立岩真也『私的所有論』
一
数年前に本書が出て間もない時期に、はじめて本書を手にしたとき、「おわりに」にある次の文章が目に入った。
「この本を書く作業の大部分は単独行としてなされた。(中略)。約二年間、ほとんど何も読まなかったと思う」(四四三頁)。
序にも次のような文章がある。
「特に誰かのアイデアをもとにするのでない、手作業によって考察の多くの部分は進められた。書かれることは特に何かの『思想』に依拠していない。ひとまず必要がなかったからだ。それに何かを引合いに出せば、それとの異同を確かめる必要がある。そのためには相手の言っていることを知らなくてはならない。注釈が増えてしまうだろう。かえって面倒なことになる。そういう作業はきっと必要なのだろうし、それを行うことによってきっと私も得るものがあるのだろうとは思うが、相手から何かを受け取るためにも、まずは私が考えられることを詰めておこうと思った」(iv頁)。
二年もの間ほとんど何も読まなかったとか、何かの思想に依拠する必要をさしあたり感じなかったというようなことをさらっと書けるというのは尋常なことではない。この著者はただ者ではない、と直観的に思った。
それでいながら、すぐに本書を読んだわけではない。何分にも、相当の大著(文献表を含めると約五〇〇頁)であるし、扱われているトピックも、医療倫理・生殖技術・優生学・障害者運動・生命倫理等々といったもので、私自身の専門からあまりにも遠く、すぐは手が出せそうにないと感じた。ただ、いつかきっと読もうと心には決めていた。その「いつか」がいつになるかは見当がつかず、日々の忙しさにかまけている間はなかなかこうした大著に向かう時間がとれないだろうから停年後にでもなるだろうかなどという気もしていた。そういう気持ちで「積ん読」にしていたところ、昨年、同じ著者の『弱くある自由へ』という本が出た(1)。タイトルにも惹かれるものがあったし、前著より薄くて読みやすそうだったので先ずこれを読むことにし、それに引きずられてこの大著にも挑むことになった、というのが本書に向かった経緯である。
通読して何よりも強く印象づけられたのは、先の引用文にも既に示されているが、徹底して自分の頭で考え抜こうとする姿勢である。ものを書くというほどの人であれば「自分の頭で考える」というのは当たり前のことであるはずだが、実際には、その当たり前のことを実践している人はむしろ稀であり、これほどにも徹底して粘り強く遂行しようとする人は希有だとさえいえる(念のために付記すれば、本書が他者の議論の摂取を等閑視しているというわけでは全くない。本書には長大な文献リストが付けられているし、注にはそれらの文献への丹念な言及がある。ただ、それらはあくまでも著者の思考を磨くための素材ということであり、単なる「箔つけ」や「飾り」としての羅列とは一線を画している)。
大多数の学者は、何らかの問題について自己の考えを出す前に、「この業界では、この問題に関し、これまでどのようなことがいわれてきたか」を整理することから始める。そのことは、自分で考えるための準備作業としてもちろん有意味なのだが、往々にして「準備作業」だったはずのものが自己目的化し、それだけで精力を使い果たしてしまって、そこから先には一向に進まないということになりがちである(これは心構えだけの問題ではなく、学問の蓄積が膨大になるにつれて、先行業績の整理ということ自体がとても片手間では片づかない厄介な大事業になってきたという事情とも関係しているだろう)。この点、いまみたような立岩の姿勢は異彩を放っている。
もっとも、「自分の頭で考える」というのは、下手をすると独りよがりに陥る可能性もあり、その意味では危険な冒険だということも認めないわけにはいかない。また、多数の学者たち(それも大半は外国の)の名前や理論的用語(学界特有のジャーゴン=隠語)をむやみやたらとちりばめることを「アカデミズムの作法」と勘違いする風潮が広まっている状況の中では、こうしたスタイルは「学問以前的な、素人っぽいもの」という印象を読者に与えてしまうおそれもある。そういったことを意識するなら、「自分の頭で考える」ことを優先するという姿勢はそう簡単にとれるものではない。だが、それでも敢えて危険性を冒してそうした試みをすることは、硬直化しがちなこの世界に一石を投じる意義があるのではないだろうか。我田引水めくが、先年刊行した拙著『現存した社会主義』の方法論にかかわる章で、私は、「既存の社会科学理論の単純な応用という道はとらない」と宣言し、それはもちろん既存の種々の理論から学ぶことを排除するわけではないが、「他説の吸収というものは自分の頭というフィルターを通したものでなくてはなら」ないということを強調した(2)。本書と拙著は、扱う対象やジャンルからいえばおよそかけ離れているが、いま述べたような姿勢に関する限り――ある種の危険性をはらんだ冒険だという点を含めて――共通性があるような気がして、親近感を覚えた。
以上のような全般的な感想に立って、本書の読後感を以下に書き記すが、それは本書の議論に内在しつつそれを本格的に論評するという作業ではない。取りあげられているトピックの大部分は私にとってほとんど予備知識のない事項ばかりだし、立岩の論理は緻密かつ体系的だから、一回ざっと読んだだけで丁寧に理解するわけにはいかず、本格的に論評しようと思うなら何度も繰り返し読まねばならないだろう。残念ながら、今の私の状況では、そのような作業を行なうことはできない。以下では、いくつかの思いつき的な感想を書き留めるにとどまる。おそらく本書の理解として不十分なところが多々あるだろうが、やむをえない。
二
本書の大きな柱は、「自己決定」についてどう考えるかという点にある。この言葉は近年、様々な領域(フェミニズム・福祉・医療・教育など)で使われるようになり、一種の流行語と化している観もある。ただ、その際、ややもすれば言葉が空回りし、安易なスローガンとして繰り返されているのではないかという気がしないでもない。「自分のことは、他人に決められるのではなく、自分で決めるのが当たり前だ」といえば、直観的にそれはそうだという気がするが、よく考えてみると、そうしたスローガンを叫ぶだけでは片づかない問題がいくらでもあることに気づかされる。自己決定が不可能である――あるいはそのようにみえる――場合にはどうするのか(3)、ある人の自己決定と他の人の自己決定とが抵触する場合にはどうすべきか、「本物の自己決定」と「見せかけの自己決定」を区別する基準はあるか、自己決定が自己責任と表裏一体だとしたら、それはむしろ本人にとって辛いこと――そしてまた、周囲にいる人の側からいえば、責任を本人に転嫁することによって自分自身の責任を逃れること――ではないか、更には、そもそも自己決定とは本当に常によいことなのか等々(4)。
自己決定が殊更に叫ばれるのは、それが「当たり前」ではなく、むしろ従来は認められなかったような人々――女性、植民地の人々(5)、障害者、病人、子供その他その他――が、自分たちにも自己決定権が認められて然るべきだと主張する場合がほとんどだと思われる(そうでなければわざわざ叫ぶ必要もないのだから、これは当然である)。そのように自己決定の主体が広がることは、確かに「進歩」といえる面があるが、それと同時に、従来の社会構造の枠内では解決困難な問題を提起し、実際問題として対応困難だとか、あるいはそもそもその要求自体が過大ないし不当ではないか(前注2のミルの指摘が想起される)といった疑問にさらされる。それらの疑問について真剣に考え抜くこと抜きに、お題目ないしスローガンとしてだけ「自己決定」を語ってさえいれば「進歩的」だという風潮が一部にあるようにみえるが、これは無責任な態度であるように思われてならない。
立岩はこうした難問に正面から取り組み、自己決定を語りさえすればよいというものではない――かといって、それを単純に否定しようというのでもない――という問題を提起している。それと同時に、本書のもう一つの大きな特徴は、問題の難しさを指摘するだけにとどまらず、答えを出そうという姿勢に貫かれている点にある。あれこれの問題が世間で一般に思われているよりも複雑かつ難しいものだという指摘は、学者であれば容易にできるものだが、それだけで終わるなら、「ではどうしたらよいのか」という疑問には何も答えず、切実な問題に直面している人たちからは無責任との批判が向けられるだろう。立岩はそのことを強く意識し、ただ難しいといって終わるのではなく、難しいながらも考えてみよう、そしてとにかく一定の答えを出してみよう、と試みている(序iii頁に明確に宣言されている)。その答えがどこまで妥当か、またその結論の出し方がどの程度適切かつ周到かについては、あるいは批判の余地があるかもしれない。私自身は、本書のテーマに関して門外漢だからこの点については判定能力がなく、評価を留保するしかないが、ただともかく徹底して考え抜こうとする姿勢の真摯さは疑いようがない。
立岩の議論は、次々といろいろな考え方を提出しては、これでも駄目だ、これでも駄目だ、ということを執拗に確認し、ほとんど袋小路にはまりこみかねないところにまで議論を煮詰めた上で、きわどいところでその袋小路から脱出する道を探るといったスタイルをとっており、幾重にも屈曲している。本書を内在的に理解しようとするなら、そうした屈曲に丁寧につきあうことが必要だが、ここではその作業は断念し、むしろ私のかなり勝手な読み方に基づいて、立岩の議論を再整理し、いくつかの感想を付け加えることにしたい。
人は様々なもの――物質だけでなく、他人も、また自分自身の身体も――を操作し、制御しようとしながら生きている。そのこと自体は不可避なことであり、「他人を手段として操作するのは倫理的に許されない」などといっても始まらない。しかし、同時に、操作・制御しきれないもの――これを著者は「他者性」と呼ぶ――もある(但し、他人の中のある部分は「他者性」抜きに扱うこともできるし、逆に、自分の中にも「他者性」があるから、「他者性」は自他の区別と直接対応するものではない)。そして、人は他者を領有しようとする反面で、むしろ領有し尽くせない他者があるということを受け入れ、まさにそのことによって世界および他者を享受する。この「〈他者〉が在ることの受容」を基本的な原理として立てる(これは、それ以上さかのぼることのできない価値であり、根拠付けの対象とはならない)。「自己決定」が尊重されるのは、本人の決定が正しいからとか本人のためになるからということではなく――もし、「正しい」とか「本人のためになる」ということが最終基準なら、他人の判断の方が適切だということもありうる――むしろ「他者性」を侵害するような仕方で介入してしまうことを恐れ、敢えて介入しまいとする――その結果として、本人に委ねることになる――という考えに基づく(なお、自分の中にもいわば「内なる他者性」があることを思えば、自分の決定だからといってそれまで操作することが正当化されるわけではないということにもなる)。以上が、私の理解する立岩説の核心である。やや分かりにくい観もあるが、自己流の解釈を施すなら、それほど突飛だったり風変わりだったりするわけではなく、むしろ日頃忘れられがちな常識を思い出し、定式化しようとするものだという風にも思える。
人はエゴイズムなしで生きていけるものではないから、非常にしばしば他者を自分の都合のために利用しようとしたり、支配しようとしたりする。しかし、たとえば支配欲というようなものをとってみた場合、それは、相手が動物や機械ではなく、他ならぬ人間――ということはつまり、少なくとも潜在的には主体性をもち、反抗可能性をもつ――であるからこそ、そのような他者が自分に服従することに快感を覚えるのだろう。相手を文字通りの意味で自動機械にしてしまったら、そのとき、支配・征服の快感もまた消失してしまう。相手が「他者として在る」ということが、支配欲満足のためにさえも必要な前提条件なのである。人から愛されたいとか、人とコミュニケーションしたいという欲求についても同様である。相手が「他者」である以上、愛してくれないとかコミュニケーションできないという可能性は常にあり、そうだからこそますます、愛されたいとかコミュニケーションしたいと思うのではないか。もし相手がロボットで、完全に思うがままに操ることができ、何の抵抗もないなら、愛とかコミュニケーションということ自体が空しいものになってしまう。支配するためにも、愛されたりコミュニケーションするためにも、「他者が在る」ということは不可欠の前提である(6)。
そのことを踏まえつつ、ある人のもとにあるもの――その人が獲得した富、その人の能力、その人の内臓等々――について考えてみると、その中には、その人が「他者として在る」ための基本条件をなすものとそうでないものとがあり、後者は手段として扱ってよいが、前者はそうではない。これは、交換の対象になるものと、そうすべきでないものとの区別を設定することになる。手段として扱ってよいものについては、それを持っている人が自由に処分してよく、人々の間で自由に交換されるというのが通常の姿である。これが「私的所有」「自由」「交換」「市場」の世界ということになる。そのような世界が現に存在しているというだけでなく、それを敢えて否定したり覆したりしようとするとかえって悲惨なことになるという社会主義の経験を踏まえるなら、それは尊重されて然るべきだということもできる。ただ、それはあくまでも、手段として扱いうるものについてのみいえることであって、それ以外にまで拡張してはならない。このように論じることで、「私的所有」「自由」「市場」を全面否定するなどという暴論を吐かずとも、それに呑み込まれない何かを擁護することができるということになる。
もちろん、現実には、何が手段として扱ってよいものであり、何がそうでないのかの線引きは容易ではない。そこから種々の難問が発生する。ただともかく原則的にはそうした線引きが可能だという想定のもとで、それらの難問に答えていこうと努めることは可能であり、実際、本書では様々な問題がこの観点から取り組まれている。
端的な例として、臓器売買はまさに交換の対象とすべきでないものを交換に供しているという点で、否定される(これは生きている人が自分の臓器を売る――たとえば二つある腎臓のうちの一つを移植用に売る――という話である。「死者」と判定された人からの移植は別の問題になる)。実際には、インド、アフリカその他いくつかの地域では臓器を売る商売が広く行なわれている(おそらくそれを買うのは「先進国」の人たちなのだろう)が、これが悲惨なことであり、本来認められるべきでないという感覚もまた広く共有されている。これはある意味では当たり前のような話だが、理論的には重要な含意をもつ。というのは、社会主義崩壊以後、自由と市場を至上の価値とする観念が世界的に広まっているが、もしその観点に徹底して立つなら、臓器売買もあからさまな暴力によって強いられたのでない限り、「自由な」「自己決定」に基づいて「市場の論理」に沿って行なわれているのであって、否定されるべきではないというのが論理的結論となる。逆にいうなら、もし臓器売買は否定されるべきだと考えるなら、その人は自由と市場だけを価値としているのではなく、何らかの別の価値を――通常は自覚せずに、暗黙のうちに――もっているということになる。本書で進められているのは、このように、多くの人が暗黙にもっている価値――まさに暗黙にとどまっているがために、往々にして、理論化に際して忘れられる――を明示的に定式化するという作業であるようにみえる。
別の例として、性の商品化を取りあげてみよう。これは一見単純そうでいて、考えてみるとなかなか難しい問題である。直観的には、性の商品化は「ひどいことだ」「いけないことだ」と感じられるが、どうしてそうなのかと反問されると、意外に論証するのは難しいようにも思えてくる。一つの考え方としては、あからさまな暴力や巨額の前借金で強制されている場合には「自己決定」を犯しているから悪だといえるが、そうでない限り、これもまた「自由な」選択の一種であり、「市場」の論理に委ねてよいという風にも考えられる。といっても、強制と自発性の境は微妙だし、たとえば買い手の側が「多分、相手は自発的に売っているのだろう。だから、それを買うのを疚しく思う必要はない」と思いこんでいても、実際には売り手は無理矢理売らされているというようなこともありうる。また、密室での取り引きになることが多いため、通常の取り引き以上に、本来の交換条件とは異なったことが無理強いされることも多いだろう。だが、もしそうしたことだけが問題なら、それは交換・契約・市場の本来の論理が守られていないということであり、セックス・ワーカーの労働条件改善などを通じて、交換がより公正に行なわれるように努めればよい――「よりよい性の商品化(7)」――とも考えられる。これはこれで成り立ちうる考えであり、説得力もそれなりにある。だが、本当にそう割り切るだけで済むのかという疑問もどうしても残ってしまう。
立岩は、本書ではこの問題に比較的簡単にしか言及していないが、別の論文で、本書と同様の観点から論じている。それによるなら、性もまた「他者として在る」ことの核心に関わるものであり、それ故、「(売ることは)悲惨だ」「(買うことは)悪いことだ、卑怯なことだ」と判断される。但し、だから禁止すべきだという結論に直ちになるわけではないともいう(8)。「悲惨」「悪い」とみなしつつ、だからといって禁止論が直ちに導かれるわけではないという議論に私も共感する。ただ、「悪い」ことを禁止しないというのはどういうことなのか、またその「悪」に対して禁止とは別にどのような対応をとるべきなのかという問題はなお残るだろう(9)。
人のもとにあるもののうち、「在る」ということに最も直接に関わる――というよりも、まさにそれそのものである――のは生命である。自分の生命は自分のものだから、それをどうしようと「自己決定」のうちだ、と考えることができるかどうか――これは自殺・安楽死・尊厳死などと関わる問題ということになる(10)。立岩は、自殺については「認める認めない以前に人は自ら死んでしまうのだから、私達はこのことを考えずにすんでいる」(二八九頁)として判断を控えつつ(11)、安楽死・尊厳死については、それが障害者の周囲にいる人たちの都合によって利用されることへの警戒の念を強く表明している。もっとも、これは濫用される可能性への警戒だとすると、原則的・全面的否定ということではないのかもしれないが、その点についての判断は私にはよく読みとれなかった。
安楽死・尊厳死は既に生きている人の生命に関わるが、これから生まれようとする人の生命を絶つことが許されるかどうかは人工妊娠中絶の問題となる。胎児はまだ生まれていないから、胎児本人の自己決定ということはあり得ない。では、中絶は女性(妊婦)の自己決定権だとしてよいか。フェミニストの一部――フェミニストは多様だから、その全体が同一の見解をもつということはあり得ない――は、そのように説いて、中絶を女性の権利とする。しかし、胎児といえども生命をもっており、それは女性(妊婦)の付属物ではなく独自の生命=他者だと考えるなら、その命を絶つことがどうして正当化されるのかという疑問が提出される(12)。この問題に対する立岩の回答は、私の知る限りでは非常にユニークなものである。胎児は確かに「他者」であり、その生命をどうするかは母親だけの自己決定の問題ではない。だが、妊婦はその他者が他者として現われることを最も身近に感じる存在であり、他者を消去することを最も躊躇してしまう存在だからという理由で、決定を女性(妊婦)に委ねる、というのである。結論的には中絶容認論ということになるが、それをあっさりと「女性の自己決定」と言い切らず、登場しつつある他者の問題を視野に入れている点に論の独自性がある(もっとも、この考えを単純に拡張すると、自己決定の難しい人――乳幼児、極度の重病人など――について、どれも最も身近な人に決定させるということになりそうな気もするが、おそらく立岩自身の考えはそうではないだろう。ここをどのように分けて考えるべきかは別個の難問として残る)。
このように人工妊娠中絶一般については容認論をとるにもかかわらず、立岩は、出生前診断に基づく選択的中絶に対しては、かなり濃厚に否定的である(全面否定ではないようだが)。それは、選択的中絶は基本的に障害児が生まれると予期される場合に行なわれるものであり、障害者の排除という意味をもつのではないかという疑惑があるからである。この点をめぐっては、障害者運動と女性運動の間で長い論争と対話の歴史がある。立岩はその経緯を振り返り、選択的中絶は障害者差別として否定されるべきかどうかという難問に立ち向かっている。まだ生まれていない胎児が障害をかかえるであろうという診断に基づいて中絶するのは、現に生まれている障害者の存在を否定することと直接にイコールではない。とすると、単純に障害者差別だから選択的中絶は悪だとはいえないことになる。しかし、出生前診断が広まり、それに基づく選択的中絶が広まるということは、障害者排除という発想とつながっていることも確かである。「他者性」を敢えて操作の対象にしないことを重視する立岩の観点からいえば、生まれてくる「他者」がどのような人であるか――障害者であるか否か――を知らずに、敢えてその点を決定せずに生むという余地が残っていることが重要であり、従って、出生前診断を義務づけないということが主張される。それだけなら、診断を受ける/受けない、また中絶する/しないはどれも自由だという簡単な話になりそうだが、そうではない。診断を受けるにせよ受けないにせよ、障害児でもためらわずに生むという決断をするには、現在の社会条件下では大変な負担を負う覚悟が必要とされる。その覚悟がない大多数の人は、出生前診断技術が普及すれば、それを受ける方向に誘導されるだろう。これに対抗するためには、障害児を産み、育てることが大変な負担だという社会条件を変えていくことが必要だということになる。これは深刻な難問への一つの見事な答え方である。ただ、そのように社会を変えていくには長い時間がかかるから、それがまだ実現していない段階でどうするのかということは、また別個の問題になるだろう。
出生前診断の問題は優生学と結びついている。優生学はかつてナチ・ドイツによって濫用されたため、ナチズムとか暴力や国家の私生活介入と専ら結びつけられる形で批判されてきた。ナチ・ドイツ以外の国でも似た例があるということがたまに指摘されると「ナチ同様のことが、他の国にもあったのか」というような受け止め方がされることもよくあった。しかし――この点について私はほとんど予備知識がなく、立岩および彼と類似の仕事をしている何人かの人によってはじめて啓蒙されたのだが――優生学はそのように暴力や国家介入とだけ結びついているものではない。とすると、「正しい優生学」「よい優生」もあるのではないかという疑問が出てくる。暴力や国家介入によらず、遺伝的により優良な人が増えるように誘導するのは、人類にとって望ましいことではないか――これは多くの「普通の」人にとって受け入れやすい発想であるようにみえる。しかし、それは不遜ではないか、そんなことをしてはいけないのではないか、という感覚もまた打ち消しがたい。これをどう考えるかは、あからさまな暴力や国家強制を批判するよりもずっと難しい問題である。立岩はここでも、「他者性」を操作対象としないという基本原則に立ち返り、「私達に都合のよいように他者があるべきでない」と考えるときにのみ「よい優生」に抵抗することができると述べる。
以上では、「他者」への介入を差し控えるということについて、様々な局面に即してみてきたが、いわばその裏側の問題として、他者への介入は本当になしで済ませるのか、実はしばしばそうせずにはおれないことがあるのではないのかという問題がある。
他者に対して、本人でない人が、「本人のため」という名目で介入することはパターナリズムと呼ばれる。「自己決定」が流行語になる風潮の中で、「パターナリズム」というのは評判の悪い言葉である。確かに、他人にお節介を焼くとか、押しつけをするというのは、その人の自主性を損ねることであり、よくないことだという直観は多くの人に共有されるだろう。しかし、同時に、それを完全になくすわけにもいかないというのも、多くの人の常識的理解だろう。実際問題として、子供をしつけたり、教育するという場合、いくら本人の自主性を尊重するといっても、そこには必ず押しつけの要素が含まれる。
立岩は本書の各所でパターナリズムの問題に触れているが、結論的にどう考えているのかは、私にはあまりよく読みとれなかった。単純に自己決定を賛美さえすればよいというものではないという本書の立場からすれば、単純にパターナリズムを否定しさえすればよいというものではない――だからといって、もちろん、無条件にパターナリズムが肯定されるわけでもない――ということになるのは当然だが、その上で、ではどう考えればよいのか。私の勝手な印象だが、正面からパターナリズムを語ったわけではない次の個所が、ある種のカギを提供しているような気がした。
「すべてが当の子供の意向を尊重してなされるべきだなどといった呑気なことを言うつもりはない。私達は、人を殺すなとか、友達をいじめるな、といったことを、いろいろな理屈をつけることもあるにせよ、結局は有無を言わさず、押し付ける。しかしそれ以外で、私達は、何が生きていく上で便利であるかを知らせ、その手段を提供するが、そこから離脱することを認めている。あるいは認めていないとしても、現実に、その場には既にその者がいて、その者の抵抗に会うことができる。私達は様々なことをその者に押し付けようとするのだが、それは完全には成功しない」(四二一頁)。
この文章は、積極的優生(優良な遺伝子をもった人の生殖を奨励することで優秀な人間を増やそうとすること)を否定する文脈におかれている。つまり、教育においては押しつけをしても本人の反撥・抵抗の余地があるのに対し、まだ生まれていない者には反撥・抵抗の余地がないという差異を指摘して、後者における操作を否定しているのである。ということは、裏を返すなら、本人の反撥・抵抗の余地のある状況であればパターナリズムを認めるという考えであるようにみえる。
これはこれでそれなりに納得のいく議論だが、それだけでよいのだろうかと考えてみると、疑問も湧いてくる。一つには、反撥・抵抗の余地さえあればいくら押しつけてもよいとするなら、どんな分からず屋の頑固親父・教育ママも、「スパルタ教師」も、みなそれでよい――実際、彼らはしばしばそのように自己正当化する――ということになりそうだが、そうなるのかどうか。確かに、どんなにひどい教育をされても、本人がそれに抵抗することで立派に育つという可能性もあるといえばあるが、それを言い出すなら、どんな教育をやってもみな同じということにはならないか。もう一つには、乳幼児とかいわゆる「植物人間」といった例を考えてみるなら、まさに反抗の可能性をもたないような人に対してこそ、パターナリズムが最も必要とされるのではないか。どうも、これはどこまでも難問として残りそうな気がする(13)。
三
次に、やや観点を変えて、「能力主義」をどう考えるかという問題を取りあげてみよう。観点を変えるとはいっても、これまでみてきた問題と関わりがないわけではない。というのは、人の能力もその人の「所有物」(比喩的な意味で)と考えるなら、それを持つ人はそれを自由に処分する、また他の人はそれを買う――その能力をもつ人を雇う(労働力を買う)という形にせよ、その能力によって生み出された製品を買うという形にせよ――のが市場社会の基本原則だということになり、前項のはじめの方でみた問題設定と重なるからである。
能力主義という原理は、ある見方からするなら、人がその能力以外のもの――血統・性・身分・出身地・民族・宗教その他――によって評価されるよりはずっと合理的かつ公平であり、それ故、これは近代社会の一つの基本原則となってきた(帰属原理から業績原理へ)。それだけでなく、人々がそれぞれ自己の能力を伸ばそうとして切磋琢磨することが望ましいことだと考えるなら、能力主義原理は単に合理的なばかりか、積極的に肯定すべき価値の基盤をなすという考え方もできる。しかし、他面では、能力が低いとみなされる人々や、能力開発の条件に恵まれていない人たちの見地からは、これは弱者を切り捨てる冷酷な原則だという批判もある。あるいはまた、人が専ら能力によって評価される社会は、子供たちが、市場によって評価される能力のみを一面的に開発するよう刺激するという傾向をもち、多面的に発達すべき人間性を歪める――これは子供だけの問題ではなく、就職したサラリーマンも「自己開発」などに努めねばならないという状況の中では成人にも関係する――のではないか、といった疑問もある。
能力主義を当然視せず、むしろ問題視する考えは、様々な立場から提出されるが、中でもこの問題が最も抜き差しならぬ重要性をもつのは、障害者に注目するときである。やや話を広げていうと、世の中には種々の差別があり、それらの間には共通性もあれば個々の例ごとの特異性もあるが、ここで取りあげる障害者の問題は、他の差別と明白に異なる大きな特徴がある。女性差別・民族差別・部落差別などにおいては、「能力があるにもかかわらず、ただ単に女性(あるいは○○民族、部落出身者等々)であるが故にそれにふさわしい処遇を与えられないのは不当だ」という主張、あるいは、「それらのカテゴリーに属する人たちは現状では能力が劣る傾向があるかもしれないが、それはその潜在的能力を発揮するような環境・条件が与えられていないからであり、そのこと自体が不当だ」という主張のいずれかがなされることが多い。この第一の主張は能力主義そのものだし、第二の主張は、現時点での能力を絶対視せずに環境や初期条件の変更を要求する点で通常の能力主義と異なるとはいえ、能力主義の原理自体は一応前提としている。これに対し、障害者運動では、能力主義そのものが批判の対象となる(障害者についても、右の第一や第二と同様の観点からの主張がなされることもあり得るが、特に、比較的重度の障害を念頭におくと、それだけでは主張が完結しない)。
こうして能力主義をそのものとして正面から批判の対象とすることが迫られるのだが、他面、能力主義を完全に否定するのは現実的でないという感覚も、広く分かちもたれている。本書の中で何度か引き合いに出されている比喩だが、まずいラーメン屋(能力の低いラーメン屋)に行ってまずいラーメンを出されたら「まずい」と言うのが当然だし、「もうこの店には行くまい」と思うのが自然である。無理をして「うまい」とお世辞を言ったり、何度も食べに行くというようなことも、時と場合によってはあるかもしれないが、これを一般原則とするのは無理があるだろう。より美味で、より安いラーメンをつくる能力というものを評価し、その能力の高い人を低い人よりもひいきするというのは、ごく「普通の」人々の「自然な」感覚である。能力主義を直接に要請するのは企業社会や市場社会の論理だとしても、その背後には、こうしたわれわれ自身の感覚がある。としたら、それを簡単に否定することはできない。では、どうするか。
立岩はここでもまた彼の基本原則に立ち返って考える。人のもとにあるものの中には、手段として扱いうるものとそうでないものとがある、という論点である。能力というのは、何かをするための手段としての有用性であり、従って、手段として扱われ、交換の対象となる。そのような手段性は他者によって高低が計測され、高い能力は高い値段で売れる一方、低い能力は買い叩かれるか、あるいは全く売れない。これが市場の論理であり、そのこと自体を排除する必要はない。ただ、それは、所詮手段に過ぎない領域についての話である。そこにおいて「低い」評価を与えられるのは、手段としての能力であって、「人」そのものではない。ここで、「能力はないが、人柄はよい」などという議論を持ち出す必要はない。能力も人柄も一切関係なしに、ただ単に「他者が在る」ということそれ自体を尊重するという価値があるはずではないか、と立岩はいう。
それはそうだろうが、これだけでは抽象論にとどまり、何のことだか分かりにくい。より具体的には、このことはどういうことを意味するだろうか。
比較的重度の障害者に即して考えるなら、問題の所在は明瞭になる。もし能力主義原理および市場原理を純粋に貫徹するなら、重度の障害者には市場で売れるものがほとんどないから、生きていくのに十分な収入を得ることができない。従って、「他者が在る」ということをこの場でも貫徹しようとするなら、彼らが生きていくことを能力主義と市場の原理以外の何らかの形で可能にしていかなくてはならないということになる。さしあたり普通に思い浮かぶのは、第一に、周囲にいる人――多くは家族――が、金銭的にも、ケアの労力の点でも、(少なくとも表向きは)善意で自発的な贈与をして助けるということ、第二は、公的な財政による再分配ということだろう。このうちの前者が主たる対応策とされることに対して、立岩は強く批判的である。善意による自発的な贈与というものは、特に人格的に近しい人によってなされる場合、うるわしいものになることもある代わりに、往々にして精神的にうっとうしいものにもなる。また介護を家族の負担とすることは、多くの場合、近親女性を一方的に犠牲にする結果になる。介護を受ける人の側からしても、特定個人の善意に専ら依拠するというのは不安定で、精神的に辛いことである。
このような事情を指摘して、立岩は、「交換プラス再分配」という答えを選択する。交換(市場)を否定しないのは、手段に関わる領域では、それは確かに有効なメカニズムだからであり、またそのことはそれだけとってみれば「他者として在ること」を脅かすわけではない――あくまでも限定された領域にしか関わらない――と考えるからである。しかし、あらゆる人が生きる(在る)ことを認められるべきだとしたら、交換・市場の原理だけでは生きていけない人は、社会全体の負担で生きる条件を整備するのが社会の義務となる。「国家権力」とか「強制」という概念は、自由を尊重する人たちの間では評判の悪い概念だが、いまみたように自発的贈与をそれほど美化することはできないとしたら、国家や強制の要素を完全に排除するわけにはいかない。また、他者が生きることの保障は社会全体の義務だということを原理として立てるなら、それが国家的制度(強制力を背景とした徴税)によって保障されるのは当然だということにもなる。こうして、市場の原理を残しつつ、それと公的再分配を組み合わせるというのが答えとなる。
この解決法は、一見したところ、現に多くの国で行なわれていることであり、何も新しくないともみえる。立岩自身、これを「退屈な仕掛け」と呼んでいる。しかし、それは既存の「福祉国家」をそのまま正当化するものではない。ここで必要とされるのは公的な再分配だけであって、そこから先、国家がどのような政策をとるべきか――あるいはとるべきでないか――は全く別の問題だと立岩は主張する。常識的には、再分配(公財政の支出)を大きくするなら、国家の社会生活への介入も大きくなる。そこで「大きな政府」か「小さな政府」かという二者択一が問題とされる。これに対して立岩は、そのような選択を拒否する。「再分配しかしない最小国家」、「冷たい福祉国家」、もっと単純にいえば、「(国家は)口は出すな、金は出せ」というのが彼の主張である(「分配を認めたノージック」という表現もある(14))。金を出す点では「大きな政府」だが、口を出さない点では「小さな政府」ということだろうか。
この議論をどう受けとめるべきだろうか。周囲にいる人からの贈与に限界があるという指摘はうなずける。特に、善意による(はずの)贈与が実際にはうっとうしかったり、抑圧的に機能したりするという記述は、障害者運動を長らく観察してきた著者ならではの指摘であり、重みがある。また市場・交換もそれ自体として否定する必要はなく、それと再分配を組み合わせるという議論も納得がいく。しかし、贈与ないし互酬(15)の過大評価は禁物だとしても、それを全否定する必要もなく、部分的要素として取り込むこともできるのではないだろうか。それに、再分配にもおそらく限界があるだろう。とすると、「交換プラス再分配」ではなく、「交換・再分配・互酬の三要素の組み合わせ」と考えてよいのではないだろうか(16)。これもまたありふれた発想であり、「退屈な仕掛け」ということになるかもしれない。しかし、何らかの特定のメカニズムだけで強引にすべてを統一しようとする試みの副作用の大きさを思うなら、折衷的ではあるが、このように考えるしかないような気もする。
国家は金だけ出して口を出すなという主張についてはどうだろうか。確かに面白い考えだとは思うが、果たしてどこまで現実的たりうるだろうか。こういう疑問を懐いてしまうのは、私自身が市場社会の論理に汚染されているからかもしれない。しかし、立岩も市場を全否定しないという立場に立っている。とするなら、市場と併用される再分配(公財政)にも市場の論理が浸透するのは避けられないのではないか(17)。そして公財政への市場の論理の浸透を認めるなら、公的支出には制約がもうけられ、無駄づかいへの監視が必要ということになる。そう考えるなら、金だけ出して口を全然出さないというわけにはいかないのではないか。
もう一つ別の種類の疑問がある。私はこの項で、先ず能力主義一般について考え、次いで障害者の問題に議論を絞るという形で議論を進めてきた。確かに、能力主義問題が障害者において最も深刻なものとして立ち現われるのは事実だろう。しかし、能力主義が問題とされるのは障害者だけに限ったことではない。では、障害者以外の「低能力者」――そのようなレッテルが社会的に貼られる人――についてはどう考えればよいのだろうか。
この疑問は本書全体の構想にも関わるかもしれない。私はこの小文の前半では、本書を、どちらかといえば抽象度の高い原理的なことを論じた書物――種々の具体例も各所で取りあげられているが、それらは一般原理の適用として扱われている――として検討してきた。本書をそのようなものとして読むことは、一つの読み方として許容されると思う。しかし、他面では、本書で取りあげられる種々の具体的な問題のうちで最も中心的な位置を占めているのは障害者の問題だという風にもみえる。もともと本書は障害者問題を考えるために構想され、一見抽象的な原理論も、そのために展開されているのではないだろうか。このこと自体は異とすべきことではない。抽象的な理論が自己目的ではなくある具体的な問題の解決のために構想されるというのはよくあることだし、決して悪いことではない。ただ、一般的・抽象的な原理のようにみえることが、実は特定問題に主として引き寄せられて理解されているという場合、その特定問題以外の領域への適用可能性はどうなるのかという問題が生じる。ここでの主題に戻って、能力主義について考えるときに、障害者だけに注目するのと、それ以外の人々を念頭におくときとでは、多少議論が異なってくるということはないだろうか。
先に挙げた「まずいラーメン屋」の比喩を思い出してみよう(以下に述べるのは、この比喩を生かすために無理をして思いついた突飛なもので、全く現実性がないが、多少変形すれば、現実性のある類似の例は大いにありうると思う)。ある人がまずいラーメン屋に入って、「このラーメンはまずい」と言うとき、その客は――もし極端に冷酷な人でないなら――そのラーメン屋の「人間としての存在」まで否定しようとして言っているわけではないだろう。たかだかラーメンをつくる能力が劣っているからといって、それでもって人間失格ということになるわけではない。だが、もしそのラーメン屋が「ラーメンこそ我が命」と思いこんでいたらどうだろうか。「これはまずい」と言った側は人間としての否定という意図などもっていなかったのだが、聞く側は全人的な否定と受けとめるということがありうるのではないか。能力主義が、ある観点――多くの場合、他人の能力を判定する側の人――からみるとごく当然で公正な原理と映るのに、別の観点からは極めて冷たく、非人間的な原理だと映るのは、こうしたギャップに由来するのではないだろうか。
障害者(それも比較的重度の)だけを念頭におくなら、「在る」こと=生きていくこと自体の保障が最重要の問題だというのはよく分かる。だが、それ以外の、一応は働くことができ、収入も自ら稼げる――その意味では、「在る」ことはとにかく保障されている――人のうちで、「能力が低い」として辛い思いをしている人たちについては、どう考えたらよいのだろうか。とりあえず二通りの方向が思い浮かぶ。一つは、そうした人たちも広義の障害者とみなし、ほぼ同様の議論の中に取り込んでいこうとするものである。しかし、これはあまりにも対象者を広くすることになり、議論も拡散するし、実際問題としての対応――公財政による再分配――も極度に困難になるように思われる。第二の方向は、それとは逆に、先に考えたのはあくまでも「在る」こと自体が脅かされている人たちだけのことであり、それ以外の人たちには及ばないとして峻別するという考えである。この立場に立つなら、大多数の「健常者」は「私的所有」「自由」「市場」「能力主義」原理のもとにおかれ、比較的少数の障害者だけが、いわば例外的に公的再分配の対象になる、ということになりそうである。これは、実は世間一般の常識論と大差ないことになるようにもみえるが、それでよいのか。あるいは、この二つ以外の方向があるのだろうか。
以上、本書で取りあげられている論点を網羅的に取りあげたわけではないが、比較的重要と思われる点の多くには一応触れてきた。私なりの理解を示しつつ、いくつかの感想を付け加えてきたが、こう書いてきて自分自身で気になることがある。私はこの小文の前の方で、立岩の姿勢の一つの特徴として、ある問題が難しいといって終わるのではなく、何とかして答えを出そうと努めるという点があるということを共感を込めて指摘した。ところが、これまで書いてきた文章を振り返ってみると、どうも、「立岩の答えは一応うなずけるが、やはり疑問が残る」といった感じになっているような気がする。答えを出す努力を怠り、ただ「難しい」とだけいってお茶を濁すのは無責任ではないかという問いかけに、私自身がさらされるようにも感じる。
多くの問題は実際に深刻かつ困難であり、安易な回答はない/しかし、深刻だからこそ、それに現にぶつかっている当事者にとっては、答えが切実に必要とされるのだ。それに答えようとしないのは、安楽椅子に座っている学者の怠惰だ/それはそうだが、どのように答えても、それが絶対に正しいという保障はない/「絶対に正しい」回答が手に入らないのは、いわれるまでもなく分かり切っている。だが、ともかく、これまで提出されているものよりは相対的にまともと思えるような回答を、暫定的にでも探るべきではないか/それはその通りだが、それが「暫定的」だということが忘れられ、絶対化されるなら、独善主義に逆戻りしかねない/その言葉が、独善化への警告を通して更なる回答模索を励まそうとするものならよいが、単なる「批判のための批判」に堕しはしないか……
このような思考の連鎖をたどっているという点では、おそらく立岩と私は共通しているだろうと思う。その上で、ある種の体質の違いのようなものがあるのではないかという気がする。右の連鎖の中で、どの部分に相対的な重みをおくのか――暫定的にもせよ、ともかく「これまでのよりはまとも」と思える回答を探ることに力点をおくか、それとも、「そのようなものでさえもドグマ化される危険性がある」という警告を発することに力点をおくか、という違いである。この相対的な力点の違いは、相容れないというほど大きな違いではないと言っていいだろうか。十分な自信があるわけではないが、そうであってほしいと願う。
四
最後に、やや内容から離れた感想を一つ述べておきたい。
本書の各所で、一九七〇年頃に日本の障害者運動から提起された問いかけのことが言及されており、これは著者にとって一種の「原点」としての位置を占めているようにみえる(『弱くある自由へ』の第四章で明示されている)。私は当該の運動について詳しい事情を知っているわけではないが、一九七〇年頃という時期から、全共闘運動の高揚と退潮という経過の中で、その影響が及んだ面があるのではないかという気がする。もちろん、単純な余波というようなことをいうつもりはない。そのような言い方は障害者運動の主体性を無視するもので、失礼に当たるだろう。ただ、広い意味での社会状況の中での、遠回りな間接的関係はあったのではないだろうか(18)。私自身、そうした文脈で障害者運動が高まったのにある程度触れた記憶がある。立岩(巻末の著者紹介によれば一九六〇年生まれとのこと)は、当時のことを直接知っているわけではないだろう。だが、にもかかわらず、彼は当時提出された問題に徹底してこだわり続けているという観がある。
全共闘運動の中で掲げられたスローガンに「自己否定」というものがあった。これはもちろん実行不可能なスローガンである。だから行き詰まり、閉塞した。それを馬鹿馬鹿しいことといって笑いものにすることもできるし、そうしたい人には笑わせておけばよいと思う。ただ、かつてその中に身をおいた者として、それはあまりにもラディカルな問いに直面したが故の閉塞だという重さがあったことだけは確認しておきたい。あまりにもラディカルな問いを自らに突きつけた人は、どのような回答も安易なものとみえてしまうから、とどのつまりは絶句するほかなくなる。その絶句と沈黙は強い精神的緊張をはらんでいるはずだが、そうした高度の緊張を長期間維持することは難しいから、多くの場合、次第に弛緩していく。そうなると、深刻な問題に悩むが故の絶句と沈黙のはずだったものが、いつの間にか、単純に何も考えないことに転化していく。これはある程度までやむを得ない面もあり、それを批判する資格が誰にあるかという問題もあるが、ともかく大多数の人がその精神的緊張を弛緩させ、風化させてきたことは事実だろう(19)。
立岩がこうした事情をどの程度念頭においているのかは定かでないが、本書の中のある部分を読んでいて、これはひょっとしたら、そうしたこととかかわっているのではないかという気がした。以下の引用文は、能力主義を「差別」として批判する人たち――こうした問題提起も全共闘運動の中から出てきたものだった――に触れた文脈の中におかれたものである。能力主義を否定する人が教育者である場合、教育には能力主義がつきまとう以上、それは「自分達がやっていることを否定するような行い」ではないかと指摘した後に続いて、こう書かれている。
「これは自分自身、主義主張の側から見ても、『現実』の側から見ても、かなり疚しい気持ちのするものだろうし、自虐的、マゾヒスティックな感じもする。(中略)。またこうした思考は、常に、では本当に能力主義を、市場経済を全面的に廃棄するつもりなのか――そうだ、と答えるだろう――、ならばどのように廃棄するのか、廃棄してそれでどうするのかという脅迫にさらされている。(中略)。能力主義の否定、と言うことはできる。しかし実際にそれを実現するのは難しい。なぜか。そのように私達の欲望があるから、あるいは形成されてしまっているからではないか。私達は重くなる。重くなったまま上がってこれない。そこに問いは停滞し、わだかまりが沈殿する。ある者は問いを忘れる」(二九三頁)。
この最後の一句は、私たち全共闘世代への鋭い批判であるように響く。われわれの世代は、ある時期格好いいスローガンを掲げたという経験に酔って、その後の精神的鈍磨を覆い隠し、若い世代たちにとって疎ましい存在と化しているのではないか。すべてを世代論で割り切るのは私の趣味ではないが、このような批判が若い世代からわれわれに向けられるのは無理からぬところがあるように思う。
私自身は、社会主義とは何だったのかという問いにこだわり続けることで、自分なりの総括をしようと試みてきた。これが私なりの責任の取り方なのだと自分に言い聞かせてきたが、それがどこまで十分なものかは自分で云々すべきことではない。とにかく、同世代の多くの人が、かつて自ら提起したラディカルな問いを、その行き詰まりの故に忘れ去る中で、一回り若い世代に属する立岩が、ややもすれば袋小路にたどりつきそうな問いを、どこまでも手放すことなく、執拗な思索を練り続けている。そのことに感銘を覚えた。
(1)立岩真也『弱くある自由へ』青土社、二〇〇〇年。
(2)塩川伸明『現存した社会主義』勁草書房、一九九九年、三一‐三二頁。
(3)自由主義の古典と目されるJ・S・ミルの『自由論』にも次のような個所がある。「この理論は、成熟した諸能力をもつ人間に対してだけ適用されるものである。われわれは子供たちや、法が定める男女の成人年齢以下の若い人々を問題にしているのではない。(中略)。同じ理由から、われわれは、民族自身がまだ未成年期にあると考えられるおくれた状態にある社会は、考慮外においてよいだろう」。『世界の名著・49・ベンサム、J・S・ミル』中公バックス、一九七九年、二二五頁。「民族自身がまだ未成年期にあると考えられるおくれた状態にある社会」などといった素朴な記述は、ミルが生きていた頃の「時代的制約」として片づけられるかもしれない。しかし、「自由」や「自己決定」を本当にありとあらゆる人に認めることができるかどうかは、今日でも難問である。最も極端には、生まれたばかりの乳児やいわゆる「植物人間」などの例を考えるだけでも、あらゆる人に認めるという議論が成り立たないことは明らかである。だが、では、「自由な主体」と認められる人と認められない人との間の線をどこに引くのかと問えば、これもまた簡単には定められない。
(4)関連文献を広くみているわけではないが、たまたま目にとまったもののうち、江原由美子「自己決定をめぐるジレンマ」同『フェミニズムのパラドックス』勁草書房、二〇〇〇年所収は、タイトルに示される難問について簡潔に論じており、参考になる。ただ、問題の提起にとどまり、そうした困難性にどのように対処すべきかには踏み込んでいない。
(5)植民地の人々ということに触れたこととの関連で、用語にかかわる問題を出しておきたい。日本語の「自己決定」に対応する英語はおそらくself-determinationあるいはautonomyだろうが、この前者は、「民族自決」といわれるときの「自決」に当たる言葉である。近年盛んに話題にされる自己決定は基本的に個人の自己決定を念頭におくのに対し、民族自決では「民族」という集団が単位となっており、そこでは、どの集団を自決の主体たる単位とみなすのかという難問がある(不十分かつ中途半端ながら、塩川『現存した社会主義』五六七‐五七〇頁、また「集団的抑圧と個人」江原由美子編『フェミニズムとリベラリズム』勁草書房、二〇〇一年所収で触れた)。個人の自己決定を考える場合には、こうした「どの単位をとるか」という問題は起きないから、「民族自決」と「自己決定」は別の問題だといえばいえる。とはいえ、両者の間に共通の状況もある。個人の自己決定にせよ民族の自決にせよ、「他者が勝手に決めるのではなく本人(たち)に決めさせよう」という主張は分かりやすく、理想としての響きをもっているが、具体的にその実現を考えてみると、数多くの困難性につきまとわれる、そして更には、そもそも理想・目標としての正当性さえも疑われる、という難問である。そのようなことを考えるなら、「自己決定」と「民族自決」を共通のパースペクティヴの中で考えることも一定の意味をもつのではないだろうか。
(6)もっとも、昨今では、いわゆる「ヴァーチャル・リアリティー」があちこちに登場したり、精巧なロボットのペットなどもあったりして、本当の人間=他者でないものが人間の代用をしていることもあるようだ。こうした事柄について私自身はあまり通じていないので、漠然たる想像しかできないが、おそらくそれらにしても、非常に巧妙・複雑につくられているために、どう働きかけたらどう反応するかが予想できないからこそ擬似的な「他者性」を獲得するのではないだろうか。反応が予期し尽くせるようだったら、面白さが失われてしまうだろう。
(7)この言葉は、瀬地山角「よりよい性の商品化へ向けて」江原由美子編『フェミニズムの主張』勁草書房、一九九二年所収による。
(8)立岩真也「何が〈性の商品化〉に抵抗するのか」江原由美子編『性の商品化』勁草書房、一九九五年所収。
(9)永田えり子は、性の商品化は道徳的に「悪」と認定される――そのような間主観的判断が成り立つ――と主張し、そこからあたかも自然な結論として法的禁止・制裁が出てくるかに論じている。永田えり子『道徳派フェミニズム宣言』勁草書房、一九九七年。これに対して私は、道徳を間主観的な合意として語ることは可能だろうし、そのような観点から「悪」を語ることにも同意できるが、だからといって、直ちに法的禁止・制裁論が出てくるものではないのではないかという疑問を提示したことがある。塩川伸明「現代道徳論の冒険――永田えり子『道徳派フェミニズム宣言』をめぐって」『三田社会学』第三号(一九九八年)。ただ、その上で、本文で触れた問題はなお残っており、改めて考えてみる必要を感じている。
(10)この一連の問題に法哲学の角度から接近する論文として、奥田純一郎「死における自己決定」『国家学会雑誌』第一一三巻第九=一〇号(二〇〇〇年)が参考になる。
(11)しかし、自殺未遂の場合を念頭におけば、「考えずにすむ」とは限らないのではないか。自殺を「悪」とみなすなら自殺未遂者は「悪を犯そうとした人」と判断されることになるが、自殺が悪でないなら未遂者もそうはみなされないという違いがある。
(12)おそらく、井上達夫と加藤秀一の論争(江原由美子編『生殖技術とジェンダー』勁草書房、一九九六年に収録)はこの点に関わるだろう。
(13)この小文の第一稿を書いて大分経った後に、同じ著者の「パターナリズムについて――覚え書き」『法社会学会誌』二〇〇二年を読んだ。「パターナリズムを是認する余地がある、と言うと間違えて喜んでしまう人がいるから、慎重に言わないとひどいことになる」という書き出しに示されるように、パターナリズムを単純に否定するのではなく、かといって安易に肯定するのでもなく、どういう場合にどういう意味で首肯されることがあるのかを粘り強く論じており、示唆されるところが多かった(この注は二〇〇四年六月追加)。パターナリズムについては、川本隆史編『ケアの社会倫理学』についての読書ノート(二〇〇六年三‐五月)の注1も参照。
(14)最後の二つの表現が本書にあったかどうかは再確認していない。『弱くある自由へ』の一五一‐一五二、一五六‐一五七頁にある。
(15)用語法についての補足。立岩は「互酬」(贈与と返礼の連鎖)という概念をあまり使わず、「贈与」という概念を主に使っている。そこでいう「贈与」とは、返礼を必ずしも伴わない一方的関係と捉えられているようだ。そして、広義の贈与は、(少なくとも外観的に)自発的な贈与と、強制的な贈与とに分かれ、後者は公的な再分配になるという図式のようである。
(16)この三者の組み合わせによる経済システムの理解について、塩川『現存した社会主義』七九‐八四頁、また井上達夫「講義の七日間――自由の秩序」『新・哲学講義』第七巻、岩波書店、一九九八年の国家・市場・共同体三元論も参照。
(17)この点に関連して、立岩は別の論文で、国境を越えた国際的競争が個別国家に効率性向上を強いていることを指摘し、この制約自体を越えるべきだという観点を提示している。立岩「選好・生産・国境」上・下『思想』二〇〇〇年二月号、三月号。これはこれで一理ある議論だとは思うが、やや議論を拡散しすぎることになるのではないかという気もする。
(18)立岩も市野川容孝との対談の中で、次のように語っている。「一九世紀から二〇世紀的なもの全体に対する懐疑がこのころ〔一九七〇年頃〕に出てきたんだろう。それは障害者運動に限らない。というか、障害者運動自体が、当時のはねあがった気分に呼応して、俺たちもはねあがったって大丈夫かも、みたいなところからでてきた」。『弱くある自由へ』一四〇頁。
(19)あまりにもラディカルな批判の態度が、ややもすればずるずるべったりな現状追随に転化しがちだという問題について、金森修『サイエンス・ウォーズ』についての読書ノートでも触れた。
*立岩真也『私的所有論』勁草書房、一九九七年
(二〇〇一年二月)