桑原草子(くわばら・かやこ)『シュタージの犯罪』
 
 
     一
 
 一九八九年一一月の「ベルリンの壁」崩壊、そして翌九〇年一〇月のドイツ統一という大事件をうけて、それまであまり東ドイツへの関心が高くなかった日本でも、消滅したこの国への関心が一時的に高まり、「東ドイツもの」(あるいはドイツ統一関連)ともいうべき本が、一九九〇年代を通して多数刊行された。
 私自身は、旧社会主義圏の専門家ではあるが東ドイツの専門家ではないという中途半端な位置にあるため、大量に出た「東ドイツもの」にある程度関心を引かれ、いくつかを読みはしたが、片端から読破するというところにまでは至らなかった(1)。今回取り上げるこの本も、刊行直後に一応買ってはいたが、すぐは読まなかった。読まなかった理由はたくさんある。単純に、すべてを片端から読んでいたら、いくら時間があっても足りないということもあったし、一般に新刊書をすぐ読むことをあまり重視せず、「時期遅れでもまだ有意味と感じられる本をこそ読むべきだ」というのが私の普段の行き方だということもある。あまりにも次々と類書が出たので、やや食傷気味という気分もあった。本書の著者が専門の研究者ではないらしい――「あとがき」および本のカバーに記されている以外のことは何も知らないが、政治・法律・歴史などが専門ではなく、ドイツ文学・哲学を研究しているらしい――こと、本の体裁も「研究書」らしくないことから、どの程度信頼できる著作なのか見当がつきかねたという事情もあった。他面では、分量からいうとかなり厚く、「一般向け」にしては重量感がありすぎる点も、私だけでなく多くの読者に敬遠される理由となったろう。あるいはまた――この点は、今では記憶が定かでないが――「あとがき」で謝辞を捧げられている人の中に、「新しい歴史教科書をつくる会」で勇名を馳せた西尾幹二の名があることも、ひょっとしたら、本書に対して「大丈夫かな」という懸念を懐かせたかもしれない。
 理由はともかく長らく「積ん読」にしていたこの本を、改めて引っぱり出してみる気になったのは、昨年(二〇〇二年)、世田谷市民大学で「二〇世紀史を考える」という大風呂敷を広げた講義をした際に、「戦争責任とスターリニズム責任」という問題にぶつかり、その後、この問題を継続的に考えているうちに、やはり本書にも一応目を通しておこうかなと思うに至ったことが契機となっている。
 読んでみると、シュタージ(旧東独秘密警察)そのものが主題というよりは、東ドイツの体制崩壊後(統一の直前から直後にかけて)に、シュタージ文書をどのように扱うかをめぐってかわされた激論の紹介が主要な内容をなしていることが分かった。これは私自身の関心と重なり合うところが多く、遅ればせながらでも読んだことに大きな意義があったと感じた。そればかりでなく、著者の筆致は、深刻な対象を扱いながら、感情的になったり、一方的な決めつけをすることを努めて避け、できるだけ淡々とした叙述に徹しようとしているが、そうした態度にも共感を覚えた。といっても、著者がある種の感慨にふけったり、あれこれの人物に対して評価をむき出しにしたような個所がないわけではない(そうした個所に関し、私は共感を覚えるときもあれば、違和感をもつときもあって、全体としてどうかということは一概にいえない)。だが、それはテーマからして当然のことであり、むしろそうした個所が相対的に少ないということの方が特筆すべきことのように思えた。
 もっとも、読みようによっては、本書あまり高く評価しない読者もいるかもしれない。本書に紹介されている事柄は、日本ではあまりよく知られていないとはいえ、ドイツの新聞・雑誌・単行本などに公表された情報が大半を占め、文書館での原資料探索や当事者へのインタヴューがなされているわけではなく(ごく少数、たまたま出会ったドイツ人との会話が紹介されているが)、情報面での新鮮さがそれほどあるわけではないが、そのことを物足りないと感じる人もいるだろう(2)。また、明快な判断や評価が――ところどころににじみ出ているとはいえ――あまり前面に押し出されていないことを「面白くない」と感じる読者がいてもおかしくはない。しかし、私はむしろそのような著者の抑制的な態度に好感をもった。あるいは、著者が本来は哲学や文学の研究をしているということが、「悪」に対する性急な断罪よりも、むしろ「悪」の意味についての内面的省察を重視するという態度に貢献しているのかもしれない。
 このように感じるのは、ただ単に、「アカデミックな歴史家」は性急な価値判断を禁欲するもので、著者の態度もそれに近い、といった一般論だけのことではない。何よりも、本書で取り上げられている主題が幾重にも込み入った複雑な性格をもっており、その襞に立ち入ることなしに性急な判断を下すことは重大な錯誤に導きかねないという事情がある。もっとも、著者は、そうした襞について、論理的に整序することはせず、淡々たる事実紹介を中心として書き進めている。そこで、著者自身の叙述からは敢えて離れて、私なりの観点から、どのように複雑な問題がここに関連しているのかを考えてみたい。
 先ず、シュタージが行なっていた各種の活動はどのような意味のものだったかということがある。この点は、基本的性格に関していえば、答えは明快であり、抑圧的な体制による国民に対する監視・統制・政治的弾圧のための情報収集・密告奨励等々の行為だったということは今更いうまでもない。だが、具体的な個々の活動については、そのような一般論が常に同じように当てはまるとは限らない。官僚機構の常として、表面だけを取り繕い、とにかく報告書だけを作成しておけばよいという発想が優先され、本来の狙いが空回りするというようなこともありうるし、体制が自己の正統性に自信を喪失した局面においては、懐柔とか譲歩の要素が混じることもありうる。監視・統制の緻密さも、個々のケースによって異なり、一律にはいえない(3)。シュタージを構成する職員――ここでは正規の職員を念頭におき、「協力者」については後で考えることにする――にしても、そのシュタージ就職の動機、どのようなことを考えて活動していたのかは多様だろう。とすれば、「シュタージ」という言葉を一種のマジック・ワードのように用いて、それに関わりがあるものすべてを悪魔のように描くのは、事態を過度に単純化することに通じかねない。
 第二に、シュタージの協力者の評価となると、第一の問い以上に微妙な問題が出てくる。やむを得ない事情のもとで協力者となった人をどこまで非難できるのかというのは、誰もが思い浮かべる疑問だろう。協力者となった後、具体的にどのようなことをしていたのか――本当に友人や知人の行動を詳しく調べて、正確な報告を届けていたのか、いい加減な情報でお茶を濁していたのか、あるいはほとんど何も報告しないでも済んだケースもあるのか――といった点も様々でありうる。密告をした人も、それを正しいと信じていたのか、知人をより重大な罪から免れさせるためにわざと軽い罪だけを報告したのか、あるいは自分の個人的な恨みを晴らすためにその機会を利用したのかなど、いろいろな可能性が考えられる。
 第三点として、残されているシュタージ書類は何を物語っているのかということがある。文書というものは、常に多義的な解釈に開かれているものである。ある文書にある人の名前――あるいは、おそらく誰それだろうと見当のつく偽名――が出ている場合、そのことが直ちにその人の行動についての決定的な証拠になるのかどうかは、往々にして難問である。また、多くの書類が廃棄されたといわれている以上、たまたま残っている書類に協力者として名が載っている人は、廃棄された書類にしか名が出ていなかった人に比べ、運が悪かっただけではないかという問題もある。
 このように様々な問題がある以上、シュタージ文書の取り扱いをめぐって多様な議論が提出されるのは当然だが、それらの議論をどのように解釈するかもまた大きな問題となる。書類をむやみやたらと公開すべきではなく、一定期間封印してから歴史家の研究に委ねるべきだというのは、「魔女狩り」を避けるための賢明な提案なのか、それとも自分が責任追及されるかもしれない人たちの自己保身の言なのか。逆に、シュタージの被害者(監視・密告の対象となった人)に書類を見せるべきだ、そして被害者はその書類から得た情報に基づいてシュタージ協力者の責任を問うことができるようにすべきだという議論は、真実を求める被害者の痛切な要求なのか、それともそれに名を借りて、誰彼をおとしめようとする思惑に基づくものではないか。そもそも誰が「被害者」で誰が「加害者」かを一義的に確定することはできるのか。また、国家機関なりマスメディアなりがこの問題に関与する場合にも、それは「中立」の立場からの公正な発言というよりは、それぞれの機関や出版社の自己利害に基づいたものではないかという疑惑がかけられる。
 ここまでは体制転換を経験した諸国すべてに共通する問題と考えることができるが、ドイツの場合、西と東という問題がこれに加わる。東の人々にとっては、シュタージ書類の取り扱いは――公開を望む立場の人にとっても望まない人にとっても――きわめて切実な意味をもつものであり、そのような重大問題を西の主導権のもとで解決されることへの心理的抵抗がある。西の方からすれば、東の人々は感情的になりすぎて理性を失っているようにみえることもあるだろうし、あるいは、ほとんど誰もが旧体制の共犯者だったのだから、彼らの声に振り回されるべきでない、といった発想が出てきても不思議ではない。ところが、まさにこのような態度を西の人々が示すということが、今度は東からの屈折した反撥と不信を増幅することになる。
 まだあるだろうが、このようにざっと列挙するだけでも、この主題が実に複雑な問題をはらんでいて、一筋縄では解決を与えられそうにないことが分かる。遂に悪の体制が倒れて正義の追求が可能になったと賛美するだけでは足りないのは自明だが、かといって、デリケートな問題だからあまり触れずにいようというのでも済まない。著者があちこちで自分の戸惑いを素直に表明しているのも、当然といえば当然である。
 
     二
 
 本書の大部分は、シュタージ文書の取り扱い方(保管、閲覧、個人情報の公開許可などの手続、あるいは特定の人がたまたま入手した情報を公開したことの波紋など)をめぐって一九九〇年代初頭のドイツでかわされた種々の議論を対象としているが、第五章では、狙撃兵裁判(ベルリンの壁を越えて逃げようとした人を射殺した国境警備兵の刑事責任を問う裁判)を中心的な素材としつつ、「過去の罪」の克服は可能かという、より一般的な問題が取り上げられている。第四章までが個々の発言や事例に即した具体的な叙述であるのに対し、ここでは議論の対象が広がり、時として抽象的な考察も含んでいて、やや議論の質が異なっているような気もする。
 このような一般論・抽象論を含んだものとしての本章の叙述がどこまで十分なものかについては、議論の余地があるかもしれない。たとえば、「捕えて訴追できたのは指導的ポストにあった者とはいえ、いわゆる『小者』に限られていた」という記述(三〇六頁)や、ホーネッカーやミールケ(元シュタージ最高司令官)といった最高責任者は放置されていたという個所がある(三〇四、三一三‐三一四頁)。こうした個所を読むと、大物は見逃され、「小者」や末端兵士だけが「トカゲのしっぽ切り」的に人身御供に出されたというイメージが浮かぶ。しかし、ホーネッカーは本書の対象時期の後に、刑事裁判に引き出された(病気のため、途中で打ち切られたが)。ミールケについては、本章の最後に大急ぎで追加した感じの個所で、その裁判のことが簡単に触れられている。こうした点は、出版のタイミングが不幸だった――もう少し後まで見届けた後なら、ホーネッカーとミールケの裁判を含めて総合的な議論ができたろう――ということを物語るようにみえる。また、法律の専門家でない著者の記述がどこまで正確なものかについても、検討の余地がありうるだろう(もっとも、私自身、法律の専門家でないので、著者の議論を「素人論」と一蹴する資格はない)(4)。しかし、ここでは純粋の法律論としてではなく、より広く、ある時代、ある体制の中で犯された犯罪的行為の責任というものについて、一般的に考えてみたい。
 いうまでもなく、ドイツにおいては、ナチ時代の経験に関する「過去の克服」という問題が長期間にわたって論じられ続けてきた(5)。東ドイツ体制下で行なわれた各種の犯罪的行為にまつわる諸問題は、それとある程度まで共通した性格があるようにみえる。もっとも、両者の関係、異同についてどのように考えるかはなかなかの難問であり、すぐは結論を出せそうにない(6)。本書はその問題を正面から論じているわけではなく、明快な結論を出しているわけでもないが、多少触れあう叙述がいくつかあるので、とりあえずそれらに着目してみたい。
 一つには、ニュルンベルグ裁判や東京裁判について、それらは「戦勝国による敗戦国への報復裁判の色彩の濃いもの」だったという指摘がある(三〇三‐三〇四頁)。そして、それとの対比で、東西冷戦は軍事的な勝敗がつけられず、「誰の目にも明らかな〔ソ連圏側の〕徹底的な敗北、全面的降伏ではなかった」、そのため、東ドイツ崩壊には「ひとつの法秩序を覆すほどの政治・社会の大変動、歴史の断絶はなかった」、確かに一定の裁きはあったものの、「それは『平和革命』にふさわしく実に実に卑小なものであった」という指摘がある(三〇三‐三〇六頁)
 この前後の個所は、感覚的に分かる気のする部分もあるが、煮詰めて考えるといくつかの疑問がわいてくる。ニュルンベルグ裁判や東京裁判の評価それ自体はここでの主要テーマではないので、あまり立ち入る必要はないが、ここに示唆されている「勝者の裁き」という捉え方は、確かに一理あるものの、それだけですべてを割り切るのは単純に過ぎるように思われる。そもそも「勝者の裁き」か「文明の裁き」かを二者択一の問題として考える必要はないのではなかろうか(7)
 より大きな疑問をいだかせるのは、冷戦終焉の捉え方である。著者は文字通りの意味で軍事的な決着がつけられなかったということを強調するが、それにしても、核を含む軍事力の優劣を背景に、「誰の目にも明らかな徹底的な敗北、全面的降伏」になったというのが現実ではないか(8)。東ドイツでも他の旧社会主義国でも、明確な「歴史の断絶」はやはりあったというべきだろう(もちろん、連続性の要素や揺り戻し現象もあるが、それもいったん断絶したことを前提した上でのことである)。確かに、東京裁判やニュルンベルグ裁判に相当するような戦犯裁判はなされかったが、種々の形で――個別の刑事裁判であれ、公職追放であれ、「敗者」に対する心理的圧迫であれ、歴史書における過去の断罪であれ――「勝者による敗者に対する裁き」がなされているというのが実情ではないか。どうも、この個所の著者の叙述は筆が滑っているという印象を受ける。それに、先に引用した「実に実に卑小」といった口吻は、東京裁判やニュルンベルグ裁判のような戦犯裁判がなされるべきだったという考えを示唆するかにみえるが、他方では、著者はそうした「勝者の裁き」に批判的なのだから、これは著者自身の考えに即してもあまり整合的でない。
 私としては、第二次大戦後にも冷戦終焉後にも、形は様々に異なるにもせよ、「勝者による敗者に対する裁き」がなされているという点での共通点があることにむしろ注目してみたい。そこには、「正義の裁き」という名目のもとに、「力の論理」の横行、勝者の奢り、「魔女狩り」、元の「敗者」の「勝者」陣営への大急ぎでの鞍替え等々の要素があった。それと同時に、そうした「魔女狩り」を排すべきだとの口実のもとに、責任を逃れようとする目論見もまた交錯していた。裁きというものは――法的な裁きであれ、道徳的その他の裁きであれ――常に、無実の人をおとしいれたり、有罪な人にしても過剰に罰してしまったりする危険性と、責任を十分追及しないで放置してしまう危険性との際どい隘路を縫って進まねばならないが、体制が崩壊して、それまでの「忠良な国民」の行為が犯罪的なものだったとの烙印を押されるときには、特にこの問題が深刻となる。もちろん、ナチズム、日本天皇制、スターリニズムのそれぞれの体制下の犯罪の具体的なあり方、そこにおいて様々な関係者が負う責任の具体的な様態、その追及をめぐって生じた問題の具体相にはそれぞれに個性があり、差異があるが、こうした問題を考え込まずにはおれないという点では、一定の共通性があるだろう。著者は、せっかくニュルンベルグ裁判や東京裁判を思い出していながら、そうした共通性よりもむしろ不適切な対比にとらわれることで、重要な問題を引き出しそこねているような気がする。
 この章でもう一つ注目されるのは、前半で詳しく取り上げられた狙撃兵裁判事件との対比で、後半部で、「社会法廷」「道徳裁判所」の構想とその限界について述べている点である(三四四‐三六六頁)。「社会法廷」とは、刑事裁判とは異なり、市民たちによる過去の解明と克服を目指す、一種の「良心の法廷」――強制力をもたず、法的責任ではなく政治的・道徳的責任の解明を目標とする――のことである。こうした「社会法廷」の構想については、法的な裁きを補うものとして高く評価する考え方もあるが、著者はむしろかなり辛い評価を下している。構想が具体性を欠き、実現困難であること、仮に実現されるなら、たとえ刑事罰を科すことはないにしても、「なんらかの似非権威あるいは心理的・社会的圧力によって個人に制裁を加える『私刑(リンチ)法廷』となることを免れない」といった点が主な批判点である(三五四頁)。また、この構想に共感を表明した当時の大統領ヴァイツゼッカーの発言についても、辛口の批評を加えている(三五七‐三六五頁)(9)
 これはなかなか難しい問題であり、どのように評価したらよいか迷うところがある。著者が「社会法廷」に向けている上述の批判は、確かに当たっているところがあり、市民による「良心の法廷」だからといって手放しで賛美してよいわけではない。他面、この種の試みを提唱する人々の心情には無理からぬものがあり、それを無下に退けるべきでないようにも思える。
 法的な決着、とりわけ刑事裁判にはどうしても限界がある。罪刑法定主義、不遡及原則、「疑わしきは罰せず」などの制約条件があるからである。刑事罰が国家権力を背景にした強制力の発動である以上、それが抑制的に運用されるべきなのは当然のことであり、「あいつは許せない」という道徳的な感覚のみでむやむと刑罰をエスカレートさせることは非常に危険な結果をもたらしかねない(もう一つ別の要素として、政治的な安定、「和解」を重視する観点から恩赦が広く行なわれることもあり、そうなると法的責任追及は打ち切られることになる)。だが、法的に無罪とされた人について、何の責任も問えないと言い切ってしまうなら、そこには何か割り切れないものが残る。そこで、刑事裁判とは区別されたものとして「良心の法廷」を構想するという発想が出てくるのは自然だろう。他の例としては、ヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪に関するいわゆる「ラッセル法廷」、ラテンアメリカ諸国での軍政崩壊後の「真相究明委員会」や南アフリカでのアパルトヘイト体制に関する「真実和解委員会」、日本の従軍慰安婦に関する「女性国際戦犯法廷」などの例を挙げることができる(これらの例は、もちろん、それぞれに異なったものであり、私自身はそれらの一つ一つをよく知っているわけではないが、ごく大まかな意味では、一定の共通性をもつように思う(10))。これらもまた、著者の指摘するように、「なんらかの似非権威あるいは心理的・社会的圧力によって個人に制裁を加える『私刑(リンチ)法廷』となる」危険性が皆無とは言い切れないだろう。他面、だからといって、これらの試みに全く意義がないともいえないのではないか。
 著者も、「東独の過去に関する様々の問について考え、無数の葛藤が、口に出され、あるいは沈黙のうちに闘われ、多くの経験が交換され、これらすべての動きがひとつの自発的な国民の議論へと流れ込む、といった類の公の議論が悪かろうはずがない」ということを認めている(本書自体が、そうした「公の議論」に触発されたものであり、それに連なるものとしての性格をもっている)。にもかかわらず「社会法廷」に反対する理由としては、旧東独の現状は「自由な開かれた成熟した市民社会というようなものとはおよそほど遠い」という点が強調されている。「まだ市民社会も法治社会も育っていない」状況で、「われわれは誰もが共にお互いに『法廷』である」(ヴァイツゼッカー)というような理想主義的な考えを実行に移すなら、暗いルサンチマンが爆発し、「人間が互いに自由に刑を執行しあう野蛮状態」を招来するのではないかという危惧がその底にある(三六三‐三六五頁)。この個所だけを読むと、東独にはまだ市民社会がないから市民法廷もできない、もっと市民社会の成熟した国でならそれは可能だ、という議論であるかにみえる。ところが、そのすぐ後では、「ひとり東独に限ったことではない。西独でも日本でも、地上の国のどこでもいい。自由な開かれた社会かなにか知らないが、ともかく地上に今実現している人間社会で、現に生きている現身の人間の頭に、『われわれは誰もが共にお互いに「法廷」である』などという高潔な理想を吹き込んだらどうなるのか」と書かれている(三六五頁)。前の個所では、東独には市民社会がまだないからという理由付けだったのが、ここに来ると、東独だろうが地上のどこの国だろうがという論法に変わっているのである。やや揚げ足とりめくかもしれないが、著者の議論自体が揺れているようにみえる。
 著者が最も危惧するのは「社会法廷」が「リンチ」まがいのものに堕す可能性である。それはよく分かる。だが、では「社会法廷」を開かなければ、リンチは避けられるのだろうか。前述のように刑事裁判には必然的に限界があるから、そこから漏れた人々に対するルサンチマンと復讐欲はどこかにはけ口を求める。それは思いもよらないところで爆発するかもしれない。むしろ、「社会法廷」はそうした復讐欲に相対的に無難なはけ口ないし安全弁を与えようとするものではないだろうか(11)。確かに、安全弁がうまく機能せず、むしろどす黒いルサンチマンの爆発の場に化してしまうという可能性もないとはいえない。だが、それをいうなら、そもそもそうした危険性を一〇〇%回避するなどということは、どうころんでも不可能なのではないだろうか。「良心の法廷」を完全無欠のものであるかのように賛美するのは安易だが、そこにはらまれる危険性を意識しつつ、際どい谷間を縫うようにして、様々な試みを積み重ねるしかないのではないだろうか。
 
      三
 
 やや第五章ばかりにこだわってみてきたが、本書の全体的トーンに立ち返ってもう少し考えてみたい。前の方でも書いたが、著者は――ところどころに感情的反応を表出した個所がなくはないとはいえ――あまり明確な価値判断をせず、むしろ黒白とか善悪とかの図式で割り切って描くことを意図的に避けようとしているようにみえる。それは単なる「中立性」ということではなく、むしろそれ自体が著者流の人間観の反映であるようにも思える。
 一例として、イブラヒム・ベーメという人物についてみてみよう(一九三‐二〇一頁)。ベーメはかつて異論活動で社会主義統一党を除名され、八〇年代には熱心な市民運動活動家として活躍し、新たに結成された東独社会民主党の党首にもなった。ところが、その彼が実はシュタージの非公式協力員だったと暴露され、歯切れの悪い自己弁明をつぶやきながら政治の表舞台から去っていった。このような人物について、どのように捉えるべきだろうか。熱心な市民運動家と見せかけながら、実は権力の手先だったのか、それとも誤った情報のせいで政治的に追放された悲劇の主人公であり、この暴露は不用意な情報流出の危険性を物語っているのか。このような二者択一に対し、著者は、どちらか一方が真実だという考えをとらず、ベーメの人生は「自分でもうまく解けないような生きるということの謎に満ち満ちているのであろう」と推測する。「このような人生にあっては、何が虚構で何が現実で何が仮面で何が素顔でといった区別は、もはやあまり意味をなすまい」というのである。このような感慨に続いて、ベーメのような人物の心の深い闇に対峙し、この闇を描ききってみせるのが今後のドイツ文学の使命だろうと著者は指摘する(二〇一頁)。このあたりに、本来文学研究者である著者の面目がよく現われているように感じる。
 この種のテーマを扱った文献にありがちな一つの傾向として、後知恵的な観点から東ドイツ体制の抑圧性を断罪し、それを他人事として糾弾するといったタイプの論じ方がある。これに対し、著者はそうした他人事的観点に立つのではなく、もし自分自身がかつての東独に生きていたらどうしただろうかという問いを立て、次のように書く。民衆暴動による社会改革が成功するとは期待しにくい状況の中で、体制内改革志向のシュタージの職員が「私のところへやってきて、『君のところで若い者があんまり過激に走るのを少し押えてくれ。過激な動きがあったら教えてくれ』と言ったら、私は、絶対に協力を拒否した、と言い切れるだろうか。むしろ『改革は暴力的に一気になるものではない。辛抱強く時間をかけて、話し合えば、少しずつ変えられるから……』とか言って若者を諭して、国の保安に一役買ったのではあるまいか」(一四九頁)
 あるいはまた、シュタージに手を貸すなどまっぴらだと考えていたとしても、実際問題としてその信念を貫けたかどうかという問題を出し、次のように書いている。シュタージの協力要請を断わるということは、自分のみならず子供の将来の進路をも狭めることにつながる。「自分はいいとしても、子供の将来まで奪うことができただろうか。結局、嫌々ながらも、シュタージにある程度妥協し、自分も家族も、東独の社会体制の中で生き延びる道を選んだのではあるまいか」。このように書く著者は、「自分が東独にいたらどういう生き方をしていたか、それは結局分からないけれど、いずれにせよ、『私だったら、シュタージに協力を求められても、絶対にこれを断わった』とは、とても言い切れたものではない」と記している(一五〇頁)
 このような内在的理解の姿勢は、犯罪的行為の正当化や免罪につながりかねない危うさを含んでいるという批判もありうる。それはそうなのだが、ある時代を歴史として理解しようとするなら、そうした危うさを念頭におきつつも、ともかくもいったんはそうした内在的理解の試みをくぐり抜ける必要があるのではないか。ついでながら、ナチ時代のドイツや戦時中の日本における種々の犯罪的行為について、「加害者や協力者にも、それなりの事情があったのだから、その理解なしに、あまりあっさりと断罪すべきではない」と説く人たちの大半は共産主義体制下の犯罪についてはそうした内在的理解の努力抜きにあっさりと断罪・糾弾する、また逆に、後者について内在的理解を説いて、「魔女狩り」的断罪を避けようとする人たちは、同様の問題が前者にもありはしないかということを考えようとしない、という一般的傾向があるように思われる。この種のダブル・スタンダードを避けるのは非常に難しいことであり、どのように論じたらバランスをとった議論ができるのかはなかなか定めがたい(前注6も参照)。本書はそうした問題に正面から取り組んでいるわけではなく、著者の政治的立場もあまり明確ではないが、ともかく本書の記述にあらわれている限りでは、そうしたダブル・スタンダードはあまりないように感じる。
 もう一つの例として、ヴォルフ・ビーアマン――かつての代表的異論派のシンガー・ソング・ライターで、一九七六年に国外追放されていた――についてみてみよう。東独体制崩壊直後に、かつての異論派たちの間で激しい論争が起き、それにビーアマンは独自の形で介入した。一癖ある詩人たる彼の議論は、「一見手当たり次第、一種、自暴自棄の論評」、「乱暴で皮肉な筆でひとくさりビーアマン節をぶってみせた」(一六一頁)ということであり、あまり論理的ではないが、そうした苛立ちまぎれの文章の中に、独自の感覚が表現されているように思われる。
 彼はまず、「敗北したのは誰なのか?」と問う。旧支配者のある者は既に世を去り、ある者は責任を上手に逃れ、ある者は見事に資本家に転身し、いずれも「敗者」の憂き目から逃れている。一般労働者はどうかといえば、彼らはもともと共産主義に幻想をもっていたわけではないから、それが崩壊したからといって敗北したことにはならない。「本当の敗者は僕ら、一握りの左翼インテリである。真のマルクス主義と真の社会主義の名を掲げ、僕らは党のボスたちと辛抱強く闘った。しかし、僕らの昨日の敵はもうとっくに雲を霞と逃げてしまった。そこで僕ら、多少とも正直な一握りの人間は、墓穴の脇にしゃがみこみ、共産主義の屍体をしゃぶっているのだ。僕らはあんまりたくさんの知識を持ったがために、いまや全くの阿呆になってしまった。あまりに鮮明な記憶を持っているがために、市場経済の出発にあたって、全く放心状態で突っ立っている」(一六一‐一六二頁)
 ここには、破れかぶれ的な口調ではあるが、苦い思いが表現されている。社会主義圏崩壊において「敗北したのは誰なのか?」という問いは普通、あまり提出されることがない。「負けたのはマルクス主義者、社会主義者、あるいはそのシンパたちだ」という答えが自明視されているからだろうか。しかし、多くの場合、人は、自分自身がその敗者に属しているとは認めようとしない。負けたのは教条主義者だとか、よその国の支配者だとか考えて、自分とは無縁だとする人もいれば、大急ぎで「勝者」陣営への鞍替えをして平然としている人も多い。確かに、直接的な意味で負けたのは、教条主義者、スターリニスト、特定の国の支配者だったかもしれない。しかし、彼らが倒れたときに、そのチャンスを捉えて「勝者」になることができたのは、元からの右派かあるいは大急ぎでそれに乗り換えた人たちだったことを思えば、「本当の敗者は僕ら、一握りの左翼インテリだ」というビーアマンの言葉は、旧東独の元異論派のみならず、日本を含む世界の多くの批判的左翼にも当てはまるのではないだろうか。このあいだまで「党のボスたちと辛抱強く闘っていた」はずなのに、そのボスたちはあっという間に雲散霧消し、しかも敵の退散は自分たちの勝利ではなかった、という状況に直面すれば、「放心状態で突っ立っている」というのは当然のことかもしれない。それを言う人が滅多にいないのは、ただビーアマンが異例に正直だったということを意味するに過ぎないのではないか。
 ビーアマンは続けて、異論派の間での論争に触れ、誰がより大胆で、誰がより臆病だったのかといった応酬について、次のように書く。「抵抗と適応の境い目は流動的であった」、「僕らは僕らの敵と縺れ合い、こんぐらがり、きわめて近い姻戚関係にあった」。誰もが妥協しつつ闘い、闘いつつ妥協するという矛盾を抱えていた以上、ある局面で誰かが権力にすり寄ったというようなことをあげつらって自己の優位を誇るのは空しい。これだけを読むと、ひょっとしたら彼は他の人から体制に妥協的だったと非難されていて、それに対して自己弁明しているのではないかという気がするかもしれないが、そうではない。むしろ彼は、相対的により尖鋭だった――そのため、早い時期に国外追放された――のだが、それは単なる好運に過ぎないというのである。その「好運」とはなにか。「僕は、僕の父はアウシュヴィッツで死んだのであって、スターリングラードでナチの兵士として斃れたのではない、という悲惨なる好運に恵まれていた。要するに僕の生まれは彼女〔クリスタ・ヴォルフ〕のそれとはちがっていた。僕には、僕が返さなければならない前世代のツケはなにもなかった。従ってまた、新しい支配者に忠誠を証明せねばならぬ、というようなことも全然なかった」(一六四‐一六五頁)
 アウシュヴィッツで死のうが、スターリングラードで死のうが、死は死であり、その子供にとっては、親を失ったという点に違いはない。しかし、政治的には、前者は「追悼すべき悲劇の死」、後者は「ファシストの手先としての犬死に」であり、その子に向けられる視線は大きく異なる。後者の子は東独体制下で政治的嫌疑の念を向けられ、それを払いのけるためには、過剰なまでに体制への忠誠を示さなければならない。前者の子だったビーアマンはそれをしないで済んだ。父がアウシュヴィッツで殺されたことを「悲惨な好運」と表現しなければならないのは、そういうことだろう。ビーアマンはクリスタ・ヴォルフに比べ、体制に対しより非妥協的だったのだから、そのことを楯にとって、彼女を卑怯呼ばわりし、自分の優位性を誇ることもできたかもしれないが、あえてそうせず、自分たちの違いは偶然的なちょっとした差異でしかないというのである。人の神経をわざわざ逆なでするような表現法にやや引っかかるものがないではないが、自分のささやかな優位性は「悲惨な好運」のおかげでしかないとする判断は、先を争って「勝者」の仲間入りをしようとする人たちが多い状況の中では、筋を通したものという印象を受ける。
 このビーアマンはまた、もうひとりの異論派的詩人ライナー・クンツェについて、非常に微妙な言及をしている。それは正面から彼を批判することなく、皮肉っぽい形で言及し、また彼が若いときに「残忍なスターリン主義の教師」と言われていたという話を紹介するものである。もっとも、それはクンツェがかつてスターリン主義者だったからけしからんという文脈ではなく、それは当時の状況からして無理からぬことであり、その後自己脱皮したことこそが重要だという書き方である(一六六‐一六七頁)。先のクリスタ・ヴォルフと自分自身との対比からも明らかなように、彼は――少なくとも、表向きの議論としては――誰かが体制寄りだったことを非難し、より非妥協的だった自己を誇るというような論法をとってはいない。ただ、それにしても、異論派として知られていたクンツェが若いときに「残忍なスターリン主義の教師」と言われていたという話を紹介することは、クンツェの評判を落とす効果をもつ――ひょっとしたら、それがビーアマンの秘かな狙いだったのかもしれないが、その点はにわかに確定できない――ことは否定できない。クンツェがこれに激しく怒ったのも当然である。
 クンツェはビーアマンの紹介した噂に反論すべく、自分が若い頃からシュタージの監視対象となっていたことを示す文書――シュタージ文書の扱いがまだ確定していない時期に、個人的ツテで入手したもの――を編集・出版した。饒舌で八方破れのビーアマンとは対照的に、クンツェは「書類に語らせる」スタイルをとり、一連のシュタージ文書を並べることで、自分が「スターリン主義者」だったなどというのは言いがかりであることを示し、更には、そういう噂を無責任に広めるビーアマンの文章は異論派間に不和を撒き散らそうとするシュタージのやり口に似ていることを暗に仄めかした(一六八‐一七二頁)
 このようにビーアマンとクンツェの応酬を紹介した後、著者は自分の感想を次のように書き記している。たとえ三〇年以上も前のこととはいえ、かつて「残忍なスターリン主義の教師」と言われていたというのは、当時のドイツの状況では、日本人にははかりしれないほど深刻な意味をもつものだったかもしれず、とすれば、クンツェが必死になって反論したのは当然かもしれない。「ただ、私は、敢えて言うが、たかがまだ二十代やそこらの自分について『残忍な、スターリン主義の、……スパルタ教師』云々と言われたからといって、直ちに、当時の自分についてシュタージが残していた記録を錦の御旗のごとくに掲げて、二十代の自分がすでにいかにスターリン主義的でなかったか、を証明してみせずにいられぬ詩人の姿に、なんとも淋しい想いを禁じ得ないのである。いやしくも言葉を以て立つ詩人であるなら、なぜ、若い日の自分の姿を自分の責任で捉え、自分の言葉で表現しようとしないのか。〔中略〕。シュタージ書類に何が書いてあれ、人の評判がどうあれ、私の二十二歳から二十六歳までの心の軌跡はかくかくであった、と自分の真実を自分の言葉で述べ、その言葉ひとつで世に相渉ってこそ、詩人というものではないのか。シュタージ書類という、人を黙らせる絶大な権威を掲げて、自分の青春の日の証としたクンツェの行為は、詩人としてはやはり自殺行為ではなかったか」(一七二‐一七三頁)
 この評語はクンツェに対し厳しすぎるのではないかと感じる読者もいるかもしれない。著者も、右の個所にすぐ続けて、「詩人といえど、まずは万人と同じ生身の人間である。自分に加えられた不作法な中傷に腸の煮えくりかえる想いをし、熾烈な生存競争を生き抜くために、シュタージ書類を証拠として叩きつけるクンツェの行動はひとりの市民の行動として決して理解しにくいものではない」と付け加えている。その上で、なおかつ、詩人というものの使命について、著者は、「文学者とは、たとえば、自分を含めた同時代の人間の、正義も不正義も、弱さも強さも含めたおよそあらゆる現実を見つめ、描き、人間の現実を謳い上げる」ものではないかという(一七三頁)
 この「正義も不正義も、弱さも強さも含めた」というあたりに、著者の人間観と文学観があらわれているように私は感じる。クンツェという人について私は本書に書かれている以外のことを何も知らないが、資料集を編んで「書類に語らせる」手法といい、黒白を明確にさせようとする態度といい(先に触れたベーメがシュタージの協力者だったと暴いたのも、同じクンツェの編集した資料集だった)、どうもクンツェには、「資料」およびそれによって明らかにされる「真実」――ベーメは「黒」であり、クンツェは「白」であるというような――に対する信仰めいたものがあるような感じがする。これに対し、著者は、「何が虚構で何が現実で何が仮面で何が素顔でといった区別」が意味をなさないような状況の方により引きつけられ、それを描くのが文学の課題と考えているようだ。
 このような人間観、文学観をどうみるかは、なかなか微妙である。一方からいえば、黒と白、虚構と現実、善と悪、仮面と素顔は往々にして見分けがたいものであり、安易な裁定は判断を誤り、新たな不正を生み出すことになりかねない。しかし、他方からいえば、そうした判断の難しさばかりを強調していると、突き詰めていえば、徹底した不可知論とか価値相対主義といったものになり、どのような非道で犯罪的な行為についても誰も裁くことはできないということにもなりかねない。そうした際どさはあるが、ともかくもこうした難問を自己に突きつけることは、一つの通過点としては重要な意味をもつだろう。
 このことと関連して、「真理とは何ぞ(ヴァス・イスト・ヴァールハイト)!」という印象的な言葉(新約聖書ヨハネ伝)が第五章で引かれている(三二八‐三三二頁)のが思い起こされる。イエスを裁かねばならない立場におかれたローマ総督ピラトは、イエスに「あなたは、ユダヤ人の王であるか」と尋ねる。イエスが「あなたの言うとおり、私は王である。私は真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につくものは、私の声に耳を傾ける」と答えるのを聞いて、ピラトが投げかけたのが、「真理とは何か」という言葉である(12)。シュタージ書類によって「真実」が解明されることに強い期待を寄せるあるドイツ人と会話する著者は、そもそも「真実」「真理」とは、そんなに明快に見いだされるものなのか、また「真実」解明は復讐のためではないといくら言っても、いざ具体的な人物――自分に関する情報を当局に売った人――を前にしたとき、本当に平静でいられるのか、「真実を知る自由」には闇の半面もまたあるのではないか、といった疑問をいだき、「真実」解明をためらいなく善として追求するドイツ人に、この「真理とは何ぞ(ヴァス・イスト・ヴァールハイト)!」という言葉を贈るのである。
 このように著者が述べる背後には、人間には「悪への可能性」があるという認識がある。東独の人々にとって、悪は自分の外なる国家に属するものだったが、そうした外なる悪に常に立ち向かっていたために、「自分の中にある、悪への可能性を畏怖する」ことを覚える機会がなかったのではないかと著者はいう(三二七頁)。この前後の個所の著者の筆致には、東独の人々に対し、一段高いところから説教するような響きがなくもないことが多少気になるが、それはともかく、自己の外なる悪をひたすら糾弾しようとする風潮に対し、「自分の中にある、悪への可能性」をこそ、畏怖をもって認識すべきだという考えそのものはうなずける。
 「真実とは何か」という問いを反語的に発することは、とりようによっては、価値相対主義を説いて真実解明の努力に水を指すものという風にもとられかねない。圧制的な体制から解放された直後の人々が、真実解明を熱心に追求するのは当然のことであり、たとえそこに行き過ぎや混乱がはらまれるとしても、それを外部から笑うことはできない(そのことは著者も認めている)。ソルジェニツィンやハヴェルのような人々は、かねてより、嘘によってつくられた体制を糾弾し、嘘ではなく真実によって生きることを呼びかけていた。アパルトヘイト後の南アフリカでも、「真実を通じての和解」が追求されている。ソルジェニツィン、ハヴェル、マンデラと名を並べるなら、これらは誰の胸にも畏敬の念を呼び起こさずにはいない人々であり、彼らの「真実」を求める姿勢に疑念を差し挟むようなことは、聖なるものを汚す行為と映るだろう。そうしたことを念頭におくなら、「真実」を追求する人々に対して「真実とは何か」という修辞的疑問を投げかけることは、容易ならぬ意味をもつことになる。そのことを確認した上で、なおかつ、絶対的価値としての「真実」のひたすらな追求がまさしく共産主義の悲劇だったことを思い起こすなら、「真実とは何か」という問いを手放すことはできない。
 こうした問題について著者がどのように考えているのかは、この本の叙述だけからでは十分読みとることができず、そのため、本書への全体的な評価もさしあたりは留保しておくほかない。ただとにかく、きわめて重い問題を提出した本である。
 
(1)刊行後まもない時期に読んだ邦語文献として、次のようなものがある。笹本駿二『ベルリンの壁 崩れる』岩波新書、一九九〇年、永井清彦『現代史ベルリン(増補)』朝日選書、一九九〇年、仲井斌『ドイツが一つになる』日本放送出版協会、一九九〇年、坪郷実『統一ドイツのゆくえ』岩波新書、一九九一年、星乃治彦『東ドイツの興亡』青木書店、一九九一年、山田徹『東ドイツ・体制崩壊の政治過程』日本評論社、一九九四年、広渡清吾『統一ドイツの法変動――統一の一つの決算』有信堂、一九九六年、ユルゲン・クチンスキー『クチンスキー回想録、1945-1989、正統派の異端者』大月書店、一九九八年(この本については読書ノート参照)、T・ローゼンバーグ『過去と闘う国々』新曜社、一九九九年、高橋進『歴史としてのドイツ統一』岩波書店、一九九九年。この時期に出た関連邦語文献は、おそらくこの倍位はあるだろう。
(2)本書に対してどのような反響・書評があったのか、よく知らないが、たまたまインターネット上で見つけたある論評は、本書の素材の大部分が新聞・雑誌類の記事だということを指摘して、だから価値がないと決めつけている(古井戸「竜宮城」「机上のルポ」http://www2.ocn.ne.jp/~asagao/ryugu/kijou_rupo.html)。しかし、私はこのような評価には同調できない。資料が公刊物か非公刊資料かあるいはインタヴューかということは、個別の事情によって意味をもつこともあるが、それ自体としては探求の手段にかかわることに過ぎず、作品の価値の上下に直結するわけではない。既公刊情報の整理・紹介・分析も、的確に行なわれるなら十分な価値をもつし、他方、未公開情報を多用しても考察は一向に新味がないということも珍しくない。むやみやたらと「生きのいい新情報」ばかりを追い求める発想は、実際には、外観に惑わされ、一見「新しい」かにみえながら実は陳腐な先入観の再生産に終わっているというのが、よくあるパターンである。そうした類書に比べれば、むしろ本書は堅実さで勝っているように思われる。
(3)私自身は東ドイツについて専門的に研究しているわけではないので、本文に書いたのはあくまでも一般論であり、また社会主義体制をとっていた各国の比較も、それぞれの実態のより立ち入った究明の後になされるべき課題である。あくまでも漠然たる印象論だが、ソ連の場合には、通俗的に想像されがちなところと異なって、その監視・統制体制はしばしば粗雑でルーズなものであり、時として穴だらけでさえあったのに対し、東ドイツおよびチェコスロヴァキアでは統制がより緻密だった――いわば「本格的な全体主義」の理念型により近づいていた――ようにみえるところがある。もちろん、この漠然たる仮説がどの程度当たっているかは、今後の検証を俟たねばならない。
(4)本書よりも後の時期までカヴァーして、法学者によって書かれた緻密な議論として、広渡、前掲書の第三章「不法国家と過去の克服」がある。また、より広い主題として、戦争犯罪裁判における責任追及のあり方――「上官の命令だから」という抗弁が認められるかどうかなどの問題――について論じたものとして、藤田久一『戦争犯罪とは何か』岩波新書、一九九五年も参照。
(5)多くの文献があるが、さしあたり、石田勇治『過去の克服――ヒトラー後のドイツ』白水社、二〇〇二年参照。
(6)ドイツの歴史学界に大きな波紋を投げかけたエルンスト・ノルテの論文「過ぎ去ろうとしない過去」(一九八六年)は、ソ連・東欧圏崩壊に数年先立つものだが、ナチ・ドイツの犯罪とスターリニズムの犯罪の比較可能性という問題を提出した。これに対し、ドイツの多くの「進歩的」知識人たちは、アウシュヴィッツの歴史的な意味合いを相対化するのは許しがたいと反論した。J・ハーバーマス、E・ノルテほか『過ぎ去ろうとしない過去――ナチズムとドイツ歴史家論争』徳永恂ほか訳、人文書院、一九九五年参照。「比較可能性」「相対化」という言葉は往々にして、「だから免罪される」という意味に使われることがあり、ノルテにもその要素がある限りで、それが批判されるべきだということには私も同意する。しかし、この言葉自体は、免罪とか過小評価という意味ではなく、客観的認識深化のために比較の観点から論じるという文脈でも使われうるはずではなかろうか。ノルテらへの批判を「相対化」「比較可能性」の批判という形で提示すると、比較史的研究自体をも否定することになりかねない。ドイツの知識人――および日本のドイツ史研究者――がナチの犯罪を重視し、その風化や免罪を危惧するのはよく分かるが、スターリニズムの問題に関心をもつ私としては、両者を――もちろん単純に同一視するのではなく、差異と共通性の両面に目を配りつつ――比較の視座から論じることは、やはりなされるべき課題だと思う。東ドイツ崩壊後、東ドイツの体制に批判的に言及する議論も増大したが、私の眼に触れた限りでは、両者の犯罪を比較の視座で総合的に論じるものはまだあまりないように思われる。広渡、石田などの前掲書の他、ヴォルフガング・ヴィッパーマン『ドイツ戦争責任論争』(増谷英樹ほか訳)未来社、一九九九年も参照したが、比較をすると免罪論になるのではないかという警戒心が先立つためか、正面から比較を論じようとはしていない。ともかくも「二重の過去の克服」という問題に触れたものとして、ハーバーマス「今日における『過去の消化』とはなにか?」(三島憲一訳)『思想』一九九二年一二月号、佐藤健生「遠ざかる『過去』をめぐって」『思想』一九九三年一一月号がある。私自身は、スターリニズムとナチズムの比較について、ごく初歩的な問題提起を『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九三年、七二‐七八頁、『現存した社会主義』勁草書房、一九九九年、一四〇‐一四九頁で行なった。
(7)大沼保昭「『文明の裁き』『勝者の裁き』をこえて」大沼『東京裁判から戦後責任の思想へ』(増補版)、東信堂、一九八七年所収参照。
(8)これについては詳しく考察する必要があるが、別の機会を期したい。
(9)ついでながら、本書の前の方にも、ヴァイツゼッカーについて辛い評価を示唆する個所がある(七一‐七五頁)。日本の一部にヴァイツゼッカーへの過度に高い評価が流通していることへの反撥があるのかもしれない。
(10)抑圧的な政治体制下で行なわれた大量の非人道的行為に関して刑事的処罰よりもむしろ真相究明と和解を主要目標としたこの種の手続きは、一九八〇年代以降、様々な差異を含みながらも相当広い範囲で行なわれているようだ。篠田英朗『平和構築と法の支配』創文社、二〇〇三年、一六三‐一六九頁参照。また、これとの関係は微妙だが、刑事司法を補完するものとしての「修復的司法(restorative justice)」という考え方も、大規模な人権侵害後の社会関係修復の一方策として提唱されている。長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、二〇〇四年、一七五‐一七七頁参照(この注は二〇〇四年二月および六月に追加)。
(11)本書で紹介されている「社会法廷」の提唱者自身、そのような説明をしている(三四六頁)。
(12)著者は文語調の訳を引いているが、ここでは日本聖書協会の口語訳を用いた。
 
(二〇〇三年三月)
 
*桑原草子『シュタージ(旧東独秘密警察)の犯罪』中央公論社、一九九三年
 
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