大嶽秀夫『新左翼の遺産』
一
ある時期に多くの人々の情念を揺さぶった「熱い」出来事が、時間の経過とともに、距離をおいて振り返ることのできる対象となり、「冷静」かつ「客観的な」歴史研究の対象となるのは珍しいことではない。直後には沈黙していた当事者たちが自らの過去を淡々と語る心境になり、回想やオーラル・ヒストリーが素材として使えるようになるという事情も、それを促進するだろう。「忘却」という現象は、その対象が有意味性を失ったことの自然な結果とは限らず、むしろ「忘れてしまいたい」という半ば無意識的な抑圧の産物であることがよくあるが(1)、そのようにして「忘れられて」いた事柄が距離をおいて思い出されることは、ある種のカタルシス効果をもつかもしれない。
一九五〇年代後半から七〇年代前半くらいまでの時期に広い範囲の人々を捉えた「新左翼」運動――その二つのピークとして、六〇年安保と六〇年代末の大学闘争が挙げられる――が、最近になって回顧や回想、さらには研究の対象になりつつあるのも、こうした事情を念頭におくなら、あながち驚くには当たらないだろう(2)。とはいえ、このテーマには、そうした一般論には尽きない特殊な事情もある。その運動が批判の対象としたものの中に、伝統的な「知」のあり方やその制度的担い手が含まれていた以上、後の歴史家がそれを「アカデミックな」研究の対象とすること自体に、ある種の落ち着きの悪さがつきまとわざるを得ない。もし歴史家がその対象から思い切って遠い地点に位置しているなら、そうした感覚もなしで済ませられるかもしれない。しかし、今から数十年程度しか隔たっておらず、その当時に学生だった人たちが今日でも「現役」だという事情は、この対象を徹底して「自分とは無縁のこと」と位置づけることを困難にしている。
本書の著者、大嶽秀夫は本書刊行直後のインタヴューで、自分は六〇年代前半に「運動の周辺に加わった」と語っている(3)。そのことが本書にどのように反映しているのか、下司の勘ぐりめいたことをするつもりはない。私自身が同種の問題について定見をもっているわけではない以上、あまり偉そうなことをいう資格はない。自分自身がかつて「新左翼」運動にどのように関与し、それをどのように振り返るかという問題について、私は別に隠すつもりもないが、正面から向かい合って何らかの議論をするにはまだ機が熟していないと感じる(この読書ノートは、遠い将来に取り組むかもしれない作業のための予備的な心覚えともいうべき性格を帯びている)。
そういうわけで、「この点がおかしい」と明確に指摘することができるわけでは全くないのだが、本書を読みながら、「どういうつもりで、こういうことを書いているのだろうか」という疑問がしばしば湧いたのも事実である。本書は基本的な体裁としては、「アカデミックな」書物として書かれており、「自分史」や回想などでは決してないし、特定の主張を前面に押し出しているわけでもない。対象としての「新左翼」についても、心情的に入れあげるというのではなく、冷静に意義と限界を論じようとしている。だが、その「限界」の指摘にはどことなく「自己批判」の雰囲気が漂っているようにみえるし、「そうした限界はあったけれども、決して無意味ではなかった」と主張したいのではないかという読後感も残る。各所にある「明るさ」「開放性」「爽やかさ」への言及も、ある種のノスタルジーを漂わせているように感じられる(逆に、ときおり使われる「暗さ」「陰湿」「胡散臭さ」などの言葉は、特定潮流への生理的反撥を示唆するかのようである)。
それはそれで決して理解できないことではない。ある意味では、私自身も類似の感覚をいだく。だが、だからこそ、そうした一種の心情ないし感覚と「政治学者」としての「客観的分析」の関係をどのように整理しているのだろうかという疑問を抑えがたい。その疑問は私自身のものでもあるが、私はその疑問が解けないからこそ、こうしたことについて正面から書く気にまだなれない(4)。大嶽はどういう風にして、その問題に彼なりの決着を付けたのだろうか。
大嶽が私より五歳年長で、本書刊行とほぼ同時に京都大学を定年退職したこと、本書の主たる対象が「後期新左翼」ではなく「前期新左翼」であるために、前者よりは距離感がとりやすいことがある程度関係しているだろう。だが、それだけだろうか。末尾に「後期新左翼」の研究が「今後の課題」だと述べられているが(二七二頁)、本書と同じ姿勢でその作業に取り組むことができるのだろうか。そんな風な疑問を感じながら――それは同時に、共感と期待をいだきながらということでもあるが――本書を読んだ。
二
本書は四六版で三〇〇頁弱の、比較的コンパクトな本だが、その中には、学生運動史、社会思想史、清水幾太郎と谷川雁に例をとった知識人論、そして主として英仏を対象とした国際比較と、きわめて広範囲のテーマが盛り込まれている。その論じ方は全体として明快であり、納得のいく部分が大半なのだが、テーマが広く大きいだけに、もっと掘り下げて論じてほしかったという憾みも残る。ある章を読んで、関心と共感を呼び起こされ、その先を考えたいという気になったところで、あっさりとその章は終わり、次の章では別のトピックに移ってしまうといった風なところがある。そのため、私の感想も、「全体としてはほぼ賛成。しかし、あちこちに小さい疑問がある」といったものになってしまいがちだが、できるだけ大きな展望と関わる点を中心に、いくつかの感想を書き記してみたい。
先ず、研究対象としての「新左翼」をどのようなものとして定義しているかという点から見ていこう。第一章の冒頭には、次のように書かれている。
「歴史的に言えば新左翼(New Left, nouvelle gauche, neue Linke)とは、社会民主主義(アメリカの場合には民主党リベラリズム)とスターリン主義の双方を批判しつつ、かつ自らを『真の』左翼と自認し、社会主義ないしはリベラリズムの刷新を求めて、『長い六〇年代long sixties(一九五八‐七四)』に登場した@思想、A政治運動、そしてその両者と密接な関連をもつB文化運動・文化現象の総称である」(一三頁)。
これに続いて、そのような運動がこの時期に一連の先進諸国でほぼ同時に登場したことの背景として、先進諸国における「豊かな社会」の誕生、それに伴った労働運動の体制内化、スターリン批判を契機とする社会主義国における政治的抑圧の暴露などが挙げられ、主として若者たちによる「ミドルクラス・ラディカリズム」ともいうべき特徴が指摘されている。
この定義および背景説明は明快であり、それ自体としてはあまり異論のないところだろう。だが、この定義からも窺えるように、新左翼は種々雑多な運動・思想の総称であり、具体的にそのうちのどの部分を取り上げるかという選択自体が結構難しい問題である。本書のように「前期」と限定しても、かなり多様な潮流が存在していたのは周知のところである。本書はその中で共産主義者同盟(ブント)を最も重要なものとして取り上げている。そこには、「ポストモダンとの関係でいえば、ブントとその後継者たる全共闘とが圧倒的に重要」(一一頁)との判断がある。全共闘を「ブントの後継者」と言い切ってよいか、多少の疑問はあるが、とにかくこれは一つの限定の仕方――ポストモダニズムとのつながりを重視する著者にとって最も関心をそそる部分への集中――として、それなりに理解することができる。
だが、どうして他の潮流を主要研究対象から除外するかについての説明をみると、もう少し疑問が大きくなる。著者は一方で、構造改革派は「狭義の新左翼とは異質」、「むしろ新左翼によって否定される……社会民主主義思想」だとし、他方で、「極左集団」「トロツキスト」について「新左翼はこうした『革命的旧左翼』とは一線を画した独自の思想をもつ運動」だという評価を示し(二〇‐二一頁)、構造改革派も革命的共産主義者同盟(革共同)も除外してブントに集中するという研究戦略を正当化している。ここに書かれていることそれ自体は――「極左集団」「トロツキスト」という概念規定にやや違和感があるが――一応は理解できる。しかし、一般にある程度以上広範囲の人々を捉えた社会運動というものは、「呉越同舟」「同床異夢」的な要素を含みながらも、ともかくも「同舟」「同床」であることによって諸勢力が相互に影響を与えあったり、浸透したりすることがある。とすれば、「呉越」「異夢」としての側面を押さえつつも、主要関心対象以外の要素を観察対象から除外することなく、それらを幅広く対象に取り込むことが議論にふくらみをもたせるのではないだろうか(5)。
それだけではない。構造改革派についていえば、彼らが依拠したグラムシの思想は、その後にリヴァイヴァルして、ポストモダン思想の一部に大きな影響を与えた(もっとも、グラムシの影響が強まるのは本書で論じられている時期よりもう少し後――大嶽の言葉でいえば「前期新左翼」から「後期新左翼」に移行し始めた頃――なのかもしれない)。また、レーニン主義を引きずる「トロツキズム」――実際には、本書でいう「トロツキズム」は狭義のトロツキズムではなく、もう少し広い諸潮流が指されている――は新左翼と「全く異質」だと著者はいうのだが、その少し後の個所には、新左翼の特徴として、「直接民主主義への信頼、そしてその反面としての『代表』の否定」という言葉が出てくる(二二頁)。「代表」制を否定する直接民主主義といえば、これはロシア革命時のソヴェト運動の特徴でもあり、「スターリン的歪曲を超えて原初のロシア革命(レーニン)の精神へ帰れ」と唱えた「革命的旧左翼」の精神でもあった。とすれば、これらの潮流と著者の考える新左翼主流の間の距離は、本書が示唆するほど大きくはなかったとも考えられるのではなかろうか(6)。
著者の造語と思われる「革命的旧左翼」とは、言い得て妙な表現で、成る程と思わせるところがある。詳しく説明されてはいないが、主観的には「既成左翼と一線を画した新左翼の一潮流、その中心部隊」と自認していながら、多くの点で「旧左翼」との共通性をもち、いわばその戦闘的なヴァージョンにとどまったというほどの意味だろう。その指摘は当たっている。だが、本書の後の方では、この言葉が繰り返し用いられている形跡はない。実は新左翼全般の中に「革命的旧左翼」ともいうべき要素が大なり小なり浸透しており、単純に「旧」と「新」を振り分けることができないという事情が関係しているのではないだろうか。もっといえば、マルクスの思想自体が、ある意味で「近代を超える」ことを目指す――あくまでも「目指す」であって、「達成した」とは到底いえないが――もので、そのために、マルクス主義にもいわば「近代主義的ヴァージョン」と「ポストモダン的ヴァージョン」の双方があるという事情も考慮すべきだろう。
三
本書のタイトルにある「遺産」とは、ポストモダンにつながるものを新左翼が準備したという点におかれており、副題が示すように新左翼とポストモダンとの関係が本書の重要なテーマとなっている。そして、新左翼からポストモダンへと受け継がれた「遺産」が――もちろん一定の留保を伴いながらではあるが――高い評価を与えられているように見える。そこで、この問題について多少考えてみたい。
本書における「ポストモダン」という語の意味は、「ポストモダン哲学そのものではなく、この哲学思想に表現されたある時代精神、時代の感覚、気分、ないしは特定の問題群に対する関心といった、曖昧ではあるが、より広く七〇年代以降の思想の核心にあるものを指す概念」とされ、キーワードとしては、「あらゆる権威への反抗、とくに近代合理性への権威に裏打ちされたテクノクラート支配への反抗」、「近代が排除した周辺への関心」、「身体、とくにセクシュアリティの問題の提起」、(場合によっては資本主義の消費文化に堕する傾向すらもつ)「快楽の崇拝」などが挙げられている(二七頁)。
ポストモダニズム一般は必ずしも政治的「左翼」と結びつけられるものではない――あるいはむしろ、「右か左か」という問題設定自体を拒否するのがポストモダンの特徴だとも考えられる(7)――が、ポストモダニズムのうちの「左翼的なヴァージョン」に限定して考えるなら、著者の主張は比較的分かりやすい。序章で述べられているように、抵抗の対象たる「権力」概念の拡張と「社会権力」への注目、マイノリティに対する「普通の人々」による差別の問題や「アイデンティティの政治」への注目、またフェミニズムや環境問題などへの取り組みといった点がその特徴であり、これらの特徴は新左翼からの連続性・継承性を物語るということになる。もっとも、新左翼もポストモダニズムもともにきわめて広い概念であるため、それらの間に連続性があるという指摘も、より具体的に議論を詰めていかない限り、茫漠とした印象論となり、ある意味では常識論となってしまう。余談だが、私自身は一九七〇‐八〇年代のポストモダニズム流行に接したときに軽い反撥のようなものを覚え、安易に流行に乗りたくないと考えた記憶がある(そのせいもあって、あまりきちんと吸収することがなかった)。それは、一つには、あらゆる流行に逆らいたがる天邪鬼な性格のせいだが、もう一つには、その問題提起の中にかつての全共闘運動の中で聞いた話と似たものが多々あり、どことなく既視感を拭えなかったという事情もあった。
それはともかく、本書はブントの思想的・理論的遺産として、@反権威主義、A享楽性、B日本資本主義の復活と近代化の認識、C労働者至上主義の否定の四点を挙げ、これらが「ポストモダンを準備した」と位置づけている(一三一頁)。これらのうち、@Aは「思想的遺産」、BCは「理論的遺産」と分けられているが、その相互連関が分かりにくい。Bは「日本資本主義・帝国主義の復活とアメリカ帝国主義からの自立の認識」と言い換えられているが(一四七‐一四八頁)、この論点はあまりポストモダニズムとはかかわりがなく、むしろ宇野経済学の影響とみた方が適当ではないだろうか。
いま触れた問題は、人文系学問・思想・哲学と社会科学との関係をどう考えるのか、またそれぞれとポストモダニズムの関係をどう捉えるかという問題とも関係している(@Aは人文的発想、BCは社会科学とそれぞれ親近性が高い)。ポストモダニズムの影響の及ぶ範囲は広く、人文系学問・思想・哲学であると社会科学であるとを問わず、さらには自然科学や、伝統的な「学問」「科学」の枠をはみ出す知的活動にまで及んでいる。それにしても、どちらかというと最も影響が大きいのが人文系学問・思想・哲学だということも一応言えそうに思われる。社会科学にとってもポストモダニズムの影響は無縁でないとはいえ、その摂取は限定的だったり、消極的だったりすることが少なくない。ところで、大嶽はもちろん社会科学者を任じており、次の引用文に見られるように、人文系思想家に対するある種の苛立ちを隠していない。
「サルトルは、(社会科学的な認識の助けを借りずに)哲学で世界が理解できるという『哲学の傲慢』を体現したような人物であった。言い換えると、社会的な事象に関する認識は、特別なトレーニングを受けなくとも、専門的知識がなくても得られるというある種のアマチュアリズムがある。……この『哲学至上主義』『社会科学への蔑視』によって、社会情勢、とくに国際情勢に対して多くのフランス知識人が見当違いな認識をもっていたことは否定できない。……知識人の間の実証的研究を軽視する傾向は、レイモン・アロンなどを例外として、当時のフランス左翼知識人に共通の欠点であったし、ポストモダン哲学にも引き継がれている悪しき伝統である」(二六五‐二六六頁)。
ここに書かれていることは、それ自体としては当たっているように思うが、いくつかの疑問を呼び起こす。その一つは、本書は新左翼の「遺産」としてポストモダニズムへの継続性を挙げ、その大きな要素はどちらかというと人文的な思想・発想・体質におかれているように見えるのだが、そのことと右の引用文に見られる「科学」重視の姿勢――「科学」に素人である思想家・哲学者への批判的な態度――とはどのように関係するのだろうかという疑問である(8)。
先の引用個所に関わるもう一つの疑問は、「哲学の傲慢」があるとすれば「社会科学の傲慢」もまたあるのではないか、ということである。アマチュアリズムが見当違いな認識をもたらすのは大いにありそうなことである。ある時期一世を風靡したサルトルがその点で盛んに批判されてきたことはいうまでもない。多少似た立場にある丸山眞男の場合、サルトルと違ってプロフェッショナルな社会科学者だったが、彼自らが「本店」ならぬ「夜店」と称した政治評論に関しては、素人的な余技という性格のゆえに判断を誤ったとする論者も多い。後世の立場からこの種の批判をすることは容易だが、それは一種の後知恵であり、あまり生産的とは思われない。
いずれにしても、アマチュアが過ちを犯すのはある意味で自然なことだが、では専門家は過ちを犯さないのかと問うなら、とてもそうは言えないだろう。確かに、ここ数十年間、様々な社会科学諸領域で専門細分化と数量分析などを含む厳密な「サイエンス」化が進行し、そのおかげで、知的作業としての洗練度が高まってきたのは事実である。他ならぬ大嶽が創始者の一人である『リヴァイアサン』学派などもその一例だろう。そのことを十二分に認めた上での話だが、そうした洗練は、研究対象を細分化し、サイエンスとして扱いうる範囲に話を限定するという代価を伴っている。いくら洗練された技法で特定のトピックを鮮やかに分析することができるようになっても、「どろどろとした」「生臭い」現実社会の動きがそれでもって十全に理解できたり、まして予測できたりするわけではない。高度の数学を駆使して経済モデルを論じる経済学者も現実の景気動向を確実に予測できる保証はないし、選挙結果をコンピュータで数量分析する政治学者も事前の選挙予測では大きく外れることがある。アマチュアだから判断を誤り、社会科学的トレーニングを受けて専門的知識をもちさえすれば、「社会情勢、とくに国際情勢に対して……見当違いな認識」をもつことから免れると想定するのは、素朴な科学主義――それこそまさに全共闘運動およびポストモダニズムが批判の対象としたものだった――ではないだろうか。
四
本書の一つの特徴は、フェミニズムないしジェンダーにかかわる論点が繰り返し出てくることである。数えたわけではないが、相当の高頻度であり、そのことから、著者がこの問題を重要視しているらしいことが窺える。だが、では、どういう意味でその論点を理解し、重視しているのかとなると、一向にはっきりしない。フェミニズムにも様々な潮流があり、種々の異なった論点について多様な議論を出しているのは周知の通りである。そのうちのどの部分を、どういう風に重視するかを論じなければ、フェミニズムへの態度を明示したことにはならないはずだが、本書にはそうした点への言及は一切ない。主要テーマではないからそこまで立ち入る必要を感じなかったといわれるなら、それまでである。だが、繰り返し言及することで重要性を示唆しながら、単なる言及以上には一歩も踏み込もうとしないのはどうしてだろうかという疑問も抑えがたい。
そういうわけで、この問題について正面から論じた個所は存在せず、断片的な言及から著者の意図を推測するしかないのだが、次の一節などは、やや気になるところがある。
「この『実存主義的心情』は……不条理な暴力に立ち向かう勇気をエリート主義的、貴族主義的な矜持、誇り、高貴さ、品位、一言で言って『男の美学』によって与える役割も演じていた。この意味では……新左翼運動も『男らしさ(マスキュリニティ)』を強調する傾向が濃厚で、それがのちにフェミニズムから厳しい批判を受けることになる」(一七頁)。
この後段の指摘は問題がない。気になるのは、前段の中に出てくる「一言で言って」という一句である。大した意味をもたせることもなく、何気なく書いただけかもしれないが、私には気になる。ここでは、「勇気」「矜持」「誇り」「高貴さ」「品位」などが、「男の美学」と結びつけられているわけだが、その結びつきをどう理解するかは微妙である。二通りの解釈が可能である。一つは、これらは男性的な特徴だという認識を前提にして、そうした「男性的な資質」重視の発想は「男らしさ(マスキュリニティ)」強調に他ならないという解釈。もう一つは、勇気や誇りや品位は男性特有のものではなく、むしろジェンダーに関わりない資質であるはずにもかかわらず、それらを「男の美学」だと捉えるような発想が当時(そして今も)優勢であり、そのことこそがジェンダー・バイアスのあらわれだという解釈。こういう風に分けていえば、大嶽は後者のつもりだったというかもしれない。しかし、そのことは元の文章には明示されておらず、「一言で言って」という言葉で片づけられている。このような軽い言葉ですませるのは、無意識かもしれないが第一の解釈的な発想が著者の中にあったのではないかと推測する余地を残している(一八一頁にも、「男の美学」という言葉が説明抜きに出てくる)。
もう一つ気になる文章として、「女子活動家が最も過激な強硬路線を支持し、ブントを引っ張っていったことは、興味深い」(八七頁)という個所がある。この文章もただこう書かれているだけで、どういう意味で「興味深い」と考えているのかが明示されておらず、真意が不明である。あるいは、「女性は非暴力的で、穏健な立場を支持するものだ」というステレオタイプを打ち砕くという意図があるのかもしれない。しかし、もう一つ別のステレオタイプとして、「女性は感情的で、普段はおとなしいのに、一旦火がつくと、ものすごく過激になる」というものもあり、この記述はそうしたステレオタイプを強めるだけのようにも思える。ともかく、これをただ「興味深い」というだけでは、フェミニズムを著者がどう受けとめているのかは全く不明のままである。
この節で書いたことは片言隻句をとりあげた揚げ足とりで、我ながら気が引ける。ただ、この問題を重視しているはずであるにもかかわらず、このように中途半端な言及しか見あたらないという点にむしろ最大の問題を感じる。
五
本書の一つの大きな特徴は国際比較の視点を重視していることであり、これは非常に貴重な点である。日本のことを論じると、どうしても諸外国に目を閉ざした閉鎖的な議論になるか、あるいは諸外国の例に言及するとしても中途半端な知識に基づいた恣意的な比較論になるかのどちらかというケースが多いが、大嶽は日本のことと米英独仏諸国のことをともによく知り、きちんとした比較をすることのできる稀な人である。本書第八章におけるイギリスとフランスについての叙述――アメリカについては頁数の関係から次の機会を期すとされている――は、私自身、教えられるところが多かった。ただ、あちこちに興味深い比較論が述べられているわりには、それらを関連づけて体系化する作業が乏しいような印象がないではない。
たとえば、序章のなかに次のような指摘がある。ポストモダニズムが批判の対象とした「メタ物語(metanarrative)」「大きい物語」には、近代の生産中心主義的文化を肯定する思想(「ポジティヴなメタ物語」)だけでなく、資本主義の発展によって自律的社会が解体し、全体主義社会が姿を現わすという「ネガティヴなメタ物語」もある。この後者への注目の有無が日本とフランス・英・米を分ける。この差異は、自国史に「全体主義」ないしファシズムの経験をもつか否か――あるいはその経験への反省がどこまで真剣に取り組まれてきたか――と関わる、というのである(二‐五頁)。これは非常に興味深い論点である(9)。ところが、この視点はどういうわけか序章で提出されるだけで、国際比較を主題とした第八章・結章には登場しない。
また別の章に、マルクス主義の伝統が英米では弱く、日本・フランスでは強かったという指摘(一五二‐一五三頁)があるが、これも第八章・結章ではあまり生かされていない(この点についても前注参照)。それぞれの国にどのような形でマルクス主義の伝統があり、それがどのようにして再発見ないし再評価されたり、様々な潮流の「ネオ・マルクス主義」を生んだり、あるいは「葬送」されたりするかという経過は、新左翼の国際比較においては欠かせない論点だと思うが、本書では部分的な言及にとどまっている。
全体として、新左翼運動を国際的な視野の中で見るという試み自体は興味深いのだが、比較の指標が系統的に提示されることなく、あれこれの面白い指摘が断片的に列挙されているという印象を禁じ得ない。
六
最後に、スターリン主義およびスターリン批判との関係という問題に触れてみたい。これは著者にとっては比較的軽い問題のようで、中心的に扱われてはいない。しかし、スターリン批判およびその日本への影響という問題に関心をもつ観点(10)からは、いろいろと注文を付けたくなるところがある。著者が重視していない事項についての批評はどうしても「無い物ねだり」となってしまい、やや気が引けるが、とにかくどういう点が気になるかを記しておきたい。
先ず目を引くのは、次の一節である。
「国際比較の観点からいうと、日本の学生運動活動家にとっては、フルシチョフのスターリン批判やハンガリー事件は、西欧の知識人の場合と較べれば、ほとんど衝撃を与えなかったことが注目される。既に『六全共ショック』を克服する過程で日本共産党中央のスターリン主義的体質に対する批判を独自に展開していたからである」(三六頁)。
国際比較の観点をもっていることが本書のメリットだということは既に触れた。その意味で、この文章も面白い着眼ではある。だが、「西欧の知識人と較べれば」という場合に、どのようにして「衝撃」の度合いを比較するのかは明示されておらず、単なる断言にとどまっている。「学生運動活動家」と「知識人」を較べること自体にも無理がある――後者の方がたくさんの理論的文章を書き、「衝撃」について詳述しているのは当たり前だろう――し、どの国にも様々な人がいて、それぞれに異なった度合いの「衝撃」を受けただろうということも問題にされていない。それに、仮に日本における「衝撃」が相対的に浅かったという主張がある程度当たっているとしても、そのことを「ほとんど衝撃を与えなかった」とまで表現するのは言い過ぎではないかと思われる(一〇四頁にも、「日本では、ハンガリー事件が大きな影響を与えることはなかった」とある)。他方、結章には、日本の方がフランスよりも反スターリニズムがはるかに強かったという指摘があるが(二五九‐二六〇頁)、これと先の個所の整合性は不明である。
こう書いたからといって、私が大嶽の主張に共感しないというわけではない。先の引用文には、五六年のスターリン批判およびハンガリー事件に先立って、前年の「六全共」(第六回日本共産党全国協議会――武装闘争方針の自己批判)のショックとその克服過程があったという指摘があり、これは確かに重要な点である。すべてがいきなりフルシチョフのスターリン批判から始まるという安易な図式的把握ではなく、それぞれの国の中での暗中模索がそれに先だって存在していたという認識は各国左翼運動の転形過程を考える上で欠かせない点だと思う。しかし、それをいうなら、日本以外の諸国でも、スターリン批判に先立って徐々に各国共産党指導部の指導スタイルに対する秘かな批判ないし疑問が生じつつあったという事情がありうるのではなかろうか。西欧ではスターリン批判の衝撃が大きく、日本では小さかったというような単純な対比ではなく、どの国の左翼運動においても、秘かに生まれつつあった疑念が何らかの暗中模索のもととなりつつあるところへスターリン批判とハンガリー事件が重要な触媒となったというような過程を想定することができ、その曲折に富んだ過程――それは国ごとに違うというよりも、それぞれの人ごとに違うはずである――を比較していくことが、もっと興味深い課題となるように思う。
その上、本書の中には、いまみた個所と食い違った印象を残す部分もある。前後するが、先の引用の数頁前には、「この時期には、ソ連共産党第二〇回大会でのフルシチョフ秘密報告(スターリン批判演説)が直ちに翻訳され、学生たちの間で回し読みされた」とある(三三頁)。短い文章だが、内容的に気になるところがある。その一つは、引用文冒頭の「この時期」とはいつを指すのか、明示されていないことである。直前の個所は六全共(一九五五年七月)以降の情勢について述べており、引用文の直後には「そして五六年一月には」とあることから、五五年後半あたりを指すととるのが文脈上は自然である。しかし、歴史的観点からすると、それはありえない。ソ連共産党第二〇回大会は五六年二月の開催であり、そこにおけるフルシチョフ秘密報告が広く知れ渡るには一定の時間がかかった(この点については次注参照)からである。
もう一つの問題点として、この個所には「島・一九九九A・一二一」という出典注が付けられているが、当該書(島成郎『ブント私史』批評社)を見ると、一二一頁だけでなく全巻を読み直してもそのような記述は見当たらない。そこで、「島・一九九九B」(島成郎監修『戦後史の証言・ブント』批評社)を当たってみると、こちらには、確かに一二一頁にそういう記述がある(富岡倍雄「ブント結成まで」という文章の一節)。これで出典の問題は解決したが、この富岡の文章は、それ自体、別の疑問を残す記述である。しかし、その点に深入りすると本書の感想から離れすぎるので、今は立ち入らないことにする(11)。ここで確認しておきたいのは、このエピソードは当時の初期新左翼にとってスターリン批判はやはり深刻な影響を及ぼす事件だったことを物語っている――だからこそ、わざわざフルシチョフ報告の翻訳を回覧するようなことが行なわれた――ということである。その意味で、「ほとんど衝撃を与えなかった」という大嶽の評価とは矛盾するように思う(12)。
直接のつながりはないが、ある程度関連する点として、「反反共主義」という言葉(本書ではこういう表記になっているが、「反・反共主義」と表記した方が分かりやすいだろう)について検討してみたい。本書でこの言葉は私の気づいた限りで二個所に出てくる(八二、二一一頁)が、言葉の意味についてはとりたてて説明されていない。単純に補うなら、「親共」ないし「容共」ではないけれどもとにかく「反共」には反対という立場ないし発想のことだろう。こうした発想は、ある時期のリベラルないし「進歩的知識人」には相当広く共有されていたものと思われる。この言葉を誰がいつ使いだし、どのようにして広まったかを追跡する作業も、思想史上のテーマとして面白い問題ではないかと思うが、いまその作業に取り組む用意はない。比較的よく知られている例としては、丸山眞男の発言がある。
「政治的には、私は自分なりの状況判断として反共主義に反対という意味での反・反共主義でずっとやってきました。マルクス主義への学問的批判が政治的反共と直結しているのはそれこそスターリニズムをそっくり裏返したものにすぎないし、第一それでは、マルクス主義者の硬直症や自閉症をますます亢進させる効果しか生まないのはすでに実例であきらかです。前にもいった、左翼にだけ居丈高になるような反マルクス主義文化人から、お前は容共だとか左翼追随だとかいくらいわれたって、ちゃんちゃらおかしいと思うだけです(13)」。
おそらくこれと同種の発想を持つ人は珍しくなかっただろう。余談になるが、これは日本だけのことではなく、アメリカのリベラル知識人の間にも同種の心性があったことが、文化人類学者クリフォード・ギアツの発言から知られる。彼は「反=反相対主義」と題した講演の中で、このようなタイトルを付けるのは、「攻撃される側の見解を防衛しようとするのではなく、攻撃する側を攻撃しようとすることを示すため」だとして、次のように語っている。
「この言葉を選ぶに当たって私の心にあったのは、冷戦時代のさなか、(覚えておいででしょうが)反=反共産主義と呼ばれたものへの類比です。……共産主義の脅威を強調することに反対したわれわれの側の人々は、そのような脅威を現代政治のまぎれもない現実と考える人々によって、二重否定の法則によりソ連に対する親近感を密かに抱く者として、後ろ指を指されることになりました(14)」。
ここでギアツは、「反=反相対主義」と「反=反共産主義」とは内容的には全く別の話だが論理の形の上で共通しているとし、後者の言葉づかいが多くの人に記憶されているだろうことを示唆している。そればかりか、「われわれの側の人々」とさえ述べて、自分自身がかつてそれにコミットしていたことを明示している点は興味深い。
話が逸れてしまったが、大嶽著に戻ろう。本書では、六〇年安保当時の知識人たちの間に、「前期新左翼」の共産党批判への同調をためらう雰囲気があったことを指して、「別の言葉でいえば、(清水〔幾太郎〕らを例外として)近代主義知識人は、反共主義が利敵行為であるとの認識・『反反共主義』を抱き続けていたのである」と述べられている(八一‐八二頁)。しかし、この用語法はややミスリーディングであるように思われる。新左翼は「反日本共産党(反代々木)」ではあっても決して「反共」ではなかった――自ら「共産主義者同盟」と名乗っていた――のだから、その立場に同調するかどうかは「反共主義」に与するかどうかとは別の問題である。もちろん、その当時における日本共産党の「隠然たる権威あるいは素朴な信頼」(同右)からすれば、「反日本共産党(反代々木)」イコール「反共」ととられたということはあるだろう。しかし、そのことを指摘したいのなら、論理的には区別されるべき「反共」と「反日共」とが当時の文脈では同一視されがちだったという風に書くべきだろう。大嶽の書き方は、その辺の説明を省いた飛躍となっている。
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勝手な不満や無い物ねだりばかり書き連ねてしまった。とはいえ、いろいろな疑問や不満を感じるのも本書の論述に刺激されるところが多く、全体としては共感するからこそだということは改めて確認しておきたい。先輩への敬愛の念を基礎にした後輩の甘えという風に受けとっていただけるなら幸いである。
(2)二一世紀に入ってからの刊行物で、たまたま私の眼にとまったものだけでも、荒岱介『破天荒伝――ある叛乱世代の遍歴』太田出版、二〇〇一年、『島成郎と60年安保の時代』1・2、情況出版、二〇〇二年、小野田襄二『革命的左翼という擬制、一九五八‐一九七五』白順社、二〇〇三年、熊野純彦『戦後思想の一断面――哲学者廣松渉の軌跡』ナカニシヤ出版、二〇〇四年、島泰三『安田講堂1968‐1969』中公新書、二〇〇五年、?秀美『1968年』ちくま新書、二〇〇六年、小林敏明編『哲学者廣松渉の告白的回想録』河出書房新社、二〇〇六年、小阪修平『思想としての全共闘世代』ちくま新書、二〇〇六年などがある。網羅的に調べるなら、おそらくこの数倍の書物が挙げられるだろう。
(3)『毎日新聞』二〇〇七年四月一八日夕刊。なお、これまでに眼にとまった本書への書評としては次のようなものがある。『日本経済新聞』二〇〇七年四月二二日(市野川容孝)、『読売新聞』二〇〇七年五月二七日(佐藤卓己)。
(4)余計な話だが、私と同姓の塩川喜信という人がいて、その人の著作が「塩川・一九九九」などとして本書中に言及されている。一瞬、私の著作が言及されているのかと勘違いして、びっくりするが、全く無関係である。
(5)ついでながら、「後期新左翼」の場合も、ノンセクトを中心とした全共闘運動と諸セクトの運動の間に大きな異質性があったが、だからといって両者を完全に切り離して考えることはできず、ともかくも「同舟」「同床」だったことによる相互影響・相互浸透の要素にも注目する必要があると思う。もちろん、これは本書の対象範囲外の話だが。
(6)直接の関係はないが、「退出は同志への後ろめたさ、裏切りの感情を伴わざるを得ない」(一〇六頁)という特徴も、旧左翼と新左翼に共通の心情だと思われる。
(7)ある角度からすれば、ポストモダニズムは左翼的な立場を掘り崩すものとして批判されることもある。テリー・イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』大月書店、一九九八年など参照。ポストモダニズム批判を古典的な合理主義の復権と結びつけ、それを政治的左翼と結合する発想は、アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『知の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』岩波書店、二〇〇〇年に見られる(同書についての私の読書ノートも参照)。このようにポストモダニズムに対する「左から」の批判がある一方、日本でポストモダニズムの流れを汲む人たちが最近になって「左転回」していることを批判する論者もいる。仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想――ポストモダンとは何だったのか』NHKブックス、二〇〇六年。
(8)本書ではあまり触れられていないが、六〇年安保前後の新左翼活動家の中からは、数多くの人文および社会科学者が輩出した。経済学の青木昌彦(かつてのペンネーム姫岡玲治)、日本近代史の坂野潤治、応用倫理学の加藤尚武、哲学の廣松渉(門松暁鐘)等々、錚々たる大学者たちの名が思い浮かぶ。もちろん、六〇年当時に二〇歳代の若者だった彼らはその後の数十年の間にそれぞれに個性的な知的軌跡をたどったから、これらの人を十把一からげに論じることはできない。強いてごく緩やかな共通性をいうならば、社会に対する広い視野と批判的な視角をもつこと、またマルクス主義の洗礼を受けた上で、それを他の方法・理論とつきあわせて自己流に改鋳し、独自の境地を切り拓いていったことなどが挙げられるだろう。こうした特徴は、最広義のポストモダニズムとはある種の共通性をもつと言えるかもしれないが、本書で問題にされている意味でのポストモダニズムからははみ出している。これらは著者の重視する「遺産」とどういう関係に立つと考えるべきだろうか。
(9)もっとも、それをいうなら、ドイツ・イタリアも視野に入れて然るべきではないかという気がしてくる。また、本書の枠外の問題だが、旧ソ連諸国・東欧諸国・中国などにおける現代のポストモダニズムについて考える上でも、これは参考になる視点だろう。
(10)ソ連史におけるスターリン批判の文脈に関する最新の研究として、松戸清裕「スターリン批判とフルシチョフ」『ロシア史研究』第八〇号(二〇〇七年)。日本での受けとめ方を思想史的に取り上げた文献として、富田武「スターリン批判と日本の左翼知識人」『現代の理論』二〇〇六年秋季号。日本のロシア史研究との関連については、塩川伸明「日本におけるロシア史研究の五〇年」『ロシア史研究』第七九号(二〇〇六年)参照。
(12)少し後の話になるが、当時の活動家たちに大きな影響を与えた山口一理論文「十月革命とわれわれの道」(本書では四一‐四四頁に言及されている)は、一九五六年から五七年にかけての『歴史の諸問題』や『コムニスト』などのロシア語文献――特に重要なのは五六年のブルジャーロフ論文――を駆使して書かれたもので、当時ロシア史専攻を志していた若き日の和田春樹を驚かせた。和田春樹『ある戦後精神の形成』岩波書店、二〇〇六年、二五三‐二五四頁。この山口論文の筆者(本名は佐伯秀光、当時理学部の学生で、後に数学者となった)は特別に優秀な例外だとしても、歴史専攻でない学生がわざわざロシア語の専門歴史論文を読んで堂々たる大論文を発表するというところに、当時の左翼学生の間でのソ連への関心の高さを見ることができる。なお、この論文を含む雑誌『マルクス・レーニン主義』(日本共産党東大細胞機関誌、山口論文はその第九号に掲載)は、『ブント〔共産主義者同盟〕の思想』第五巻、批評社、一九九四年に復刻されている。
(13)梅本克己・佐藤昇・丸山眞男『現代日本の革新思想(丸山眞男対話篇3)』下、岩波現代文庫、二〇〇二年、二八三‐二八四頁(初出は一九六六年)。なお、丸山の「反・反共主義」の批判的検討として、水谷三公『丸山眞男』ちくま新書、二〇〇四年、第四章がある。今日の時点でこのような批判が出ること自体は驚くに値しないが、水谷の議論は個人的な違和感の表出ともいうべき性格が濃く、正面からの論理的批判となっていないように思われる。
(14)クリフォード・ギアツ『解釈人類学と反=反相対主義』みすず書房、二〇〇二年、六〇頁。
*大嶽秀夫『新左翼の遺産――ニューレフトからポストモダンへ』東京大学出版会、二〇〇七年
(二〇〇七年五‐六月)