クチンスキー『クチンスキー回想録、1945-1989、正統派の異端者』
 
 
 クチンスキーという(旧)東ドイツの経済学者の名前は、おそらくいまの若い世代にはあまり広く知られてはいないだろう。私のように、東ドイツ専門ではないまでも(旧)社会主義圏を研究対象とし、世代的にももはや若くない人間でも、クチンスキーの名は「一応は聞いたことがある」という以上のものではなかった。著作を読んだこともなく、ただごく漠然と、東ドイツを代表するマルクス主義経済学者なのだから、要するに教条主義の系列に属する人だろうという先入観をいだいていた。
 もっとも、西ドイツ(統一前の)の研究者の間でもクチンスキーにはそれなりに敬意が払われているらしいという話を聞きかじることもあったし、日本のドイツ研究者――それも東ドイツべったりではない――の言及の仕方からも、「教条主義者」のわりには比較的柔軟で、幅の広い人らしく、単純に馬鹿にすることもできないらしいという程度のことは知らないではなかった。それにしても、大分古い世代に属する(一九〇四年生まれで、第二次大戦以前から多くの著作を出していた)ということから、「過去の人」というイメージが強く、ドイツ経済史を専攻しない人にとっては敢えて強い関心をもつ必要もないという風に思われた。
 そのクチンスキーが、ベルリンの壁崩壊とドイツ統一の後まで生き延び、一九九二年に、直訳すると「路線に忠実な異端者(あるいは異論派)」というタイトルをもつ回想を書いた(邦訳は一九九八年刊)。八〇歳過ぎまで忠実な正統派とみなされていた人が、実は内心では「異端(ないし異論)」をいだいており、そのことを、九〇歳を目前にする時期になって回想として公表したという事実自体に、先ずもって興味を引かれた(1)
 
     一
 
 表向き「正統派」として振る舞い、世間からそのようにみなされていた人が、実は秘かな異端ないし異論を懐いていたということは、一見逆説的ではあるが、実はそれほど珍しい現象でもなければ、驚くべきことでもない。ある程度以上大きな規模の組織というものは、ほとんど必ずそうした存在を抱え込んでいるとさえいえる。私は、若い頃は物事を額面通りに受け取りがちな性向をもっていたため、ルースな組織ならいざ知らず、強固な理論体系と組織原則をもった党に属している人たちはみな固い意志一致をもっているはずだと暗に想定していた時期があった。だが、それが現実離れしていることを知ってからは、むしろそうした外観の陰にある「秘かな異端」という現象に強い興味をいだき続けてきた。
 こうした現象は、共産主義組織において特に著しいかもしれないが、広く考えるなら、それ以外にも同様の例は少なくないはずである。キリスト教その他の教会組織にも類似の例があるだろうし、ナチズム体制のもとで体制に協力しながら抵抗をしていたとされる指揮者のフルトヴェングラーの例も有名である。あるいはもっと散文的で、日本人にとって身近なところでは、官庁・企業などの組織への強い忠誠心と一体化が要求される日本社会では、表向きそうした組織の忠実な構成員として振る舞いながら、たまに「裃を脱いだとき」に、自己の属する組織への憤懣を吐露するというようなことはごくありふれた現象である。
 やや話を広げすぎたが、ともかく、「体制内での異論」あるいは「協力しながらの抵抗」という現象は、広く解釈するなら、それほど特異なものではない。そして、それをどのように評価するかについても、いろいろな見方がある。これを高く評価する人は、「正面からの英雄的抵抗はただ格好いいだけで、実際には無意味な玉砕にしかならない。むしろ体制内抵抗の方が、地味ではあるが、はるかに実効性があり、粘りと努力を要する、真の抵抗だ」というように考えるだろう。他方、もっと辛い評価をする人は、「体制内抵抗などといっても、所詮は体制への協力ないし共犯の一形態に過ぎず、たまたま恵まれた位置にあるために多少のわがままが権力によって許容されていたに過ぎない。そうしたわがままによって何らかの人を保護することができたとしても、それは要するに、共犯者が自分の共犯性を押し隠すイチジクの葉でしかなく、なまじ自分は他の人よりも良心的だと思いこむ分、一層悪質だ」というかもしれない。
 私としては、そのどちらの見方が正しいのかと問うよりも、そのように異なった評価がともに成り立ち得るという事実そのものに、先ずもって興味を引かれる。それは知的興味でもあるが、それだけというわけではない。私自身は、個人的には「英雄的行為」とはおよそ縁遠い臆病な人間であり、もし「悲劇の英雄として死ぬか、臆病者として生き延びるか」という苛烈な選択を前にしたら、どう転んでも前者を選ぶことはできず、それがよいか悪いかを考える以前に後者の道を歩んでしまうだろうと常日頃考えている人間である。だからこそ、そうした選択が一体どういう意味をもつのか――臆病は卑劣以外の何ものをも意味しないのか、それともそういう生き方にも何らかの積極的意味をもたせうるのかという問いを、自分自身にとって抜き差しならぬものとして突きつけずにはおれないのである。
 いま述べたことと関係するが、私は、歴史の中心的担い手となるような「大物」の政治家よりも、むしろ歴史に翻弄されるような「小物」の存在とその運命に強く惹きつけられる。かつて私は、「トロツキー暗殺者の肖像」という小文を書いたことがあるが(『終焉の中のソ連史』所収)、その中で、ヒーローもしくはアンチ・ヒーローとみなされるトロツキー、スターリン、ブハーリンといった「大物」よりも、そのどちらにもなれない「小物」としてのトロツキー暗殺者とその家族に関心を示して、次のように書いた。
 
 「暗殺されたトロツキーは、肯定的に評価するにせよ否定的に評価するにせよ、イデオロギーや組織を自ら形成する側の人間だったが、そうした立場に立つ人間はいつの世でもごく少数である。社会主義にかかわりあいをもった人々の圧倒的多数は、歴史に翻弄される側の人間だった。トロツキーやブハーリンのような『大物』の名誉回復にもそれなりに意味があるだろうが、私の関心をより強く引くのは、このような歴史に翻弄された人々の運命である」(2)
 
 「歴史に翻弄された人々」は無数におり、そのすべてを歴史研究の対象として取り上げるということは到底できないし、そもそもそれらの人の圧倒的多数は痕跡を歴史に残さないまま闇に飲み込まれていくから、統計的・社会学的対象としてはともかく、個人史に即した形で歴史研究の対象にすることは極度に困難である。しかし、比較的有名な人物として名を残している人たちの中でも、「歴史をつくりあげようとする主体(3)」と区別される「歴史に翻弄される側の人」の方に相対的に近い人を想定することはできるだろう。ソ連の歴史の中で例示的にいえば、一九二〇年代の教育人民委員として文化政策に責任を負ったルナチャルスキーとか、レーニン死後その未亡人として長く生き続けた教育学者のクループスカヤとか、ソヴェト政権とつかず離れずの立場をとり、やがてスターリンと協力するに至った(しかし実はスターリンと背後で対立していたという噂もある)文学者ゴーリキーなどといった例が挙げられる。
 ルナチャルスキーとかクループスカヤとかゴーリキーといった、いわば「二線級の」人を対象に取り上げる論者はしばしば、彼らのことを、スターリンの犯罪に加担しておらず、革命の当初の理想を維持した優れた個性という風に描きがちだが、私が彼らの運命に関心を寄せるのはそれとはやや異なる。仮に彼らがスターリンの犯罪に関してあまり「手を汚さずに」済んだとするなら、それは、彼らが政治の最前線に立たなかったおかげだ――こういう風にいうと彼らにとってやや酷な言い方になってしまうが、それでもそうした側面が厳然としてあることは否定しがたい。そのことを念頭におくなら、彼らを理想化して「悲劇の英雄」と描きだすのは現実離れのそしりを免れない。他面、私は、彼らを所詮スターリンの手先と同列でしかないとあっさり片づける気にもなれない。高邁な理想の保持者、悲劇の主人公という風に美化するのでもなく、かといって、ありふれたスターリン主義者と同じ穴の狢だとしてあしらうのでもなく、まさしくその両方のとらえ方が可能であるところに、「歴史に翻弄された人間」としての運命の苛烈さと哀しさとが象徴されているのではないかと思う。
 後年の文化人の例としては、フルシチョフ期以降、常に体制内にいながら、そこで許容される範囲内での「批判精神」を代表していた詩人エフトゥシェンコを思い出すこともできるし、作曲家ショスタコヴィチなどは一体「忠誠」だったのか「異端」だったのかがいつまでも争われるような存在である(4)。あるいはまた、かなり事情が異なるが、政治家の補佐官を勤めながら「体制内改革」の提言を試みていた人として、フルシチョフのゴーストライターを勤めたブルラツキーとか、ブレジネフのゴーストライターだったボーヴィンとかの例を考えてもよい(ここで政治家のゴーストライターの例を挙げるのは、本書の著者クチンスキーも、まさにそのような役割を演じていたことが本書に描かれているからである)。これらは、思いつくままにほんのいくつかの例を挙げたに過ぎず、まだいくらでも同様の例を増やすことはできるだろう。
 突飛なようだが、私自身も、ある程度彼らと似たような境遇におかれる可能性があったかもしれないなどと考えることもある。現在の日本では、革命とか社会主義政権樹立ということは想像するのも困難であり、クチンスキーと似たような状況に誰かがおかれるということもなかなか想像しにくいが、ある時期までの日本では、社会主義革命ということが、ともかくもある範囲の人々の間では真剣に考えられていた。私自身もその一人であり、かつてそうした運動の中にいたということが、本書のテーマを私にとって身近なものとさせたということは紛れもない事実である。私もまた、クチンスキーとは大分違うが、運動に参加していた頃から、実践活動よりも理論に惹かれがちな「学者タイプ」の人間だったから、「革命運動の中にいる、やや異質な人間」という役回りは、私にとってそれほど想像困難なものではない。
 クチンスキーは本書で、東ドイツの政治体制の中における自分の位置について、「道化の自由」という表現を使って説明している(三四四頁)。もっとも、そのことの意味はあまり詳しく敷衍されていない。私自身はヨーロッパ史にあまり通じているわけではなく、かつての宮廷における「道化」の役割については、漠然たる想定をすることしかできないが、おそらくは次のような事情が考えられるだろう。専制君主のもとにあっては、臣下たちは、少なくとも表向きは君主への絶対服従を誓わねばならず、不忠あるいは不謹慎な言動を宮廷でとることは滅多にあり得なかっただろうが、例外的にそれが許されていたのが、宮廷付きの道化だったのだろう。道化は、宮廷の中で異例に「自由な」振る舞いをし、君主に対して礼を失するかにみえる言動も許された。それはもちろん、制約のない「自由」ということではなく、道化という特殊な役割の人――決して政治的野心をもつはずがないとみなされている人でもある――だけに与えられた特別の条件であり、それは体制にとってある種の安全弁としての役割をも果たしていた。道化が君主を虚仮にするようなことをいうとすれば、それは君主の権威を落とすのではなく、むしろ君主の寛大さを印象づけ、ますます君主の権威を高めるという目的のためにこそ許容されたはずである。しかし、クチンスキー自身の捉え方はやや異なるようにみえる。むしろ、「道化の自由」に積極的・進歩的な役割があると信じたいという風情である。この点については、この小文の後の方で立ち返ることにしよう。
 
     二
 
 前置きが長くなったが、本書の感想に入ることにしよう。先に書いたように、私のクチンスキーへの関心は元来はあまり高くなかったが、書店の店頭で本書の標題を見たとき、彼もまた「秘かな異論派」あるいは「歴史に翻弄された人」の一人だったのかという思いを掻きたてられた私は、かなり強い興味をそそられた(もっとも、実際に読んだのは刊行直後ではないが、常日頃、あまり新刊書を追うことに力点をおかず、旧刊書を読む主義の私にとっては、これは珍しくないことである)。そうした事情で手を伸ばした以上、「教条主義者」という先入観を振り払い、むしろかなり大きな期待感をもって読み始めたのだが、実際に読んでみると、やや期待はずれの感を懐かないわけにはいかなかった。ある本を読んで、なぜそれが期待はずれだったかの理由を書くというのは、通常はあまり積極的な作業ではないが、本書の場合、それを多少なりとも突き詰めて考えてみることも、全く無意味ではないように思える。
 先ず指摘せねばならないのは、本書には、「戦後東ドイツ史の裏面」のようなものがそれほど詳しく描かれてはいないということである。著者が東ドイツの社会科学界の最高峰に位置したのみならず、政界とも太いパイプをもっていた――ウルブリヒト、ホネッカーという二代にわたる最高指導者は、ともに著者の個人的友人だった――という事情を念頭におくなら、本書を通して戦後東ドイツ史の一断面を理解したいという希望をもつことは、決して無理ではない要求のはずである。しかし、この期待はいくつかの理由によって裏切られる。
 著者は経済学者であると同時に歴史家でもあるはずだが、そのわりには、本書の記述スタイルはあまり歴史的ではない。七つの章は一応時代順の配列になっているが、それぞれの章の中では、時間的順序を無視して、いろいろな時期のことが順不同に並べられている。特に第五章は一九五九‐七〇年、第六章は一九七一‐八四年というかなり長い時期を取り扱っているが、その期間の中での様々な変化というものはほとんど無視されている。このような叙述スタイルでは、「ある重要人物の目を通してみた東ドイツ史」を読みたいという期待を満足させることはできない。
 本書で取り扱われている四〇数年間は、東ドイツに直接関わる事柄だけを挙げても、ドイツ民主共和国の創立(一九四九年)、一九五三年ベルリン暴動、「ベルリンの壁」構築(一九六一年)、西ドイツによる「東方政策」の展開(一九六〇年代後半)への対応、ウルブリヒトの失脚(一九七一年)、そして最終的には「ベルリンの壁」崩壊に至る大激動等々といった波乱を含んでおり、隣接するソ連や東欧諸国も含めれば、スターリンの死とスターリン批判、一九五六年のハンガリー事件、六二年のキューバ危機、六八年チェコスロヴァキアの改革運動とワルシャワ条約機構の軍事介入、八〇‐八一年ポーランドの「連帯」運動等々があった。そうした激動を著者がどのように受けとめながら生きていたかが詳しく描かれていたなら、たとえそれがあくまでも一個人の眼から見た側面だとしても、興味深い「歴史への証言」になっただろう。
 ところが、本書では、いま列挙した事件の多くについて、全くといっていいほど言及がない。ある程度触れられている場合にも、当時の著者がそれについて何を感じ、何を考え、どのように行動したかなどについての立ち入った記述はなく、ごくあっさりとした言及にとどまっている。本書への最大の不満はそこから来る。
 歴史的大事件について、簡単ながらともかくある程度言及している例としては、一九五三年ベルリン暴動についての叙述がある(九一‐九六頁)。それによるなら、当時の著者はブレヒトとともに「完全に党と国家の指導層を支持する側に立つ」という態度をとった。それは必ずしも指導者の個別的政策判断に賛成ということではない、と著者はいう。指導部内の意見対立についていえば、当時は情報が乏しかったので、回想執筆時点から振り返るなら当時の判断は間違っていたと考えられるが、それは別として、「自分がどちらの側に立たねばならないか」という根本問題に関する限り疑問の余地はなく、「現在の私の観点からしても」それは正しかった、というのが本書の記述である。
 ここに見られるのは、「個々の政策判断」と「根本的な立場」とを区別して、前者については様々な議論の余地があり、また時期によって考えが変遷することもあるが、後者については疑問の余地がないという考えである。このような区別により、著者は、「正統派」としての信念を守りながら、個別問題での異論を懐き続けることができたらしい。これはこれで一つの立場であり、全く理解不能というわけではない。しかし、この区別立てがどこまで維持されるのか、「個々の政策判断」での見解の相違や、「個々の指導者の誤り」があまりにも頻繁かつ大きなものとなるなら、それが「根本的な立場」の再考を促すことにはならないのか、という疑問が生じるが、そうした疑問は著者には無縁のようである。
 もっとも、著者は、一九五三年ベルリン暴動事件に続いて、五六年のスターリン批判にも触れ、自分の「『スターリン主義的な』見解に決定的な変化」が訪れたのは後者においてだったと書いている(九六頁)。これはかなり重要な告白であるかのようにみえる。自分がかつては「スターリン主義者」だったことを認め、それを自己批判するというのであるかにみえる。同じ個所には、「それはきわめて根本的な変化であった」という言葉もある。ところが、その「根本的な変化」なるものの内実は、本書ではとうとう明らかにされることがない。述べられているのは、自分はスターリン主義から訣別したが、大多数の政治家たちはそうでなかったという断言のみであり、それが具体的にどのような理論的・政策的含意をもつものだったかは展開されていない。
 その後の時期の歴史的事件についての叙述はもっと簡略になる。一九六八年チェコスロヴァキアについての簡単な言及(二一五‐二二〇頁)は、「プラハの春」への共鳴を明らかにしているが、それでいながら、軍事介入については、当初は「社会主義陣営の安全」の見地から支持したと述べられている。もっとも、少し後に見解を訂正し、「社会主義陣営の安全」の見地からしても侵攻は正当化できないと考えるようになったとも書かれているが、こうした見解の動揺が何に由来し、何を意味するかについての突っ込んだ議論はない。
 もっと奇妙なのは、著者自身が生きていた東ドイツに直接関わる歴史的事件への言及が更に乏しいことである。「ベルリンの壁」構築についても、西ドイツの「東方政策」への対応についても、全く触れられていない。ウルブリヒトの引退については、一言だけ触れられている(二六一頁)が、それはまさに一言だけであって、直接友人関係にあった最高指導部レヴェルの人事について、当時彼がどのように考えていたのかについての記述はいっさいない。
 古い時期については記憶が薄れているということもあるだろうし、政治指導部と妥協した苦々しい経験を思い出したくないというような事情もあるだろうが、では、本書中で最も新しい時期(一九八五‐八九年)を扱う第七章はどうだろうか。この時期までくれば、ソ連のペレストロイカに鼓舞されて、著者はより大胆になることができていたはずであり、記憶の新鮮さともあいまって、この大変動期の詳しい内幕が描かれているのではないかという期待感をもつことは、あながち過大な要求ではないはずである。ところが、この最終章は、確かにそれまでよりはやや叙述が詳しく、指導部批判がより強い調子になってはいるが、その批判の内容があまり具体的でなく、歴史全体の大きな動きとの関係が鮮明に浮かび上がらないという不満はこれまでの各章と変わらないのである。
 ここで私見を差しはさめば、ペレストロイカおよびその東欧諸国への影響は時間とともにエスカレートしたから、ゴルバチョフ登場直後の時期(一九八五‐八七年)と、ペレストロイカが本格化し、いよいよ東欧激動が奔流として起きる一九八九年頃とではかなり様相を異にするはずである。そして、後者の時期には、それまでの「体制内改革」の枠を超える質的な大変動が起きた以上、そこに読者の興味を最も強く引きつける新しい展開が叙述されていてもよいはずである。ところが、本章では、むしろゴルバチョフ初期により大きなスペースが割かれ、一九八八‐八九年についてはごく断片的な叙述しかない(5)。これは単なる叙述のスペースの問題ではなく、その間に大きな構図の変化があったということ自体が自覚されていないのではないかと思われてならない。クチンスキーはゴルバチョフ路線を「レーニン主義への回帰」(四一六頁その他各所)、つまりスターリン的歪曲から解放された本来の社会主義への復帰ととらえているが、これはゴルバチョフ政権初期については一応当たっているにしても、ペレストロイカが本格化して以降の時期については明らかな無理がある。本章の叙述が一九八五‐八七年くらいの時期を中心とし、その後のより大きな展開について詳しくないのは、クチンスキー自身がそうした新しい変化についていけなくなったからではないかという印象を否みがたい。
 
     三
 
 まるで「ないないずくし」みたいな感想になってしまったが、本書にもいくつか興味深い情報がないわけではない。特に、深い交友関係にあったソ連・東欧の知識人――中でも大きな位置を占めているのは経済学者のヴァルガ、哲学者のルカーチについての叙述である――に関するインサイド情報がそれにあたる。個別的な例だが、ソ連の有名な歴史家パンクラトワの死が自殺だった(一一六頁)というのは、私にとっては初耳だった。著者はまた、社会科学の世界にとどまらず、多くの文学者(ベルトルド・ブレヒト、アンナ・ゼーガースら)とも交流をもっており、そうした人間関係の記述もそれなりに関心を引くものである。とはいえ、こうした叙述も、そのほとんどは、「あの人は、馬鹿な政治家とは違って偉大だった」という類の感慨にとどまっており、その偉大さの所以、また政治家たちとの衝突の内実を解き明かす作業はなされていない。
 このように学者・文化人たちとの交流を暖かく振り返る一方で、著者は随所で政治指導部批判を書き並べている。その点がまさに「正統派の異端者」たる所以だということになるのだろう。しかし、政治家たちが愚かで、怯懦で、無能だということは繰り返し述べられていても、その原因についての解明はほとんどみられない。もしある体制が、最高レヴェルの政治指導者として愚劣で怯懦な人ばかりを大量に生んだとするなら、それは単なる偶然ではなく、体制自体に問題があったのではないかといったような省察は、本書には見つけることができない。問題点の「原因」らしきものに言及した稀な個所で、著者は次のように書いている。
 
 「根本的な原因をなしているのは、政治局の個々のメンバーにいたるまでの、行政の側の高慢ちきな態度と、年配のアカデミー会員たちの経験を軽視するような態度にほかならず、たとえばそれは、そうした会員たちが、いっさいの協議から排除されたということに、如実に表れている」(二三五頁)
 
 これが「根本的な原因」だというのである。あたかもすべては、政治局員を筆頭とする政治家・行政官たちの個人的・道徳的資質にあり、しかもその資質の低さは古参アカデミー会員たち――つまりは著者自身とその友人たち――の軽視というところに最も明白に表われているというのである。このような「解明」によってでは、体制の問題にメスを入れることなど、思いもよらないだろう。
 
     四
 
 体制の問題から、その中における著者の位置の問題に戻るとして、クチンスキーは本書でしばしば、「恩寵」と「不興」の間の往復ということに触れている。ある時期には著者は政治指導部の「恩寵」を受けていて、比較的自由にものをいうことができたが、別の時期には「不興」をこうむって、それを我慢しなければならなかったというのである。このような二つの状態の間の往復が、本書の内容の大半を占めているといってよい。あまりにも繰り返しこのことを書きすぎたことを本人も気にしたようで、序文で言訳めいたことを述べている。
 
 「要するに、私自身がその恩寵のもとにあったときには、果敢な批判を展開することができ、不興を蒙るにいたった同志たちに対して、援助の手をさしのべることがきわめて容易だったということであり、つまりは、彼らのために、上層部に対して私自身を利用することができた、ということである」(八頁)
 
 これはこれで理解できないことではない。この小文の初めの方で、ナチズム体制下のフルトヴェングラーの例を挙げたが、ある専制的・独裁的体制下で、たまたま恵まれた条件(国際的に有名な文化人とか学者であるというような)にある人が、その特権を利用して、自分よりも恵まれていないためにひどく迫害されている人を援助するというのは、そのような過酷な条件の下では、確かに称賛に値することである。強度に専制的な政治体制のもとでは、たまたま「恩寵」を受けた者だけがある程度の自由を享受することができ、「不興」のもとにある人は、自分がどうやって生き延びるかしか考えるゆとりがない。そのような苛酷な状況にある人に対して、「お前は専制君主の恩寵にばかりすがっていて、主体性が乏しい」などと偉そうなお説教をする資格は、少なくとも自分自身が同様の苦難を経験せずに「自由な」条件下でぬくぬくと暮らしている大多数の人には、ないはずである。
 しかし、これはその体制が強度に専制的な政治体制だという認識を前提した上での話である。クチンスキーはそういう認識を明確にもっているのだろうか。確かに、いま引用した序文の一節には、「封建的・絶対主義的な諸要素」という言葉も出てくる。しかし、そうした要素と社会主義とがどのような関係にあったかの解明はない。むしろ、本書の基調をなしているのは、あれこれの政治家・行政官たちの愚行にもかかわらず、基本的には東ドイツの社会主義体制は「進歩的」な体制だという信念――あるいはむしろ信仰――である。そのような信仰こそが著者をして、いかに「異論」を懐いていたにしても基本的には「正統派」たらしめていたのである。前の方で指摘したように、自分が享受した「道化の自由」を積極的なものとして意義づける発想は、おそらくこの点と関係しているだろう。
 
     五
 
 私は、この小文の初めの方で、「歴史に翻弄された人たち」ということを書いた。クチンスキーも、第三者的な観点からはそのような人たちの一人に数えられるかもしれないが、どうも、彼自身は自らをそのように位置づけていないようである。東独の政治家たちがあれほど愚かで無能でさえなければ、そしてクチンスキーや彼の同僚たちの意見をもっとちゃんと聞いてさえいれば、自分は歴史に翻弄されるどころか、それを積極的につくりあげる中心的主体になれたのに――そのような感慨が、本書には込められているように思われてならない。
 こういうわけで、私は、どうも著者のメンタリティーにあまり内面的な共感を懐くことができない。初めの方に書いたように、私自身、場合によっては著者と似たような状況におかれたかもしれないと想像することがある。その際、私は外面的行動としては著者と似たような態度をとるかもしれず、その意味で著者の行動を高飛車に非難することはできないとも思う。ただ、私なら、著者のように自分の信念や言行が正しいという強烈な自信――私の目からいえば過信――を懐くのではなく、もっと思い悩んだことだろう。本書に最も無縁なのは、そうした悩みであるように思われてならない。
 もっとも、ある本を読む価値は、その著者に内面的に共感できるかどうかだけで決まるものではない。たとえ個人的には共感できないにしても、このような人物がこのような体制の中に生きていたということ自体は、紛れもない歴史上の事実である。もはや国家そのものが消滅してしまったこの特異な体制の中で特異な役割を果たした人物のメンタリティーの特徴をよく伝えているという点では、本書はやはり一つの資料的価値をもっているというべきなのかもしれない。
 
(1)なお、本書は著者の回想の第二巻にあたる(第一巻は一九四五年以前を扱い、一九七三年に出た)が、著者はその後更に、回想の第三巻――ドイツ統一前後の時期を対象とする――を書き、一九九七年に九三歳で死去した(死後に回想第四巻が遺著として出た)という。
(2)塩川伸明『終焉の中のソ連史』朝日新聞社、一九九三年、二七〇頁。
(3)ここで「つくりあげようとする」という表現をとり、「つくりあげる」といわないのは、特定の人が文字通りの意味で「歴史をつくりあげる」ことなどあり得ないが、それでも、「自分はつくりあげる立場にある人間だ」という自意識をもった人たちがいるという事情を念頭におくからである。「大物」政治家や革命家はその典型だろう。
(4)大分以前に、『ショスタコーヴィチの証言』なる書物がアメリカで刊行され、邦訳もされて、かなりの注目を集めた(英語版は一九七九年、邦訳は中央公論社、一九八〇年、その後、中公文庫にも収録された)。この本自体はショスタコヴィチが書いたものではなく、偽書だということが今ではほぼ定説化している(ソ連・ロシア事情に通じない音楽関係者の間では、いまだにこれを本物と信じ込んでいる人も結構いるようだが)。しかし、偽書にしてもよくできた偽書であり、それというのも、当時のソ連の「体制内抵抗者」的なインテリたちの発言(ショスタコヴィチ自身のソ連の公刊物での発言も含む)をあちこちにちりばめて書かれているからである。その意味で本書は、ショスタコヴィチその人の内面を物語る「秘かに書かれていた回想」ではないにしても、ある時代のある社会集団の集合的心性を物語る興味深い一つの資料としての価値をもっている。
(5)やや事情を斟酌するなら、一九八九年については著者は既に本書の前に『困難な歳月』という本を書いているということであり、また本書の続編たる回想第三巻が一九八九‐九四年を対象としているということなので、それらの方でより詳しく論じられているから本書では敢えて簡略にしたということなのかもしれない。しかし、それにしても、ともかく本書の副題は一九八九年までをカヴァーする形になっており、現にごく断片的には八八年や八九年への言及もあるというのに、その言及の仕方は至って中途半端である。
 
*ユルゲン・クチンスキー『クチンスキー回想録、1945-1989、正統派の異端者』大月書店、一九九八年。
 
(二〇〇〇年二月)
 
トップページへ