堀田善衛『ミシェル 城館の人』
モンテーニュのエッセイを断片的に読みかじったのはいつのことだったろうか。今となっては記憶もおぼろだが、おそらく高等学校から大学初年にかけて位のことだったと思う。もちろん本格的に分かったわけではないが、漠然たる共感をいだいた記憶がある。とはいえ、それ以上つっこんで読もうと思うこともなく、長いことそのまま忘れていた。
そのモンテーニュについて堀田善衛が評伝を書いたのを知り(雑誌連載は一九八八‐九三年、単行本化は一九九一‐九四年)、旧友に久しぶりに会ってみたいという感覚に似た誘惑を感じた。この本はエッセイの解説ではなく、一種の伝記なので、これを読んだ上で改めてエッセイを読み返してみたい気も湧いてきたが、それはまだできていない。
私が本書に手を伸ばしたのは一九九五年夏のことである。その頃の私の心境は、ソ連解体後のロシアの混迷、日本における自民党一党支配体制終焉後のこれまた混迷という状況の中で、眼前で展開している政治をどのようにして観察すればよいのかが分からなくなったというのが率直なところだった。そこで、思い切って現代政治から離れて、一六世紀のモンテーニュが当時の政治にどのような態度で向き合っていたのかを知りたくなったのである。といっても、単純な現実逃避のつもりではなかった。モンテーニュという人は――具体的には、本書を読むまであまりよく知らなかったのだが――現実政治から縁遠いところで高踏的に思索を練ったり、批評をしたりしていたのではなく、極めて緊迫した政治のただ中におかれ、それにかなりの程度コミットしてもいたのである。何となく「穏やかで物静かな知識人」の典型であるかのような印象のある彼が、生臭い政治に対してどのように対処していたのか、それを知りたいという気持ちから本書をひもといたのである。
本書を読み、そしてこの小文を書いている一九九〇年代中葉現在、ロシアでも日本でも、次々といろいろな政治勢力が登場し、複雑な政界再編が続いているが、そこには、単なる剥き出しの権力闘争としての無原則な駆け引き以上のものがあるのかどうか、非常に疑わしい。一つの考えとしては、「単なる権力闘争としての駆け引きであってもいいではないか、競馬をみるのと同じ意味で、その駆け引きを楽しめばよいのだ」という考えもあり得る。しかし、私はどうもそこまでシニカルな見方には徹しきれない。
あるいはまた、「当事者は単なる権力を求めて無原則な角逐を繰り広げているだけであっても、長期的にみれば、その中から何か新しい秩序が結果的に形成されてくるのだ」という考えもありうる。確かに、政治秩序というものは、学者・思想家が考えるようなスッキリした形で生まれるものではなく、もっとドロドロした駆け引きの中から生まれてくるものだろうから、この考えは一般論としては正当なものである。ただ、そうした過程およびその帰結は、長い期間を経た後にはじめてみえてくるものであり、渦中の現在にはどうにも見定めがたい。いったん現状を離れて、遥かな過去に示唆を求めたくなったのは、そのような事情による。
モンテーニュの生涯は一五三三‐九二年であり、フランスの宗教戦争(ユグノー戦争)が一五六二年から九八年(ナントの勅令)まで続いたのと、時代的にぴったりと重なっている。今からみればはるかな昔であり、近・現代史よりも古い時代についてあまり勉強していない私にとっては、あまりなじみのない時代であるが、宗教戦争の凄惨さは本書を読めば否応なく伝わってくる。社会主義のイデオロギーは数多くの蛮行を生み出したが、キリスト教も、残虐行為の発生への荷担という点ではそれに劣らない。プロテスタントの登場も、元来はカトリック教会の腐敗を糾弾して、より高い精神性を説くことを原点としていたはずだが、現実には自ら政治化し、両派の激しい闘争の引き金となった。もっとも、宗教上の理念が直接に戦争を引き起こしたというわけではなく、本書の著者もいうように、「実態は明らかに王権をめぐっての内乱であり、宗教と信仰はその後について歩いていたのであった。口実でさえあった」(第一部、三二九ページ)。ただ、そのような「口実」とされることを許容し、「後について歩いた」限りでは、まぎれもなく宗教は共犯者だったのである。
これは、城館に閉じこもってひとり静かな思索生活を送りたいと願うような人にとって、あまりにも苛烈な時代だったというべきだろうか。それとも、まさにそのような時代だったからこそ、争乱を憂慮しながら、それを静かに見守る、澄んだ知性が生まれたというべきなのだろうか。
宗教戦争の時代が寛容から程遠かったこと、その状態の克服には、当初はいかがわしいイメージのあった「寛容」の概念が鍛え直される必要があったことは、おそらく思想史上の常識に属するだろう。だが、「寛容」の重要さをただ頭で理解しただけでは足りない。たとえば、本書の指摘によれば、カルヴァンはその活動の初期に、セネカの『寛容について』という論文の注釈書を書いていた。最初の業績が寛容にかかわるものであった人が、非寛容の権化となり、ジュネーヴの独裁者とさえいわれるような人になっていった(第一部、一二四ページ)という点に、宗教やイデオロギー的情熱のもつ恐ろしさがある。
自らの宗派あるいはイデオロギーに引きずられ、公平の精神を忘れるのは、特定の潮流に限ったことではない。ここでの例でいえば、新興の戦闘的潮流たるプロテスタントが、よりあからさまに党派的だったのは自然だが(だから、モンテーニュとしては相対的にカトリック支持だったらしい)、カトリックもそれに対抗しているうちに同様の傾向を帯びたということをモンテーニュは見落とさない。そこで、次のような文章が書かれることになる(〈〉の符号はモンテーニュからの引用を示す)。
〈彼等の判断と分別は、感情のなかに完全に窒息している。彼等の思慮は、自分にほほえみかけるもの、自分の主義を支持するものをしか認めない。私はこのことがもっとも熱狂的な党派(プロテスタント)のなかに著しいのを見た。だがもう一つの、あとに生まれた党派(カトリック同盟)は、それを真似ながら上回っている。そこで私は、これは一般民衆の誤りと離すことの出来ない性質のものであると考えるようになった。第一の誤った意見が生じると、あたかも風のまにまに波が押し寄せるように、いろいろの誤った意見がつづいて起って来る。それを退けることの出来る者、共通の波に逆らう者は、仲間はずれにされる。けれども、ペテンにかけて正しい党派を助けようとすれば、かえってその正しい党派を害することは確かである。私はこれにはつねに反対してきた。この方法は病める頭脳に役立つだけである。〉
(第三部、一五四ページ)。
この指摘は、それだけとりだしてみれば常識的ともみえる。だが、ここで摘出されているような傾向を、自分の属する潮流の中にさえも見いだすということ、そこにモンテーニュの面目がある。これは、もし常識だとすれば、誰もがいつも思い出せるわけではないような種類の常識である。
「ペテンにかけて正しい党派を助けようとすれば、かえってその正しい党派を害することは確かである」という指摘も鋭い。あれこれの政治党派を支持したいがために、その中にある欠陥の指摘をためらった例が、何と多いことだろうか。一九三〇年代西欧左翼知識人のスターリンへの態度、戦後日本の進歩的知識人と日本共産党、そしてまたペレストロイカ期における大多数の観察者の「急進改革派」への無条件の支持(和田春樹に関する別稿参照)などを思い起こせば十分である。モンテーニュは「私はこれにはつねに反対してきた」という。そのような態度はいつも、どっちつかずとか、微温的とか、中途半端などと非難されてきた。そして、実際、現実政治においては無力にとどまらざるを得ないだろう。それでもそのような態度をとり続けるというのは、一つの選択である。
ただ、同時に確認しておかなくてはならないのは、モンテーニュはこの血みどろの戦争の中で、決して超然たる観察者だったのではないということである。彼は、時として、かなり高いレヴェルで政治に関与してもいたことが本書では述べられている。おそらく紛争の調停者として尽力していたらしいとのことだが、それについては本人はほとんど書き残しておらず、そのため、政治へのかかわりの具体的なあり方については、残念ながらよく分からない。かすかに、次のような文章から、彼の態度を窺うことができる。
〈だが、自分の国家が混乱し、人民が党派に分かれているときに、自分だけ感情を動かさずに、いずれの側にも傾かずに、どっちつかずの宙ぶらりんの姿勢でいるのは、立派だとも正しいとも思わない。《それは中道を歩むことではなくて、いずれの道も歩まないことだ。事のきまるのを待って、運のよい方につこうとするようなものだ。》(ティトゥス・リウィウス)(中略)
けれども、その紛争に全然参加しないことは、公職ももたず、特にはっきりした命令も受けない人にとっては、外国との戦争に参加しないこと以上に許さるべきことだと思う。〉
(第三部、二一〇ページ。なお、第一部の二八三ページにも前半部の引用がある)。
ここにみられるのは、「高みの見物」を決め込む高踏的な観察者のイメージではない。「自分の国家が混乱し、人民が党派に分かれているとき」には、誰しもが何らかの形でコミットしないわけにはいかない。「事のきまるのを待って、運のよい方につこうとする」という手もないではないが、それはモンテーニュのとるところではなかった。こうして、紛争の和解に自ら関与し、最大限に尽力しながら、同時に、その無力さをかみしめ、政治にのめり込まずに、距離をおいた観察を続けていたのである。
(一九九五‐九六年)
*堀田善衛『ミシェル 城館の人』全三部(第一部「争乱の時代」、第二部「自然・理性・運命」、第三部「精神の祝祭」)、集英社、一九九一‐九四年