることもありますが、それらを安直に一括することなく、両者の性格の相違に着目すべきだというのは重要な指摘だと思います。しかし、そのことを承認した上で、この対比はやや強すぎるような気がします。一つの問題として、フェミニズムの主張の中には、「同じ人間」という議論を前面に押し出すものと、「男性社会への同化」を警戒する議論とが同居しているように思います。フェミニストの間で、性差最大化論と最小化論の論争があることは周知の通りです(10)。人種・民族問題についても、平等な統合を志向する議論と、固有のアイデンティティーを重視する立場とがあります。一般に、何らかの被差別集団が差別の問題に取り組むとき、「同じ人間なのに差別があるのはけしからん」という方向の運動と、「自分たちの固有のアイデンティティを誇れるようにしたい」という方向の運動との緊張という問題は常にあるのではないかと思います*。このように考えるなら、一方は統合志向、他方は独自性主張という風に単純に割り切ることはできないのではないでしょうか(この疑問は、キムリッカの「民族的マイノリティ」と「エスニック集団」の区別についても当てはまります)。
*この点は、別稿「リベラル・デモクラシーとアジア的オリエンタリズム」の中で「差別の背理」という形で言及されている問題(同論文、三八‐四二頁)と重なります。そこには、「ブラック・イズ・ビューティフル」といったタイプの主張のことを「歪んだ認知的意味」の承継、「差別の構造の共犯者」という指摘があります。御指摘の意味はよく分かりますが、こういう風にだけ言い切ってしまうことには、私はややためらいを覚えます。これまでおとしめられてきた集団が、自分たちにも誇りがあるということを主張する際に、そのような形をとること自体を、一概に退けることもできないのではないかと考えるからです。
もう一つの点として、先の引用文は、あたかも女性差別およびそれへの対処としてのアファーマティヴ・アクションの問題は文化的マイノリティの問題に比べて、少なくとも原理的レヴェルでは相対的に簡単な問題である――たとえ実践的解決が困難だとしても、解決の方向性の議論においてはさしたる困難がない――という含意があるように読みとれますが、そういっていいのだろうかという疑問もあります。そもそもアファーマティヴ・アクションが偏見解消までの「一時的」措置だという理解が広く共有されているとは限らないような気もしますが、仮にその点は前提されているとしても、ではそうした「一時的措置」はどの段階で解除されるべきかという問題があります。これは原則論よりも具体的な状況判断にかかわるから哲学的には大した問題ではないということなのかもしれませんが、現実には難しい問題を提起するように思います。ある時期以降のアメリカでは、「アファーマティヴ・アクションの行き過ぎ」が問題にされているようですが、「まだ足りないのに、『行き過ぎ』を云々するとは何事か」という反撥もあるでしょう。日本では、そもそもまだアファーマティヴ・アクションがそれほどとられていませんが、その一方でアメリカにおける「行き過ぎ」が伝えられるために、「行き過ぎ」警戒論も提出されているという複合的な状況があります。こうしたことを考えると、アファーマティヴ・アクションの問題は「暫定的」という合意があるから簡単だとは言い切れず、なかなか厄介な問題を含んでいるような気がします。
また、御著書の中には、「歴史的不正を是正する『匡正的正義』や、文化的な自己実現機会を実質的に対等化するための再分配」への言及があります(二二二頁)。具体的な説明がないのでよく分かりませんが、これは例えば黒人なり女性なりに対して「歴史的不正」があったという認識に立ち、それを「匡正」しようとするアファーマティヴ・アクションを指すもののようにとれます(もし誤解でしたら、ご叱正下さい)。だとすると、ここではアファーマティヴ・アクションが、条件付きにもせよ肯定的にとらえられていることになりますが、この問題の微妙さからすると、このところはもう少し突っ込んで論じていただきたかったという気がします。
私がなぜこの問題にこだわるかというと、実は社会主義国における民族政策や女性政策のうちにはアファーマティヴ・アクションに似た要素があり、そのことが問題を複雑化したのではないかと考えるからです*。何らかの集団が「歴史的不正」をこうむっていた場合、それを「匡正」する意味で、不利性の補償を要求する権利があるという考えは、確かに一定の説得力をもちます。しかし、その権利と、他の人々の権利とが衝突する場合、その「葛藤」をどのように考えるべきかという問題は、次に触れる権利衝突・葛藤の一つの重要な例ということになるのではないでしょうか。
*一部の俗論として、社会主義政権は既存の差別を単純に放置あるいはむしろ増幅したというような議論がありますが、それは間違っていると思います。社会主義政権は差別匡正を目指す政策をとったけれども、それ自体が新たな矛盾を生み出したという点にこそ、社会主義国の歴史を研究することの意義があると考えております(前注7参照)。
より議論を広げると、第六章一八五‐一八六頁に、権利の拡充が「多様な諸権利の間の衝突」という新しい問題を生みだしたという指摘があります。私はこれは極めて重要な指摘であると思い、この問題提起には大いに共鳴するのですが、この章のその後の部分では、再び共同体論の紹介と批判に話が移っており、当初の問題提起そのものへの回答は読みとることができませんでした*。
*私の勝手な解釈ですが、江原由美子編『生殖技術とジェンダー』における井上・加藤論争は、まさにこの問題に触れているように思います(11)。そこでは、「女性の自己決定権」と「胎児の生存権」という二つの権利の間の衝突が問題にされているからです。二つの権利がともに尊重されるべきこと、それ故に両者の葛藤をまさしく葛藤として正面から受けとめるべきだという主張には私も賛成です。しかし、ではその葛藤に対してどのように対したらよいのかという点になると、なお疑問が残ります。
この権利衝突論を私なりに読み込むなら、次のような問題がはらまれているように思います。即ち、権利の主体的・内容的拡充はリベラリズムの成果でありながら、リベラリズムを困難なディレンマに追い込んでもいるということです。もっと乱暴に単純化して言い換えるなら、人々の権利意識が高まり、これまで権利主体とみなされていなかったような人たち――かつての有色人種、そして女性や子供はその典型的な例でしょう――が自己決定権を主張するようになることは、確かに「進歩」ではあるが、同時に困難な問題を提起してもいて、単純に賛美するだけでは済まないということになるのではないでしょうか。このような言い換えは、あるいは井上さんの意図とは多少離れるかもしれませんが、私自身がこうした問題に最近強い関心をもっているので、一体この難問についてどう考えたらよいのだろうかという、私を悩ませている問いを井上さんにも投げかけたくなってしまいます。
脱線となりますが、大沼保昭さんの近著『人権、国家、文明』に、「人権のインフレ」、「人間の生活を過度に『権利』の言葉で発想」する傾向のもつ危険性についての言及があるのも(12)、これと接点があるように感じ、興味深く読みました。ただ、私ごときがいうのも口幅ったいことですが、大沼さんの議論は、このような「人権/権利インフレ」に警告を発しながらも、結局は人権観念がより普遍的なものに発展していくだろうという楽観的展望を十分な説明抜きに提示しているように思え、議論としては折衷的な気がしました。「民族自決権」に代表される「集団的権利」論(同書、一八七、二一四頁など)についても同様のことを感じます(13)*。
*民族の問題については後の項で取りあげますが、ここでついでに一つの問題を出しておきたいと思います。井上さんは、私の理解する限りでは、権利の主体はあくまでも個人――共同体に属さない裸の個人ではないとしても、複数の共同体に属したり、所属共同体を変更したりする自由をもっている以上、固定的な共同体に吸収されきらない個人――としておられるようにみえます。では、「集団的権利」の一種としての「民族自決権」への評価はどのようなことになるでしょうか。
七
次に、ジェンダーとセクシュアリティにかかわる問題に移ります。
手始めとして、セクシュアリティの規範と逸脱という問題に触れた記述――これは、それ自体としてはやや個別的な問題を取りあげていますが、見ようによっては、もっと大きな広がりをもつかもしれないという気がします――について考えてみたいと思います。それは次の個所です。「逞しきリベラリズムがこれ〔同性愛の脱犯罪化〕を支持するのは、同性愛者の性生活の形式が彼らにとって、気ままな選びの対象ではなく、彼らの自同性の一部、彼らが彼ら自身であることの一部であることを承認するからである」(一六二頁)。
これは確かにもっともにみえる議論ですが、考えてみると、いろいろな疑問が出てきます。先ず、「気ままな選びの対象ではなく、彼らの自同性の一部」の承認ということですが、ある人がある性生活のスタイルをとるときに、それが「気ままな選び」としてなのか、それとも「自同性の一部」であるのかを確定することは可能でしょうか。本人にとってさえも区別できないことがあるかもしれないし、まして他人が決めることはほとんど不可能でしょう(いわゆる「援助交際」をしている少女が「気ままな選び」をしているのか、それとも「自同性」を真剣に探求しているのか、どうやって確定できるのでしょうか)。とすると、ある行為を脱犯罪化するのは「自由に選択できるライフ・スタイルの問題」とみなすからではないといくら井上さんがいっても、「犯罪でない以上は勝手だ。気ままなことをさせてもらおう」という人の行為を放置・容認するということになるのではないでしょうか。前の方で問題にした法学者と哲学者の関係でいうと、「脱犯罪化すべきだ」という結論を出すのは法学者の任務ですが、「脱犯罪化されたある行為が、それでも道徳的に悪といえるか」、「気ままな選びに耽るのはあまり感心しないことだが、自同性を探求するのはよいことだ、といえるのか」といった問題は哲学者の課題として残るのかもしれません。
もう一つの問題は、ここで例として挙げられているのは同性愛行為なわけですが、では自発的売買春はどうかとか、いわゆるセクハラ的行為はどうなのだろうかということです*。幼児売春とか管理売春とかについては、これを非合法化すべきだということにさして異論はないでしょう。しかし、成人が暴力や巨額の前借金などによって強制されることなしに自発的に売買春するなら、それは他人に危害を及ぼしているわけではないし、仮に道徳的に悪だとしても人間には「愚行権」もあるのだから非犯罪化すべきだとも考えられます。他方では、売買春という行為は、当事者だけの問題ではなく、全女性に対する差別・侮辱行為であり、その意味で法的に禁止されるべきだという考えもあります。このどちらが正当かを決めるのはなかなか難しいことのように思います。私の個人的考えでは、どちらかといえば前者の方に傾いているのですが、「刑法的に犯罪としない」ということと「道徳的に悪でない」ということとは同じではなく、「犯罪ではないが、悪ではある」という議論は十分成り立つでしょう。しかし、法的規制の外におくとしたら、そうした「悪」にどう対処したらよいのかというのは、なかなか答えにくい難問です。セクハラについても、同様の問題があるように思います。悪質なセクハラは法的取り締まりの対象にすべきだが、軽度のセクハラは法の範囲外とすべきだというのが、法の過剰介入をおそれる自由主義の観点からは穏当な考えだと思いますが、それは決して、軽度のセクハラを道徳的にも是認するということではありません。その場合、「軽度のセクハラは法の範囲外ではあるが、道徳的には悪であり、できればなくすよう努めるべきだ」と考えるとしたら、それを具体的にどのようにして実現すべきかという問題が残ります。ポルノに対する規制についても、同様の問題があるでしょう。
*国や時代によっては同性愛を極度に忌むべき犯罪とみる例もあるので、一概に同性愛問題の深刻度が低いとはいえないでしょう。しかし、私の個人的感覚としては、同性愛というのは犯罪性がないことが比較的明白であるのに対し、売買春とかセクハラの方がより微妙であるような気がします。そこで、こちらの方を取りあげてみるとどうなるのかということが気になるのです。
一部のフェミニストの中には、これまでの男性優位状況への苛立ちの表現として、これらをすべて法的に取り締まるべきだという発想をもつ人がいます(私はアメリカの状況にはあまり通じていませんが、アメリカにはそういう議論があり(14)、また日本でも同様の議論をする人がいるように思います)。リベラルな「法的/国家的強制の限界」という観点からは、女性差別的と受け取られうるあらゆる行為をすべて法的に規制しようとするのは行き過ぎであり、法的取り締まりの対象とすべきものとそうでないものとを慎重に選り分けるべきだということになると思いますが、「法的に取り締まらないなら、野放しになってしまうではないか。それは結局、男性優位・女性差別の容認ではないか」というフェミニストに対してどう答えるのかという問題は残ります。おそらく、法という領域とは異なった次元で考える必要があるのではないかと思いますが、それを具体的にどのように考えるべきかはなかなかの難問です(15)。
セクシュアリティに関する通念的規範からの逸脱という点でいえば、いわゆるサド=マゾ的関係をどう評価するかという問題もあります。真剣な自同性の探求が多様な形をとることを承認するという見地からいえば、サディズムに自同性を見出す人とマゾヒズムに自同性を見出す人とが自発的に結合して、サド=マゾ関係を営むことは肯定されて然るべきだということになるでしょう。しかし、「マゾ」役を望んでいない人にサディストがそれを押しつけ、そうした関係の中で暴力を振るうのは、当然非難されるべきことでしょう。厄介なのは、「自発的」か「押しつけ」かを一義的に確定できない場合があるのではないかという点です。特に、男性がサド、女性がマゾという役割の場合――そして、文字通りのサド=マゾ関係ではなく、やや拡張解釈した、比喩的な意味でのサド=マゾ関係(支配・従属関係)がある場合――、その女性は、真に自発的に自己のアイデンティティの一部としてその役割を享受しているのか、それとも無理強いされて暴力の犠牲になり、しかもその無理強いがあまりにも深い点に達しているためにそのことを自覚さえできないようにさせられているのかを確定するのは難しい場合があると思います。多くのフェミニストは、そうした支配・従属関係は唾棄すべきものだと主張するでしょう。それはそれとして尊重すべき議論ではあります。しかし、他面、そこに自発性なり真剣なアイデンティティ探求なりが皆無だと断定することも性急であるような気がします。これは、女性がサド役(主導権をとる側)、男性がマゾ役(受動的な役回り)という関係もあり得ることを考えると、より複雑になります。ちょっと議論を広げすぎ、御著書の本筋から外れたかもしれませんが、御著書の議論喚起力の大きさの故ということでお許し下さい。
八
さて、次に、民族/エスニシティーの問題に移ります。これは極めて広大かつ複合的な問題領域であり、私自身もかなり深い関心をもっているため、簡単に片づけることのできない大テーマですが、ここでその全体像に取り組むわけにもいかないので、御著書および関連論文のうちの私の目を引いた個所を手がかりとして、簡単な問題提起をさせていただきたいと思います。
先ず、ある種の民族的/エスニック・マイノリティーが一定の不利をこうむっている場合、それをどのようなものとして捉えるか――主として国家の政策の結果ととらえて、政策変更要求に活路を求めるか、それとも国家以外の、例えば「庶民」の中にある無意識的な差別観のようなものに根源を求めるのか、という問題があります。この関連で、御著書の二二一‐二二二頁に、文化的・宗教的少数派が多数者より不利なライフ・チャンスをもつのは自然的・前政治的与件であるというより、国家の政策の帰結であることが「通例である」と述べられているのが目を引きます。私としては、これには多少の疑問があります。もちろん、国家の政策が大きな役割を演じること自体は事実でしょう。しかし、それだけで説明できるかといえば、そうとは限らないのではないでしょうか。「通例である」という表現は、やや断定を避けた形になっていて、そうでない場合もあることをほのめかすニュアンスがありますが、ではそうでない場合についてはどうなのかということについては語られていません。
私がこういうことを書くのは、ただ単に、「そういうこともあれば、そうでないこともある」ということを折衷的に確認するためではありません。もし少数派の不利性が専ら政治に由来するなら、話はまだしも簡単だというのが私の考えです。政治を変えるのは、実践的には難しいことですが、理論的には、ある政治・政策が不適切だということを指摘し、それを変えるべきだと主張するのは、スッキリと割り切れたことであり、比較的簡単なことです。これに対して、政治だけでは片づかない問題こそ、「では、どうしたらよいのか」という問いに対してなかなか回答を出すことのできない、真に深刻な問題ではないでしょうか。一例ですが、一九世紀末‐二〇世紀初頭のロシア帝国におけるユダヤ人ポグロム(大虐殺)に関し、「権力による陰謀説」と「民衆による自然発生説」との論争があります。私自身はこの問題に直接取り組んでいるわけではありませんが、専門家の間では、どうも陰謀説は歴史解釈として妥当でないとする自然発生説の方が有力なようです。これ自体は一つの事例に関する実証史学的問題ですが、もし陰謀説が正しいなら、帝政政府のみを糾弾すれば済むのに対し、民衆自身による自然発生性の要素を重視するなら、「民衆」というものについて、より深い省察が必要になり、哲学的にも大きな問題を提起するのではないかと思います。
やや議論が別の方面に向かいますが、ある程度の関連をもつものとして、別稿における「アジア的価値」論(16)にも触れさせていただきたいと思います。この論文における一つの主張の要点は、「開発独裁」的発想――この言葉自体は御論文では使われていませんが、実質上それに近いもの――への批判があるように思います。これは、それ自体としては妥当な議論ではありますが、どちらかというと、「批判しやすいものを批判している」という印象を懐いてしまいます。特に、取りあげられている言説の多くが為政者の言葉であるため、「このような言説は、彼らの支配を正当化するための欺瞞的言辞に過ぎない」という嫌疑をかけやすいように思います。もし仮に、為政者とは明確に異なる立場にいる人が、為政者に対しては批判的な目をもちつつ、にもかかわらず、その支配の強さにはそれなりの理由もあることを認めないわけにはいかないという苦渋に満ちた議論を提出している場合を念頭におくなら、議論はそう簡単には進まないのではないでしょうか。私見では、「権威主義政治が経済発展に有効とは限らない」というのは正しいとしても、だからといって、「ときとして有効なこともある」ということまで否定されるわけではないように思いますし、「民主主義なら必ず経済発展に有利」ということもできないのであって、これだけで片づけるのは安易であるように思われてなりません(17)。
「民主化が民衆の利益分配要求を過熱させ、経済発展に必要な資本蓄積を不可能にするという仮説も経験的根拠に乏しい。アジアについては、焼け跡からの奇跡的な経済成長と民主化の同時進展を示した戦後日本の経験が、この仮説の象徴的反証例となろう」という文章もあります(三三頁)が、この主張は、それこそ「経験的根拠に乏しい」ように思われてなりません。戦後日本の例への言及は――井上さんの真意はともあれ、この個所の文章に即する限り――あまりにも楽天的であるように思われます。焼け跡からの経済成長の前提として、占領体制――一例として、GHQによる二・一スト禁止の例が思い浮かびます――があり、また朝鮮戦争に関連した特需もあったことを思うなら、経済成長と民主化が手に手を携えて進展したかにみる見方には大きな疑問符がつくでしょう。
次に、近年の世界各地で噴出している民族紛争の問題に触れたいと思います。御著書では、この点に関連する記述として、「冷戦構造の崩壊後、これまで隠蔽抑圧されてきた宗教・文化・エスニシティをめぐる深刻な価値対立が随所で噴出している」という個所があります(八頁)。これは、それ自体としては正当な指摘ですが、ただ、御論考の中心をなしている哲学的な考察(価値対立の哲学的意味での深刻性)と現実政治のレヴェルとがやや直結され過ぎているのではないかとの印象をもちました。現実に起きている様々な紛争の実態というものは非常に複雑な面をもち、なかなか特定の原理だけで割り切れるものでないことはいうまでもありません。「宗教・文化・エスニシティをめぐる深刻な価値対立」という形をとって現われている民族紛争にしても、それが本当にそうした価値対立に由来するのか、それとももっと違った要因によるものかは、にわかには確定できない難問です。実際、「宗教・文化・エスニシティをめぐる深刻な価値対立」がありながら平和的に共存している例はいくらでもあり、そしてその同じ状況が、ある日突然、激しい紛争に転化するということもしばしばみられるところです。かつてソ連やユーゴスラヴィアで民族紛争が表面化していなかったのは、決してKGBの暴力で民族対立が押さえ込まれていたからだけではなく、当事者自身が「民族的差異にとらわれる必要はない。民族や宗教の差異にこだわらずに共存することは可能だ」と信じ、民族的差異について寛容になるという傾向が、現にある程度まであったからです。それが一挙に爆発したのは価値対立からだけでは説明できません。一例を挙げれば、チェチェン紛争は、独立を求める民族運動という観点からだけでなく、石油およびパイプラインをめぐる利権の争いという観点を加えなければ、十分な分析はできないと思います。
各種紛争が「宗教・文化・エスニシティをめぐる対立」だけからでは説明しきれないことから、一部には、「民族紛争・宗教紛争などは仮象に過ぎない。実際にはむしろ経済その他の利害が紛争の真因であり、民族とか宗教とかはそれをごまかすヴェールのようなものだ」と説明する向きもあります。これはやや極論の観があり、私はこの立場に与するものではありませんが、「民族紛争」なるものを価値対立から短絡的に理解する傾向に対する批判としては、一面の真実を含んでいることも否定できません。ここでこの大問題に深入りすることはできませんが、とりあえず折衷的にいうなら、経済その他の利害と文化アイデンティティーなどの価値対立とが複雑にからみあう中で、現実の紛争は起きるものでしょう。とすれば、近年世界各地でこうした紛争が噴出していることは、利益紛争と価値紛争の絡み合いという視点から分析されるべきものであって、価値対立問題の哲学レヴェルにおける深刻性ということから直ちに説明するのはやや性急だということになるでしょう。
先の引用文の少し後にある「マルクシズムのこのような思想的誤謬の現実的代償の大きさは、現在のユーゴなど旧共産圏において宗教を異にする民族間で荒れ狂っている凄惨な相互殲滅戦(エスニック・クレンジング)によって例証されている」(九頁)という個所についても、同様の感想を懐きます。私は、「マルクシズムの思想的誤謬」は確かにあったと思いますし、「民族間の相互殲滅戦」の悲惨さはいうまでもないことですが、両者はそう簡単に直結できるものではないと考えています。後者の悲惨さを前者の誤謬からだけ説明するなら、前者を否定しさえすれば後者の危険性から免れられるという思いこみを広め、それこそ安易な「自由主義」(井上さんのリベラリズムではなくて)勝利論を元気づけることになってしまいはしないでしょうか。そして、ユーゴスラヴィアのエスニック・クレンジングはマルクス主義から直接生じたのではなく――迂回的な意味での間接的責任は否定しがたいでしょうが――むしろ「マルクス主義の破産、自由主義の勝利」という無責任な言論の噴出の中でこそ引き起こされたというのが現実でしょう。
旧ユーゴスラヴィアにおける民族紛争に関して最も深刻な――そして、多くの場合に見落とされている――問題は、チトー時代のユーゴスラヴィアが民族問題を単純に放置したのではなく、むしろ民族間紛争の克服のために相当大きな努力を払い、かつ一時はそれに成功するかにみえたという経験を持った、その後での、紛争の爆発だという点です。かつてのユーゴスラヴィアは、見ようによっては多極共存型民主主義――井上さんは、この多極共存型に一定の共感をおもちのように推察いたします(「多文化主義の政治哲学」一〇五頁)――の一種ともみることのできる、分権性の高い体制でした。そして、その中で、諸民族の間の相互違和感も徐々に緩和に向かっていました。そうした体制がしばらく続いた後で、むしろそのような状況への反動として、脱社会主義の過程の中で、新たに民族間憎悪がかき立てられたという経過は、深刻な問題を提起していると思います(18)。
九
御高著の主要部分からは外れますが、ことのついでに、現存した共産主義国家の特徴付けに言及されている個所にも、簡単に触れておきたいと思います。御著書には、「人間の生を隅々まで統制する、きわめて浸透的な官僚的・警察的権力機構」(三九頁)とか、「経済社会生活の隅々まで統制する全体主義的権力」(二〇二頁)といった表現が出てきます。これは、ごく大まかな印象論としては一応当たっており、特にソ連論を論じるわけでない文脈では、この程度の書き方でもよいといっていえなくはありません。しかし、私の観点からは、どうしてもいくつかの留保をつけたくなってしまいます。
先の引用にあるような特徴付けは、いわば表向きの建前であり、現実の社会主義国の実相は、「隅々まで統制」することなど到底できない、いわば「いいかげんで、だらしない、隙だらけの、無能な独裁」ともいうべき性格を濃厚に帯びておりました。その側面をみないと、あの社会がどうして数十年にもわたって存続し、そのもとで生きていた人たちによって消極的にもせよ受容され得たのかが全く理解できなくなりますし、現在の体制転換における困難性も理解できません。この点は、この数年間、私がことあるごとに強調している点ですが、残念なことにあまり広い理解を得ておりません。「隅々まで統制する全体主義権力」という特徴付けの方がインパクトがあり、俗耳に入りやすいという事情があるからだと思います*。もちろん、井上さんは現存した共産主義国家の実態分析を主たる課題としているわけではありませんから、通りすがりの簡単な言及で、分かりやすい表現をとるのは許容範囲内だと思います。ただ、それが現在猖獗を極めている俗論とフィットするために、それを強める効果をもたないかということを、私としてはどうしても気にしてしまうのです。
*ついでながら、そうしたこととの関係で、私は「全体主義」という概念の使用についても消極的です。抽象的な理念型としてなら使えなくはありませんが、具体的な歴史的現実の分析概念としてはあまりにも問題が多いと考えております。この点は、たとえば拙著『ソ連とは何だったか』第V章で展開しましたので、ご参照いただければ幸いです(19)。
第二章冒頭におけるハヴェルの言葉への言及についても触れておきたいと思います。なお、私自身は、大学の授業などでは一応ソ連・東欧諸国の全体を守備範囲にしているとはいえ、チェコスロヴァキアについて取り立てて専門的に調べているわけではなく、ハヴェルについても通り一遍の知識しかもっておりません。また、ハヴェルの言葉およびそれに対する井上さんの解釈についても特に異論を出そうという意図はありません。「啓蒙的理性の倨傲」(二九頁)という指摘は、私自身も非常に重要と考えているもので、深い共感を覚えます。ただ、にもかかわらず、この前後の部分を読んでいて何となく落ち着かないものを感じるのは、先にちょっと触れたのと同じく、哲学レヴェルの議論と現実政治レヴェルの議論との関連如何という問題が関係しています。つまり、ここにおいても、井上さんの、それ自体としては正当な哲学上の議論が、現実政治の流れとやや性急に結びつけられて提示されているため、後者に関しては、ちょっと待てよといいたくなってしまうのです。
たとえば、「〈下からの民主化〉としてのビロード革命と〈上からの民主化〉としてのペレストロイカ」という対比があります(三一頁)*。ここでペレストロイカ論を延々と繰り広げるつもりはありませんが、私はペレストロイカは「上からの改革」として始まったにしても、ある時期以降については、それよりもずっと広い、複合的な過程として発展したと考えております。御著書で指摘されているような側面があったということ自体は事実であり、そのことを否定するわけではありませんが、それはあくまでも一つの側面に過ぎず、もっとずっと広い範囲にわたって、多種多様な現象が一挙に吹き出したのがペレストロイカでした。その中には、ハヴェルに近いような認識をソ連知識人の中の最良の部分が提出したというような面もありました(ゴルバチョフは、自らそのような認識をもっていたわけではないにしても、少なくともそうした言説の公的表出を可能にしたという功績は否定できないと思います)。他方、チェコスロヴァキアやその他の東欧諸国の革命もまた多面的な現象であって、ハヴェルの言説がそのまま現実を映し出しているわけではありません。ハヴェル自身は、「下からの民主化」に潜む危険性を認識していたとしても、東欧革命の推進者の中には、「自分たちはゴルバチョフと違って下から民主化を推進しているのだから、自分たちのやっていることは絶対善だ」というような安易な自己正当化に走ることも少なくありませんでした。こうした多面性を考慮するなら、御著書の二八‐三二頁の記述は、いわば東欧革命の中からはその最良の側面を、ペレストロイカの中からはその最悪の側面をそれぞれ抜き出して比較するようなものとなっており、フェアな比較とは言い難いように思います。また、こうしたことを考えると、ゴルバチョフという人物の評価は極めて難しく、微妙なものであって、このようにあっさりと片づけることはできないように思います(20)。
*もっとも、この対比にはすぐ後で留保がつけられており、この対比ですべてを片づけるわけではないという論の運びになっています。ただ、その留保は「下からの民主化」のはらむ危険性についてつけられたものであって、「上からの民主化」にかかわるものではないようです。ということは、ペレストロイカについては先の特徴付けがほぼ留保なしに維持されているという風にとれます。
やや小さな、そして井上さんの本題にとって周辺的なことにこだわり続けているのかもしれません。ただ、私がどうしてこういうことにこだわらざるを得ないのかというと、前の方で書いたことと重なりますが、近年のジャーナリスティックな解説類に氾濫している俗論と井上さんの叙述が奇妙な共鳴現象を起こしかねないという危惧をもつからです。その俗論とは、単純化していうなら、西欧中心主義的発想です。つまり、「中欧」は「西欧」に近いからヨーロッパに回帰でき、民主化できるが、ロシアはヨーロッパではないから野蛮国であり、民主主義とも縁遠い、ロシア人の中で最大限に民主的だったゴルバチョフでさえ限界をもっていたのだから後は推して知るべし、というような観念です。チェコスロヴァキアやポーランドの知識人は、「ロシアはヨーロッパではないが、我が国はヨーロッパだ」という意識を濃厚に懐いており*、これはいわば「脱亜入欧」論に似たものをもっていますが、中欧知識人の言論がそれ自体としては説得力に富んでいるだけに、そして日本にも同様の「脱亜入欧」意識があるために、無批判に受容されやすいという点には注意が必要だと思います。そういうことを考える私は、「ヨーロッパへの回帰」というような言葉(三一頁)をみるとドキッとせずにはいられません。ペレストロイカと東欧革命の――そしてまた、ゴルバチョフとハヴェルの――二分法的対比も、こうした図式にぴったりと当てはまってしまいます。《ヨーロッパ=価値、アジア/ロシア=野蛮、遅れ》といった西欧中心主義の図式は、もちろん井上さんのとるところではないでしょうが、至る所に瀰漫しており、よほど注意していないとそれに飲み込まれてしまうのではないかという危惧を私は抱いております。やや周辺的な論点にこだわったのは、こうした事情があるからです。
*この点は、もっと生臭い現実政治のレヴェルでいえば、NATO拡大問題にも結びつくことになります。中欧諸国がNATO加盟にこだわるのは、「ヨーロッパへの帰属」を確認したいという強い欲求があるからですが、ロシアからみれば、これは自分たちだけが「ヨーロッパ」から閉め出されるということになります。「ヨーロッパに入れるのは俺だけだ。おまえが入るのは許せない」といって人を蹴飛ばそうというこの構図は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い起こさせます。〔この小文執筆後、NATO拡大は第二段階に進み、またEU拡大も二〇〇四年に実現した。二〇〇五年三月の追記〕。
*
とりとめなくごたごたと勝手な思いつきを並べました。書き始めたときはまさかこんなに長文になるとは思いませんでしたが、書いているうちにいろんなことが気になって、十分刈り込むこともできず、いたずらに長すぎる読書感想文になってしまったようです。的外れなところも多いだろうとは思いますが、もしこのようなものでも「対話」の糸口になるのなら望外の幸いです。
(1)浜本満「文化相対主義の代価」『理想』一九八五年八月号、同「差異のとらえ方」『岩波講座・文化人類学』第一二巻(思想化される周辺世界)、岩波書店、一九九六年所収、大塚和夫「女子割礼および/または女性性器切除(FGM)――一人類学者の所感」江原由美子編『性・暴力・ネーション』勁草書房、一九九八年所収、内堀基光「文化相対主義の論理と開発の言説」『岩波講座・開発と文化』第三巻(反開発の思想)岩波書店、一九九七年所収、青木保「文化の否定性」(同題の論文集、中央公論社、一九八八年所収)など参照。〔その後に出た杉島敬志編『人類学的実践の再構築――ポストコロニアル転回以後』世界思想社、二〇〇一年および同書への読書ノートも参照。二〇〇二年六月追記〕。
(2)Clifford Geertz, "Anti Anti-Relativism," American Anthropologist, Vol. 86, No. 2 (June 1984).ギアツの議論の解釈については、前注の諸文献も参照。
(3)「文化相対主義」再考に関する私なりの受けとめとして、塩川『現存した社会主義』勁草書房、一九九九年、四一‐四九頁。
(4)油井大三郎、遠藤泰生編『多文化主義のアメリカ』東京大学出版会、一九九九年、所収。
(5)杉田敦「寛容と差異」『新・哲学講義』第七巻、岩波書店、一九九八年、一〇五頁。
(6)ウィル・キムリッカ『多文化時代の市民権――マイノリティの権利と自由主義』晃洋書房、一九九八年、一三八‐一三九頁。
(7)塩川「ソ連言語政策史再考」『スラヴ研究』第四六号、一九九九年、「言語と政治」皆川修吾編『移行期のロシア政治』溪水社、一九九九年、「帝国の民族政策の基本は同化か?」『ロシア史研究』第六四号、一九九九年。また『現存した社会主義』の関連各所も参照。〔その後に刊行した『民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T』岩波書店、二〇〇四年も参照〕。
(8)井上達夫「リベラル・デモクラシーとアジア的オリエンタリズム」今井弘道、森際康友、井上達夫編『変容するアジアの法と哲学』有斐閣、一九九九年、五一頁。
(9)井上「多文化主義の政治哲学」九五‐九六頁。
(10)青木やよひ『フェミニズムとエコロジー』新評論、一九八六年、上野千鶴子『女は世界を救えるか』勁草書房、一九八六年など。
(11)井上達夫「人間・生命・倫理」、加藤秀一「女性の自己決定権の擁護」、井上「胎児・女性・リベラリズム」、加藤「『女性の自己決定権の擁護』再論」、いずれも江原由美子編『生殖技術とジェンダー』、勁草書房、一九九六年所収。
(12)大沼保昭『人権、国家、文明』筑摩書房、一九九八年、三〇〇頁以下。
(13)この点については、塩川『現存した社会主義』第X章の注41も参照。
(14)高橋和之「ポルノグラフィーと性支配」『岩波講座・現代の法』第一一巻(ジェンダーと法)、岩波書店、一九九七年における紹介参照。
(15)一つの問題提起の試みとして、塩川「現代道徳論の冒険――永田えり子『道徳派フェミニスト宣言』をめぐって」『三田社会学』第三号、一九九八年。
(16)井上達夫「リベラル・デモクラシーとアジア的オリエンタリズム」(前注8)。
(17)開発独裁について、塩川『現存した社会主義』三二一‐三二二、五〇七、六一〇‐六一一頁なども参照。
(19)『現存した社会主義』第U章の注58なども参照。
(20)ゴルバチョフ論については、さしあたり、塩川「二つのゴルバチョフ論」上・下『UP』一九九九年一、二月号、また『へるめす』一九九六年九月号のゴルバチョフ回想録書評を参照。
*井上達夫『他者への自由』創文社、一九九八年
(実際に著者に送った私信をもとに、部分的な削除、議論の順序の入れ替え、注をつける、また文章を整えるなどの改訂を施して、一九九九年三‐八月執筆。二〇〇五年三月、微修正)。