佐伯胖『コンピュータと教育』
 
 
 私が大学生の頃は、「認知科学」という学問分野は、その名を聞いたこともなかった。それが、いつのまにか、様々な分野――コンピューター科学、心理学、言語学、教育学、大脳生理学等々――を総合する、極めて興味深い分野になっているらしい。単に流行だからということではなく、「人間がものごとを認識するとはどういうことなのか」という問いは古くからの哲学の根本問題であり、知的活動に携わろうという者すべてが頭におかざるを得ない問題であるだけに、気になる存在である。そういうわけで、数年前から関心をいだいてはいたのだが、予備知識のない分野に手を出しかねるという状態がいまなお続いている。
 佐伯胖という人は、この分野でかなりの仕事をしているらしいが、その著者が新書本という形をとって書いたのが本書であり、新書なら全くの素人でも何とか読めるだろうと思って手を出してみたわけである。読んでみると、確かに非常に刺激的でいろんなことを考えさせられた。とはいえ、この一冊で「認知科学」というものが分かったというわけではもちろんない。ここでは、「認知科学とは何か」などという大きな問題はさておき、本書を読みながら感じたいくつかの感想――本書の内容から離れた自由な思いつきを含む――を書きとめておきたい。
 なお、認知科学という学問領域自体が複合的な学問である以上、コンピューター科学、教育心理学その他種々の問題を一冊の書物で論じるのはしごく当然のことなのだろうが、にもかかわらず、私の素人的な印象としては、本書におけるそれらの部分の接合はあまりうまくいっていない気がする。そのせいもあって、ここでの感想もいくつかの別々のテーマに分けて書くことにせざるを得ない。以下の一と三では、本書の中で特に私の注意を引いた二つの問題を扱うが、中間の二では、本書からやや脱線して、コンピューターというものと「理解すること」ということについての私なりの思いつきを記すことにする。
 
    
 
 教育という側面からみたとき、本書の一つの大きな主張として、ブラックボックス主義批判ということがある(九−一六頁)。私流に言い直すなら、ある事柄を、その内部に立ち入ってしっかりと理解することなく、「なんだか分からないが、こうすればこうなるらしい」という形で覚え込むということだろう。
 このような態度への批判は、それ自体としては、ごく当然のことだし、私も共鳴する。それは次のような状況を念頭においている。伝え聞くところによれば、受験業界では「数学は暗記ものだ」というようなことが半ば公然といわれているらしい。公式がどのように導き出されるのかを理解し、その都度、公式のもとになっている原則に立ち戻るなどということをやっていたのでは時間がかかりすぎて試験には不利だ、それよりも公式をひたすら暗記し、条件反射的に、「こういったタイプの問題は、この公式で解く」と反応するのが点数を稼ぐ道だ、というのである。これは、数学の公式を「ブラックボックス」化する発想だといえよう。このような発想が邪道であり、知的発育を歪めるものだということはいうまでもない。その意味で、「ブラックボックス主義」批判には、私も深く共鳴する。
 しかし、正論を正論として振りかざしただけでは無力である。本書のうちの「教育学」的な部分には、そういった「正論」主義が多少感じられるように思う。知識をブラックボックスとせずに理解する態度というものは、何かをしっかりと、根底から理解しようとする場合には不可欠なものだが、われわれはどこまでそれを貫けるのだろうか。このように問題をたてるなら、専門的な科学技術の成果をブラックボックスとせざるを得ないのはむしろ当然であるようにも思えてくる。家庭電気製品の大半にしたところで、われわれはそれがどのような原理で動くかなどは知らない。ただ単に、どのボタンを押せばどう動くか、また故障したらどこに連絡すればよいか、ということだけを知っており、実際問題として、それですむのである。
 もっと話を広げれば、産業文明の発展は、そのようなブラックボックス的対応で話が済む局面を広げていくものであり、それこそが「文明の進化」だといえなくもない。ハイエクが引用しているホワイトヘッドの言葉に、次のようなものがある。
 
「われわれは自分たちが何をしているのかを考える習慣を培養しなければならないというのは、あらゆる教科書や高名な人たちの演説で繰り返し述べられている陳腐な文句であるが、完全に間違っている。その正反対が真実である。われわれが考えることなしに成し遂げることができる重要な作業の数を増やすことによって、文明は前進するのである(1)」。
 
 これは挑発的で、一見逆説的だが、産業文明というものの「進歩」の性格をよく言い当てている。ある電気器具のあるボタンを押すと、なぜだか分からないがある結果が生じるということは、普通の消費者にとっては、古代人が、あるお祈りをすれば雨が降るだろうと考えるのと、意識の質としては変わらない。ただ、雨乞いは実を結ばないことが多いのに対し、電気器具のボタンは多くの場合望み通りの結果をもたらしてくれるし、そうならないときには専門家が駆けつけて修理してくれるということだけを現代の消費者は知っているのである。
 これは「普通の消費者」だけの話ではない。トマス・クーンの「通常科学」論によれば、通常科学化した学問においては、学生は一々基礎や原理にたちかえる必要はない。それは既に誰かによって打ち立てられており、教科書に叙述されている。科学史を専攻するのでない限り、そうした基礎や原理の発見過程を古典を通して学ぶ必要はなく、教科書の吸収で事足りる。それが「通常科学」というものであり、それだからこそ効率的に教育や習得が進められるのである(2)
 こういう風に考えると、ブラックボックス的理解を全面的に否定することはできそうもない。むしろ、それを前提した上で、その行き過ぎが問題だということではないだろうか。何もかもをブラックボックスにして、「なんだか分からないが、こうすればこうなるらしい」という理解で済ませる癖をつけると、受身的な「マニュアル人間」ができ、リアリティーが喪失する。先の「通常科学」の例に即していえば、学生は個々の問題を解くときには一々基礎や原理にたちかえる必要はないにしても、その前に一度は基礎や原理をじっくりと体得しておくのでないと、一人前にはなれない。また、「普通の消費者」と「電気器具修理に携わる専門家」のギャップがあまりにも甚だしくなれば、後者が詐欺行為を行なって暴利を稼いでも、前者はそれを見破ることもできず、無力にとどまるということになりかねない。
 そうだとすると、ブラックボックス的発想を全面的に否定するのではなく、それが不可避だということを認識した上で、それへの対処を考えることが必要なのではないだろうか。
 
    
 
 ここで、本書を離れて、コンピューターというものについて、いま述べた「ブラックボックス」問題とのかかわりで、私の素人流の感想を書き留めてみたい。
 多くの消費者が「原理は分からないが、ともかくこう使えばいいらしい」という形で使うという限りでは、一般の家庭電気製品とコンピューターとは共通している。その上で、両者の間の大きな違いは、次の点にあるように思われる。前者の場合、使用法が特定されており、従って、ブラックボックスとしたままで使用法を覚えれば、それでことが足りる(もっとも、レコードは、まわっているレコード盤と針が接触しているのがみえるから、それが音を出すもとになるのだろう位の見当がつくのに対し、CDとなると、ディスクがまわっているのはみえても、どうしてそれが音になるのかは見当もつかないという意味で「ブラックボックス性」の度合が一段高くなっている。一般に、技術革新はそのような性格をもつのかもしれない)。これに対して、コンピューターは使用法が予め特定されておらず、それを消費者が選び、指定しなくてはならないという点に最大の特徴がある。
 ある意味では、コンピューターと他の機械の違いは、人間と他の動物の違いに似ているのではないだろうか。人間は他の動物に比べ、生まれた時点での不完全性が大きく、そのために、長い時間をかけて教育されねばならない。そのような不完全性こそが可塑性の基礎ともなり、多様な発展の可能性をもたらす。コンピューターも、「ソフトがなければただの箱」といわれるように、ある意味では不完全な製品であり、そのことが可塑性、多様な利用可能性をもたらし、ひいてはユーザーを積極的な情報発信者にしてしまう。
 人間を育てることもそうだが、これはかなり「しんどい」ことである。しんどくても、それが優れた営為だから頑張ってやるべきだというのは正論だが、その正論をどこまで貫けるのかという点に疑問がないわけではない。
 もう少し具体的に考えてみよう。コンピューターの発達の仕方を眺めていると、ハード(本体および周辺機器)にしても、ソフト(基本ソフトおよびアプリケーション・ソフト)にしても、それぞれに変化が激しく、それらの組み合わせ方も複雑であるため、マニア的でないユーザーにはとてもついて行けないというのが実態だろう。それでいながら、素人ユーザーはブラックボックス主義に安住できるかというと、実はそうではない。というのも、原因はさまざまだが――プログラムにバグがあったり、コンパティブル(互換的)であるはずのものが完全にはコンパティブルでなかったり、マニュアルが不親切で誤操作を誘発したり、その他その他――、時として思いもよらぬ事態が突発し、ブラックボックスを前提したルーチン的操作ではどうにも作業が進められないという状況に遭遇することがあるからである。そうなると、マニアならぬ純素人的なユーザーさえもが、時としてブラックボックスの中に入らざるを得なくなる。
 もっとも、近くにマニア的な人がいれば、その人に教えてもらうという手がある。おそらく、これから先の企業・官庁などでは、一定規模の部署ごとに一人ずつの割合でマニア的な人を配置することで、他の人はそれほど詳しくなくても済むというような作業環境を整備していくことになるだろう(3)。しかし、現状ではこれにも限界があるように思われる。各種ハード・ソフトの種類およびその組み合わせ方が極度に多様であり、かつ急速に変化するので、マニア的な人でさえ、完全にはその全貌をつかみきれず、そのために十分なアドヴァイスができないということがあったりするからである。となると、結局、ブラックボックスの中味がちゃんと分かっているわけではないにもかかわらず、素人ユーザーが推測や勘でブラックボックスの中味をいじることを余儀なくされるということが起きる。
 この事態を文明批評的な見地からいうと、次のような問題が提起される。もし人間が「コンピューターのブラックボックスの中が分かる人」と「それが分からない人」に整然と二分されるなら、前者に属する人々が後者の人々を自由に操作できるということになる。それはオーウェルの『一九八四年』やザミャーチンの『われら』が描くような逆ユートピアの恐ろしい情景である。しかし、現状はそのようになっているわけではなく、それとはやや違ったところに問題をかかえているように思われる。
 現実に存在している状況はこうである。ブラックボックスの中味を完全に知りつくしている人はいない。誰もが、ある部分についてはよく分かり、ある部分については少しだけ分かり、ある部分については全然分からない、といった風に不完全な知識をもっている。ただ、具体的にどの点が分かり、どの点が分からないのか、また分かる領域の広さが人によって違う(それが広いほど「マニア」的ユーザーで、狭いほど「素人」的ユーザーだ)、ということである。問題は、ある人はこのブラックボックスのことが分かっているから自らその中に入るが、ある人は分からないので他人に任せる、といった線引きがきちんとできるかどうかということである。今日のコンピューター技術の困った点は、先に触れたように、ブラックボックスの中味がちゃんと分かっているわけではない人が、にもかかわらず、推測や勘でブラックボックスの中味をいじることを余儀なくされるという点にあるように思われる(少なくとも、これが、素人ユーザーたる私の実感である)。
 「ここまではブラックボックスのままにしておいて構わないが、これについてはブラックボックスの中にまで入って理解しよう」という線引きがはっきりしているならば、それで何とかなる。だが、現実はどうもそうなってはいないという点に最大の問題があるのではないだろうか。あるいは、これはコンピューター技術の未成熟故の過渡的現象なのかもしれない。しかし、いろんな種類のハード・ソフトが、互換性の有無を含め、誰も全体像をとらえられないほど複雑かつ急速に変わり続けるなら、こうした状況を一時的・過渡的現象とは片づけられないような気もする。
 この項のはじめの方で、コンピューターと他の機械の違いを人間と他の動物の違いになぞらえた。人間もコンピューターも、その性能が最初から特定されてはいないため、可変性が大きい。そのことと関係して、人間を理解するにも、「内側から理解する」やり方と、「ブラックボックス的に理解する」やり方とがあって、その境界が可変的である。普段は、親しい人については「内側から分かる」つもりでつきあい、スーパーマーケットのレジ係の人については、「心の中で何を考えているかは知らないが、とにかく商品を見せ、金を支払えば、お釣りをくれる」という風に――つまりブラックボックス的に――対応する。ところが、「内面まで分かっている」つもりの、たとえば自分の子供が、あるとき急に分からなくなり、「とにかく小遣いだけやっておけば、うるさく反抗はしないだろう」というようなブラックボックス的理解で済ますしかなくなることがある。逆に、スーパーのレジの人が気むずかしい態度をしているのに出会って、「ただ金を払うだけでなく、その人の気持ちを理解してあげなくては」と考えさせられることもある。このように、どの場合はブラックボックスのままでよく、どの場合はブラックボックスの中まで立ち入ろうと試みる(その成否は別として)ということが確定しきれないということが、人間関係の難しい点である。コンピューターについても、それと同じようなことがいえるのかもしれない。
 
    
 
 大分脱線したが、本書に戻ろう。
 本書のもう一つの大きな柱として、「わかる」とはどういうことなのかという問題が論じられている。特に重要なのは、いわゆる「フレーム問題」である(三八−四二頁)。認識には一般に暗黙の前提――これを「フレーム」という――がある。通常は、これはまさに暗黙のままにとどまっており、それで差し支えないのだが、コンピューターに何かを教えるためには、これを明示化しなければならない(四六頁)。この問題は、大人にとって当たり前のことでも子供にとっては当たり前でないようなことをどうやって教えるのかという問題とも共通性があり、だからこそ、コンピューター科学と教育学という、一見異なった分野が接近するということになるのだろう。更にはまた、ある文化の中にいる人にとっては自明でも、その文化を異文化とする人にとっては自明でない事柄の明示化という点で、文化人類学における異文化理解の問題とも重なりあうところがあるように思う。
 面白かったのは、この問題と関連して、人間の思考様式の型という問題が触れられていたことである。人によって、暗黙のうちの直観的把握を得意とする人もいれば、それよりもむしろ明示的な論理化を得意とする人もいるというような、各人の強さ・弱さの問題である。
 一般論はともかく、私自身の場合に引きつけて考えてみたい。私は、暗黙の前提を明示化し、言語化するのはわりと得意であるように思う。その代わり、暗黙のままに直観的に飲み込むということが極度に苦手である。
 本書に挙げられている具体例で、次のようなものがある。「雨がふったら、遠足は中止だ」という命題と、「遠足は中止だった」という命題が与えられると、普通の人は、雨がふったに違いないと推論する。論理的には、雨がふらなくとも交通機関がストライキで遠足が中止になるという可能性もあるわけだが、そのような可能性が現にあったなら、それに関する情報が予め与えられていたはずである。ストライキが言及されていないということは、その可能性がほとんどなかったからであり、無視してよく、従って、先の推測は実用上妥当なものだということになる。いちいち、「でも、引率の先生が盲腸炎になったら?」「大地震が起こったら?」「突然核戦争が起こったら?」などとたずねだしたら、非常識だと思われるだろう(七〇−七一頁)
 これを読んでなるほどと思ったのだが、私の場合、まさしくこうした「非常識」な質問を思いつくことがよくある。中学生くらいの頃から、他の人が聞いたら「そんなことは起きるはずがないから、考えなくてもいいのに」と思うような「もし」(右に挙げられているような、先生の病気とか、大地震とか、核戦争とか)を気にして、「だって、そういうことも、ひょっとしたら起きるかもしれないじゃないか」と考えることがよくあった。
 こういう発想法には、利点とマイナス面とがある。利点とは、「可能性は低くても、なくはないこと」について考えておくということは、やはり必要なことであり、しかも他の多くの人が考えない以上、誰かが問題提起するというのは役にたつことだということである。「万一に備える」という発想による問題提起者の役割を引き受けるともいえよう。
 マイナス面は、「そんなことを考えていたら切りがない」と、馬鹿にされたり、変わり者扱いされたりして、集団にうまくとけ込めないということである。人づきあいの下手さの一つの根源はここにあるように思う。
 このような認識の「癖」はなかなか変わらないものとみえる。右に書いたのは子供時代にこうだったという思い出だが、長じて研究者となり、論文を書くようになってからも、その「癖」が形を変えて残っているような気がする。たとえば、誰もが重要だと思うようなことよりも、人があまり気づかないようなことを主にとりあげ、「可能性は低いが、ありえなくはないこと」を重視する傾向があるのである。
 大分歳をとってから気づいたのだが、他の研究者の場合、誰もが重要だと思うことを熱心にとりあげる方が、どうも普通のようである。特にアメリカの研究者にこれが顕著なような気がする(最近では日本人も大分アメリカナイズされてきているが)。アメリカの学界では、あまり人の気づかないような問題に着目した論文を書いても、「無意味」として軽視される。むしろ誰もが注目する重要問題に集中して、一つの明快な図式を提起し、素人にも強い印象を与えるようなプレゼンテーションの仕方を工夫するということが重視されるようである。これに対して、私のような発想は、「どうしてそういうことをとりあげるのか」ということがなかなか理解されにくい。私のような発想は、大勢の人の関心を引くには不利だが、知的な緻密化という面では有利さをもっているというのが自己診断である。
 さて、私の苦手な「暗黙のままの理解」とはどういうものなのだろうか。自分にとって苦手なものであり、かつ本質上「暗黙」にとどまり、言語化されない方が普通なものである以上、それを表現することは難しい。だが、本書に示唆されながら考えたところをまとめれば、次のようなことになろうか。
 「暗黙のままの理解」とは、事象を一般化せず、言語化さえも必要としない理解のことである。それは、言語や概念よりも、具体的な例を、映像やイメージによってとらえることが多い。一つの具体例がそれだけのものとしてとどまらず、他の例にも適用可能な一般性をもつということは、抽象論理によってではなく、比喩(隠喩、換喩、提喩、アレゴリーなど)によって直観的にとらえられる。ここに、比喩やレトリックの独自の意味がある。
 このような認識の仕方の違いは、人とのコミュニケーションの仕方にも影響する。一つには、暗黙の前提を共有しており、そしてそのこと自体を暗黙のうちに了解しあっているというような間柄をつくり、そのような間柄の人たちと、抽象論理不要の濃密な情緒関係をつくるという能力がある。そしてもう一つには、それとは逆に、暗黙の前提がないような相手(自分と同じコミュニティーに属していない人)に対し、その前提を言語化することによって、きちんと理解させるようなコミュニケーション(七二頁にいう「コンピュータ的」な思考法)がある。私は、後者は一所懸命心がけているが、前者はどうにも苦手である。
 「異文化理解」の重要性ということがよくいわれる。だが、その前に、自分自身が属している文化――これはまさに暗黙のうちに習得される――を身につけるのも結構難しいものだというのが私の感想である。
 本書の叙述からかなり離れた勝手な感想を書き連ねたが、このような自分の発想の特徴、その強みと弱みを再認識させられるという点に、私としては本書の意義を見いだしたのである。
 
 
(1)F・A・ハイエク『市場・知識・自由』ミネルヴァ書房、一九八六年、七〇頁に引用されている。
(2)この点については、クーン『科学革命の構造』についての読書ノート参照。
(3)この小文の原稿を最初に書いてからの数年の間に、この予測は急速に現実化しつつあるようだ(二〇〇一年二月の追記)。
 
*佐伯胖『コンピュータと教育』岩波新書、一九八六年(なお、その後、同じ著者の『新・コンピュータと教育』岩波新書、一九九七年も読み、これからも一定の刺激を得たが、旧著の新版ではなく別個の書物であり、この小文もそれなりに完結したものなので、あえて加筆しないことにする)
(一九九六年春−夏)
 
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