数土(すど)直紀『理解できない他者と理解されない自己』
 
 
 
 魅力的なタイトルの本である。
 私は著者がどういう人か全く知らなかった(今でも、このような本を書く人だという以上のことは何も知らない)し、本書を書店で手にとってみると、タイトルから最初予想していたような哲学・心理学・文芸批評といったジャンルの本ではなく、かなり抽象度の高い理論社会学の本らしいということが分かったが、それでも、日頃、「他者」との相互理解の困難性といった問題を抱え込んでいる――日常生活においても、理論課題としても――私としては、強く惹かれるものを感じ、すぐ買うことを決めた。
 著者自身の議論に入る前に、このタイトルが示唆する問題領域を広く考えてみるなら、そこには、ずいぶんと異なったレヴェルのものが含まれうる。先ず第一に、日常的な人間交際において、友人とか家族とか同僚とかが「理解できない」、あるいはそれらの人に自分が「理解してもらえない」と感じる、という経験をもつ人は多いだろう。それがどのくらい頻繁かは個人差があるだろう――おそらく、私はその頻度が平均よりもかなり高く、だからこそこのタイトルに強く惹かれたのだろう――が、大なり小なりそう感じたことがあるという程度であれば、大抵の人に当てはまるかもしれない。第二に、いわゆる経済ボーダーレス化とか、グローバル化とかに伴って、これまで交渉したことのない国々の人とのビジネス上の取引が増え、「文化の違い」「異文化理解の難しさ」を感じさせられる、といったような話もよく聞く。同じ国の中でも、「新人類」とか「宇宙人」と呼ばれるような異世代とのコミュニケーション・ギャップが話題になることもある。いずれにしても、これは第一の例で挙げたのと共通点もあるとはいえ、もっとずっとビジネスライクな、あっさりと言ってしまえば金儲けにかかわる話題――どうすれば、異文化の人たちとビジネス交渉が上手にできるか――である。第三に、これも「グローバル化」の一面かもしれないが、日本とアジア諸国の交流の拡大の中で、過去の侵略や戦争の責任とどのように向き合うのか、その問題にこだわり続ける人ともう忘れたいという人の間に「相互理解」は成り立つのか、といった問題もある。まだ他にもいろいろな類型があるだろうが、とりあえずこのように三つの類型を挙げただけでも、人と人の相互理解という言葉で括られる問題領域が非常に広大で、そこにはかなり異質なものが含まれることが分かる。
 では、本書の著者、数土直紀は、主としてどの問題類型に即してこの課題に取り組もうとしているのだろうか。実をいうと、その点はあまり明確でない。高度に抽象的な理論である以上、そのことは当然かもしれない。そして、そのような抽象理論は、原則的にはあらゆる類型を包括しうるということになるのかもしれない。そのように感じさせられる個所もある。ときおり挙げられる例には、かなり多様なものがあり、著者が広い関心と柔軟な感受性をもっていることが窺われる。ただ、それでいながら、ひょっとしたら実はある種の類型が最も主要な位置を占めているのではないかと感じさせられる面もある。だが、この点について結論を急ぐのはやめて、数土の議論につきあった上で改めて考えてみることにしよう。
 前置きが長くなるが、私自身の関心のあり方についても、簡単に記しておきたい。もう既にある程度触れてしまったが、私は、先に提示した三つの類型のうちの第一のものに、個人としての強い関心をもっている。これは、直接的には私の性格の特殊性にかかわり、それ自体としては、あまり一般性を主張できることではない。自分の「専門研究」の対象でもないし、そもそも「社会科学」的なテーマというよりは、むしろ文学作品を読んだときとか、実際にあれこれの人とつきあった――というか、むしろつきあいそこねた――ときに考えこまされることの多い事柄である。ただ、そういう性格的特殊性をもつが故に、この問題がより広い社会問題――「社会科学」的に一般化して捉えられる事柄――とどのように関わり合うのかに関心をいだくということもある。個人の性格的特殊性とか、人づきあいの難しさとかいったことをそれだけとりだして考えていると袋小路に陥ることが多いが、それが何らかの一般的社会的要因と関連づけられるのなら、「社会科学者」にとっても一定の意味があることになる。そこに私の関心がある。
 もう一つ付け加えるなら、このような私の関心は、それ自体としては、いわば「人文的」なもの――抽象化しがたい感性や性格にかかわる――だが、一見したところそれとかけ離れた数理モデルのような抽象理論も、私は案外嫌いではない。もともと高校生時代までは理科系的な傾斜をもっていて数学が一番好きな科目だったし、その後、数学とは無縁な生活を送るようになってからも、数理モデルというものに「いさぎよさ」とか「すがすがしさ」のようなものを感じることはある。ただ、数理モデルはあくまでも抽象化を推し進めたところに成り立つもので、それと具体的な現実の間には、恐ろしいまでの溝がある。特に、実証的な歴史研究を「専門」とするようになってからの私は、その溝がいかに大きく、深いかを痛感するようになった。そのような溝を軽視して、抽象理論をほんの一ひねりするだけで現実に適用できるかに考えるタイプの「理論」に対しては、私は反撥を感じる。だが、それは抽象論を抽象論として尊重したいからであって、抽象論そのものがけしからんと考えているわけではない。このようなことを書いたのは、本書のかなりの部分が抽象理論――中心をなすのは、いわゆる「ゲームの理論」――として書かれており、そのことへの私の態度を予め明らかにしておきたいからである。
 いま述べたことから明らかだと思うが、私は、社会理論をこのような抽象モデルとして構築することそれ自体には、反感を懐きはしないし、むしろ素朴な知的興味を惹かれる。日頃、数理的方法での議論には滅多に接しない方だが、たまに接すると――あまり高度な数学を駆使しておらず、素人の私にも理解できるような形で、分かりやすく書いてある限りは、ということだが――久しぶりに「頭の体操」をした気分になって、爽快感を覚えることもある。ただ、その抽象理論をどうやって具体的な現実に接近させていくかが問題である。ここで、先に触れた「溝」の問題が浮上し、それへの対処が安易だと、がっかりさせられることになる。下手に溝を飛び越えようとせず、浮世離れした抽象論にとどまっているだけなら、まだしもそれなりに自己完結したものとしての美学を感じるが、溝を超えて現実に肉迫したと称しながらそれに失敗していると悲惨なことになる。そういった風なことを念頭におき、本書の場合はどうだろうかと考えながら、この本に向かったわけである。
 数土の叙述は概して論理的で、明快である。これは、持って回った文体で読者を煙に巻くような著作家が少なくない中で、小さくない美点である。そのことを確認した上で敢えていうのだが、もしそれだけなら、「普通の秀才」の文章ということになるかもしれない。「普通の秀才」というのは、確かに小さくない美点をもっており、決して安易に軽んじるべきではないが、味わい深い感銘を残さないということも否定しがたい。そうした類の本を読んだ後には、「頭の体操」をした爽快感は残るが、それ以上ではない。本書の場合、「普通の秀才」の文章と感じさせられる個所と、「それだけではない。何か、それ以上のものがある」と感じさせられる個所の双方がある。ただ、その両者の関係が、私にはあまり判然としない。後者の要素が確かにありはするのだが、結局は前者が優越してしまっていないか、という気がしないでもない。といっても、私は所詮、本書の属するジャンル――理論社会学――の素人だから、その点をきちんと判定できるわけではない。ただ、ともかく私としてはこのように感じたということを書き記し、そのことを通して、自己流になにがしかのことを考えてみたい。
 
  二
 
 序章から順にみていこう。本書の冒頭近くで、数土は次のような例を挙げて、問題の所在を提示している。見知らぬ中華料理店に入り、炒飯を注文するとする。「このなにげない体験は、生涯初めて会ったはずの他者である店主(あるいは店員)との間に〔炒飯とは何かについての〕相互理解がなければ成り立たなかったような体験なのである」(五頁)。このように、一見したところごくありふれた例を挙げながら、実はそこに難しい問題が伏在していることを指摘するといった書き方は、「難解」で「高尚」な学術用語(ジャーゴン)で読者を煙に巻くような「普通の学者」の書き方に比べてユニークであり、私としては好感をもった。
 続く個所で、このような相互理解が実は限界をもっているということが指摘される。たとえば中国に旅行して、料理店で炒飯を注文したら、私が理解する炒飯とは全く違うものが出されるかもしれない。相互理解というものは、「私たちの所属する共同体」の外に足を踏み出した途端にいつでも失効する危険性にさらされている(八‐九頁)。そうした可能性は、グローバル化とともにますます増大している、と数土はいう。
 ここでちょっとした疑問が思い浮かぶ。何も外国に行くまでもなく、「私たちの所属する共同体」の中でも相互理解が疑われることはあるのではないか――更に、そうしたことを考えると、「共同体」とは何かということ自体が大問題となる――という疑問である。そうだとしたら、この問題は、何も「グローバル化」を持ち出すまでもないのではないか、「グローバル化」がこの問題を深刻なものとしているといった書き方は、かえって議論を浅くしないか、という気もする(この点は後で立ち戻る)。
 ここまでの議論は、基本的には分かりやすい。だが、数土はそこにとどまらず、次のように論を進める。私たちが自明のこととして他者と相互理解している(はずの)事柄について、その内容がどのようなものなのかをわざわざ明示的に確認することはない。そのようなことを敢えてしようとするなら、「自明」と思われていたことが実は説明不能であり、相互理解などなかったことが暴露されてしまう。暗黙の相互理解は厳密な意味では虚構でしかない。しかし、そのことは暗黙の相互理解にとって致命的ではない。むしろ、われわれは暗黙の相互理解の正誤について敢えて言及しないという選択をすることで、それが虚構だという事実に頬被りして、あたかもそこに相互理解が存在するかに演じあうことが可能になるからである。自明だから言及しないのではない。言及しないという選択こそが相互理解を自明であるかのように装わせているのである(一四‐一六頁)
 相互理解の困難性とか、それをどうやって乗り越えるかといった事柄を論じた文章は少なくないが、ここに書かれていることは、それらの多くに見られる常識論を超えた鋭さをもっている。普通の議論だと、「文化を異にする人同士は相互理解しにくい。そこで、身内の間で暗黙に前提していることを明示化し、そのような明示化された知識を相互につきあわせることで、相互理解を進めるべきだ」といったことが主張される。そこでは、「暗黙の前提」は自覚化によって明示的なものに変換できるということが想定されている。ところが数土は、「暗黙の前提」は問いつめるとかえって消えてしまいかねない、それは虚構なのだ、むしろ虚構を頬被りすることこそが、あたかも相互理解があるかのような円滑な関係を成り立たせてくれるのだ、という。
 「自明視されていること」や「暗黙の前提」が、その内容を問いつめるとあやふやになってしまうという指摘は、その通りだと私も思う。とりあえず暗黙にとどまっているものも論理の力で明示化することができるはずだと思っている人も多いが、そうした人は、問題を浅く捉え、とことん突き詰めていないからそう考えているのではないか。突き詰めようとすればするほど、明示化は難しくなり、議論は堂々巡りになり、袋小路に入ってしまいかねない。だとすると、どうなるのか。相互理解は虚構でしかなく、虚構でない相互理解を求めるのは絶望ということにならないか。ところが、数土は、「虚構を頬被りする」という手がある、そのようにしてわれわれは円滑な関係を維持しているのだ、という。これは人の虚をつく指摘だが、よく考えてみるなら、日常的にわれわれが経験していることでもある。炒飯を食べたいと思えば、「炒飯とは何か」について徹底討論をするのではなく、あたかもそれについて自明の了解があることを暗黙に前提しているような顔をして、ただ一言「炒飯を下さい」といえばそれでよい。それ以上のことをいおうとすると、かえって厄介なことになる。
 このような数土の議論は、なかなか鮮やかだと思う。だが、その上で、私としてはどうしても疑問を出さずにはおれない。「頬被り」してそれで済むならよいが、必ず済むという保証はない。確かに、日常生活において面倒くさい説明などなしに円滑な人間関係が成り立っているのは、数土のいうように、「頬被り」が円滑さを成り立たせてくれているのだろう。だが、それはいつでもうまくいくとは限らない。それがうまくいかないときにどうしたらよいのか。うまくいかない原因について相手と話し合ったり、今後の対応を考えたりする、そのときに、「相互理解」というものはどうせ成り立たないのだといって済ませられるだろうか。相互理解が絶望的なまでに難しい――われわれが日常的に成り立っていると思っている「相互理解」も、実は虚構である――というのはその通りだろうが、と同時に、それを求めずにはいられないというのもまた事実ではないか。
 数土も、こうした問題を意識していないわけではない。実際、この序章の末尾では、こうした「暗黙の相互理解」――実は虚構なのだが、それを頬被りしている――の限界に触れ、むしろこれとは異なった型の相互理解について検討することが必要だという形で、本論に話をつなげている(一六‐一八頁)。これはこれで分かるが、それでも私には欲求不満が残る。それは、ここでの数土の議論が「現代社会」と「それ以前の社会」との対比という形で進められていることと関係する。敢えて強引に単純化していうなら、伝統的な「共同体」の中では「阿吽の呼吸」による「暗黙の相互理解」に寄りかかることができるが、流動的・開放的な現代社会ではそれはもはや不可能だというような対比が念頭におかれているようにみえる。だが、私には、このような「共同体」と「現代社会」の二分法よりも前に、そのどちらにおいても、そもそも人と人との相互理解はどのようにして成り立つのかといった根本的な疑問がある。数土は、伝統的共同体においては簡単な解決(虚構の頬被り)があったという前提で、現代社会についてのみ検討すればよいと考えているようにみえるが、本当にそれでよいのだろうか。「グローバル化」以前の「伝統的な共同体」の中でも「阿吽の呼吸」による一体性から疎外された人もいるのではないだろうか。
 これは、先に記した疑問――「私たちの所属する共同体」の内部でも相互理解が不能になることはあるのではないか――ともかかわる。そして、この点についても、数土は全く意識していないわけではなく、本書の終わりの方で次のように述べている。「理解できない他者」の問題が近年クローズアップされてきたのは「グローバル化」に代表される現代社会の変化によるところが大きいが、実は、「私たちが日常接している他者」(家族・友人・同僚など)も、潜在的には「理解できない」他者であり、社会的・文化的背景を共有するか否かは相対的な差にすぎない。従って、「理解できない他者」の問題は、近しい人をも含めたあらゆる「他者」にかかわるというのである(二三九‐二四四頁)。この指摘はそれ自体としていえば正当である。だが、これは、このように簡単な追加を最後にするだけで済む話なのだろうか。このことを認めると、実は本書の多くの個所の前提が揺らいでくるのではないかという疑問が私には拭えない。だが、疑問は疑問として残し、とりあえず数土の議論を追うことにしよう。
 
 
 本論に入って、第一章では、社会的決定ルールの問題が論じられる。
 人と人との相互理解の基本的な方法は対話だということがよくいわれるが、数土はそのような考えに対して、どちらかというと懐疑的である。いくら対話を重ねても相互理解に達しないということは大いにありうる、理性的に話し合えば必ず他者と理解し合えるという思考(ここでハーバーマスの名が挙げられている)は他者の他者性を無視した思考であり、単なる理性信仰でしかない、というのである(二〇‐二一頁)。なお、場所が飛ぶが、終章でも類似のことが指摘されている。他者が理解できないとき、話し合いをして相互理解するよう努めるべきだというのが常識だが、この常識を疑うべきだというのである。いくら話し合いをしても理解できないことはよくあるし、相手が話し合いたがらない場合に、「あくまでも話し合うべきだ」と主張するのは一種の暴力ではないか。「話し合えばわかるはずだ」というのは、他者に対して「私の言っていることを理解しろ」と命じるのに等しい。このように考えると、対話継続による相互理解を求める態度は暴力・強制の要素を含むことになる。そうではなく、むしろ「理解できない」他者を「理解できない」ままに受け入れ、共に生きていく術を模索すべきだ、というのである(二三一‐二三九頁)
 この指摘は非常に鋭いものをもっている。自己流に補足するなら、「とことん話し合うべきだ」という主張は、通常、暴力と対立するものとされ、立派な態度だとみなされがちだが、実は「理屈っぽい」タイプの人間に有利で、「理詰めの討論」は苦手だという人にとって抑圧的なのかもしれない。そして、学者という動物は多くの場合「理屈っぽい」傾向があるから、この発想は学者のエゴイズムというようなところがあるかもしれない。数土がそうしたことを念頭においているのかどうかは定かでないが、そのように解釈するなら、これは「普通の学者」の発想を超えたものという風にも思える。こうして、この問題提起には大いに惹かれるものがあるのだが、では、「理解できない」ままでの他者の受容、共生について、数土はどのような道を示そうというのか。これについては後で詳しく検討することになるが、予めいうなら、折角の問題提起がややもすれば浅いレヴェルに切り縮められて、比較的容易な解決にたどりついているような気がしないでもない。だが、ここでも結論を急ぐのはやめて、数土の議論をもっとみてみよう。
 さて、対話による合意形成に失敗したとき、それでも社会生活を続けるにはどうしたらよいのか(小さなことかもしれないが、この直前の個所とこの個所とでは、微妙な用語変更がある。前の方では「相互理解」ができない場合ということが問題にされていたのに対し、ここでは「合意形成」ができない場合が論じられている。この二つのことはあたかも同じ意味で捉えられているかのようである。これには大きな疑問があるが、その点については後で考えることにする)。ここでクローズアップされるのが、合意のない人たちの間での社会的決定ルールを定めておくという方法である。意見の一致が得られない場合にはクジなり多数決なりの方法で結論を出すということが約束されているなら、そのルールに従って社会生活が営まれるというわけである(ここでも、そのような決定ルールをとるという約束は、いわばメタ・レヴェルでの「合意」を意味するはずだが、その「合意」さえない場合にはどうするのかという疑問がある。この点は突っ込んで論じられていない)。
 社会的決定ルールには様々なものがあり、それらの性質も多様である。ここで重要なのは、どのようなルールが公正なものとして広く受容されるかということである。ところが、この問題を突っ込んで考えると、重大なパラドクスにぶつかる。ケネス・アローの「一般不可能性定理」は、成員の意思を平等に尊重するような民主的な社会的決定ルールが存在しないことを示唆しており、アマルティア・センの「リベラル・パラドクス」は、個人の自由意思を尊重するような自由主義的な社会的決定ルールが存在しないことを示唆しているからである(1)。ごく簡単に敷衍するなら、「民主的」(アローの場合)あるいは「自由主義的」(センの場合)な決定ルールが満たすべき条件を、比較的単純なものとして――ということはつまり、一見したところ、満足することがそれほど難しくなさそうなものとして――設定した上で、論理的に検討すると、実はその条件を満たすようなルールは存在し得ないことが分かるということである。
 数土はこのような困難性を指摘した上で、「自由主義のジレンマ」を更に検討する。ここでちょっと面白いのは、例として、恋人同士の「結婚するかどうか」という選択が挙げられ、そこでジレンマが生じるのは、結婚するかしないかという選択は自分の自由だけでなく他者の自由にも関係してしまうからだということを指摘している点である(五八‐六五頁)。こうして、「自由であること」には自己否定性がつきまとい、それは、根本的には人間が「他者」との関係で生活する存在だということにかかわる。これは、哲学的な深い含意をもつ問題である。こうした問題にまで踏み込んでいる点に、本書の大きなメリットがあるように思う。もっとも、この点がどこまで突き詰められているかにはやはり疑問がある。というのも、ここでの指摘は、後で論じられるゲーム論の前提条件――各プレイヤーはそれぞれ自己利益の最大化を図って合理的計算に基づいて行動する――を揺るがす含意をもつように思われるのだが、その点が後の議論ではあまり考慮されていないようにみえるからである。この点も、後でまた考えることにしよう。
 ここで著者の議論からちょっと離れて、この章で提起されている問題について、私なりにやや読み込んでみたい。アローおよびセンの指摘は、「民主主義」や「自由主義」――この二つの概念の関係も大問題だが、ここではとりあえず、現代では多くの人が主として問題としているのは「自由主義的な民主主義」であり、その限りで二つが重なり合わせられているということだけを確認し、それ以上は立ち入らない――の根本的な理論的困難性を指摘しているととることができる。私自身の専門にやや引きつけるなら、一時期、世界中で「権威主義」や「全体主義」が倒れて「民主化」が進むというおめでたい議論が流行ったことがあるが、そこでは、「民主主義」も「自由主義」もここで指摘されているような根本的なジレンマをかかえているということはほとんど意識されなかった。「民主化」の熱狂が醒めてからしばらく経つと、ロシアその他の諸国について、「ああした後進国では、民主主義を実現できるような文化的基礎が欠けているから、民主化は不可能、あるいは極度に困難なのだ」といった議論も増えたが、そこでも、「先進的な」「文明国」では民主主義が実現できるということは暗に前提され、そうでない「後進国」が「例外」扱いされ、「劣等国」視されている。いずれの場合にも忘れられているのは、そもそも「民主主義」も「自由主義」も論理的なジレンマをかかえた概念であり、それがそう簡単に実現できるなどと期待できるようなものではないということである。
 
 
 続く第二、三、四章が本書の中心部分をなしている。かなり長い部分だが、相互関連性も高く、比較的明快に書かれているので、これらの章をひとまとめにして、ごく圧縮した形で要約してみよう。
 相互に異なった人々からなる社会においてどのようにして秩序が成り立ちうるのかという一般問題に関し、それを考える最もよい手がかりとして、数土はゲームの理論に依拠し、いわゆる「囚人のジレンマ」を取りあげている。これはよく知られた議論だが、要するに、互いに協力した場合にどちらにとってもよい結果になるにもかかわらず、相手の選択が読めない以上、各人の選択としては非協力を選ぶのが「合理的選択」となり、結局、双方にとって悪い結果となってしまうというような状況を指している。このジレンマに囚われている限り、個人の自由かつ合理的な選択は社会全体にとって合理的な結果をもたらさないということになる。これは自由主義の基本理念を疑わせるような話であり、非常に深刻な含意をもつ。
 このジレンマは、ゲームが一回しか行なわれない場合や、回数が有限であり、終わりが当事者に知られているときには避けがたい。しかし、いつ終わるかが分からないような形でゲームが繰り返されるなら、事態は異なる。繰り返しのうちに、協力した方が有利だということを当事者が学習するからである。しかし、そのことを知っていても、相手が信頼できるかどうかが問題になる。相手が裏切るかもしれないなら、自分も協力ばかりしているわけにはいかない。では、どうするか。この場合、プレーヤーのとりうる様々な戦略のうち「しっぺ返し戦略」が最も有効だ――個人にとってよりよい結果をもたらすだけでなく、社会の中での淘汰過程を通して生き残る可能性が高く、社会全体として安定的秩序を形成することができる――ということが示される。
 ここでいう「しっぺ返し戦略」とは、次のような戦略である。ある相手に対して初めてゲームするときには必ず信頼してみる。そして第二回目以降は、相手の前回の手をみて、それに応じた手をこちらもとる(向こうが非協力なら、こちらも非協力という形でしっぺ返しをする)。但し、相手の直前の手についてだけ反応するのであって、二回以上前の手についてまでこだわることはしない。一度非協力の態度を示した相手にこちらが何度も続けて非協力の態度をとる――いわば、強すぎるしっぺ返しをする――ことは、相手の協力意思を弱めてしまうので得策でない。一回だけは懲らしめるが、それ以上はこだわらないという「寛容」を示すことが、相手の協力を引きだし、双方にとってよい結果をもたらす。このようにみるなら、この戦略は、二つの点において――第一回目についてと、一度しっぺ返しをした後について――他者を信頼するタイプの戦略である。
 ここで、「信頼」とは何かということが大きな論点となる。信頼とは、裏切る自由をもつ相手に対して向けられるものである以上、そもそも根拠のないものであり、信頼することには常にリスクが伴う。それでいながら、「寛容」と「信頼」を特徴とするしっぺ返し戦略は、期待利得の高い、合理的な戦略でもある。このことを、「情けは人のためならず」という諺になぞらえて、「寛容は人のためならず」ということもできよう(一八六頁)。更に拡張していえば、信頼できるかどうか分からない他者を相手にしたとき、リスクを避けてばかりいるのではなく、むしろ「リスクを引き受けることで、他者との関係のあり方をより豊かで、可能性のあるものにしなければならない」(一六一頁)ということにもなる。
 このような考察に基づき、数土は「しっぺ返し戦略」は「寛容」のあらわれであり、協力しあいながら共に生きていく上での呼びかけと解釈することができるとも述べている。それは「理解できない/理解されていない」ことを積極的に受容することであり、「理解できない」ような他者との共生を意味する。しっぺ返しは、他者の裏切りを罰すること自体に目的があるというよりも、むしろ他者への協力の呼びかけ、その前提としての自己主張という風に解釈することもできる(一九七‐一九九頁)。こうして、しっぺ返し戦略は、寛容な性格をもち、他者との共生を可能にするという意味で、倫理的な望ましさをも具備している――但し、ひたすら倫理的であるだけではなく、悪意ある他者から自己を守ることもできるという側面ももっている――ということになる(二〇五‐二〇七頁)。この着眼はユニークである。ゲームの比喩や「戦略」という言葉はどちらかというとザッハリッヒでビジネスライクな駆け引きを連想させるが、「寛容」とか「共生」という言葉は、もっとウェットな人間関係まで含んだ、幅広いものという含意をもつかにみえるからである。もっとも、それがどこまで説得的かについては疑問もあり、後で立ち戻ることにしよう。
 ところで、このような「信頼」についての議論を進める際に、数土は山岸俊男の「信頼」論にかなり依拠しているので、ここで山岸の議論をも参照しておく必要がある(2)。山岸説をごく大雑把にまとめると、次のようになる。山岸は、広義の「信頼」を特定・既知の人への信頼と不特定・未知の人への信頼(一般的信頼)とに分ける。そして、前者は信頼できると分かっている人しか信頼しないのだから、むしろ「安心」の語をあてるのがふさわしいとし、その議論の中心部分では後者のみを「信頼」の語で指すことにしている。このような信頼――当てになるかどうか分からない未知の人についての信頼――は、一見したところ「お人好し」の態度のようにみえるが、実はそうではなく、むしろ相手がどのような人なのかをきちんと観察する能力――これを山岸は「社会的知性」という――と結びついていることが多い。そうした能力と結びついているなら、未知の人への信頼は、自分の世界を広げることに役立つ(たとえ裏切られても、すぐにそれに気がつけば、それほど大きな打撃を負わないで済む)。相手に裏切られはしないかと戦々恐々とし、「安心」できる相手との交渉のみに閉じこもっている「社会的びくびく人間」――この場合には、未知の相手とつきあわないのだから、「社会的知性」も必要ない――よりも、社会的知性を伴った信頼こそが、グローバル化の現代にふさわしいし、実際、アメリカでは日本よりもそうした態度が広がっている。日本はこれまで「安心」重視の社会だったが、これからは「信頼社会」に進まねばならない、というのが山岸のメッセージである。
 実は、偶然だが、私は数土の本を読む一、二年ほど前に山岸の著書を読み、大学の演習でもテキストとして使ったことがある。山岸の議論も明快なもので、いろいろと刺激されるところがあったが(3)、同時に、やや単純に過ぎるという印象もあって、演習で学生たちと議論しているうちに多くの疑問にぶつかった。ところが、数土はどうも山岸説に対してほとんど疑問をいだかず、ほぼ全面的に依拠しているようにみえる。そこで、以下では、二人の議論を重ね合わせるような形でいくつかの疑問点を考えることになる。
 
 
 この小文の一で、私は人間関係のいくつかの類型を挙げた。数土および山岸の議論は、それ自体としてはごく抽象的に書かれており、どの類型にも当てはまるかのように読める。だが、実は、適合性の度合に差があるのではないか、そしてこの種の議論が最も適合的なのは第二類型――ビジネスないしそれと類似の実務的な関係――においてではないか、というのが私の印象である(二人の著者がともに、「グローバル化」に象徴される現代的な社会・経済関係の変容を重視していることも、そのことと関係しているように思われる)。どうして他の類型には当てはまりにくいのかという点は後回しにして、先ず、この類型について相対的に当てはまりやすいという点と、にもかかわらず、ここでも多少の疑問が残るということについて、本書から離れて自由に考えてみたい。
 ビジネスの場合に「しっぺ返し戦略」を当てはめてみるなら、次のような風になるだろう。仮に私がビジネスマンだとしよう。私のところに、未知の人が商談を持ちかけてきた。話を聞くと、もしその言葉が信用できるなら、私にとって有利な商談である。だが、未知の人である以上、信用できるかどうかは分からず、ひょっとしたらいい加減なことを言っているのかもしれない。私は多少迷うが、「たとえだまされても、一回だけなら被害は小さいし、リスク対策もできている」という条件下で、とりあえず信頼したことにして、商談に応じることにする。その結果、信頼が報いられればそれでよし、報いられなかったなら、直ちにその人との取引は停止し、同業者にブラックリストを流し、必要とあらば法的対抗措置をとるなどの「しっぺ返し」をする。こういう行動様式をとるなら、「だまされはしないか」とびくびくして、限られた知人とのみ取引するような消極戦略よりもビジネス・チャンスが広がる。これまで未知だった広大な範囲の中から、より有利なパートナーを見つけることができるからである。たまに裏切られることがあっても、それは大した打撃ではなく、十分に取り戻せる。それに、私が裏切られたらすぐしっぺ返しする人だという評判が広まるなら、私に近づく人はしっぺ返しを恐れて、欺瞞的なことは滅多にしないだろうから、その結果、私に近づく人の大半は信頼できるということになる。
 これは確かに、うまい戦略である。他者に対する信頼を出発点にするという意味で倫理的にも望ましく、それでいて「お人好し」ではなく、合理的でもある。この限りでは、山岸=数土説は非常に説得的であるようにみえる。しかし、よく考えてみると、私がこのような戦略を採ることができるためには、いくつかの隠された前提条件が必要だということに気づく。第一に、私の資産がごく小さいなら、たった一回だまされただけで修復不能な打撃を受けてしまうかもしれない。ということは、「一回ぐらいだまされても、大したことない。授業料のようなものだ」と言える程度の資産をもっていることが必要である。第二に、仮にある人がインチキな取引相手だと分かった場合、私は、同業者たちにブラックリストを流し、また自分はその相手と次は取引しないなどの形で「しっぺ返し」をするだろうが、これが成り立つのも一定の条件付きである。私が同業者たちから広く信頼されているのでなければ、私の流すブラックリストは有効でない。また、私が多数の取引相手に囲まれていて、相手を選り好みできるのでないならば、「こいつはインチキそうな奴だ」と思っても、他の取引相手を見つけられないかもしれない。第三に、法的対抗措置をとれるためにも、私がある程度以上の法的知識をもち、信頼できる知り合いの弁護士をもち、また裁判所に出かけていくことを後ろ暗く思わねばならない事情などない、等々の条件が必要である。要するに、このような戦略を採ることができるのは、ごく大雑把な言い方をするなら、相対的に「社会的強者」の位置にある人ではないか。これらの条件に恵まれていない人は、しっぺ返し戦略をとりたくてもとりようもない。リスク回避は消極的な生き方だといわれるが、社会的弱者はそうした風にしか生きられないのかもしれない(もっとも、数土は本書の終章で、社会的弱者を念頭においた議論も繰り広げているが、その点については後で触れる)。山岸は、アメリカが日本よりも高信頼社会だといい、日本の中でも偏差値の高い大学の学生の方が低い大学の学生よりも高信頼傾向があるというが、これについても――偏差値の高い大学の学生は社会的知性が高いなどというおめでたい解釈よりは――彼らが社会的強者の地位につく蓋然性が相対的に高いからと解釈できるのではなかろうか。
 もう一つ付け加えるなら、このようなビジネスマンが未知の相手を「信頼する」というのは、実は、本当の意味で「信頼する」というのとはやや違うのではないかという気がする。「ひょっとしたらインチキな奴かもしれないが、そうと分かったらそれなりの対応をするまでのことだ。とりあえず一回だけは、試しに取引してみよう」と腹の中で考えて取引に応じるとしたら、そういう態度を「信頼」と呼ぶべきなのだろうか。
 以上、ビジネスのような場面で数土=山岸説が相対的に当てはまりやすいこと、それでも一定の留保をつけるべきことを述べたが、他の場面ではどうだろうか。たとえば政治の領域について考えてみよう。ごく大まかな言い方をするなら、政治の領域においては経済の領域においてよりも、「非合理性」の果たす役割が大きく、また個々の出来事のユニークさが大きいために「繰り返し」の仮定が効きにくい。そうした事情を念頭におきつつ、「囚人のジレンマ」をもじった「革命家のジレンマ」というものを想定してみよう。
 圧制的な社会がある。そこでは大多数の人が不満をいだいているが、反抗をするとすぐ厳しく弾圧される。そのような状況では、反抗せずに黙従するのが個々人にとって「合理的選択」である。しかし、反抗がある規模以上に達し、弾圧機構が麻痺すると、条件が急変する。そのような状況でも反抗せずにいる人は、周りの人から「臆病者」「裏切り者」呼ばわりされるし、「革命陣営」に率先して身を投じた方が革命後に有利な地位につきやすいと想定される。そうなると、人々は我も我もと反逆を選択し、かくして革命が成功する。圧倒的支持を得て革命が起きた後の地点から後知恵的に考えると、もともと革命が起きるのが当然だったように思え、かつて大多数の人々が立ち上がらなかったのは不自然で非合理的なことのようにみえる。だが、大多数の人が反乱せず、圧制を受容している状況も、ゲーム論の用語でいえば一種の「ナッシュ均衡」――自分の選んだ戦略と相手の選んだ戦略が互いに最適反応となっているような戦略の組――だったのであり、その状況が安定していたのは異常なことではない。
 では、大多数が黙従していた状況から、反抗が拡大し、弾圧機構が麻痺する状況への変化は何によってもたらされるのか。仮に革命家たちが秘かに組織化を進め、仲間を拡大したからだとしよう。しかし、この場合、仲間が信頼できるとは限らないという問題がある。裏切り者は権力から褒賞を与えられ、裏切られた革命家は死刑にあうとしたら、同志たちが信頼できるかどうか分からない以上、裏切るのが「合理的選択」である。これはまさに「囚人のジレンマ」的な状況である。しかも、これはやり直しのきかない政治過程であって――裏切られて死刑に処せられた革命家は「次回」を期することができない――「繰り返しゲーム」の仮定が効かない。にもかかわらず革命が起きるとしたら、それは「非合理的な選択」をする革命家がある程度以上の規模に達したからということになる。もちろん、これは頭ででっちあげた寓話に過ぎず、現実の革命過程がこのように単純な話で説明できるわけではないが、ともかくこのように考えてみることは一種の「頭の体操」として、議論を整理する役には立つだろう。
 革命などという例外的な状況を持ち出さなくても、政治においては「非合理的」な選択の例に満ちている。選挙における投票という簡単な例を取ってみよう。仮にある有権者が特定の候補者の当選に利害をもっているとする。それでも、僅か一票差で当落が決まることはほとんどないから、自分が投票しなくても他の人の投票でその候補の当選を期待することができる(フリーライド効果)。逆に、当選が危ういなら、いくら自分が一票を投じても「焼け石に水」である可能性が高い。だとするなら、選挙に出かけるなどという面倒なことをせず、棄権するのが「合理的選択」ということになる。棄権しないで投票するのは民主政治を支え、ファシズムその他の危険を避けるためだというような考え方もあるが、これについても、自分の一票だけで民主政治の運命が左右される可能性はごく低いから、他人の投票にそれを期待して、自分は棄権するのが「合理的」である。ところが、誰もがそのように考えて棄権するなら、民主政治の破綻が結果するかもしれない。ここにも「囚人のジレンマ」に似た状況がある。選挙は革命と違って何度も繰り返されるから「繰り返しゲーム」と考えられるかもしれない。だが、他の人が棄権したからといって自分も棄権して支持候補を落選させるとか、民主政治を危機に追い込むなどといった「しっぺ返し」をすることはあまり考えられない。むしろ、「たとえ無駄になるかもしれないとしても、それでも投票に行くべきだ」という「お人好しな」戦略がかなりの数の人に広まっていることが民主政治を支えるのではないだろうか。
 ゲーム論的発想の適用範囲が限定されていることばかりを述べすぎたかもしれない。どのような発想も無限定に何もかもを包摂できるわけはないのは当然のことだし、ある範囲内で有効なら、それでもって十分だという風に考えることもできる。おそらく経済行動などに関しては、ゲーム論は比較的よく適合するだろうし、経済というものは人間の世界で相当大きな比重をもっているから、そこで適用度が高いということは、小さくない意味をもっている。私の専門にやや引きつけるなら、ゲームの理論を基礎とした比較経済制度論は、経済体制の比較や移行――社会主義経済から市場経済への移行――について考える上でも、多くの示唆を与えてくれる(4)。私は現代経済学にそれほど通じているわけではないが、「ナッシュ均衡」という考え方を取り入れた経済学は、均衡状態が複数ありうることを指摘することによって、伝統的な経済学よりも幅広いものの見方を提供してくれるという指摘には納得できるものがある(5)
 経済以外の、より「非合理的」要素の多い領域でも、限定的になら、この種の議論を適用することは可能である。先の「革命家のジレンマ」にしても、少数の革命家については非合理性の要素を入れて考えないわけにいかないが、それ以外の多数の人々の選択についてはゲーム論的に説明することができ、しかも、ある時期までの黙従とある条件下での急激な反乱拡大をともに説明することができる。違った例だが、多言語状況下での人々がどのような言語行動を選択するかという問題についても、同じようなことがいえる。言語選択というのは、一方では個人の内面――文化的・民族的アイデンティティー――にかかわるものだが、他方では、他の大多数の人がどの言語を使うかによって自分の選択も左右されるという微妙な二重性があり、後者の側面に関してはゲーム論的な説明が有効性をもつ(6)
 更にいえば、より「どろどろとした」人間関係においても、ゲーム的に捉えられる側面がないわけではない。人間というものは多面的な存在であり、およそ勘定高さとは縁遠いとみられがちな情緒的行動のさなかでも、無意識のうちに「合理的な計算」をしているようなところがある。とすれば、そのような側面については、合理的計算とゲームの比喩で捉えられることになる。実際、冒頭の分類でいえば第一類型に属するような人間関係においても、ある角度からみれば「ゲーム」的に捉えることは可能だと私は思う。だからこそ、数土も適用範囲を限定することなく、この発想をあらゆる人間関係に当てはめようとしているのかもしれない。それはそうなのだが、だからといってそれで全てが割り切れるわけではないというところに、人間というものの厄介さがあるように思われる(末尾の補注参照)
 
 
 ややとりとめなく種々の例を挙げたが、ここから浮かび上がるのは、本書第二‐四章の議論が当てはまるような「ゲーム」においては、いくつもの前提条件がおかれているということである。そこでは、プレーヤーたちは、自分たちがどのようなゲームをしており、そのゲームのルールはどのようなものなのかについて共通了解をもっている。また、大部分のプレーヤーは、合理的な計算をして、自己にとって有利となりそうな手を選択する存在だということが前提されている。どの手が有利な結果をもたらし、どの手が不利な結果をもたらすかは相手の手に依存するから確率論的にしか予測することができないが、ともかく各人の選好は論理的に一貫した形で予め確定されており、自己撞着を含んでいたり、途中で流動したりすることはない。これらのことについては、プレーヤーたち全員の間に共通の理解がある。ただ分からないのは、「次に相手がどういう手を出すか」だけである。これは、「分からない」とはいっても、ずいぶんと限定された「分からなさ」であり、いわば「浅いレヴェルでの理解できなさ」ではないだろうか。
 この小文の三で、数土が「相互理解の欠如」と「合意の不在」を等置していることに触れたが、このことがここで大きな問題となる。ゲーム論においては、それがどのようなルールをもつどのようなゲームなのかについては参加者たちの間に共通の理解があることを前提して、「次にどの手を出すか」だけが問題になる。これは、「合意の不在」ではあるだろうが、徹底した「相互理解欠如」状況ではない。しかし、日常の人間関係においては、仮にそれをゲームになぞらえるとして、そもそもどういうゲームをやっているのかさえも定かでないことが多い。ルールもはっきりしない。あるいは、ルールについての理解が自分と相手とで食い違っていて、自分が「反則」とみなすことを相手は「フェアプレイ」とみなすかもしれない。これこそまさに「相互理解の欠如」だが、そのような状況は数土の議論では――少なくとも本論をなす第二‐四章の範囲では――念頭におかれていない。
 これと関連するが、対話におけるコミュニケーション困難という問題にしても、その困難さの度合は、次の二つの状況では大きく異なる。一つは、「何が問題になっているのか」という点については共通了解があり、その問いへの答えが異なっているという場合であり、もう一つは、「何が問題になっているのか」の理解自体が人によって異なっている場合である。前者も「合意の不在」ではあるが、そこでは少なくとも基礎的な相互理解はあり、コミュニケーション困難とはいっても比較的底の浅いものである。これに対し、後者では議論は完全なすれ違いとなり、各人は勝手なモノローグをしているだけということになって、コミュニケーションが全く成り立たない。数土は「非合意」を可視化し、「非合意に関する合意」を形成すれば他者との共生が成り立つと主張するが(一九三‐一九七頁)、これは前者の状況については当てはまるとしても、後者の状況に対しては無力である。そこでは、「非合意ということを合意しよう」という合意――いわばメタ・レヴェルでの合意――も成り立たないし、このような会話を成り立たせるような基礎的なコミュニケーションも不在である。
 実をいうと、数土の視野が常にこうした底の浅いものにしか向けられていないというわけではない。現に序章では、次のような興味深い例が挙げられている。会話をしているときに相手の発言内容をしつこく確認しようとすると、どうなるかという実験の例である。
 
(被験者)やつにはむかむかするぜ。
(実験者)お前のどこが具合が悪くてむかつくのか説明してくれよ?
(被験者)冗談だろう?おれの言いたいことはわかっているくせに。
(実験者)だから、お前の病気を説明してくれ。
(被験者)(困り切った様子で私の言っていることを聞いていた)どうしたんだい?こんなふうに話をしたことはなかったぜ、そうだろう?(一二頁)
 
 これは社会学実験の例なので、やや戯画的な形で描かれているが、実生活においても、会話者同士が互いに相手の意図をつかみかねて、すれ違った会話がなされる場合には、これと似たようなことが実際に起こりうる。この場合、質問を向けられている側は、相手の質問それ自体の意味が分からないのではない。そうではなくて、この質問には何か背後の意図があるらしいと推測し、その「背後の意図」が何であるのかについて図りかね、困惑しているのである。もし「背後の意図」がこういうものだろうということについていくつかの明確な選択肢があり、そのうちのどれをとるのかが問題であるならば、まだしも困惑の度は浅いだろう。しかし、どれをとるかではなく、何がなんだか全く見当もつかないということになると、ひたすら困惑し、苛立つほかない。質問をする側はどうか。自分としては「背後の意図」などなしに素朴な質問をしただけなのに、変に邪推されてしまった。その邪推を解くにはどうしたらよいか。底意はなかったのだということをいくら言っても――いや、むしろ言えば言うほど――ますます相手から疑惑の眼で見られ、話はこじれる一方である。ここでもまた、邪推を解く戦略としていくつかの選択肢があって、それらの中からどれをとるかということが問題ならまだしも困惑が浅いが、どうしたらよいのか全く見当もつかないとなると、困惑は深まる一方であり、こちらもまた苛立ってくる。こうして、この二人の関係は破綻に向かっていく。
 現実の会話や論争においては、このような状況が起きることが稀ではない。そもそも論争で人が苛立つのは、相手と意見が一致しない――合意が得られない――からではない(問題が共有された上での意見の不一致は、ルールを共有したスポーツのようなもので、むしろ爽やかな印象を残すだろう)。そうではなくて、そもそも何が問題なのかの理解が食い違い、議論がすれ違ってばかりいて、どのような不一致があるのかということさえも相互理解できないという状況に追い込まれるときにこそ、人は苛立つのではないか。学者の間の論争の場合でも、こうしたことは頻繁に起こりうる(7)
 ゲーム論のもう一つの前提条件は、プレーヤーたちの選好が論理的に一貫しており、その選好に基づいた合理的計算をして行動するということである。だが、これも現実の人間関係でいつもあることではない。そもそも何が「勝ち」で何が「負け」なのかも、常にはっきりしているとは限らない。特に重要なのは、選好自体が相手の対応に左右される可能性があるということである。ゲームにおいては、相手の戦略は確かに結果に影響を及ぼすが、それにしても自分の選好自体がそれに応じて変わるわけではない(相手がどのような手を出そうが、自分の刑期が短くなることは歓迎すべきことであり、あるいはビジネスで利潤が大きくなるのは望ましいことだと決まっている)。しかし、ゲームの比喩を離れて日常的な人間関係を思い浮かべるなら、自分の選好がそのように確定的なのは、むしろ特殊な場面においてのことではないだろうか。
 「繰り返しゲーム」という設定も、どこまで現実適合的かという問題がある。数土自身も指摘するように、一回限りのゲームや、終わりが知られているゲームでは、「囚人のジレンマ」からは抜け出せない(少なくとも、抜け出せるということが証明されていない)。だから、繰り返しという条件は重要な意味をもつ。しかし、まさに本書が強調する「グローバル化」の趨勢の中では、これまで全く縁のなかったような人と接する機会が増え、そこでは、その相手との関係は、今後持続するかもしれないが、一回限りで終わるかもしれず、前者になるという保証はどこにもない。ひょっとしたら相手は詐欺師で、一回限りの接触でボロ儲けをしてどこかに姿を隠そうとしているのかもしれない。インターネット上での電子取引などによる「顔の見えない」交渉が増えると、そうした可能性はむしろ増大するのではないだろうか。
 数土は、繰り返しの仮定が非現実的ではないことについて、次のように説明する。「なぜなら、私たちの社会では、特定の人との関係が日々繰り返されることは決して珍しいことではないからである。むしろ、特定の人と長期にわたって関係を継続させることに社会の社会としての特徴があるといってもいい」(一二六頁)。ここには二つの問題がある。第一は、「特定の人との長期にわたる継続的関係」を重視するのは、山岸のように未知の相手との交渉機会拡大を重視するのと矛盾するのではないかということである。第二に、仮に、ある人と人の間に「長期的関係」があるとしても、それは「同じルールをもつ同じゲーム」とは限らないという問題がある。安定的法律制度を前提した実務的交渉などにおいては、そうした定型的繰り返しが多くみられるかもしれないが、それ以外の日常的な人間関係においては、たとえ特定の相手との関係が長期にわたるとしても、その間に「どのようなルールのどのようなゲームか」が流動的に変化するということが当然考えられる。
 それに、数土の主要な問題意識は「共に生きる」という点にあるはずだが、「繰り返しゲーム」の仮定をおくことは、その点を暗に前提化してしまうことになるのではなかろうか。ここで念頭においているのは、次のようなことである。数土が「しっぺ返し戦略」は共生の呼びかけだと解釈できると述べていることについては既に触れたが、その解釈に従って、「呼びかけ」の中身を敷衍すると、おそらく次のようなものになるだろう。「私は、いま君にしっぺ返しをしたが、それは、君と今後もゲームをしたいからだ。今後ともゲームを続け、お互いに有利な結果を生みだしていくために、私の原則――しっぺ返し戦略をとる――を理解してほしい。そうすれば、君もしっぺ返し戦略を採り、結果的に、どちらも協力的な手をとって、ともに有利な結果を生み出すことができるだろう」。
 ここには、傍点で示したように、二つの前提がある。第一に、ゲームを打ち切らず、繰り返すということである。つまり、「共に生きる」かどうかということを問題にしていながら、実は、繰り返しゲームでは、「共に生き、同じゲームをし続ける」ということが定義に含まれてしまっているのである。もし「共に生きる」かどうかということを問題にしようとするなら、特定の相手を忌避するとかゲームの場からの追放を提案するといった可能性を含むようなゲームを考えねばならないだろう。そうなるとゲームは非常に複雑なものになるだろうが、そうした複雑性抜きで、「共に生きる」という問題を考えることはできないように思われる。
 先の呼びかけには、これも傍点を付したが、「自分の戦略を理解してほしい」というメッセージが込められている。ここにもう一つの問題点がある。「理解できない他者」を理解できるものに変えるのではなく、「理解できない」ままにしておいてよいのだというのが数土の主張だが、実は、ここでは暗黙のうちに、相互に相手の戦略を「理解」するということが滑り込まされている。
 「理解できないままの他者」との共生をどのようにして実現するかを考えるのが本書の眼目だが、その「共生」をゲームの比喩で捉えることには、もう一つの暗黙の前提が滑り込んでいる。というのも、ゲームをしている最中には、「相手がどのような手を出すか」だけが関心事であって、それ以外の事柄――このゲームとは別の場面でどのような人柄であり、どういう趣味をもっているのか等々――についての知識は必要なく、むしろ夾雑物である(なまじ、相手が自分と同じ趣味をもっているとか、病気の扶養者をかかえているといった事情が分かったりすると、ゲームの上で必要な冷徹な判断ができなくなってしまうかもしれない)。つまり、ここにおいては、「理解できない他者」との共生といっても、そもそも「理解」する必要の範囲がごく狭く、それ以外の事柄はもともと度外視されているわけである。
 これに対し、親密な間柄での人間関係がこじれて、それをどうやって修復しようかと考えるというような場合、「他者とは理解できないものなのだ」といって片づけるわけにはいかない。もちろん、どんなに仲のよい友人・恋人・夫婦でも、相互理解ができないということは大いにありうる。理解ということを突き詰めて考えれば考えるほど、それは究極的には不可能事ではないかとさえ思えてくる。だが、もし当事者が「お互いに理解できなくて構わない」という風に考えているとしたら、その関係は既に相当冷めている。十全な意味での相互理解などできないにもかかわらず、それを求めずにはいられない、そして幻想かもしれないがあたかも深く理解し合える間柄になれたように思いこむ――そのようなことなしには、親密な人間関係は成り立たないのではないか。それは不可能事への挑戦かもしれないし、そのようなことを求めているうちにかえって互いに苦しめあうような経験かもしれない。だが、それでもそうせずにいられないというのが、人間関係の微妙なところではないだろうか。
 以上、いくつかの要素に分けて考えてきたが、要するに、第二‐四章における数土の議論(および山岸の議論)は、いくつかの暗黙の前提をおく限りで通用するものであり、それを超えた一般的適用には疑問をもたないわけにはいかない。そのこと自体は異とするに足りない。どのような理論でも、何もかもを説明できるほどの普遍性をもてるはずはなく、一定範囲での説得力さえあれば、それでもって十分な価値を主張することができる。ただ、その通用範囲についての自己限定がやや甘いのではないかという印象はどうしても否みがたいような気がする。
 
 
 やや長くなり、また数土自身の議論からも多少離れたが、ともかく本書の中心部分(第二‐四章)の検討をこれで終え、終章に移ることにする。
 「理解できない」他者を積極的に受容することの意味について考える上で、数土は井上達夫の所説を参照し、次のように述べる(なお、ほぼ同趣旨のことが本書の第一章、七三‐七七頁でも述べられている)。もし他者を受容しないなら、それは自由そのものを否定することになってしまう。たとえばゲームが面白いのは、他者が相手として存在し、その相手が勝つ可能性があるからこそである。もし必ず自分が勝つという可能性しか存在しないなら、そこには複数の選択肢がない以上、自由もない。こう考えるなら、他者を積極的に受容するというのは、グローバル化に象徴される時代の変化に対応するというだけでなく、より善き生を追求する機会をすべての人に保証するという点で正義からの要請という面もある(二一一‐二一七頁)(8)。こうして、第二‐四章ではどちらかというとグローバル化に伴うビジネスの変容のような場面に適合的な議論をしてきた数土は、ここでは視野を大きく広げて、「自由」とは何かというような哲学的な大問題に踏み込んでいる。
 いまみた個所で数土は自由に関する井上説を出発点としていたが、それを踏まえた上で、井上説への修正が次に提起される。井上説の暗黙の前提として、自分が社会的強者の立場にあり、その立場から弱者としての他者を受容しようという発想があるのではないかと数土は指摘し、では自分が弱者の立場にあるときには、強者としての他者をどのようにして受け入れればよいのかという問題が抜け落ちていると批判するのである(二一七‐二一八頁)
 これは面白い指摘である。物を書く知識人の多くは――もし女性でも植民地出身者でもないなら――自分が「強者」ないしマジョリティーの側に属することを暗に前提し、その上で、もし良心的な人なら、「他者としての弱者(ないしマイノリティー)」に対する態度のことを考えようという発想をとりがちである。もっとも、論者がフェミニストとか植民地出身者の場合には、自己が相対的弱者の立場におかれているという意識が立論の背後にあることが多いが、おそらく男性であり日本人である数土にはこのことは当てはまらないだろう。そのような人がこうした問題の所在に気づいたということ自体に、私は興味を惹かれた(私自身の場合、あまり男らしくない男、日本人らしくない日本人という自己意識があり、そのことがこうした問題を日頃考え込ませる要因となっている)。
 この小文の冒頭の分類に戻っていえば、井上は第三類型を、自分が社会的強者の立場にあって相対的弱者やマイノリティーに対しているときの態度という形で問題にしていることになる。また、数土はこれまでの中心対象だった第二類型から離れて、より広く、第一類型および第三類型を含めて考えている――そして後者については、自分が弱者の側にある場合に強者にどのように対するかという問題を井上説への補足として提起している――ようにみえる。こうして、本書の主要部分ではやや狭められた視野がここでは再び大きく広がっているように感じる。
 ともかく、自分が弱者である場合、強者としての他者に対してどのような戦略をとるべきかというのは、考えてみるに値する大きな問題である(なお、いうまでもないことだが、「強者」とか「弱者」という概念は固定的なものではなく、文脈によって異なり、相対的かつ流動的である。以下ではいちいち断わらないが、「強者」「弱者」という言葉はあくまでもそうした相対的な意味である)。
 他者を受け入れることの困難性ということが本書の主題だったが、それがより一層深刻なものとなるのは、自分が社会的弱者である場合である。相手が強者であるなら、その他者を受け入れると自分が圧倒されてしまうおそれがあるからである。そこで、「そのような場合には、他者に対していたずらに寛容になるのをやめる」とするか、それとも、「それでもなおかつ寛容であり続ける」かという選択が問題になる。数土は、このいずれも正当化が可能だが、どちらにしても問題が残ると述べ、結局、「相手に寛容さを示しつつ、自己を主張する」という組み合わせを提唱する。その際、「しっぺ返し戦略」が寛容に基づいた戦略であると同時に無条件的な受容ではなく相手の行動を見極めた上での自己主張も伴っていたことが想起される。そして、「相手に寛容さを示しつつ、自己を主張する」という戦略は一見したところ単なる折衷論にみえるが、実は、決して中途半端な戦略ではないという。何もかもを寛容するという無条件的な寛容は、相手の主張の内容を問わないということを意味し、それは実のところ、相手の固有の価値を否定することに通じる。そうではなくて、自己を主張しながらの寛容こそが、他者と共に生きることなのだというのである(二二一‐二三一頁)
 この主張もなかなか興味深い。特に、無条件的な寛容はかえって相手の固有の価値を認めないことになり、真の他者尊重にはならないという指摘は鋭いと思う。もっとも、「しっぺ返し戦略」の意義をここまで読み込むのは、先の私の検討からすると、やや説得力に欠ける。むしろ、我流に補足させてもらうなら、次のように考えてみてはどうだろうか。自分が弱者として強者に対しているとき、相手に下手な寛容など示さず、ひたすら糾弾すべきだという戦略も確かにある。これまで従属を余儀なくされていた人たちにとっては、そうした戦略の発見は啓発的な意味をもつから、その意義を単純に全否定することはできない。だが、そのことを確認した上で、これのみに依拠することは、かえって相手を頑なにし、一層関係を悪化させるおそれがある。この戦略は強者を一層暴力的にし、激しい抑圧に結果するかもしれない。あるいは逆に、もし弱者が力をつけて強者を打ち倒すことに成功するなら、その途端に昨日までの弱者は新たな強者=権力者となって、他の弱者に対して抑圧的にふるまうという可能性もある。いずれにせよ、暴力は暴力を呼び、非寛容は非寛容を呼ぶから、対抗は果てしなくエスカレートするおそれがある(9)。こうしたことを考えるなら、弱者にとっても「寛容」という戦略が重要性を帯びたものとして浮かび上がってくる。「寛容」という言葉は通常、上に立つ者が下に立つ者に対して温情的に示すというようなニュアンスがあるから、弱者が強者に対して寛容を示すというのは逆説的なことだが、まさにそうだからこそ、弱者が寛容を示すことは、それによって精神的優位に立つことができるということを意味するのではないか。もちろん、それは単純に何もかもを許すことではなく、しっかりとした自己主張と組み合わされていなければならない。
 こうしてみると、「相手に寛容さを示しつつ、自己を主張する」という戦略は確かに魅力的である。私自身の感覚としても、「自己主張」だけでも「寛容」だけでも足りないということを常日頃感じているので、その組み合わせという戦略には納得のいくものがある。だが、それでもやはりいくつかの疑問が残る。「寛容と自己主張の組み合わせ」は、結局のところ、強者にとっても弱者にとっても必要とされる戦略であり、立場にかかわらない一般的な戦略である。数土はこの章の前の方では、自分が弱者であるときと自分が強者であるときとでは状況が異なると指摘していたのに、結論的に提唱される処方箋は、立場に関わりなく同じものなのである。そのこと自体は異とするに足りないかもしれない。「強者」と「弱者」の区別が相対的なものである以上、両者の戦略をあまり明確に分けてしまうのは、かえって関係を固定化してしまうことにつながる。そして、どちらにも通用する戦略こそが普遍的な意味をもつと考えることもできる。しかし、それにしても、この戦略は、相対的に説得的だというにとどまり、常に成功するという保証があるわけではない。そして成功の蓋然性について考えるなら、おそらく相対的強者ほど成功確率が高いだろう(自己主張も寛容も、強者によって示されるときの方が、相手に対して強い印象を与える可能性が高く、弱者の戦略は無視されるおそれが大きい)。ということは、相対的弱者はどうしたらよいのかという先の問いに対して、あまり明るい回答が出ていないということになるのではないか。そのこと自体はやむを得ないことかもしれない。「弱者」とは、定義上、社会的に困難な状況に追い込まれている人たちのことだから、そのような人たちのとるべき戦略について安易な万能の回答などあろうはずもなく、とりあえず相対的に説得的な道さえ示唆されているならそれで良しとしなければならないだろう。ただそれにしても、数土の議論は、折角深刻な問題を提出していながら、それへの回答においてはやや困難性を軽視して、安易に流れる傾向がありはしないかという印象をどうしても否みがたい。
 やや飛躍かもしれないが、このような不満が出てくる理由は、これまで検討してきたこととかかわるのではないかという気がしてならない。つまり、「理解できない/理解されない」他者との共生という困難な問題を提起していながら、それへの回答においては、前に指摘した「比較的浅いレヴェルの理解できなさ」に議論を切り縮めてしまっているのではないかということである。
 
 全体を振り返ってみると、本書のうちの中心をなす第二‐四章の議論は論理明快で爽快な印象を与えるのに対し、序章・第一章・終章は、通常の意味での明快さを超えて、人間存在の深奥に迫ろうとする姿勢のようなものを感じさせる。前者はそれだけとりだしても十分な評価に値する長所だが、なまじ後者の要素があるだけに、その方に関心が引きつけられる。そして、それへの回答が前者のレヴェルに還元されがちであるということが私が軽い不満を覚える理由ではないか、というのが全体としての感想である。
 理論社会学に不案内な私のこのような感想がどこまで適切な評価なのかは、何ともいえない。ただ、ともかくこれまで書きつづってきたようなことを考えたのは本書に触発されたおかげであり、私にとっては有意義な経験だった。
 
 
(1)アローおよびセンの議論を含む社会的決定理論の解説として、佐伯胖『「きめ方」の論理』東京大学出版会、一九八〇年、またセンの「リベラル・パラドクス」について、セン『合理的な愚か者』勁草書房、一九八九年参照。
(2)山岸俊男『信頼の構造――こころと社会の進化ゲーム』東京大学出版会、一九九八年、より一般向きの解説として、同『安心社会から信頼社会へ――日本型システムの行方』中公新書、一九九九年。
(3)この小文の主題からは逸れるが、私が興味深く思ったのは、山岸が通説と違って日本を低信頼社会としている点である。これは、たとえばロシアは低信頼社会だが日本は高信頼社会だとする袴田茂樹の議論(『プーチンのロシア――法独裁への道』NTT出版、二〇〇〇年、第二章)とは対照的である。
(4)青木昌彦『経済システムの進化と多元性』東洋経済新報社、一九九五年、上垣彰「企業・組織の経済学とロシア・東欧の市場経済化」川村哲二編『制度と組織の経済学』日本評論社、一九九六年など参照。なお、このような「新制度派経済学」の枠組みを政治現象の分析にも転用しようとする試みもあるが、私がこれまでに接した限りでは、あまり成功をおさめているようにはみえない。おそらく、政治においては経済においてよりも「非合理性」の役割が大きく、そのことと関連して、この小文の一で触れた抽象理論と具体的現実の間の「溝」がより深く、その突破が困難だという事情が関連しているのだろう(念のためにいえば、ここに書いたのは、突破が困難だというだけのことで、それが絶対に不可能だといおうとするのではない。もしそうした突破に成功した事例に接することができるならば、それは非常に刺激的な知的体験となるだろう。ただ、これまでのところはまだそうした例に接していないというだけである)。
(5)根井雅弘『二一世紀の経済学』講談社現代新書、一九九九年、五七‐六七頁。
(6)David D. Laitin, "Language and Nationalism in the Post-Soviet Republics," Post-Soviet Affairs, vol. 12, no. 1 (January-March 1996); id., "The Game Theory of Language Regimes," International Political Science Review, vol. 14, no. 3 (April 1993)参照。これはまさしく私自身の研究テーマとかかわる問題だが、ここでは立ち入らない。
(7)「理性的」であるはずの科学者たちの間の論争も、実際には、すれ違いを大量に含んだ「泥仕合」と化しがちだという問題に関し、金森修『サイエンス・ウォーズ』に関する読書ノート参照。
(8)ここで主に参照されているのは、井上達夫『他者への自由』創文社、一九九九年である(この本についての私の感想は、機会を改めて論じたい)。なお、脱線になるが、このような「他者」の捉え方は、立岩真也のそれとも相通じるものがあるように思われる(立岩『私的所有論』についての読書ノート参照)。
(9)この問題は、広げて考えるなら、これまで暴力・軍事が男性によって独占されていた状況に対してフェミニストはどのような態度をとるべきか――軍や暴力行為への平等な参加を要求すべきなのか、それともそれ以外の道があるのか――という問題とも接点をもつ。これについては別の機会に考えてみたいが、さしあたり、江原由美子編『性・暴力・ネーション』勁草書房、一九九八年所収の上野千鶴子論文と中山道子論文、および上野千鶴子「英霊になる権利を女にも?」『同志社アメリカ研究』第三五号、一九九九年など参照。
 
(補注)この小文を書いてから大分経つが、最近、法社会学者の太田勝造が次のように書いているのに接した。太田によれば、恋愛・結婚・離婚等々の、一見「非合理的感情」に基づくとみなされている行動においても、「法と経済学」による分析やゲーム論的分析が最も有効である。なぜなら、@感情を頭ごなしに「非合理的である」と決めつけることはできない。A愛憎をはじめとする感情と「合理的打算」は二律背反ではない。B「合理的打算」とは金銭的価値だけにかかわるものではなく、価値観・感情・嗜好などを含むものである。C「法と経済学」的分析にとって、当事者が自己のことを「合理的に打算している」と意識している必要はなく、激情に流された行動も外的な分析からは合理的と位置づけうる場合がある(『国家学会雑誌』第一一七巻第一=二号、二〇〇四年、二五〇‐二五一頁)。
 本文で私は、「どろどろとした」人間関係においても、ゲーム的に捉えられる側面がないわけではないし、およそ勘定高さとは縁遠いとみられがちな情緒的行動のさなかでも、無意識のうちに「合理的な計算」をしているようなところがあると書いた。その限りでは、太田の主張と私の議論とは矛盾しない。ただ、私は同じ個所で、だからといってそれで全てが割り切れるわけではないとも書き、一定の疑問も提示した。これに対し、太田は――もちろん私の疑問をそれ自体として取り上げているわけではないが――ゲーム論的分析の「感情的」行動への適用に消極的な人間は、古くさい偏見にとらわれており、理論的に遅れていると示唆するかのようであり、発想としてはかなり違っているようにも思える。
 太田の主張は、先に要約した限りでは、一応納得のいくものである細かいことをいえば、右のBとCは「合理的打算」による分析を正当化しようとするものであるかにみえるのに対し、その直前には、「法と経済学」の分析は「合理的打算」を基礎におかなければならないわけではないという文章があり、その関係はあまり明確でない。だが、これらの点はどれも、「合理的打算」を前提した分析が必ずしも不適当とはいえないということを証明するにとどまり、それが最も適切だという結論を導くものではない。ところが、太田自身は「最も有効」という言葉を使っている。理論的可能性として「有効かもしれない」ということと、「最も有効だ」ということとの間には大きな違いがある。私は前者を退けるものではないが、いきなり後者を宣言されると、やや戸惑いを感じる。
 私自身はゲーム理論に通じているわけでないので、あくまでも素人的な感想にとどまるが、この小文で書いたことを敷衍していうなら、次のような疑問がある。抽象的なモデルと違って、実生活における人間行動というものは、仮にそれを「ゲーム」と呼ぶとしたら、非常に複雑な条件を背負ったゲームだといわなくてはならない。たとえばプレーヤーの目指すものは常に明白とは限らない。スポーツや狭義の「ゲーム」なら戦いにおける勝利、逮捕された犯罪者なら刑期の短縮、ビジネスマンなら利潤最大化などが目標だということは明白だが、より広い人間行動を取り上げるなら、そこにおいては、何を狙うか自体が不確定だったり、流動的だったりすることは珍しくない。プレーヤーの選好も不確定な場合があり、推移原理を満たすとは限らない(AよりBが望ましく、BよりCが望ましくても、AよりCが望ましいとは限らない)。ルールも一義的ではなく、ある人が反則とみなすことを他の人は反則とはみなさないことがある。審判が一応いても、その審判がみなに信頼されているわけではない。仮に相対的に信頼性の高い審判がいたとしても、その判決が常に遵守されるという保証はない。「繰り返しゲーム」の仮定もどこまで当てはまるか疑わしい。一回限りのゲームで終わることもあるだろうし、何回か繰り返されるにしても、「終わり」を意識している場合もあるだろう(そもそも人間の生命が有限である以上、「引退」を意識するのは当然である)。あるいは、ほぼ同じようなゲームが何回も繰り返される場合にしても、いつの間にか少しずつゲームの性格が変わってくるということもありうる。さらに、そもそも「このゲームはどのようなゲームなのか」を記述した言語――ここで「言語」とは比喩的な意味におけるそれを含む――自体が参加者によって異なっている可能性があり、相互の間での完全な通訳可能性は保証されていない(ある程度までは意思疎通可能であっても、思わぬところで巨大な誤解が発生するかもしれない)、その他その他。
 ひょっとしたら、ゲーム理論の進化はこのような複雑性まで取り込むことができるのかもしれず、そのような努力を頭から退けるつもりはない。ただともかく、「繰り返しゲーム」という仮定をおいて「しっぺ返し戦略」をとれば全てが解決というほど話が単純でないことは確かではなかろうか。(二〇〇四年三月記)。
 
*数土直紀『理解できない他者と理解されない自己――寛容の社会理論』勁草書房、二〇〇一年
 
(二〇〇一年八月初稿)
 
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