クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
文学作品を政治論や歴史論の素材として利用してしまうのは社会科学者の悪い癖である。私は、日頃それほどたくさんの文学作品を読んでいるわけではないが、たまに読むときは、できるだけ専門の仕事を離れて読むようにしており、また読んでいるうちにいつのまにか自分の仕事とのつながりが出てくると、「文学作品の読み方としては邪道に陥らないか」という警戒心を働かすように心がけている。にもかかわらず、いつのまにか作品に触発されて、政治と人間のかかわりとか、歴史における人間とかいった問題について考えてしまうのは、業のようなものだろうか。
ただ、そのような場合にも、文学と社会科学の位相の違いということは常に念頭においているつもりである。既成の政治論を確認し、それを例解する実例として文学をとりあげるというのではなく、むしろ政治についての常識的理解を問い直すきっかけにするという姿勢を保ちたいというのが私の考えである。これは私の個人的な好みでもあるが、狭い意味での政治に正面からかかわろうとしているわけではない人々が、にもかかわらず政治に巻き込まれてしまい、否応なしに「政治と人間」という問題を――登場人物自身も、読者である私も――考え込まざるを得なくなってしまうという状況を描いた作品に親近感をもち、それを手がかりに政治の恐ろしさのようなものを考えるということが多い。
こういう断わり書きをつけた上で、クンデラの作品について若干の読後感をつづってみたい。本書が政治を積極的に論じた作品ではないということは十分念頭においておかねばならないが、あれやこれやの点についての感想を書き連ねても散漫になるばかりなので、敢えて、先に述べたような意味での「政治と人間」という観点――いわば、裏側から考える政治論――に限定して議論を進めることにする。
政治および歴史との関連を考える以上、純粋の文学作品においては必ずしも必要でない歴史的データについても、最低限度おさえておく必要があるだろう。著者クンデラは一九二九年生まれ、ということは、「プラハの春」の起きた一九六八年には三八‐三九歳だったということになる。一九七五年に出国し、七九年に国籍剥奪され、八一年にフランス国籍を取得した。原著刊行の一九八四年という年は、「プラハの春」から一六年後、著者五五歳、そしてペレストロイカと東欧激動の前夜というタイミングになる。
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先ず、簡単に粗筋を追ってみる。医者のトマーシュとその妻テレザが主人公であり、副主人公として、トマーシュの恋人だった画家サビナ、そのサビナと一時期恋人だった学者のフランツがからむ。この四人のうち、スイス人のフランツを除く三人はチェコ人である(1)。三人とも共産主義体制が嫌いであり、一九六八年の「プラハの春」がワルシャワ条約機構軍によって押しつぶされた後、スイスに亡命する。しかし、テレザはチューリヒに落ち着くことができず、一人でプラハに帰ってしまう。トマーシュとしては――他に恋人もいるのだから――そのままチューリヒにとどまる手もあったのだが、テレザを捨てることはできないと感じ、プラハに戻る。祖国に戻った彼は、「プラハの春」の時に書いた論文を撤回するよう上司から圧力をかけられるが、それを拒む。その結果、トマーシュとテレザはチェコスロヴァキア社会における地位を低下させていく。大病院の腕利きの医師だった彼は、先ず郊外の小さな診療所に移り、次いで窓洗い職人になる。更には、プラハに居づらくなり、二人して農村に移り住み、トマーシュはトラック運転手となる。農村では静かな生活が一応可能だったが、結局、二人は交通事故で一緒に死んでしまう。
以下、〈政治の中の人間〉あるいは〈人間にとっての政治〉という観点から、いくつかの局面に分けて、印象的な個所をとりあげてみよう。
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〈一九六八年まで〉
「中部ヨーロッパの共産主義体制は、犯罪者によって作り上げられたもの以外の何物でもないと考える人たちは、根本的真実を見逃している。犯罪的体制をつくったのは犯罪者ではなく、天国に通ずる唯一の道を見出だしたと確信する熱狂的な人々である」(二〇一頁)。
これはほとんど説明を要しないが、重要な指摘である。東欧社会主義崩壊後、「中部ヨーロッパの共産主義体制は、犯罪者によって作り上げられたもの以外の何物でもない」と考える人が改めて増大したことを思うなら、この指摘は、ただ単にかつて鋭かったというだけでなく、今日においてもその鋭さを失っていない。
次の問題は、共産党員たちは自らが担っている体制について真実を知らなかったのか、仮に知らなかったとして、そうなら責任を免れるのかという点である。この問題について、主人公のトマーシュは次のように考える。ギリシャ神話のオイディープスは父を殺して母と結婚したということを知らなかったが、それを知ったとき、自らを罰した。トマーシュはこの例をあげて、知らなかった共産党員にも責任ありとする論文を六八年に書き、新聞に投書した。但し、その趣旨は共産党員が自らを罰するべきだという点にあり、他者がやみくもに裁くべきだということではなかったが、新聞には短縮して掲載されたので、共産党員は裁かれるべきだという攻撃的な主張のように受け取られた(二〇一‐二〇四頁)。
トマーシュの主張自体も興味深いものだが、ここではむしろ、どうして新聞の編集者はこのような短縮をしたのかという問題に注目してみたい。単に紙面を節約し、また主張を明快にしようとしただけだとも考えられるが、それにとどまらず、攻撃的なアジテーションを好み、それに沿ったものに改変しようという意図があったと考えることも可能である。あるいは、両方の要素がいりまじっていた――後者についてはそれほど明確に意識されないが、あることはあった――ということなのかもしれない。これは「プラハの春」の最中のことだったということを想起するなら、改革運動の推進者にも一種独自の「政治的思惑」があったということになる。
〈ソ連介入の直後〉
占領直後の七日間の抵抗について、次のような叙述がある。「幸福とよく似たある種の興奮状態」「憎悪に酔いしれたお祭り」「でもどのようなお祭りも永遠に続くわけにはいかない」(三二‐三四頁)。「単に悲劇であったばかりでなく、不思議な(そして、けっして誰にももう説明できないような)幸福感に満ちた憎悪の祭典でもあった」(八〇頁)。
占領という悲劇について、そこに「幸福」「祭典」の要素があったと指摘するのは、意地悪い見方ともいえる。もし部外者がこういう言い方をしたら、強く反撥されるだろう。にもかかわらず、そういう要素があったことは事実だろうし、当事者がそれを指摘するのは重い意味をもつ。その「興奮状態」が長続きせず、退潮していったことの指摘も同様である。
ロシア・ポーランド文学者の沼野充義が「『かわいそうな小国』なんていらない」というエッセーで書いていることをこれに重ね合わせることもできよう。沼野は高校時代にソ連のプラハ介入にあったとき、当然の反応として、「何と東欧はかわいそうなんだろう。ソ連は横暴なんだろう」と感じたが、やがて、そのようなありきたりの反応を超えて、「小国」をその醜さやしたたかさも含めて、内側からとらえることの必要性を認識するに至ったと書いている(2)。「何と東欧はかわいそうなんだろう。ソ連は横暴なんだろう」というのは、一見東欧に共感しているようでありながら、実は、内面的理解という厄介な手続を省いて、キャッチフレーズ的・政治スローガン的な理解に安住していることのあらわれなのである。
同様に、トマーシュが窓洗いになった直後には、まだ「連帯の幸福感のようなもの」という感覚があったので、人々は彼を暖かく取り囲んだ。「それは壮大なる休暇であった」(二二七頁)。もちろん、このような状況も長続きせず、消滅していく(二七〇‐二七一頁)。
このようにみるならば、ある意味では、ソ連軍占領とあからさまな暴力支配の時期――それは同時に反抗意識高揚の時期でもあった――よりも、その後の醒めた時期の方が辛い状況だったといえよう。とはいえ、そうした反抗意識と連帯感の退潮もまた、人間の弱さに由来するやむを得ないものとして受けとめられており、単純に弾劾されてはいない。
本書の基調の一つは、このような「弱さ」への理解にあるように思われる。一例として、六八年八月末にモスクワからプラハに帰ってきたドゥプチェクの描写がある。その姿は疲弊、妥協、屈辱によって特徴づけられている。「声をつまらせ、肩で息をしたので、センテンスとセンテンスの間に三十秒も続くかという切れ目が数限りなく繰り返された」。当初は、その弱さが人を怒らせたが、後で考えると――作中ではテレザにとって――弱さが理解できる。ここには、他者(ドゥプチェク)の弱さへの糾弾ではなくて、自らが弱者に属することの確認がある(三四、八五‐八七頁)。
これもテレザについてだが、次のような叙述もある。「めまいを弱さからくる酔いと名付けることもできよう。人間が自らの弱さを意識すると、それに立ち向かおうとはせずに、むしろ服従しようとする。自分の弱さに酔いしれ、もっと弱くなりたがり、みなの見ている前で、広場の真ん中で倒れたくなり、下にいたいと欲し、下よりさらに下に行きたいと望む」(九〇‐九一頁)。
弱さというものは、政治家にとってはいうまでもなく大きな欠点である。しかし、人間的にはむしろ共感を呼ぶものでもある。弱さ故に屈服した人間は、政治的には非難される。しかし、そのように非難する資格をもった人間はどれだけいるのだろうか。そうしたことを考えさせられる。
〈「正常化」期〉
「プラハの春」へのソ連軍の介入から五年もたつと、当初の雰囲気――前述の「幸福とよく似たある種の興奮状態」――とは違った状況になった。そういう状況の中での寒々とした人間関係の描写がある(二六六‐二七一頁)。これは、日本でいえば、一九六〇年代末の大学闘争――「プラハの春」とも時代を同じくしていた――から数年たって、「正常化」が進行した後の状況に似ている。かつての高揚感の記憶をもつ人は、その鎮静後の状況の中で、寂しさの感覚、そしてそれと同時に、「でも、こうなるしかないんだ」という諦念をいだくしかないのだろうか。もっと後の例を挙げるなら、一九八九年前後のソ連・東欧の市民運動高揚期と脱社会主義進行の九〇年代の状況の間の落差についても、おそらく同じことがいえるだろう。
それはさておき、この時期に特徴的なこととして、秘密警察の手法についての興味深い描写がある。秘密警察が反体制派の会話の盗聴テープを公表し、反体制派が仲間の悪口をいったり、下品な言葉を使っていることを暴露して、彼らへの幻滅をあおるというのである。ここには注目すべき点がいくつかある。先ず、「秘密警察」でありながら「秘密」行動に徹するのではなく、自らの盗聴を大っぴらにするという特異性がある。そして、その宣伝の重点は、反体制派の主張の内容ではなく、人格の下劣さ(仲間割れ、下品さ)を強調して、彼らをおとしめるという手法にある。この手法が有効なのは、大衆は、秘密警察を嫌っているにもかかわらず、他面で、そうした暴露を熱心に聞き、仲間の悪口をいうような反体制派を非難したからである。人が自分の友人の悪口をいうのはよくあることだが、そうした欠点を反体制運動の闘士がもっていることが暴露されると、彼らへの有効な打撃になるのである(一五三‐一五五頁)。
秘密警察の方法は次の三つにまとめられている。@古典的な隠密裡の情報収拾、Aむしろ公然と振る舞って脅す、B反体制派の主張ではなく、その行状を暴いて、道徳的に評判を落とさせる(一八八‐一八九頁)。こうした方法をとる点では、おそらくソ連その他の国でも基本的には同様だろうが、チェコスロヴァキアの方が洗練度が高かったようにみえる。これは、より精緻で本格的な「全体主義」といえなくもない(3)。
トマーシュが六八年の論文を撤回するように上司からいわれたときの周囲の反応の描写も、きわめて興味深い。二つのタイプに分けて書かれているが、その第一のタイプは、自分も屈服したので、トマーシュも屈服することを期待するというものである。「売春宿で鉢あわせをした二人の男のてれ笑い」、「二人の恥ずかしさがお互いさまであることを喜び、その二人の間には何か兄弟に似たようなつながりが生ずる」。他方、第二のタイプは、自分は屈服を拒否したが、それに伴う名誉を「特別の特権」だと考えるので、トマーシュが屈服することを秘かに期待する。というのも、臆病者が多くないと、自分たちの勇気が際だたないからである。結局、どちらのタイプにしても、トマーシュの撤回を期待するという点では一致したということになる(二〇六‐二〇九頁)。
〈フサーク時代の反体制運動〉
トマーシュと前妻の間に生まれた息子が、新聞編集者と連れだって、政治犯恩赦要求の声明書にトマーシュも名を連ねるようにと要請する(これは、「憲章一九七七」ないしその先駆だろうか)。どのような方向のものであれ、声明に名を連ねるようにと要請するのは一種の脅迫であり、「赤軍に入れ」というのと同質のものである。断わると怯懦のあらわれとみなされるからである(二四三‐二五六頁)。ここに示されているように、本書は、反体制運動を英雄視したり、美化したりする書き方をしていない。むしろ、その中に、体制側と類似の「政治の論理」が作用していることを鋭く嗅ぎつけている。それでいて、「どっちもどっち」と、中立を決め込むのではなく、反体制運動がそうした性格を帯びざるを得ないのは体制の論理の反映であることを見抜いてもおり、そのことへの深い悲しみの感覚を湛えているように思われる。
息子がもってきた声明書は、政治犯恩赦に役立たなかったばかりか、当局が新たな弾圧を開始するきっかけを与えたという意味で、当局にとって「棚からぼた餅となった」。だとすると、署名するのとしないのと、どちらが正しかったのか、という苦い問いが生じる。「この問いは次のように定式化することもできよう。大声でどなり、自分の終末を早めるのがいいのか?それとも黙って、ゆっくりした死にいたるほうがいいのか?/この問いに対してそもそも答えが存在するのであろうか?」(二五八頁)。
この問題を一般化すると、ただ一回しかない選択について、どれがよかったかという判断はそもそも可能なのか、ということになる。一六一八年にチェコ人はウィーンの支配者に反逆を起こすべきだったか(三〇年戦争の開始)とか、一九三八年のミュンヘン会議(英仏がナチ・ドイツのチェコスロヴァキア併合を容認)の後にチェコ人は独力ででもナチ・ドイツと闘うべきだったか、といった問いも、みな同様である。もしも歴史の繰り返しが可能なら、同じ状況での異なった選択の結果を比べて、どちらの方がよかったのかと考えることもできる。しかし、「このような実験がないなら、あらゆる考察は単に仮説の遊びに過ぎない」(二五九‐二六〇頁)。
政治好きの人は、それでも、「あのとき、ああするべきだった」「自分だったらこうする」などと論じる。シミュレーションなどというのも、その一つである。しかし、シミュレーションが確率論に基づいており、確率論が有効性をもつのは同種のことが何回も繰り返される場合だ(「大数の法則」)ということを思い起こすなら、一回限りの選択について、そのような議論は無効である。そして、人生とはそもそも一回限りのものなのである。
署名活動自体についていえば、それが政治犯釈放に役立たないことは自明だった。「やったことは芝居でしかなかった。でも他の可能性はなかった。行動か芝居かの選択はなかった。選択できたのは、芝居をするか、何もしないかであった」。(三〇九頁)。
ここにも、異論派運動の無効性に対する醒めた認識がある。一九七〇年代の異論派運動を一九八九年革命の先駆とする過大評価が一部にあるが、実際には、少数の例外を別にして、異論派運動は大衆的影響力をもたず、現実政治的効果をもたなかったというのがリアルな認識だろう。変動はゴルバチョフによって「上から」――そして東欧諸国にとっては「外から」――もたらされたのである(もちろん、東欧内部での改革の動きもあったが、その拡大を可能にしたのが「外から」の状況だったという意味で)。
しかし、他方では、「無効であっても、それでもその行動をするしかない」という状況への共感をもった理解も、ここには示されている。これはもっと広くいうと、マックス・ウェーバーの「心情倫理」と「責任倫理」という問題につながるだろう。政治学者は、効果を生みだし得ないヒロイックな行動は単なる心情倫理に過ぎず、無責任だと批判する。それはそれ自体としては正しい。もし、「効果をもちえないヒロイックな行動か、より効果的な政治行動か」の選択肢が与えられているなら、後者を選ばずに前者を選ぶ者は批判されても仕方ないだろう。しかし、そうした選択肢が与えられておらず、「効果をもちえないヒロイックな行動か、さもなければ無行動か」という選択しかないならば、どうだろうか?そのような苛烈な状況があり得るということを想像できず、安楽椅子にすわりながら、「ヒロイックな行動は心情倫理に過ぎない」といった御託宣を並べるのは空しい業ではないのか、という気がしてならない。
〈ヨーロッパにおける亡命チェコ人〉
亡命者たちの間での「誰が本当に反体制だったか」の詮議は、共産政権下での忠誠チェックと似ているという指摘がある。また、反体制のリーダーが人に指図しようとする態度は共産党のリーダーとよく似ている。そのことをあえて指摘して人々を困惑させたサビナは、裏切り(=隊列を離れること)に惹かれ続けてきたのだった(一〇六‐一〇七、一一一‐一一四頁)。
「イタリアやフランスに住んでいる人たちは簡単である。両親が教会に通うようにと強制したら、党(共産党、毛沢東主義、トロツキスト、その他)に入ることで、仕返しすればいい。ところが、父親はサビナを先ず教会に送り込んでおきながら、その後で青年共産同盟へ通うようにと、恐れから強制したのである」(一一五‐一一六頁)。
パリで学生たちが、ソ連のプラハ占領に抗議するデモをしているのを見たとき、サビナは、「そのスローガン〔「ソビエト帝国主義反対」〕は彼女の気に入ったが、しかし、突然彼らと一緒にそれを叫ぶことができないことに気がつき驚いた。彼女はほんの二、三分で行進の中にいることがいたたまれなくなった」。この感覚はフランスの友人には理解されない。共産主義とかなんとかではなく、「こぶしを上に突き上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列」がいやなのだが、そのことは理解され得ないのである(一一七‐一一八頁)。
この個所は、私にとっては特に印象深い。東欧社会主義圏崩壊後の今日、ますます、「共産主義の虚偽」「全体主義の恐怖」をスローガン的に叫ぶ風潮が強まっており、それに同調しない人は、あたかも「今なお古くさいマルクス的教条にとらわれている哀れな時代遅れな人間」と見られがちである。そうではなくて、「共産主義的スローガンも嫌いだが、反共主義的スローガンも同様に嫌いだ」という人の感覚はなかなか理解されないという状況が存在している。
サビナにとって何よりも受けいれがたいのは「キッチュ(俗悪なもの)」である。この「キッチュ」という言葉は、本書の一つのカギのような役割を与えられているが、本書の叙述では、「すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界」の美的理想のことだと説明されている(二八八頁)。
「共産主義に対するサビナの最初の内的な反乱は道徳的な性格を持つものではなく、美的な性格を持つものであった。彼女を不快にしたのは共産主義社会の汚さ(中略)よりもむしろ、共産主義社会がつけていた美の仮面、いいかえれば、共産主義の俗悪なもの(キッチュ)だった」。同様のキッチュは社会主義国だけでなくアメリカにもある。「芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!」と感激し、「芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!」と涙を流すことこそがキッチュである。「世の中に政治家よりこのことをよく理解している人はいない。政治家は身近にカメラがあると、すぐ一番近くの子供に駆け寄り、その子を高く持ち上げて、頬にキスをする。俗悪なもの(キッチュ)はあらゆる政治家、あらゆる政党や運動の美的な理想なのである」(二八七‐二九一頁)。
私はこれを読んでいて、ずっと前に読んだ倉橋由美子の小説『パルタイ』の一節を思い起こさせられた。『パルタイ』の主人公が逮捕されたときに警察に抵抗して指紋をとらせまいとしたのは、政治的確信からというよりも生理的な嫌悪感からだったのだが、釈放後、同志である恋人はそれを政治的確信の強さと受け取って賛美する。それに対して主人公は、強い違和感をいだき、離党を考え始める、という一節である。
元に戻ろう。ソビエト映画は現実離れした理想を描いていたが、サビナにとって問題なのは、単なる理想と現実の不一致ではなかった。現実が醜いことはまだしも我慢できた。むしろ、映画のような理想(キッチュ)が現実となったら、その方が耐えがたかったろう(二九二‐二九三頁)。こうしてサビナは、「私の敵は共産主義ではなくて、俗悪なもの(キッチュ)なの!」と叫ぶ(二九五頁)。
このようにキッチュを敵視しながらも、サビナは同時に、自分自身の中にもそれがないだろうかと問うことを忘れない。「俗悪なもの(キッチュ)は嘘と見破られる瞬間に、俗悪(キッチュ)でないもののコンテキストの中へ入り込む。そうして(中略)、他の人間の弱さがどれもそうであるように感動的なものとなるのである。われわれのうちの誰もが、俗悪なもの(キッチュ)から安全に逃れられる超人ではない。たとえわれわれができる限り軽蔑しようとも、俗悪なもの(キッチュ)は人間の性(さが)に属するものなのである。」(二九五‐二九七頁)。
これも深い洞察である。政治家や政治学者がキッチュそのものに安住することが多いのに対し、芸術家気取りの人は、しばしばそれを批判することで、自らはそこから免れると錯覚する。これに対し、誰もがそこから免れないと自覚し、その弱さに暖かい眼差しを注ぐのは、稀有のことに思える。
〈西欧左翼知識人と政治〉
あらゆる隊列に反撥するサビナに対し、その恋人フランツは、若い頃から学者とみなされていたので、そのことに反撥し、大学から街頭に飛び出してデモに参加することに惹かれていた。オフィスや図書館での孤独な仕事は本物の生活ではなく、仲間たちとともにパレードに参加することこそが現実だと思い込んだのである。フランツは先ずキューバ、次いで中国に惹かれ、それらに幻滅した後、仕方なく大学教授になった。そこへ、チェコスロヴァキアからの亡命者としてサビナがあらわれた。「はるか昔に革命の幻想も消え失せてはいたが、それでも、もろもろの革命に際してフランツが賛嘆してやまないもの、つまり大いなる危険や、勇気や、死の恐れの中での生活が残されていた国からやってきた」ので、彼は「サビナの姿に彼女の国の痛々しいドラマを重ね合わせ」て、彼女に惹かれた。「ただサビナはそのドラマを愛していなかった。監獄、迫害、禁書、占領、戦車という言葉は彼女にとっては汚いことばでいささかのロマンティックな香りもそこにはなかった」(一一六‐一一七、一二一頁)。ここには、二人のスレ違いと相互理解不能性が見事に描かれている。
読者である私としては、フランツ的感覚とサビナ的感覚の双方に共鳴するものがある。自分自身の成長過程としてはフランツと共通する要素が多く、彼の感覚はよく分かるが、それがチェコ人自身とはスレ違っており、サビナにとっては苛立たしいものでしかないということも分かる。私の政治=キッチュに対する感覚がサビナのそれと似ているためだろう。
フランツはその後も左翼であり続ける。左翼とは、あれこれのスローガンや政策のことではない。「左翼の人間を左翼の人間たらしめているのは、あれやこれやの理論ではなく、どのような理論をも大行進といわれる俗悪なもの(キッチュ)の一部分にしてしまうその人間の能力である」(二九八頁)。
フランツはカンボジアへの行進に参加する。当時カンボジアはポルポト政権による大虐殺の後、ヴェトナムによる占領を経験していた。隣の共産主義国による占領という点で、一九六八年のチェコスロヴァキアを思い起こさせたので、サビナのことを忘れられないフランツはこの行進に参加することにしたのである。医師団のカンボジア入国を要求し、タイからカンボジア国境に向かった行進はフランス人が組織したものだが、アメリカ人が多数参加し、アメリカ人とフランス人の間で争いが起きる。アメリカ人にとってこの行進は、アメリカの正義、共産主義の不正義を示すものである。これに対し、フランス人参加者は左翼であって、ソ連には反対だが、「共産主義反対」と叫ぶことはできない。「カーター大統領」「共産主義の野蛮さ」という決まり文句はアメリカのキッチュであり、大行進という行動様式はフランス左翼のキッチュである。いずれにせよ、この行進は何の結果も生まずに終わる(二九八‐三一〇頁)。
「アメリカの正義」を素朴に信奉するキッチュと、それに反撥して左翼的政治活動を続けるもう一つのキッチュ、その両方への視線は辛辣である。こうして、本書では、「プラハの春」圧殺後のチェコスロヴァキアの憂鬱な状況と並んで、西欧左翼知識人の一典型としてのフランツの人間像も、皮肉まじりにではあるが、ヴィヴィッドに描かれている。私は、前者に強い関心を引かれると同時に、後者にも、自己の戯画像を突きつけられる思いがして、他人事ではいられない。「社会主義」がもはや知識人の胸を騒がすものではなくなった今日、若いインテリの卵たちは、この状況を理解できるのだろうか。
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さて、何個所かで、政治および政治学への違和感を書いてきた。私がこのような作品に共感するのは、私の基本的な発想が政治(学)的でなく文学的だからなのだろうか。ともかく、ここに表現されているのは、特定の政治形態(共産政権)に限らず、〈政治なるもの〉一般がキッチュと受けとめられるという感覚である。
しかし、他面、政治が人間の生活をいやおうなしに規定してしまうことも事実である。早い話、クンデラが世界的に有名になったのも――本人の意思とは別に――東欧の政治的変動に負っている面があることは否定しがたい。もし著者が「共産主義に抵抗した英雄」という形でもてはやされるとしたら、それはまさにキッチュそのものだが、それから逃れることは至難である。そうしたことを考えるとき、政治から単純に目を背けることで自己満足にひたっているわけにもいかない。私が政治にも政治学にも違和感をいだき続けながら、職業的に「政治学者」であるのをやめていないのも、そうした感慨によるところが大きい。
「ビロード革命」により、クンデラの作品も本国で刊行されるようになった。著者と同様に反体制的な文学者だったハヴェルは、大統領(先ずチェコスロヴァキアの、次いで分離したチェコの)になった。その限りでは、彼らを抑圧していた元凶が打倒されて、彼らが勝者となったかの如くである。しかし、体制転換後の中欧諸国は、別の形のキッチュのただ中にある。共産主義への違和感がサビナと同様のものである場合、一九八九‐九〇年の共産主義政権崩壊を単純に喜ぶことはできない。この状況を今日の著者はどうとらえているのだろうか。
(1)本書が書かれた当時、まだチェコとスロヴァキアは分離していなかったので、「チェコ」という国はなく、存在していたのは「チェコスロヴァキア」という国である。日本では、この長い名称を略して「チェコ」と呼んだり、その国民を「チェコ人」と呼んだりすることが多かったが、これはスロヴァキア人の存在を無視した不正確で無神経な言葉づかいだった。とはいえ、民族名としては、「チェコスロヴァキア人」という民族が存在するわけではなく、「チェコスロヴァキア国民」は「チェコ人」と「スロヴァキア人」とからなっていたわけである。本書では、登場人物の民族帰属については特に説明されていないが、主たる舞台がプラハであること、著者がチェコ人であることから、おそらく皆チェコ人であろうと判断し、「チェコ人」と書くことにした。国名については「チェコスロヴァキア」と書き、それを「チェコ」と略すことはしない。
(2)沼野充義『スラヴの真空』自由国民社、一九九三年、所収。
(3)この小文よりも後に書いた『現存した社会主義』勁草書房、一九九九年で、私は純粋な「全体主義」そのものは地上に実現し得ないとしつつも、チェコスロヴァキアでは「全体主義」的統治が相対的により徹底的に貫徹したようにみえると書いたが(二三八頁)、それはこのような感想に基づく。
*ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳、集英社、一九九三年(原著は一九八四年、邦訳の最初の版は一九八九年)
(一九九五‐九六年)