カルパナ・サーヘニー『ロシアのオリエンタリズム』
はじめに私の感想を結論的に述べるなら、残念ながら、本書をあまり高く評価することはできず、むしろかなり批判的にならざるを得ない。
但し、大急ぎで付け加えねばならないが、本書で糾弾の対象となっているロシアの東方蔑視や植民地支配を弁護しようとか、ヨーロッパ中心的なものの見方に賛成しようなどと私が考えるからでは全くない。そのようなものの見方およびそれと関連する実践――サイード以来「オリエンタリズム」と広く呼びならわされている事象――に対して批判的な態度をとるべきだという主張そのものは、今では常識として広く定着しており、敢えて異議を唱えるべきものでもない。本書に対して私が批判的なのは、そのような主張に反対の立場を対置しようというのではなく、むしろその立場を基本的に踏まえた上で、「オリエンタリズム批判」を真に深めるためには、このような安易な方法はかえってその目標にふさわしくないのではないかと考えるからである。
この邦訳書が刊行されたとき、私はちょうどモスクワに長期滞在中で、日本にいなかったので、日本でどのような反響があったのか、詳しいことは知らない。帰国後大分経ってから本書に接し、袴田茂樹のような人が巻末に称賛の解説を書いたり、小松久男のような人が肯定的な書評――いくつかの事実誤認を指摘してもいるが――を書いたりしている(1)のをみて、二人とも私の尊敬する研究者であるだけに、残念な思いをした。他方、これまで私の目にとまった批判的な言及としては、短文ながら宇山智彦のものがある(2)。ロシア内の民族問題を研究する若い人から同種の感想を聞いたこともある。本書の対象と近いテーマを自ら研究している人には、限界もよく見えるということなのだろう。
一
先ず、本書の基本的な姿勢ともいうべきものについて考えてみよう。
本書の全体を貫くトーンは、いわば「検事口調」ともいうべき告発的な文体であり、その点が、私には何よりも気になる。相手(ロシア)への憎悪と、味噌も糞も一緒くたにしたような糾弾が本書全体を蔽っている。そこには、ロシア人にしばしば見られる「アジア(3)」へのいわれない蔑視をちょうど鏡で反転させたような、ロシア・ソ連に対する偏見・憎悪・蔑視・嫌悪感が、圧倒的な情念をこめて披瀝されている。ロシアの側がかつてそうした態度をアジアに向けたのだから、それに対抗して、同じような罵詈雑言を浴びせかけねばならないという発想は、いってみれば、「売り言葉に買い言葉」のようなもので、不毛で、やりきれない印象を与える。
こういう風にだけいうと、やや辛すぎる評価になってしまうかもしれない。これまで差別・抑圧されてきた人たちが相手を糾弾するときには、多少の「行き過ぎ」があるのは当然であり、ある程度までやむを得ないという面は確かにあるだろう。著者はモスクワ留学経験をもつインド人ということだが、ロシアで実際に偏見にさらされたり、差別された苦い経験があるのかもしれない。そうしたことを考慮すれば、筆の勢いが強いこと自体をあながち非難するわけにはいかない。それはそうなのだが、このような一本調子の糾弾は、果たして著者の陣営にとっても本当にためになるのだろうかという疑問を抑えがたい。日本の部落解放運動においても、一時期の「糾弾闘争」に関しては内部からの真摯な反省が進んでいるし、フェミニストたちの間でも、「男は敵だ」といった単純な決めつけは適切でないということがしばしば指摘されている。これは、「喧嘩両成敗」的な折衷論・中立論をとるべきだということではなく、差別に抗する運動を真に説得力ある、成熟したものに発展させるためにも、重要な点のはずである。
もっとも、同じようなことでも誰が言うかによって意味あいが異なるということはある。もし、本書のような議論をロシア人自身が提出したなら、その場合には、私も感心したことだろう。確かに、ロシア人の中には、異民族支配の歴史に反省の念を欠いた人がかなり多い――誰も彼もがそうだというのは言い過ぎだが――と、私も思う。だから、そういうロシア人の中から、このように痛烈なロシア批判を展開する議論が出てくるなら、それは解毒剤的な意味をもつ。ロシア人がロシア史の負の側面をえぐり出すというのは、最近一部の人たちが使っている言葉を敢えて逆説的に借用するなら「自虐的」な行為ということになるが、私は――「自虐史観」という言葉を流行らせている人たちとは正反対に――そのような「自虐的」なものの見方を提出できるということは、精神の成熟のあらわれであり、大いに歓迎すべきことだと思う(日本についても同様である)。
だが、大切なのは自己批判であり、他者をやっつけることではない。著者にとってはロシア批判は自己批判ではなく、他者攻撃という意味をもつ。他者に対するときには、その他者がどのような相手であろうと、努めて内在的に理解しようと試みることが、不毛な対立を超えるために必要なはずである。ところが、著者は、他者としてのロシアを内在的にみようとする態度を欠き、ひたすら「忌むべき敵」として扱っている。これは、認識対象をステレオタイプ的図式に押し込んでしまうという点で、実は「オリエンタリズム」と同種の精神的態度――裏返され、ロシア・ソ連に向けられたオリエンタリズム的視線――ではないだろうか。
本書の視角は、邦訳書のタイトル(原書では副題に対応する)に示されるように、サイードを受け継いだ「オリエンタリズム批判」というものだが、そのような視角を取ることの意味についても、多少考えてみたい。実は、サイードの古典的著作それ自体にしても、世評でいわれているほど画期的なものなのかどうか、私には多少の疑問があるが(4)、それはひとまず措くとして、サイードの著作が出てから二〇年以上経つ今日では、この視角は完全に常識化している。常識を述べること自体が悪いわけではなく、正しいことは何度いっても正しいかもしれない。ただ、とうの昔に常識となっていることを、今さらのように大発見として力説するのをみると、どうしてもいささか滑稽な感じを懐いてしまう。
被抑圧者に同情し、味方するという態度も、それ自体としていえば当然至極のことだが、往々にして、「自分は正義の味方だ」という自己満足にひたり、そのことによって、かえってより深い反省をなおざりにさせやすいという陥穽があることも指摘しないわけにはいかない(5)。日本のジャーナリストが世界のあちこちの民族紛争について書いた文章を読むと、紛争の実態についての丹念な分析を抜きにして、「要するに大国(たとえばアメリカなりロシアなり)が悪いことをやってきた。差別と残虐の歴史が繰り返されてきた」という、最初からもっていた先入観をそのまま単純に当てはめて、それでもって、「自分はかわいそうな被抑圧者のことを報道したのだから、正義の味方だ」という自己満足にひたっていることが少なくない。このような先入観だけに頼ったルポルタージュは、実は、当の「被抑圧者」たちから見ても、真に内在的な理解を試みたものでない点で、「部外者が勝手なことを言っている」ということのもう一つの例でしかないのだが、そうしたことを考える人は滅多にいない。やや本書から逸れたが、本書を読んで感激する日本人読者というのは、そういうメンタリティーの持ち主ではないかという気がしてならない。
日本人読者にとっての意味に触れたついでに、その点にかかわることをもう一つついでに述べておきたい。日本では、ヨーロッパに関しては――長らくヨーロッパ中心主義批判が繰り返されてきた後でも、なおかつ――素朴な憧れや無批判的賛美・追随のメンタリティーが今なお残っており、その意味で、ヨーロッパに関するオリエンタリズム批判は、たとえ多少古臭くみえることがあるにしても、まだ有意味性を完全に失ってはいない。しかし、ロシアに関しては事情は大きく異なる。日本では伝統的に、ロシアについて「野蛮」とか「残酷」とか「圧制的」というイメージがステレオタイプ的に刷り込まれてきた。ソ連崩壊後は、これに加えて、かつての社会主義への思い入れを裏返したような形で、「ソヴェト政権のやってきたことは何もかもひどいものだったにちがいない」という単純な思いこみが重なるようになってきている。そうした中では、ロシア・ソ連のアジア支配が差別と抑圧に満ちた残酷なものだったという本書の議論は、大多数の日本人にとって、決して意外なものではなく、「やっぱりね」という感想を引き起こすだろう。人によっては、「だから、そういうロシアのアジア征服の脅威に対抗するために、日本はもっと積極的にアジアにかかわらねばならないのだ」と考えるかもしれない。ある本がどのように読まれるかは訳者の責任ではないから、ある種の偏見を定着させかねない本を訳していけないというわけではない。ただ、少なくとも、そのありうべき効果について、もうちょっと自覚的であってもよいのではなかろうか。
枠組みについて、もう一点補足しておきたい。本書は圧倒的にサイードの影響下に書かれているが、その他、ところどころでホブズボームの民族論に言及している。しかし、ホブズボームとサーヘニーとでは、およそ「民族」という概念への接近が正反対といってよいほどに違っている。ホブズボームの場合、周知のように、民族概念への本質主義的・原初主義的アプローチに対する批判がその基調をなしている(6)。これに対し、サーヘニーの図式は、様々な民族が元来もっていた文化・伝統・アイデンティティーがロシア・ソ連によって否定され、破壊され、ねじ曲げられてきた、それらの民族が独立を獲得した今こそ、その本来のアイデンティティーを再建するときだというもので、これはまさに本質主義・原初主義そのものである(ついでにいえば、基本的な方法的立場としても、ホブズボームはマルクス主義者だがサーヘニーはマルクス主義否定論という風に対極的である)。もちろん、ホブズボームを金科玉条視する必要はない。彼に反対なら反対で、正面から批判すればよいだけのことである。だが、本書にはそのような批判はほとんど見あたらない(7)。どうもこの著者は自ら援用する他人の説をあまりよく理解していないのではないかと疑わざるを得ない。
二
視角や枠組みについてはこのくらいにして、本書の内容の検討に移ろう。もっとも、率直にいって、この作業を丹念に遂行する意欲は、私にはない。何が何でも敵を糾弾しなければならないという気負いが著者を駆り立てているせいか、本書の記述は概して性急で、あまりもきめが粗く、丁寧につきあう気を起こさせないからである。
著者のロシア糾弾には、大筋として当たっているものも多く、それはそれとして認めてよい。だが、勢いあまった「勇み足」のような個所も少なくない(純然たる事実誤認も散見される)。しかも、比較的綿密な部分とそうでない部分とが雑然と並んでいるために、どこがどちらに該当するかを見分けることがしばしば困難である。また、当たっている個所にしても、その中には、既に多くの人が指摘している事柄がかなり含まれるのに、それがさも新発見のように述べ立てられていたりする。
本書の基礎にあるのは、ロシアもヨーロッパも、帝政ロシアもソ連邦も、レーニンもスターリンも、いやマルクスもヨーロッパ思想全体も、アジア蔑視という点ではみな同じだという主張である。これは、ある抽象レヴェルでは、その通りだと言って言えなくもない。ロシアを含む大多数のヨーロッパ人――そしてまた日本人も――の中に、「アジア」に対する根深い偏見があったし、今でもそれは消えていないということは、ごく巨視的にいえば否定しがたいことである。だが、それは、「闇夜ではすべての牛が黒くみえる」というような次元の話であり、そのような認識に立つ限り、一々あれこれの例を分析することは無意味な業となる。いわば「最初に結論ありき」で、個々の事例は、その結論を確認するために利用されるだけなのである。そのようにスウィーピングな議論をすることに、どれだけの意味があるのだろうか。
ついでながら、著者はヨーロッパ的メンタリティーの核心として、キリスト教における一神論的世界観ということを指摘している。これはこれで巨視的には当たっているが、それをいうなら、イスラームも一神論であり、その面ではむしろヨーロッパ・キリスト教と共通する。ところが、そのようなことはおよそ意識されている形跡がなく、イスラーム世界はあっさりと「アジア」のうちに数えられている。また、キリスト教国であるポーランドやリトワニアに対するロシア支配をアジア支配と並列した個所があるが、これはヨーロッパ(キリスト教世界)vs「アジア」という著者自身の図式と矛盾する。
ロシアの偉大な文学者や知識人さえも偏見に染まっていたことが各所で指摘されており、そのような摘発が本書の大きな部分を占めている。これも当たっている面があるといえばいえるが、その時代のヨーロッパ(ロシアを含む)では誰もがそうだったとするなら、同じことを何度も繰り返し述べたてるのは無意味ではなかろうか。ある時期までのアメリカのどんな偉大な民主主義者も、黒人を奴隷とすることや、インディアンを滅亡に追いやることを全く疑問に思わなかったし、かつてはどんな進歩的な男性思想家も、女性に参政権を与えないことを当然と考えていた。そのことを糾弾するのは、原則論的にいえば、正しい。ただ、その正しさは、今日では何らの知的努力を必要としなくなった「安易な正しさ」ではないだろうか。私はこの種の糾弾に違和感を覚えるが、それはその糾弾が「正しくない」と思うからではなく、「安易な正しさ」にあぐらをかくことで知的怠惰に導きはしないかと懸念するからである。
著者は文学批評が専門らしく、個々の文学作品を取り上げて議論を展開した個所には、それなりに面白く読めるところもある(もっとも、レールモントフ、トルストイなどのロシア文学者のカフカース観というテーマについては、イギリスのスーザン・レイトン以来、日本を含めて多くの人が論じてきており、それらの焼き直しという感もないではないが(8))。他方、歴史については、著者の不得手な領域らしく、全体として記述が雑然としている。特にソヴェト期についてはあまりにも粗すぎて、皮相にとどまるとの印象を拭えない。もっとも、ここにはやや不幸な事情が介在しているかもしれない。というのも、私自身の専攻がソヴェト史であり、近年はその民族政策に大きな力点をおいているため、著者の一番弱い面が私にとっては一番目に入りやすいという不幸な関係にあるからである。それはともかく、本書のソヴェト期に関する叙述は、何もかもを邪悪な政権の政策的意図に還元する陰謀論的な説明に傾斜している。かつて私は、ソ連社会への視点として、「二層認識」と「四層認識」ということを提起したことがあるが(9)、本書のソヴェト民族政策批判は典型的な「二層認識」である。ソヴェト民族政策を批判するのはよい。問題は、その批判をどこまで深いものとして展開できるかという点にある。本書における批判は、その点であまりにも薄っぺらなものと思われてならない。
ロシア・ソ連のありとあらゆる文学者・思想家・政治家たちをなで切りにした上で、著者は、カザフ人の詩人スレイメノフとキルギス人の作家アイトマートフをとりあげ、彼らに高い評価を与えている。だが、このことは実は著者の立論に深刻な修正を迫るはずなのに、そのことに気づいていない。というのも、この二人はともに、ブレジネフ時代のソ連において体制内で高い位置を占めていた人だからである。ともにソ連共産党員であり、作家同盟の幹部でもあった。ついでにいうと、二人とも主にロシア語で作品を書いている(アイトマートフは初期にはキルギス語で書いていたが、後にロシア語に切り替え、スレイメノフにいたってはあまり上手にカザフ語を話せないという)。そうした人たちがオリエンタリズム的発想に対峙するすぐれた作品を書き得たとするなら、そのことは、彼らが生きてきたソヴェト体制が実は著者の単純な図式をはみ出すものをもっていたということを示唆する。ところが、著者はそのことには全く触れようとしないのである。もう一つ付け加えると、ペレストロイカ期に一連の共和国で言語法が制定される中で、ソ連レヴェルでの言語法がこれに対抗する形でロシア語を連邦全体の公用語・民族間交流語と定めた際、その公式案のソ連最高会議での提案者は他ならぬアイトマートフだった(10)。著者はゴルバチョフにも辛い評価を下しているが、アイトマートフは政治的にゴルバチョフと近い立場にあったのである。
三
やや辛すぎる文章になってしまった。こういう文章を書くのは、私の本意ではない。一般に、何らかの本を読んで、そこから自分の知らなかった事柄を学ぶのは楽しいことだが、「これは下らない本だ」とやっつけるのは、面白くも何ともなく、むしろ気の重い作業である。いままで何度か、心ならずもそうした気の重い作業をやる羽目になり、「あの人はやたらと厳しい書評を書く人だ」という噂まで立てられているらしい私としては、もうそういうことはやりたくないというのが正直な心境である。しかも、本書の基本テーマたる民族差別糾弾という主張は、現代日本の多くの人々の共感を呼ぶ――そして、具体的な立論や語り口を捨象して、ただ結論だけを取り出すなら、私自身も共鳴する――ものだから、そうした本に対して辛口の批評をすることは、「悪者を弁護し、正義の味方を批判する」という風に受け取られやすく、割の合わないことである。にもかかわらず、一言いわずにおれないと感じたのは、繰り返しになるが、本書の結論的な主張が現代日本人の間に通俗的に広まっているロシア・ソ連への偏見と合致するために、多くの読者にすんなりと受けとめられ、その偏見をますます増幅する結果になりはしないかと危惧するからである。この危惧が外れているなら幸いである。
最後に一つ、告白をしておきたい。私は本書を半分過ぎあたりまで読んだ時点で、「これは丁寧に読むに値する本ではないな」という感想を強く懐いたので、細部まで注意しながらゆっくりと読むことをやめ、ざっと一通り目を通すにとどめることにした。だから、ひょっとしたら、私の見落とした長所が本書にはあるのかもしれない。もしそうした点に気づいた方がいるなら、是非、ご教示を乞いたい。結局のところ、もし本書がそれほどひどい本ではなく、私の読み方が悪かったのだと分かるなら、それは私にとっても喜ばしいことである。
(1)『デジタル月刊百科』二〇〇〇年五月号。この書評のテキストは、広瀬陽子氏から提供を受けた。
(2)宇山智彦『中央アジアの歴史と現在』東洋書店、二〇〇〇年、一三頁〔その後、木村崇による痛烈な書評に接した。『ロシア語ロシア文学研究』第三三号、二〇〇一年〕。
(3)アジアは一つではないのだから、このように無造作に「アジア」という言葉を使うこと自体も問題である。この小文では、本書に即して、ロシア帝国/ソ連に包摂されていた中央アジアおよびカフカース地域(ザカフカースと北カフカースの双方)を念頭においている。
(4)サイード『オリエンタリズム』についての読書ノートを参照。サイードの著作はサーヘニーのものよりは優れているが、本書のような亜流を生み出す危険性をもとから伏在させていたという面がなくもないように思われる。
(5)この問題に関し――また、この小文全体の背後にある問題意識の説明ともなるが――塩川「集団的抑圧と個人」江原由美子編『フェミニズムとリベラリズム』勁草書房、二〇〇一年、所収を参照されたい。
(6)E・J・ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』大月書店、二〇〇一年。
(7)ただ一個所、ソ連の文献をホブズボームらも参照していると書いている個所があり(一九頁)、これはホブズボームがソ連の著作家に影響されて不正確な事実認識をもっているという批判を含意するかにみえる。だが、より基本的なホブズボームの民族概念と自分自身の主張との対蹠性については、全く気づいていない。
(8)サーヘニーとほぼ同様の論を展開しているものとして、山内昌之『ラディカル・ヒストリー』中公新書、一九九一年、第三章。この山内著を批判して、レールモントフを論じ直したものとして、木村崇「歴史家に捏造された歴史」『むうざ』第一二号(一九九三年)、同「ロシアのカフカーズ支配とレールモントフ」『ユーラシア研究』第三号(一九九四年)〔前注2に挙げた木村崇の本書への書評は、文学研究の観点からみたときの本書の粗雑さを指摘している〕。
(9)塩川『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九四年、第一章(民族問題に関しては一六‐二四頁)。また、同『現存した社会主義』勁草書房、一九九九年、二三九‐二四五、二六五‐二九二、三五五‐三六〇、五七二‐五七四頁なども参照。
(10)塩川「言語と政治」皆川修吾編『移行期のロシア政治』溪水社、一九九九年、七三頁〔その後、塩川『民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T』岩波、二〇〇四年、二二九‐二三〇頁に収録〕参照。より詳しくは、同『ソ連言語政策史の若干の問題』北海道大学スラヴ研究センター、一九九七年、五四‐五八、六九‐七〇頁(この文献は市販されていないが、私のホームページの「これまでの仕事」の中の該当項目にリンクを貼って、全文が見られるようにしてある)。
*カルパナ・サーヘニー『ロシアのオリエンタリズム』柏書房、二〇〇〇年
(原著は、Kalpana Sahni, Crucifying the Orient: Russian Orientalism and the Colonization of Caucasus and Central Asia, White Orchid Press, Thailand, 1997.)
(二〇〇一年七‐八月執筆、二〇〇四年七月に一部追加)