E・H・カー『歴史とは何か』
*最近、この読書ノートの改訂版を、拙著『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、に第一一章、一二章として収録した。しかし、元のノートと改訂版の間には若干の異同があるので、このノートは元のままの形でここに残しておくこととした(二〇〇四年五月)。
一
いうまでもなく歴史研究入門の古典中の古典である(1)。私は若い時期にそれほど大量の古典を読まなかった人間だが、本書については、大学入学後まもない時期に読んだ。正確な時期や印象などについては記憶がおぼろになっているが、およそ一九六〇年代末のことであり、本書が元来刊行されてから数年後ということになる。それ以来、何度となく折りに触れて読み返したが、特に全体を精読したのは一九八〇年代末頃(これも正確な時期については記憶が曖昧になっている)と今回(二〇〇〇年)とである。およそ二〇年ぐらいおきにきちんとした再読に取り組んだということになる。
一九六〇年代に読んだときは、まだ学生に過ぎず、自分自身が歴史研究に取り組むという経験は皆無だったから、表面的に読んで、一通り分かったような気がするにとどまったように思う。それでも、「歴史は現在と過去の対話だ」という有名な言葉(四〇頁)をはじめとして、いくつかの個所は強く印象に残り、その後も私の発想の底に残った。ともかく、語り口の平易さのおかげもあって、「一通り分かった」という思いこみを懐き、それで満足していたような気がする。その後何度か断片的に読み返したときも、そうした第一印象を再確認するだけだった。
二度目に精読したときには、私自身がある程度歴史研究の経験を積んだ後だっただけに、かつての理解が実のところは不十分なものだったという思いを各所で懐かされ、「若い頃の理解はずいぶん浅いものだったな」という印象をもった。そのことの具体的内容についてここであまり立ち入るつもりはないが、一つだけ誤解を避けるために、それはこういう意味ではないということだけを書いておきたい。本書は歴史論であり、また著者はいかにもイギリス風の経験論的手法で実証的な歴史書をものしている人だが、にもかかわらず、本書のあちこちには、そうした実証的歴史研究の枠をはみ出すような様々な理論への言及がある。自然科学の方法にもあちこちで言及しているし、伝統的歴史研究とはかなり異質なアメリカ風社会科学の理論にも触れている。取りあげられている理論家も、種々の傾向の歴史家たちばかりでなく、タルコット・パーソンズ、カール・マンハイム、アレクシス・ド・トクヴィル、カール・ポッパー、ジャン・ポール・サルトル、ピーター・ドラッカー、ジグムント・フロイト等々、極めて多彩である。このことは著者の視野の広さを物語り、直接的研究対象以外の領域における知的動向にも敏感で、それらとの批判的対話を怠らなかったことを意味している(2)。このことが賛嘆に値するのはもちろんのことだが、私自身が特に印象づけられたのはこの点ではない。研究者が自己の狭い専門以外の領域について広く目を配るのはもちろん望ましいことだが、それがただ単に自分の知識量や流行への敏感さをひけらかすことだけを目的としたものだったなら、何の意味もない。カーの場合にはもちろんそうではなく、様々な理論への言及は、自己の考えを磨くための素材としての意味を担わされている。重要なのは、それらとの対話を通じてカーがどのように考えたのかという点にこそあるのであって、どれだけたくさんの理論や著作の名前を列挙したかということが自己目的なのではない。往々にして、何らかの著作をほめる場合に、たくさんの理論や著作家の名前が挙げられているということだけを取りあげて、「情報量が多い」とか「最新の知的動向に敏感だ」といった言い方をする人がいるが、こういうほめ方は著者の意図にも背くし、私自身の趣味でもない。
それはともかく、今回、改めて本書に向かったとき、事前の予想としては、「六〇年代に読んだときよりは八〇年代に読んだときの方がよく分かったのだから、今度はもっとよく分かるだろう」というような気分があった。その予想は半ば当たったが、半ばは裏切られた。おそらくは――多少のうぬぼれを敢えて自分に許して言えば――かつてよりも読みが深くなった面もあるだろうと思うが、同時に、かえって分からなくなったように感じる面もあり、「意外に難解な本だ」という印象をもたされた。読み重ねていくうちに理解度が直線的に上昇していくというのではなく、むしろかつて分かったつもりだったことが、よく考えてみると今度はよく分からないと感じさせられるというようなこともあるのだということに気づかされた。
今回、この本に久しぶりに立ち戻ったのは、大学の演習で教材の一つとして取りあげたことによるが、そのとき、若い世代の人たち――初版刊行時にはまだ生まれてもおらず、刊行から数十年後に大学に入った世代――が本書をどのように受けとめるかを知りたいという気持ちが、本書を取りあげた動機の一つにあった。特に、ソ連が現存していた時代をほとんど知らない世代の人たちにとって、ソ連史を主要な素材とする歴史論がどのように受けとめられるのかという関心があった。反応は様々で、「あまり古さを感じない」という人と「やはり大分古い」と感じる人とがあったが、大多数の人がそれなりに知的刺激を受けたらしいことは幸いだった。そうした経験を踏まえ、その演習で若い人たちが提出した意見や疑問も私の思考の素材としつつ、「意外に難解な本だ」という印象について点検してみたい。
二
先ず、歴史研究における事実認識と解釈および評価の関係という問題について考えてみたい。
私は先に、「著者はいかにもイギリス風の経験論的手法で実証的な歴史書をものしている」と書いたが、本書で展開されている歴史研究方法論は、素朴な意味での「事実」重視というようなものではない。むしろ、特に第一章では、素朴な事実尊重論を批判し、解釈の重要性を強調している。たとえば、「事実という堅い芯」と「それを包む疑わしい解釈という果肉」を対比する常識的発想を批判し(六頁)、歴史上の事実は純粋な形で存在するものではなく、記録者の心を通して屈折して伝えられるものだと指摘し、だから歴史書の読者は先ず歴史家を研究せねばならないと説いている(二七‐二九頁)。この「先ず歴史家を研究せよ」という警句は、「歴史は現在と過去の対話だ」と並んで、本書中で最も有名な言葉だろう。
あるいはまた、事実というものは魚屋の店先にある魚のようなものではなく、歴史家が海で捕まえてくるものだとも述べられている。歴史家がどのような魚を捕まえるかは、大洋のどの辺で釣りをするか、どのような釣り道具を使うかなどに規定されるが、後者はその歴史家がどのような魚を釣ろうとするかによって決定される。ということは、歴史家は自らの好む事実を集めるということになる。こうした議論をうけて、「歴史とは解釈のことだ」と言い切った個所さえもある(二九頁)。
このようなカーの叙述を読むと、比較的最近、一部で流行っている「新しい」歴史学の傾向をカーは先取りしていたのではないかという気さえしてくる(3)。というのも、そうした「新しい」歴史論はしばしば「古くさい素朴実証主義」を槍玉に挙げ、「権威ある資料」に依拠して「客観的な」事実が確認できるという考えは幻想だといった批判をしているが、実はカーも、そうした「古くさい素朴実証主義」を既に批判しているからである。確かに「新しい歴史学」は「伝統的歴史学」が陥りがちな種々の陥穽――「素朴実証主義」の他、しばしば指摘される点として、過度の政治中心主義、事大主義、権威主義、文書主義その他その他――を鋭く批判したという意義をもっているが、実はカー自身を含め、少なからぬ「古典的な」歴史家は、そうした点について大なり小なり意識していたのであって、「新しい歴史学」による旧派批判は、ややもすれば批判対象を戯画化する傾向がなくもないように思われる。カーの場合、特に新奇さを狙っているわけではなく、ある意味で健全な常識を述べているだけなのだが、その常識が既に「素朴実証主義」批判の要素を含んでいるのである。
そればかりではない。一部の「新しい」歴史論の中には、資料が「客観的事実」を自ずから語るというドグマの批判に熱中するあまり、やや行き過ぎた極論――テキストの「外部」としての「事実」などそもそも存在しないといった――に走る傾向があるようだが、カーはそうした極論についても予め注意を払っている。カーによれば、歴史記述における歴史家の役割を強調するあまり、歴史は歴史家がつくりだすものであり、客観的歴史などはないのだといった主観主義や懐疑主義に陥るのも妥当ではない。見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、もともと山には客観的形などないということになるわけではない、というのである(三三‐三四頁)。先の魚の比喩でいうなら、漁師がどのような魚を捕らえるかは漁場や釣り具の選択によって左右されるが、だからといって、実在しない魚を想像力だけで釣り上げるわけではない、ということだろうか。こうしてカーは、一方で「素朴実証主義」を批判して歴史研究における解釈の重要性を強調しながら、同時に、だからといってどのような解釈も自由であり、何をいっても勝手だといった極論に陥ることも慎重に避け、事実と解釈の間の関係を「二つの難所の間を危うく航行する」ことに喩えている。人間は環境から完全に独立なものでもなければ、無条件で環境に従っているものでもない。それと同様に、歴史家は事実の慎ましい奴隷でもなければ、その暴虐な主人でもなく、一方では自分の解釈に従って自分の事実を形づくるが、他方では自分の事実に従って自分の解釈を形づくる(三八‐三九頁)。有名な「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」(四〇頁)という文章も、こうした議論をうけて提出されている。
もっとも、この議論は、やや折衷論ないし常識論的に提起されており、哲学的な認識論に関心をいだく人にとっては物足りない印象を残すかもしれない(4)。こうした論じ方を物足りないと感じるか、優れたバランス感覚だとして珍重するかは、読者がイギリス的なコモン・センス尊重と大陸的な合理論のどちらに傾斜しているかによるかもしれない。
「事実」が簡単に手に入るものかどうかという問題は、実はいくつかのレヴェルに分けて考える必要がある。第一は哲学的な認識論のレヴェルで「そもそも事実とは何か」という大問題がある。これは突っ込んで考えるなら非常に厄介な問題となるが、哲学者ならぬ経験的歴史家にとっては、この問題はひとまず棚上げにすることも許されるだろう(5)。第二のレヴェルは、そうした哲学的認識論はさておき、個々の具体的な出来事についての「事実」性を確定するという作業にかかわる。広く「事実」とみなされていた事柄がよく調べてみると実は間違っていたというようなことはよくあることであり、歴史家はこの問題の吟味にかなり大きな労力をさかざるを得ない。そして第三に、無数に存在する「事実」のうちから何を取りあげるべきか――何が「歴史的事実」としての地位を認められるか――またそれらをどのように整理し、関係づけて理解すべきかということが問題となる(6)。第二のレヴェルでは個別的な事象についての比較的素朴な「事実」性が問題だったのに対し、この第三のレヴェルでは、それらの複雑な組み立てによってどのような歴史像が浮かび上がるかが問題となるから、ここでの「事実性」はより微妙なものになる(ある意味では、第一の認識論のレヴェルに跳ね返ってくるようなことにもなる)。
本書ではこのうちの第三のレヴェルの問題が大きなテーマとなっているが、その点を強調するあまり、第一はもとより第二のレヴェルについては比較的あっさりとあしらっているという観がなくもない。「正確は義務であって、美徳ではない」という言葉が引用され、正確であるといって歴史家を賞賛するのは、よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく混ぜたコンクリートを用いたといって建築家を賞賛するようなものだという比喩が提出されているあたりに、そうした印象を受ける(七頁)。この個所はさりげなく書かれており、実際、あまりにも当たり前のことをいっているようにみえる。しかし、論争的な対象を扱った歴史研究を試みた人なら、いま述べた第二のレヴェルでの「正確」ということが意外なほど難しいということを知っているはずである。カーの比喩を引き継いでいうなら、デザイン性を売り物にする建築家が増えると、よく乾燥した木材とかうまく混ぜたコンクリートといった当たり前のことがなおざりにされ、デザインは斬新だが実は手抜き工事の建築が増大するおそれがあるといったことに類比できるかもしれない。現代史のような分野では、論者が特定の政治的立場にコミットしていることが多い上に、丹念な「事実」確定作業を積み重ねる時間的余裕がまだないという事情があるため、特にそうした傾向が著しい。そうである以上、「正確は義務であって、美徳ではない」というのはその通りだとしても、その義務をきちんと果たしていない人があまりにも多いということに警戒を呼びかける必要もあるのではないかという気がする。あるいは、本書初版の出た一九六〇年代初頭には、まだ学者の世界に大衆社会現象は押し寄せておらず、手抜き工事を見せかけだけのファッション性やマスコミへの売り込みの上手さでカヴァーするような歴史家はあまりいなかったということなのだろうか。
それはさておき、とにかく個別の「事実」性がある程度まで確定可能だとして、無数の「事実」の中から何を取りあげるか、それらをどう整理し、歴史像を組み立てるかが選択的たらざるを得ないということは、カーが強調するとおりである。では、どういう基準で選択がなされるのか。これがこの後の問題となる。
三
「歴史的事実」は歴史家による事実の選択および整理を経てはじめて形づくられる。では、その選択および整理はどのような基準によってなされるのか。
この問題を考える上で最も興味深いと思われるのは、「ロビンソンの死」という喩え話である(一五一‐一五八頁)。煙草を買うために道路を横切っていたロビンソンという人が自動車に轢かれて死んだ。事故の原因として、運転手が酒を飲んでいた、自動車の整備に落ち度があった、道路の見通しが悪かった、などが挙げられ、そのどれが決定的だったかによって、運転手なり自動車整備工なり道路管理局なりの責任が問題にされる。しかし、視点を変えれば、ロビンソンが事故に遭ったのは、煙草を買おうとして道路を横断したためであり、彼が愛煙家でなければ事故には遭わなかったという議論も成り立つ。この最後の議論は前三者(飲酒運転、自動車整備、道路管理)に対比して、「無意味」なものとして退けられるが、それはどうしてかというのがカーの出している問題である。
私見を多少まじえてカーの考えを敷衍するなら、この事件に関していう限り、それが起きるための条件――つまり、「もし○○がなかったなら、この事故は起きなかったろう」といえるもの――と考えられるという点で四者の間に違いはない。違いは、この事件を離れた一般化可能性にある。飲酒運転、自動車整備の落ち度、道路管理の不備は一般的な交通事故原因として想定されうるものであり、従って、それらに対応した措置をとることは交通事故対策として意味をもつ。これに対して、ある人が愛煙家だから事故に遭うとか、禁煙運動をすれば事故が減るだろうというようなことは、一般命題として意味をなさない。これがカーの答えである。こうして、無限にある「事実」の中から何を選択するかの基準として「一般化可能性」が挙げられることになる(7)。
これは鮮やかな議論であり、個別の例を通して一般的な問題を考えようとする人にとっては、十分な説得力をもつ。しかし、誰もがそのような関心をもつとは限らないのではないか。死んだロビンソンの肉親は、「彼があのとき煙草を買いに行こうとさえしなければ」ということをいつまでも悔やみ続けるかもしれない。親族に限らず、この特定例に徹底してこだわる立場からすれば、この事件を教訓にしてこの後の事故が減っても、ロビンソンが生き返るわけではない以上、何の慰めにもならない。それに、交通事故対策として飲酒運転抑止、自動車整備の水準向上、道路管理の改善が有意味だというのはこの特定例の解明を待つまでもなく一般論として明らかなことであって、もしそれを結論として引き出したいということであるなら、この事例を取りあげることにはさしたる意味がないということにもなる(もっとも、個別の事例での原因確定作業を積み重ねれば、これらの事故要因のうちどれが相対的に最も重く、従って対策の緊急性が高いかが分かるといった有用性があるとも考えられるが)。
カーは、ロビンソンの死の喩え話を「一般化可能性」で締めくくったすぐ後で、人間はある目的のために理性を用いるものだとし、ある目的に役立つ説明と、そうでない説明との区別ということに触れている(一五七頁)。前の例に戻るなら、ここでの「目的」とは交通事故を減らすということであり、その目的に役立たないような論点(ロビンソンと煙草の関係)に触れても意味はないということになる。それはその通りなのだが、交通事故一般には関心をもたず、むしろロビンソン個人の生涯にこだわってロビンソンの伝記を書こうとする人にとっては、運転手や自動車整備工や道路管理局のことはどうでもよく、たまたまその日にロビンソンが煙草を切らし、愛煙家の彼が煙草を買いに外出したという事実こそが最も重要だということになるかもしれない。カーがそのような見方を取らないのは、特定個人の生涯の軌跡にこだわるような見方がそもそも狭すぎるのであって、「歴史的事実」としての価値をもたない――これに対して、ある時代に交通事故が増大するとか減少するというようなことであれば、これは「歴史的事実」としての意味をもつ――という価値観をとるからだろう。これは、歴史の登場人物個人により大きな関心を寄せるか、それとも個々人を取り巻く集団や社会により大きな関心を寄せるかという問題とも関連している。この点は後で立ち戻るとして、ここでは、「一般化可能性」という問題と因果性とか法則性とかいう問題との関連について、もう少し議論を進めてみたい。
「一般化」ということは、個別の例を取りあげながらも、それだけにこだわることなく、何らかの因果連関なり法則性なりを探ることだというのがカーの考えである。そして因果性・法則性の探求という意味では、歴史も科学の一部だというのが本書(特に第三章)の一つの大きな主張となっている。英語圏では伝統的に、人文学(humanities)と科学(science)が区別されてきたが、カーはそうしたイギリス的伝統は人文学を科学よりも「高級」なものだと考えたがる偏見に由来するものだと批判する(七九、一二三‐一二四頁)(8)。カーも自然科学・社会科学・歴史学を単純に同一視しているわけではなく、それらの間の差異についても触れているが、どのような差異があるにしてもそれらを完全に異質扱いするのではなく、広い意味で共通性をもち、相互に学びあえるようなものとして捉えたいというのが彼の考えのようである(「歴史と科学」という問題について、末尾の補注参照)。
この問題は、歴史を書くに当たって、物語のような叙述を行なうか、ある種の一般的法則性や仮説を提起し、それの妥当性や反証可能性について考えるという行き方を取るかという記述スタイルの問題とも関わる。伝統的な歴史――といっても、現代でもなおかなり根強い――が前者に傾くのに対し、次第に増大しつつある「社会科学的な歴史」は後者をとろうとする。英語のhistoryは今日ではほとんど専ら「歴史」の意味に用いられるが、「物語」という意味も辞書には載っているし、これと同系統のフランス語histoireやロシア語のイストーリヤ(история)はもっとはっきりと「物語」の意味を保存している。これは「歴史」と「物語」の根源的な親近性を示唆するようにみえる。日本でも、「物語としての歴史」ということを説く人はいまでも多く、歴史書は科学書ではないのだから、読んで面白い文章で書かれねばならないという考えも根強い。これに対し、カーははっきりと「社会科学的な歴史」という考えを押しだしている。歴史と社会学の関係に触れて、「歴史が社会学的になればなるほど、社会学が歴史的になればなるほど、双方にとって好都合である」と述べた個所(九四‐九五頁)などにそうした考えが明瞭に示されている。
「科学」という場合に多くの人が最初に思い浮かべるのは自然科学であり、「○○は科学か」という問いに際して問題にされるのは自然科学との類似性/異質性である。カーもその例に洩れず、歴史や社会科学と自然科学の比較を論じている。「法則」の観念に触れた個所では、社会科学では法則性の認識に限界があるではないかという反論を念頭におき、自然科学の世界でも、現代科学においては完全な法則性ではなく、仮説とか蓋然性とかが問題にされており、「暫定的な近似値」で満足しなければならない事情は共通していると再反論する(八二‐八八頁)。また、社会科学においては研究主体と客体とが同じ範疇に属し、相互に作用しあうため、観察行為自体が対象に影響を及ぼしてしまう――「自己成就する予言」はその典型例――という点についても、自然科学でも「不確定性原理」に示されるように同様の問題があると指摘している(一〇〇‐一〇六頁)。
これらの点に関するカーの指摘は確かに興味深いものである。「自然科学では完璧な正確さ、厳格な法則性が発見されるが、社会科学ではそれが得られない」といった両極的な発想は、自然科学者も様々な認識上の限界に直面しつつそれを乗り越えようとしているという事情を軽視し、その努力から社会科学者が何かを吸収する可能性を閉ざしてしまいやすい。自然科学と社会科学・歴史学を完全に異質なものとして分断してしまうのではなく、ある程度までの共通性をもつものと捉え、可能な限り相互に吸収しあうという姿勢は貴重なものだと私も思う。ただ、それと同時に、その共通性の限界ということもやはり意識しておく必要があるのではないか。特に、歴史研究においては、ある種の社会科学以上に、その差が大きい――たとえ絶対的な差異ではないにしても、ともかく無視できないほど大きな差異がある――のではないかと思われる。
先に「物語としての歴史」と「社会科学的な歴史」ということに触れたが、私自身は、「物語」を書く才能に恵まれていないため、どちらかというと「社会科学的な歴史」に惹かれる。ただ、それだけに、歴史が科学化しきらない限界ということについても強く意識する。カーは、特に第三章で、歴史と社会科学とをあまり区別せずに、どちらも自然科学同様に科学なのだということを強調しているが、ここでは、社会科学一般と歴史とを区別して考える必要がある。人間という複雑微妙な対象を扱うために自然科学よりも精密化が難しいという点は社会科学一般に共通する問題だが、それでも社会のある特定の側面を切り取って研究しようとする諸分野(ディシプリン)の場合には、その側面に限定することによる抽象化が一般性認識を相対的に容易にする。これに対し、歴史学においては、対象をできる限り包括的に描き出すことが課題とされる。そのことは、あまりにも多くの要因を総合的に考慮せざるを得ないということを意味し、それだけ抽象化・一般化が困難だということに通じる。変数があまりにも多すぎると、それらの関係を論理的に明快に整理するのが困難だというのは常識である。同様に、何らかの因果性や法則性を論じる場合には、「他の条件にして等しければ(ceteris paribus)」という断わり書きがつけられるのが常だが、このceteris paribusは、歴史においては満たされることのない条件である。
この問題についてカーが触れている個所では、概念図式自体に多少の疑問を感じる。というのは、カーは「一般的・普遍的なもの」と「特殊的・個別的なもの」という二項対置をして、歴史の対象は後者だけではないという論じ方をしているからである。原語での表現は、ところによって異なるが、前者にはgeneral あるいはuniversalの語があてられ、後者にはunique, specific, particularといった語があてられている(八九‐九九頁)。だが、ここはそのような二者間の対置ではなく、「一般性」「特殊性」「個別性」という三つの概念の組み合わせで考えるべきではないだろうか。ここで、「個別性」は「一般性」と「特殊性」の総合である。歴史が探求するのは、そのような「個別性」――「一般性」の側面を排除するものではないが、かといってそれだけには還元されず、「特殊性」の側面をも含む――ではないだろうか。つまり、歴史研究は、純然たる特殊性だけに拘泥し、一般性を排除するということはもちろんないが、かといって一般性をひたすら追求するというのでもなく、その両者の交点において対象の個性を描き出そうとするものだということである。古臭い言い方だが、「法則定立的」と「個性記述的」という認識の区分がある。この新カント派的概念をめぐる解釈論争はさておくとして(9)、私なりの我流の解釈として、歴史が個性記述的だというのは、特殊のみに固執するということではなく、一般性の要素を含みつつそれと特殊性とを総合して描こうとするという風に考えることができるように思われる。このように考えるなら、カーが歴史認識も一般性認識を含むのだと強調しているのは確かに一つの面を正しく衝いてはいるが、議論として不十分と思われる。広義の科学として一般性を念頭においた認識の中でも、その方向ないし力点の違いとして、一般化をより強く志向する分野(多くの個別ディシプリン)と個性化をより強く志向する分野(歴史学)との違いがあるが、この個所でのカーはその違いを軽視しているかの印象を与える(カーの仕事全体がそのようなものだということではないが)。
おそらく、歴史学が「社会科学的な歴史」と「物語としての歴史」に引き裂かれるのも、この点と関連しているだろう。前者は「個性記述」という課題を見据えつつも、それを一般性との関連において解明しようという志向をより強くもつのに対し、後者は一般性の要素を軽視し、「個性記述」に徹しようとする。更に一般性への志向をもっと軽くするなら、歴史研究というよりも、歴史に題材をとった文学の世界に接近することになる。こうして、一般性の要素をどの程度重く見るかの度合によって、「社会科学諸ディシプリンの素材としての歴史」‐「社会科学的だが、総合性を重視する歴史」‐「物語としての歴史」‐「歴史に題材をとった文学」といったスペクトルを想定することができるかもしれない。カー自身の仕事は、後にアメリカを中心として興隆した「社会科学諸ディシプリンの素材としての歴史」に比べれば、やはり総合的記述の色彩が濃く、「社会科学的だが、総合性を重視する歴史」に該当するが、「物語としての歴史」やまして「歴史に題材をとった文学」とははっきりと一線を画すということに彼の主張の力点があると考えることができよう。
四
前項では、歴史家がある事実を有意味として選択するときの基準としての一般化可能性という問題について考えたが、仮にこの議論を前提するとして、それでもって歴史家の選択の問題はすべて解決するだろうか。確かに、一般化可能でない事実(ロビンソンが愛煙家だったとか、トロツキーがあるときに風邪を引いたというような)は歴史家が取りあげるべき対象でないということまでは、一応いえるかもしれない。しかし、一般化可能な事実というものは無数にあるのだから、それらの中からどれを取り出すべきかという選択がまだ残っている。歴史家の選択が完全に恣意的ではないとしたら、どのような選択がよりすぐれた歴史認識をもたらすのか、そもそも「よりすぐれた認識」とはどういうものを指すのかという問題である。
カーは、歴史研究であれ、その他の科学であれ、およそ研究というものはみな「自分の環境に対する人間の理解力と支配力とを増すこと」を目標とするものだと述べている(一二五頁)。この考えに従えば、このような目標の達成に資するものがよりすぐれた研究ということになるだろう。これはごく当然のことのようにみえるが、よく考えてみると、「理解力を増すこと」と「支配力を増すこと」は本当に同じなのだろうかという疑問が湧く。理解すれば支配できるようになるはずだという暗黙の前提がここにはあるが、これは、少なくとも簡単に前提化してしまえることではないのではないか。関連して、本書では「進歩」ということが一つの大きなテーマになっているが、その際、知的な意味での進歩(学問の進歩)と実践的な意味での進歩(歴史の進歩)とがあまり区別されていない。確かに、後者を信じる立場に立つなら、それを促進することこそが前者の意味での進歩であり、両者が重なるのは当然ということになるのかもしれないが、これ自体、安易に前提することはできないのではないか。ともかく、私としては両者を分けて、先ず前者の方から考えてみたい(とはいえ、カー自身が二通りの進歩を重ね合わせて捉えている以上、後者にもある程度まで触れないわけにはいかないが)。
より進んだ認識、よりすぐれた認識とは何か、これはなかなか難しい問題である。明らかな間違いを含んだ議論についてはまだしも判断しやすい(といっても、明らかな間違いがそう簡単には見破れないという場合もあるし、間違いを含みながらも味わい深い議論と正確だが深みのない議論とではどちらがすぐれているのかといった問題もあるが、ここでは立ち入らないでおく)。とりあえずある程度までの学問的訓練の上に立って、それなりに「正しい」――絶対的な「正しさ」というものはあり得ないとしても、学界において共同主観的に蓄積されてきた「正しさ」の基準を満たしている――議論を提出した作品が複数あるとき、それらのうちでどれが「よりすぐれたものだ」という判断はどのようにしてなされるのか。この問題は一般論として考えていくと、いろいろな方向に議論が広がる可能性があるが、とりあえずカーの議論に即して考えてみよう。この観点から本書を見るとき、古い解釈よりも進んだ解釈というものは古い解釈を拒否するのではなく、古い解釈を包括し、そのことでそれにとって代わるものだ、という記述が目につく。こうやってより広く深い洞察を獲得していくことこそが認識の進歩だ、というのである(一八四‐一八五頁)。
ここで提起されているのは包括性という基準であり、より包括的な認識がよりすぐれた議論だという考えである。これは確かにそれなりの説得性をもつ。もし、ある範囲の事柄しか説明できない認識と、それを含みつつより広い範囲の事柄までも説明できる認識とがあるなら、後者の方が進歩した認識だという考えは常識とも合致するだろう(10)。そのような進歩観に立って、本書以後の歴史学の進歩について説明することもできるかもしれない。たとえば、ジェンダー、エスニシティー、エコロジーなどの論点は本書には取りあげられていないが、そうしたものを取りあげることによってより包括的な歴史認識が可能になると考えることもできる。このような主張は、内容においてはカー自身の予期していなかったものを含むにしても、方法論的には本書の射程距離内にある。
だが、むしろ、より深刻なのは、もう少し違った方向にある。ジェンダー、エスニシティー、エコロジーなどの論点がカーの予期しなかったものではあってもその射程距離内にあるというのは、そうした論点を取り込むことで、進歩――認識においても実践的にも――が実現できるという発想を共有しているからである。これに対して、およそ「進歩」という考えそのものを拒否するような発想もありうる。私自身はあまり通じていないが、極端にミクロな生活史に着目するような歴史論も一部にはあるようだし、歴史の大きな流れから見れば完全な負け犬だった人の個人史を共感を込めて描き出すような歴史書もある。これらはおそらく、カーによって「無意味」と評されるようなものを重視するものだということになるだろう(なお、「歴史的事実」の選択という問題に関連して、前注6も参照)。
仮に包括性ということだけを基準とするなら、かつて切り捨てられていたものをすべて拾い上げた方がよいということにもなりかねない。しかし、それでは選択することが不可能になる。何もかもを取りあげるということは実際には不可能であり、無意味な議論となる。実際、冒頭の話に戻るが、そもそも認識は選択の要素を不可避としており、何かを選択するということは何かを切り捨てるということと表裏一体である。ということは、ひたすら包括性を高めていくことで進歩を考えるわけにはいかないというである。では、何もかもを包括するということと別に、「よりよい認識」を語ることができるだろうか。これが次の問題となる。
カーは歴史から教訓を引き出すことができるという立場に立っている。それは一般化を通して、ある条件の下ではある結果が起きやすいという蓋然性を認識できるからであり、これは特定の事件の予言まで含むわけではないものの、一般的な傾向性に基づく趨勢の予言を可能にするのだという。たとえば、ある学校で麻疹が流行り始めるなら、どの生徒が次にかかるかまでは予言できないにしても、一般的傾向として麻疹が広がる確率が高いということは予言できる。同様に、ある国でいつ革命が起きるかということまで予言することはできないが、どういう条件がそろっていれば革命の起きる蓋然性が高まるかは予言できる(但し、麻疹についても革命についても、「それを予防する有効な措置がとられないなら」という条件付きである)。このように過去の経験の一般化を通して有用な将来予測――但し、個別の特定例についての確定的予言を含むわけではない――ができるということが歴史の教訓化だというのである(九五‐一〇〇頁)。この考えに従えば、より有用な将来予測をもたらすのがよりよい認識だということになるだろう。
ここでカーが一般化を強調し、個別の特定例にこだわることを戒めている点に着目してみたい。過ぎ去った事象をそれ自体として考察し、ああすればよかったとか、こうしたのはまずかったと考えるのではなく、過去のことは既成事実として受けとめた上で、未来に向けてどのような予測を引き出せるかを考えることこそが重要だというのが彼の考えのようである。この点を最も明白に示すのが、本書の中でも有名な個所の一つである「未練学派('might-have-been' school of thougt)」批判(一四一頁以下)である。
「未練学派」批判はしばしば「歴史におけるもし(if)」の批判という風に理解されている。確かに、「もし○○がなければ、こういう嘆かわしい結果は生じなかったろうに」と詠嘆する未練論は「もし」を含んでおり、両者の間に密接な連関があることは明らかである。しかし、よく考えてみると、ここには区別されるべきいくつかの論点が含まれている(11)。先ず、過去の事象を純粋にそれ自体としてみるときと、そこに含まれる一般性の要素に着目するときとでは、捉え方が異なる。カー自身、一般化可能性およびそこから引き出される因果性認識を強調する立場だが、そのような一般化の観点に立つなら、あれこれの要素を変数として捉え、それらの相関関係を考えることになるから、「変数」について別の可能性を考えるのは当然ということになる。たとえば、「もしこのとき中央銀行が利子率を上げていたら、その後の失業率はどうなっていたか」とか、「もしこのとき政府が飲酒運転取り締まりを強めていたら、交通事故は減ったか」といったことを考察することになる。これは、あれこれの特定の人が失業するのを防げたとか、事故にあって死ぬのを防げたということではないから、「もし○○さえ違っていれば、あの人は死なずに済んでいたものを」という未練論とは異なる。ただ、一般的現象としての失業なり交通事故なりの動向についての因果性を認識するということは「もし」の要素を必ず含むものであり、カーはその意味では決して「もし」を否定してはいない(12)。
次に、そうした一般化を考えるのではなく、過去に起きた一回限りの事象それ自体を対象とする場合について考えてみよう。これについても、「もしかしたら、それは防げたかもしれない」という風にみる見方と、「それは歴史の必然――あるいは高度の蓋然性――の産物であり、防ぐことはできなかった。もし防ごうとしても、別の形で起きたろう」という風に見る見方とがある。どちらも「歴史におけるもし(if)」を語っているのだが、その方向が異なっている。いうまでもなく、前者が「未練史観」であり、後者は「勝てば官軍史観」ということになる。カーの歴史観は、単純な「勝てば官軍史観」だというわけではもちろんないが、どちらかといえば後者の方に親近性をもつことは否定しがたい(この点は後で改めて取りあげる)。彼の批判の矛先が後者よりも前者に集中して向けられていることはそのことを物語っている。
カーの挙げている具体例は次のようなものである。「ロシア革命は不可避だったか」というような議論が立てられるのは、その事件(ロシア革命)によって損害をこうむった人々がまだ生きており、それが起きなければよかったのにという感情が人々の心を捉えているからだ。これに対し、「バラ戦争は不可避だったか」というような議論はそもそも立てられることがない。これは遠い過去のこととなっており、今更それをひっくり返そうなどということを誰も考えないからだ。ノルマン人の征服にしろ、アメリカの独立にしろ、「もしそれがなかったなら」ということを誰も考えはしない。ロシア革命も、いまはまだ時間が十分隔たっていないから、「もしなかったなら」という感情論をもつ人がいるが、歴史家というものはそうした感情論を退け、それらを閉じた章(a closed chapter)、既成事実(fait accompli)として見るものだ、というのである(一四一‐一四四頁)。
これは巧妙な議論だが、よく考えると、異なった次元のことの混同がある。確かに、未練という感情は近い過去の現象について懐かれやすく、遠い過去については懐かれにくいだろう。しかし、そうした感情論とは別に、歴史におけるオールタナティヴ(選択肢)と必然性という問題は、いつのことについてであれ提出されうる。バラ戦争、ノルマン人の征服、アメリカの独立について、今日の我々が胸を騒がしたり、「未練」を懐いたりすることは滅多にないだろうが、それとは別に、純粋の認識の問題として、別のオールタナティヴがあったかどうかを考えることは可能である。それは、結果をひっくり返すなどという途方もない夢想ではなく、結果自体は動かしがたいものだとしても、それをよりよく理解するための一つの思考実験としてということである。ロシア革命についても、それによって損害をこうむったかどうか、従ってまた「それがなかったらよかったのに」という感情をもつかどうかということとは別に、オールタナティヴと必然性の関係を考えることはできるはずである。その意味を認めないのでは、「既成事実」以外のことは一切考えるなということになりかねない。
更にその上に、もう一つ別の問題がある。いま挙げた事例でカーが指摘しているのは、対象が近い過去であるほど、「そうでなければよかったのに」という未練がはたらきやすいが、遠い過去についてはそのような感情が薄れるということである。確かに、一般的な傾向としてはそういうことがいえるかもしれない。しかし、一旦遠くなったと見えるようになったことが、しばらくしてから改めて近く感じられるようになるということもある。もしそうした逆転現象がないならば、ある時期までは感情論(未練論)にとらわれて客観的な歴史が書けないが、ある時期を過ぎるとそれが書けるようになる、といった単線的進歩――認識の上での進歩――を想定することができる。しかし、現実には、フランス革命もロシア革命も、一旦安定した評価を獲得したかにみえた後で、再度論争の対象となった。このようなことを考えると、時間の経過に伴って歴史認識が変化するのは確かだとして、そこに「進歩」というものを――新資料の発掘や調査の技法といった「技術的」側面についてでなく、認識の質、評価や解釈のあり方といった、いわば歴史哲学的な次元において――想定できるのかどうかも怪しくなってくる。ロシア革命否定論が盛んだった時期よりも承認論が強まってきた時期の認識の方が「進歩」しているのだとカーは信じていただろうが、その後の歴史はこれに逆転をもたらした。いまでは、多くの人が、ロシア革命否定論の方が肯定論よりも「進歩的」な見方だと考えているだろう。もちろん、これもまた最終的なものではなく、もう一度――あるいは二度も三度も――逆転するというような可能性を排除することはできない。そうしたことが繰り返されていくなら、何をもって「進歩」といえるのか、これは大きな問題である(この点については次節の末尾でも立ち返る)。
五
知的な意味での「進歩」――「よりよい」「よりすぐれた」認識――にせよ、実践的な意味での「進歩」にせよ、何らかの価値判断を前提している。では、その判断の基準はどこにおかれるだろうか。
ときとして誤解されがちだが、カーは価値判断というものを決して退けてはおらず、むしろその問題を積極的に論じている。にもかかわらず、彼が価値判断禁欲論者のようにとられることがあるのは、歴史の登場人物の個人としての道徳的評価を無意味としているからである。ある政治家が家庭において有徳な人だったか堕落した人だったかは、その人が公人として何をしたのかに影響しない限り、歴史家の興味の対象にはならない、歴史家が関心をもつのはあくまでも政治――あるいは政治に限らず、広い社会全体の流れ――に関わる限りでのその人の言動だ、というのが彼の考えである。しかし、そのことは、一切の価値判断をすべきでないということではない。むしろ、歴史は個人についてではなく社会集団や制度についての価値判断をするものだ――個々の奴隷所有者についての道徳判断はしないが、奴隷制については判断を下す――というのである(一〇八‐一一四頁、また六四‐六五頁も参照)。個人についての道徳判断をしないというのは、歴史上の人物――その大半は既に死んでいる――についていくら断罪をしても、今さらその人を墓から引きずりだして刑を科すわけにもいかないからであり、他方、社会集団や制度について判断を下すというのは、それが未来へ向けての我々の選択に影響するからである。ここには、未来志向の歴史学という性格が明確にあらわれている(この点は後で立ち戻る)。
やや議論が逸れるが、個人か社会かという問いと微妙な接点をもつもう一つの問いとして、研究対象に「有名な大物」を選ぶか「無名の人々からなる大衆」に着目するかという論点について、ここで触れておきたい。カーによれば、大衆を重視するということは、個人を扱わないということではなく、幾百万の個人を扱うということである。しばしば大衆重視は個人軽視と等置されがちだが、それは無名ということと非個人性ということとを混同するからである。名前が知られていなくても、人々が諸個人でなくなるわけではない(六九‐七〇頁)。この指摘は、私としては大いに共感する。私自身が、大物よりも小物に惹かれるタイプの人間だからである。「歴史における個人」を重視すると称する歴史家が念頭におく「個人」とはたいていの場合、有名な大物であり、そうした歴史家は、大衆ばかりに注目するのは「個人」の軽視だと説く。しかし、実は、大衆も多くの個人からなっているのであって、違いは「個人重視か否か」というようなところにはない(13)。
さて、話を本筋に戻して、カーは――個人道徳についてではなく社会集団や制度に関して――価値判断をすることはできるし、それは避けられないという考えだが、ではその価値判断の基準は何かという論点について、次に考えてみよう。
人々が現に種々の価値判断を行なってきたということは、明らかな歴史的事実である。その際の基準は個々人ごとに異なりうるが、純粋に恣意的とは限らず、間主観的に形成された基準というものもありうる。カー自身は「間主観性/共同主観性(intersubjectivity)」という概念を使ってはいないが、個々人の恣意的な主観にすべてを委ねる態度と超越的な客観的真実があると信じる立場をともに批判していることからして、間主観的な基準という考え方に近いように思われる。これはこれで、納得のいく立場である。ただ、仮に間主観的な価値基準というものがあるとしても、それ自体が歴史的に形成され、変遷していくものである。とすると、異なる時代の事象について、後世の歴史家がその時点での基準で判断することの意味、またある時点での基準が前の時点での基準よりも「進歩」しているか否かの判断は何によるのかという疑問が出てくる。
これは簡単には答えられない哲学的な難問だが、一つの示唆的な論点として、自分のそれまでの考え方の制約を自覚し、その束縛を乗り越えることの重要性が指摘されている。自分の社会的・歴史的な状況を超越するという人間の能力は、それに自分がどんなに巻き込まれているかを認める感受性によって左右されるというのである(六一頁、また一八三頁も参照)。これは非常に重要な指摘であり、私も共感する。ある認識が他の認識よりもすぐれているとか劣っているということはそう簡単にいえることではないが、ともかくある人がそれまで無意識にとらわれていた枠組みを鋭く自覚し、そのことを通してその枠を何らかの形で突破していくという現象は実際にあり、そこには「進歩」があると感じられる。
カー自身に即していうなら、彼はイギリスが世界の中心だった一九世紀という時代の末期に生まれ(一八九二年生まれ)、イギリス自由主義を暗黙の前提とする知的環境の中で育ったが、それと異質なロシア・ソ連を研究対象として選び、またしばしばアジア・アフリカの新興諸国に共感と関心を表明している。おそらく彼が受けた教育は自由主義と経験論を核とするものだったろうし、それはその後も全面的に放棄されることなく維持されているようにみえるが、それと同時に、ある時期以降の彼は、マルクス主義・社会主義・ソ連・第三世界といった、彼自身の本来の知的環境とは異質なものに強く引きつけられた。これは、彼が不断に自己の知的制約を自覚し、超克しようと努めていたことを物語る。彼よりも数十年後に育ち、またイギリスとは全く異なる環境の中にいる我々は、そもそもの出発点となる前提が彼とは大きく異なるが、具体的内容はともあれ、自分が育てられた知的環境の制約を超えて、その外へと視野を広げていこうとする姿勢については、深く共感することができる。
カーの世界観の変化について、彼の密接な協力者だったR・W・デイヴィスは、次のようにまとめている。@若い時期(一九二〇年代まで)のカーは、自由貿易と社会改革を信じるリベラルだった。A一九二九年恐慌とそれに引き続く資本主義世界の大不況を見て、彼は資本主義の破産を信じ、親ソ的になった。B一九三〇年代後半に彼はスターリンの圧制を知り、ソ連に幻滅した。この時期には、ナチズムやファシズムの危険性を軽視し、宥和論を支持した。C第二次大戦の経験を経て、彼はソ連が戦争に耐え抜いたことを評価し、スターリニズムにもかかわらず計画経済への道が進歩的だと考えるようになった。以後のカーは、個々の点での種々の再考はあるものの、基本的にはこの考えを最後まで維持した(14)。私自身はデイヴィスのように近いところでカーと接触したわけではないので、基本的にはこれを受け入れるしかないが、ただ、自由主義的信念への最初の大きな衝撃だったのは一九二九年恐慌よりも古く、むしろ一九一四年の第一次大戦勃発だったのではないかという気がする。本書でも各所に第一次大戦を画期とする記述がある(五二、五九、六〇、二一四頁など)し、また『ナポレオンからヒトラーへ』の序文には、そうした感慨が端的に述べられている(15)。それはともかく、第一次大戦以前に既に基礎的な精神形成を終えていたカー(一九一四年の時点で二二歳)にとって、第一次大戦、更には両大戦間期の経験は、自分の出発点を揺るがすようなことであり、そのような激動の中での再考を経て、一九三〇年代以降の世界史の流れが、壮年期以降の彼の知的バックボーンをなすことになったとみることができる。その内容は、つづめていえば、自由経済から計画へ、個人主義から大衆民主主義へということであり、一九五一年刊の『新しい社会』や、『歴史とは何か』では特に第六章にそうした考え方がよくあらわれている。
これは一九世紀イギリスの知的伝統の中で育った人にしては驚くべき変化であり、自己超克である。彼が英米の知識人界で孤立した存在だった――日本では彼の著作の大半が翻訳され、大きな影響を及ぼしたため、あたかも知識人界の主流のような様相を呈したが、それはむしろ日本の特殊事情というべきだろう――のも、自然なことといえる。そうした孤立に耐えて、新しい境地を切り開いたことが賛嘆に値するのはいうまでもない。そのことを十分に認めた上で敢えていうのだが、より深刻なのは、過去の制約を乗り越えて「進歩した」と思ったことが、またその後で更に乗り越えられる可能性があるということである。一九八〇年代以降の世界史の流れは、カーが「現代」の基本的な流れと見た「自由経済から計画へ」を反転させた。「没落していく西欧」に代わって「進歩」の担い手となるはずだと考えられたソ連やその影響を受けたいくつかの発展途上諸国はその期待を裏切り、むしろある意味では西欧の巻き返しとも見られるような現象が起きたりしている。もちろん、これもまた固定的な状況ではなく、今後も更なる逆転が生じるかもしれない。こうした流れの変化が無限に繰り返されると考えるなら、ある時点での「進歩」というものは、その段階でしか意味をもたない、限定されたものだということになるのではないか(16)。ここで、「進歩」――特に実践的な意味での――というものの意味について正面から考えてみる必要に迫られる。
六
これまで、知的な意味での進歩と実践的な意味での進歩とを基本的に区別しながら、主に前者の問題について論じてきたが、このように考えてくると、どうしても後者の問題に立ち入らざるを得なくなる。前の方でも触れたが、カー自身が両者を重ね合わせて理解しているという事情があるからである。そこで、その重なり方について、改めて確認してみよう。
歴史とは現在と過去の対話だという言葉は有名だが、本書には、実はもう一つそれをうけた形で、未来と過去の対話という捉え方がある。歴史上の事実にせよ、それらの間の因果連関にせよ、無数に存在しているわけだが、歴史家はそれらの中から特に重要と考えられるものを選び出す。その際、何が重要かの基準は、未来に対するヴィジョンによる。「未来だけが、過去を解釈する鍵を与えてくれる」(一八二頁)。こうして、「過去の諸事件と次第に現われてくる未来の諸目的との対話」としての歴史という見方が打ち出される(一八二‐一八四頁)。それは「歴史における方向感覚」の重要性とも表現されている(一九七頁)。単純に言い換えるなら、歴史が今後どのような方向に動いていくか、また動いていくのが望ましいかという未来へのヴィジョンが歴史家の視座を規定し、そのような視座に立って歴史家は過去と対話するということだろう。ここには、実践的な意味での「進歩」――社会にとって望ましい方向への変化――のヴィジョンが歴史研究のあり方を規定し、また歴史研究の結果がそのヴィジョンの再形成を促すという相互関係が想定されており、そうした相互作用の展開こそが知的意味での「進歩」でもあるという考えが示されている。
そのような相互関係が一応想定されるとして、では、何が「進歩」なのか、「望ましい変化」なのかということの判断基準が問題となる。これもまた哲学的に掘り下げていくなら、果てしない泥沼のようなことになるかもしれないが、とりあえずごく常識的な議論として、かなり緩やかな基準で考えるなら、大多数の人に共有される「望ましさ」を想定することができないわけではない。たとえば、いわれなく苦しむ人が少なくなること、誰もが自由な自己実現の条件を与えられるようになること、物質的にも精神的にも豊かな生活ができるようになること(但し、これは環境破壊その他のマイナス面によって相殺されない限りという条件付きだが)等々といった目標を挙げるなら、これらが望ましいものだということは、抽象論としていえば、大多数の人が同意するだろう。
しかし、厄介なのはむしろここから先にある。望ましい様々な目標がすべて重なり合うなら問題ないが、そういうことはむしろ稀だろう。そこで、それらが相互に両立可能でない場合に、ある面でのプラスと他の面でのマイナスとをどのように総合して考えたらよいのかという問いが出てくる。特に、プラス面を享受する人とマイナス面を担わされる人とが同一でない場合に、両者を差引勘定することが許されるのか。また、ある時期のマイナスがその後の時期のプラスによって償われるとしても、それまで生き延びることのできない人にとって、それは「進歩」といってよいのか、という疑問が出る。
もし一人一人の個人をかけがえのない価値と見る立場に立つなら、たとえ多くの人の幸せのためだとしても、他の誰かを――後者の方が少数派だとしても――犠牲にしてはならないということになる。個人主義を基本原理とする経済学においては、他の誰をも不利にしないような資源配分変更ということを問題にし、そのような変更が起こり得ないような状態を「パレート最適」と呼ぶ。しかし、現実の歴史においては、誰かを不利にしながら他の誰かが有利になるということが――経済学的には不合理なことだが――頻繁に起きている。その場合、有利になる人が少数だったり、その有利さがごく小さなものだったりするなら、社会全体にとっての改悪だということが容易にいえるが、もし多数の人が相当大きな利益を得たなら、どう考えるべきか。犠牲にされた少数者のことは無視してもよいのだと言い切るなら冷たすぎることになる。かといって、現に多数の人が大きなプラスを獲得できたのであるなら、彼らに対して「お前たちはそんなことをすべきでなかった」とお説教しても、結果を覆すことはできないだろう。歴史はそういう風にして動いていくものなのである。
カーはこの問題をはっきりと意識している。「代償を払う人間が利益を得る人間と一致することは稀にしかない」という指摘である(一一七‐一一八頁)。一八‐一九世紀イギリスの工業化は、農民の土地からの追放、劣悪な労働条件、児童労働の搾取などといった犠牲を伴いつつ、進歩を実現した。西欧諸国によるアジア・アフリカの植民地化は植民地住民の犠牲において、本国の経済発展のみならず植民地におけるその後の進歩をも準備した。しかし、植民地時代に苦難をこうむった人たちは、今日の進歩の果実を味わう前に死んでしまった。こうして、歴史における進歩は、その苦難をこうむった人たちに間に合うように報いをもたらしてくれるものではない。にもかかわらず、それらはやはり「偉大で進歩的な達成」だったのであり、進歩を押しとどめて、工業化をしなかった方がよかったなどという歴史家はいない、とカーはいう(一一六‐一一七頁)。
このような議論をうけて、カーはエンゲルスの「歴史の女神は死骸の山を越えて勝利の戦車を引いていく」という言葉を引用している(一一八頁)。これは、膨大な犠牲(悪)を伴ったにしても、それでも進歩(善)がいえるという判断である。やや前の方に、「より小さな悪」「善となるかもしれない悪」「進歩の代償」といった表現がある(一一五頁)のもこれと関係する。「より小さな悪」といえども「悪」である以上、それを安易に肯定してよいのかどうかは、深刻に考えるなら難問である。しかし、善か悪かの選択ではなく、「より大きな悪」(と思われるもの)と「より小さな悪」(と思われるもの)の間の選択が迫られるという状況は、現実問題として、非常にしばしば我々を取り巻いている。その場合、多くの人は、大なり小なり良心の痛みを感じながらも、「より小さな悪」(と思われるもの)をとろうとするだろう。
この問題は、やや文脈が異なるが、歴史研究においてどのような事実を取りあげるかという問題とも重なりあう。現に達成され、「進歩」を促進した事実を重視するカーの歴史観からは、「歴史は否応なしに成功の物語(a success story)になる」。歴史は人々が行ないそこねたことの記録ではなく、何を行なったかの記録だからである(一八七頁)。これは「勝てば官軍」史観に近づく。実際、彼自身がThe losers pay.と述べている個所もある(一一四頁)。但し、「勝てば官軍」という言葉を使っているからといって、単純にそれだけですべてを割り切っているわけではない。「成功の物語」ということを述べた個所のすぐ後では、「しかし」を多用して、幾重もの留保を付けている(一八八頁)。主流派だけでなく反対派をも視野に入れるべきこと、辛勝を独走のように描いてはならないこと、敗者が勝者と同じ程度に大きな貢献をしたこともあること等々である。そのような留保をつけた上でではあるが、歴史家は勝者にしろ敗者にしろとにかく何かを成し遂げた人を問題にするのだ、というのがカーの主張である。やや自己流に敷衍するなら、ある時点で「歴史の敗残者」として屑籠に捨てられた人がかなりの時間を経てから再評価されるなら、そのことによって、その敗者も歴史研究の対象として復活する。しかし、いつまで経っても屑籠に消えたままの人もおり、そういう人をほじくり出すのが歴史家の課題ではない、ということになるだろう。このような見方は、敗残者や犠牲者に対して冷たいのではないかとの疑念もないわけではないが、無数の対象の中から限られた事例を選び出さねばならないという制約の中では不可避ということかもしれない。
さて、以上にみたような歴史観はカー自身の主張として提示されているが、同時に、歴史家なら誰もがそう考えるはずだという書かれ方をされてもいる。一九六〇年代イギリスの知的状況に通じているわけでないので、漠然とした想定をすることしかできないが、おそらく当時はまだ人間の理性およびそれを通した進歩というものへの期待感が一般的にかなり大きかったという事情があるのだろう。将来の進歩への期待が大きければ、犠牲は相対的に軽視されるし、他方、期待が小さければ、犠牲の重みが増大する。産業革命は種々の犠牲を伴ったにしても偉大な進歩だというのがほとんどすべての歴史家の共通見解だとカーはいうが、おそらく今日では、機械打ち壊し(ラッダイト)運動などを単純に「無知蒙昧な反動」と片づけられないという考えが当時よりも強まっているだろうし、「進歩」という言葉そのものが全体としてかつてのような輝きを失っているように思われる(17)。
この問題は人間の理性をどこまで信頼できるのかという論点とも関係する。カーは、おめでたい理性万能論者というわけではなく、「理性の濫用」という問題にも言及している。だが、これに対する回答は、一つには、どのような発明・新技術もマイナス面を伴ったが、だからといってそれらのなかった過去に戻るわけにはいかないということ、そして第二に、理性の濫用による悪を克服するのも理性によるのだ、というものである(二一六‐二二〇頁)。ここにも、マイナス面を承知しながらも全体としての進歩に期待を寄せるというカーの基本姿勢が示されている。
本書刊行後の数十年間の歴史がこの問題をますます大きく、かつ深刻なものにしたということはいうまでもない。新しい科学・技術革命、情報通信技術の飛躍的革新を軸とする社会経済変動、遺伝子技術などを含む科学の実生活への応用などは明らかに人間理性の飛躍的拡大であると同時に、その濫用が取り返しのつかない災厄を招くのではないかとの危惧を広めてもいる。社会主義経済の破綻と関連して、「啓蒙的理性の倨傲」という問題――これはドストエフスキーやトクヴィルが先駆的に提起した問題でもある――が改めてクローズアップされてもいる(18)。カーの本書第二版の序文および準備ノートは、そうした状況を彼も意識していたことを示しているが、種々のペシミズムを強める要因にもかかわらず、依然として楽観主義者としてとどまろうという姿勢が基調となっている。
二〇世紀の歴史において、人間理性や進歩への信頼を揺るがすような事例は、いやというほどたくさんある――ホロコースト、スターリンのテロル、核兵器開発、社会主義の崩壊、地球環境の大規模な破壊等々を挙げるだけで十分だろう。では、ひたすらなペシミズムしか結論はあり得ないのだろうか。そのように考えたくなる気分にときとして襲われはするものの、それでも何とかして生きていこうとするなら、自暴自棄やシニシズムの解毒剤として、穏やかな楽観論ともいうべき姿勢が不可欠なのかもしれない。カーの叙述には、そうした考えを示唆するかにみえる個所もある。「進歩の観念がなかったら、一体、社会はどうして生き延びて行くことが出来るのか、私には判りません」(一七七頁)、「未来へ向かって進歩するという能力に自信を失った社会は、やがて、過去におけるみずからの進歩にも無関心になってしまうでしょう」(一九七頁)といった記述である。
これは穏当な議論だと私も思う。実際、将来への予測がひたすら暗いものばかりであるなら、人は生きていくことも、ましていわんや子を産み、育てていくこともできない。確証があろうがなかろうが、とにかく人が前向きに生きていくのは、何らかの希望に支えられてこそである。だから、このカーの主張自体に反論するつもりはないのだが、ただ、その議論の性格をもう少し突っ込んで確認しておく必要があるように思う。右の二つ目の引用文で「自信」と訳されている語の原語はbeliefであり、この引用個所の前後にも何度か同じ言葉が使われている。beliefとはいうまでもなく「信念」とも「信仰」とも訳される言葉であり、訳書でも「信仰」という言葉があてられている個所――たとえば「進歩の信仰」(一八五頁)――もある。カーは歴史は科学だと強調しているが、これらの個所では、科学よりもむしろ「信念」ないし「信仰」に立論の基礎をおいているようにみえる。
理性の濫用の危険があるからといって非合理主義や神秘主義に走っても建設的な結論は出てこないというカーの指摘(二一九頁)はまっとうなものであり、そこから、たとえ一〇〇%の保障はないにしても我々はとにかく理性によって生きていくしかないと結論することもできる。しかし、それは「理性以外のものを当てにすることはできない」というネガティヴな指摘に過ぎず、「理性を信頼することができる」というポジティヴな命題の論証ではない。ここには、微妙ながら重要なギャップがある。前者はかなりの確度をもって主張することができるのに対し、後者はまさしく「信仰」の対象でしかないのではないか。カーよりも後の時代の、あまりにも多くの悲観的現実を見てしまった我々としては――あるいは、ここで一人称複数を使うべきではなく、よりペシミスティックな体質をもつ私は、と単数形でいうべきなのかもしれないが――「信仰」はかろうじて共有したいと思うが、その「信仰」が現実によって裏付けられるか否かについては、分からないとしかいいようがないと思う。おそらくカーと私の判断が分かれる最大の点はここにあるだろう。
七
最後に、カーの「進歩」観が試される最大の具体例としてのロシア革命およびソ連史について考えてみたい。いうまでもなく、これはカーがその後半生に心血を注いだ研究テーマであり、そして、そのようにソ連史を重要視するということ自体の中に、世界史におけるソ連/社会主義の重要性という判断が潜在している。この判断は、今日では多くの人によって異を唱えられるだろう。
誤解を避けるために断わっておかねばならないが、カーのソ連観は基本的にはその歴史的意義を高く評価するものだが、だからといって、彼のソ連史叙述は決してソ連の歴史を美化するものではなく、その中の汚点についても冷静な筆致で描いている。汚点があるからといって敢えて呪詛まではしないという点に欧米学界における彼の特異性があるが、ともかく彼のソ連史研究はその包括性、バランスの良さ、しかも広汎な論点のほとんどすべてについて厳密に第一次資料を渉猟して書かれているという実証性などの点において抜きんでており、現代歴史学の最高峰に位置するということは、立場を超えて認められている。ここでの問題は、カーのソ連史叙述それ自体ではなく、その研究を推し進めた背景としての歴史観にある。歴史観は作品を生み出す原動力となるものだが、原動力が人々に共有されるかどうかということと、結果的に生み出された作品がどのように評価されるかということとは一対一的に対応するものではない。カーの場合、結果としての作品は――もちろん個々の論点についてはその後の研究の進展によって修正される余地があるが、全体としてみれば――誰もが高く評価するものだが、そのことと原動力についての評価は異なるというのがここでの問題である。
欧米のソ連史研究者の中でカーと対照的な立場をとる人たちは決して少なくないが、典型的な代表の一人としてリチャード・パイプスを挙げることができる。冷戦期に対ソ強硬論のイデオローグでもあった彼は、ソ連解体の数年後に書いた概説的著作で、自らの先見の明を誇る調子で、次のように書いている。ソ連史は膨大な規模で種々の惨禍を生みだしたが、「そのような前例をみない惨禍を、感情に動かされずに見ることができるであろうか、また、見るべきであろうか。(中略)。激情のさなかに生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに、理解することができるというのであろうか。十九世紀ドイツのある歴史家は『歴史は怒りと熱狂をもって書かれねばならないと、私は主張するHistoriam puto scribendam esse et cum ira et cum studio』と、書いた。アリストテレスは、あらゆる問題において節度を説いたが、『憤りを欠くこと』が受け入れがたい状況がある、『怒るべきことに怒っていない人々は、馬鹿と思われるからである』と述べている」(19)。
ここでパイプスは批判の対象を名指していないが、カーが主要標的として念頭におかれているのは確実である。もっとも、先に述べたように、カーは一般論としては価値判断を否定しておらず、ただそれを個人道徳ではなく社会集団や制度についてみようとしているのだから、カーが一切の価値判断を拒否しているかに捉えるのは誤解である。その上で、ロシア革命およびソ連の評価は、やはり両者の間で大きく分かれる。カーは、「死骸の山を越えて」という表現に見られるように、数多くの犠牲があったことを承知の上で、なおかつ「進歩」と捉えるが、パイプスはそうした姿勢を許せないとするのである。では、この対抗をどのように考えるべきだろうか。
もしカーがソ連史における種々の惨禍を見落とし、現実を美化して描いていたのであるなら、それは歴史家として大きな欠陥とされなくてはならない。しかし、先に述べたように、カーはそのような誤りを犯したわけではない。問題は、見落としたかどうかではなく、それをどのような歴史的展望の中におくか、そしてそれと関連して、熱を込めて呪詛するか淡々たる記述にとどまるかといった点にある。この問題を考える際に、パイプスが意識してかせずにか触れずにいる論点を思い起こす必要がある。それはイギリスその他の国の初期工業化やアジア植民地化との比較である。カーは前述のように、イギリスの工業化について、それは多くの惨禍と犠牲を伴ったが、それでも全体として偉大な進歩だったとする評価を前提し、それと同様な評価をソ連の工業化にも当てはめたのだった。これに対し、パイプスはイギリスその他の初期工業化や植民地支配の犠牲については触れていない。
この問題を考えようとしたときに私の頭に思い浮かんだのは、やや古い文章だが、フォン・ラウエの鮮烈な比喩である。それはロバート・コンクェストとの論争の中で提起されたものであり、比喩自体は先ずコンクェストの方から提出されている。後者は、「スターリニズムが工業化実現の一つの方法だというのは、人肉を食うのも蛋白質摂取の一つの方法だというようなものだ」と述べて、たとえどのような目標のためにもせよ、このように非人道的な手段を許すことはできないのではないかと問いかけた。この問いに、ラウエは次のように応答する。コンクェストの指摘には確かに一面の真実がある。しかし、その喩えでいうなら、アンデス山脈で飛行機事故に遭い、人の肉を食ってようやく生き延びた人と同じような状況にソ連はあったのだ。人肉を食う行為に共感できないのは自明だ。しかし、そのように飢えて追いつめられた人を批判する道徳的権利を、われわれ肥え太った金持ちはもっているのだろうか(20)。これは厳しい響きをもった議論である。確かに、栄養過剰・肥満・生活習慣病に悩み、ダイエットに明け暮れる「先進国」の人々が、栄養不足で生きるか死ぬかの状況にある人の非道徳的行為について高みから見下ろして批判するのは、ここで指摘されているような偽善性を免れないだろう。
このラウエの文章はソ連解体よりも前のものだが、ソ連解体後に噴出した議論を先取り的に批判したもののようにも読める。確かに、スターリン時代の工業化は大規模な飢饉や大量テロルなどの巨大な惨禍を伴っていた。そのことは、誰も否定することのできない事実である。それを、「それでも進歩に貢献した」ととるか、「これほどにも大きな犠牲は決して正当化できない」と考えるかは、争う余地があり、現に争われ続けている。ただ、もし後者の観点をとるなら、その際に、批判者が「肥え太った金持ち」の観点から高みの見物をしているのではないのかという問いにさらされることだけは覚悟しておくべきだろう。
やや乱暴に整理するなら、論理的には四通りの立場がありうる。@資本主義的工業化であれ、社会主義的工業化であれ、それに伴った惨禍はあまりにも大きなものだったから、それを「進歩」などとして肯定的に見ることはできないという進歩否定論。Aどちらも種々の犠牲を伴ってはいたが、それでもやはり「進歩的」だったとするカーのような立場。B資本主義的工業化は進歩的だったが、社会主義はそうでないとする立場。C社会主義的工業化は進歩的だが、資本主義はそうでないとする立場。これらのうち、かつてソ連の公認イデオローグによってCが鼓吹されたことがあり、それが権威を失墜したことの反作用的な結果として、Bが興隆しているというのが昨今の状況である(パイプスもその一例)。だが、BとCは、結論こそ逆向きであるものの、どちらも手前勝手なダブルスタンダードをはらんでいるという点では同質である(21)。これに対し、@とAはともに論理的には一貫性がある。そして、「進歩」への疑念が増大した今日にあって、カーのような考えをより根底から批判するのはパイプスのようなBではなく、むしろ@の進歩否定論かもしれない。とはいえ、進歩というものを全面的に否定し尽くしたとき、そこにどのような積極的な歴史像なり価値観なりが生み出されるのかは定かでない。
敢えて私自身の観点をいうなら、前項で述べたように、「進歩」というものにそれほど楽観的にはなれず、従って、巨大な惨禍を伴ったスターリン的工業化を「それでも進歩的だった」とまで言い切る気はないが、さりとて、史上数限りなく存在した人類の蛮行を棚に上げてソ連のみを一方的に呪う気にもなれない。また「反進歩論」の立場に対しては、心情的に惹かれるものがないわけではないが、それをそのまま結論とすることにはためらいがある。いってみれば、カーのような「進歩」信仰を抜きにした上で、かといって、種々の汚点を呪詛する――@の立場からにせよBの立場からにせよ――こともなしに、一種の諦念をもちながら惨禍と熱狂の両面的過程を描くのが私なりのソ連史ということになるだろう。
(1)原書初版は一九六一年、邦訳は一九六二年刊。また英語での第二版が著者死去後の一九八六年に出ている(次注に記すような序文と準備ノートが付けられているが、本文自体は初版と完全に同じものである)。以下では、便宜上、邦訳書の頁数を記すが、必要に応じて原書第二版を参照し、訳文は多少変更する場合もある。
(2)このことは、死後に刊行された第二版の序文(この原稿は死の直前に完成されていた)および第二版のための準備ノート(編者デイヴィスが要約的に紹介している)からも強く印象づけられる。カーは初版刊行後の一九六〇年代から八〇年代初頭にかけて台頭した様々な新しい知的潮流――フランクフルト学派、構造主義、トマス・クーンやマイケル・ポラニーの科学論、アナル学派等々――についても、かなり丹念な注意を払っている。これは、初版の時点で彼が既に七〇歳近かったことを思えば、驚くべきことである。
(3)「新しい」歴史学についての概観として、ピーター・バーク編『ニュー・ヒストリーの現在――歴史叙述の新しい展望』人文書院、一九九六年。また、その一つの代表的潮流である「言語論的転回」についての批判的検討として、ゲオルク・G・イッガース「歴史思想・歴史叙述における言語論的転回」『思想』一九九四年四月号、遅塚忠躬「言説分析と言語論的転回」『現代史研究』第四二号、一九九六年、小田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』第一〇九編第九号(二〇〇〇年九月)参照。これらはいずれも、「言語論的転回」の問題提起的意義を認めつつ、そのまま追随するのではなく、それを史学がどのように受けとめるかを考えようとしているようにみえる。
(4)本文で見たのとはやや離れた個所に、「関係の客観性」という表現があり(一七八頁)、これは示唆的な言葉である。だが、関係が客観的であるとはどういうことなのかについて立ち入って論じているわけではない。
(5)見方によっては、ここまでさかのぼらないと歴史もきちんと論じられないという考え方もあり得る。この点については別の機会に考えてみたい(中途半端で断片的な言及だが、金森修『サイエンス・ウォーズ』に関する読書ノートである程度触れた)。
(6)カーはここで、カエサル以前にもそれ以後も何百万という人がルビコン川を渡ったが、そのことは「一向に誰の関心も惹かない」という例を挙げて、無数の「事実」の中から特定のものだけが「歴史的事実」として認定される事情を説明している(九頁)。この説明に対し、「ニュー・ヒストリー」の立場に立つジム・シャープは次のように批判している。カーのこの文章は、カーが輸送、移民、地理的移動性の歴史について思いをはせなかったことを物語る。同様の別の例では、カーが犯罪の歴史に関心がなかったことが分かる。カーに代わるべき新しい歴史入門書は、下からの歴史と近年の社会史の広汎な発展に基づいて、過去に対するもっと広い見解をとるべきだ、というのである。ジム・シャープ「下からの歴史」ピーター・バーク編『ニュー・ヒストリーの現在』四八‐四九頁。私見では、この批判は底が浅い。確かに、カーは、後の社会史が重視するような一連の事項への関心をあまり示しておらず(皆無だったわけではないが)、その意味で視野が狭かったということは、言って言えなくはない。しかし、それは、ある時点に立って過去の学者の説を振り返り、「昔の人は知恵が浅かった」というようなもので、生産的な批判ではない。問題の個所で、カーは無数の「事実」の中から何を有意味な対象として選択すべきかという問題を論じており、それは絶対的に固定されたものとして予め与えられているわけではないということを指摘している。だから、ある時点でカーおよび彼の同時代の多くの歴史家たちが「意味なし」として切り落とした事項について後の歴史家たちが「意味あり」と認定するというような変化の余地があることは、カー自身よく承知していたのである。問題は、ただ単に「切り落とす」か「視野を広げる」かといったところにあるわけではなく、もう少し別のところにある。いくら「広い見解をとるべきだ」といっても、文字通りにありとあらゆることを論じることは不可能であり、何らかの取捨選択は不可避である。カーを批判する筆者(ジム・シャープ)自身、社会史が「左翼版の故事来歴学」に堕することへの警戒心を示している。では、何が「有意味」であり、何が「単なる故事来歴学」なのか、その基準をどうやって確定するのかということが問題となる。この問いには、カーもシャープも、ともに答えていない(この注は二〇〇一年一一月に追加)。
(7)私見を付け加えるなら、この一般化可能性という問題は、どのような文脈で対象を取りあげるかによっても異なりうる。ある日にトロツキーが風邪を引いて重要な会議に出席できなかったという事実は、政治史の文脈においては単なる「偶然」とされる。どういう政治家がどういうときに風邪を引くかは一般化して捉えることができないからである。これに対して、医療史の観点からは、人はどういう条件下にあると風邪を引きやすいのかということが一般化可能性をもつテーマとなるかもしれない。
(8)話がやや逸れるが、日本を含む現代社会では「科学」というものの価値を非常に高いものとする一般的傾向があるため、科学と人文学の区別論は、「人文学などは厳密性を欠くから科学ではない」という人文学蔑視論の立場から提出されることが多い。しかし、カーがここで批判的に指摘しているのは、それとは全く異なり、むしろ人文学に特権性を保存しようという考えのことである。
(8)とりあえず、リッケルト『文化科学と自然科学』岩波文庫、初版一九三九年を挙げておく。なお、この問題については、ポパー『歴史主義の貧困』についての読書ノートでも触れた。
(10)もっとも、トマス・クーンの科学革命論の考えによるなら、新しい解釈が古い解釈よりも包括的だから前者が後者にとって代わっていくという見方はとれなくなるように思われるが、その点には立ち入らないことにする。
(11)この問題については、かつて塩川『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九四年、一二四‐一二九頁で一度触れたが、そこでは議論がやや不十分だったので、その点を改めて考えてみたいというのがここの趣旨である。
(12)もっとも、ここに挙げた「利子率と失業率の関係」とか「飲酒運転対策と交通事故の関係」といった例は、実は、かなり単純化された因果関係であって、現実の歴史研究をこれと同次元で考えるわけにはいかない。先に触れた「法則定立型」研究と「個性記述型」研究の問題もこれと関わる――後者では、無限に複雑な事象を取り扱い、変数間の関係もすっきりとした数式に示すことができない――だろうが、ここではこの点には立ち入らないことにする。
(13)もっとも、「個人」をまさしく独自の個性をもった個人として捉えるために不可欠な個別的事情や当人の具体的言動に関わるデータは、多くの場合、「大物」についてのみ残されており、「無名の庶民」については統計や社会学的データを通してしか接近できない。その意味では、個性を重視する歴史家が「大物」に着目しがちなのは理解できる。しかし、これはあくまでも接近の便宜の問題に過ぎず、十分な個別的データがなくても「名もなき庶民」が「個人」であることには変わりない。
(14)R. W. Davies, "Review Essay: E. H. Carr," Russian Review, vol. 59, no. 3, July 2000, pp. 442-443.また、ロバート・W・デイヴィス「E・H・カーの知的彷徨――変化するソ連観」『思想』二〇〇〇年一一月号も参照。なお、溪内謙は第二次大戦後のカーについて、ドイッチャーとの対話を経て大きな変化があったとする。溪内謙『現代史を学ぶ』岩波新書、一九九五年、八二‐八五頁、同「E・H・カー氏のソヴィエト・ロシア史研究について」(カー『ロシア革命』岩波現代文庫、二〇〇〇年の解説)、二八九‐二九六頁。これに対し、デイヴィスは第二次大戦後についてはカーの世界観は基本的に一貫していたとして、溪内のいうようなドイッチャーの影響による変化を重視していない。デイヴィスと溪内はともにカーと非常に親しかったし、二人のソ連史観も近い関係にあるが、この点では微妙な差異を示している。
(14)カー『ナポレオンからヒトラーへ』岩波書店、一九八四年、「はじめに」iii‐iv頁。
(15)時間というものの捉え方として、円環としての時間観(季節の変化のようなサイクルが何度となく繰り返されるというイメージ)と直線としての時間観(歴史がある方向に向かって直線的に進歩/あるいは堕落していくというイメージ)とがあり、「進歩」の観念は後者と適合的だということはよく指摘される。これらと対比するなら、私の時間観は、円環でも直線でもなく、不規則な波動ということになるかもしれない。
(16)大学の演習(学部・大学院合併)で本書をテキストとして取りあげたときの討論でも、大多数の参加者がカーの議論にはいまなお学ぶものが多いという感想を述べる中で、ただ一つこの点だけはうなずけないという感想が集中したのが進歩の観念だった。
(17)塩川『現存した社会主義』勁草書房、一九九九年、五一五‐五一六頁。「啓蒙的理性の倨傲」という表現は、井上達夫『他者への自由』創文社、一九九九年、二九頁。
(18)パイプス『ロシア革命史』成文社、二〇〇〇年、四〇四‐四〇五頁。
(19)Theodore H. Von Laue, "Stalin among the Moral and Political Imperatives, or How to Judge Stalin?" Soviet Union/Union Sovietique, vol. 8, pt. 1 (1981), p. 12.
(21)一つの考え方として、次のような議論もありうる。「資本主義的工業化も社会主義的工業化も犠牲と成果の両面があったというだけでは一般的すぎる。その犠牲と成果の規模を測り、コスト・ベネフィット計算をすることで、両者の優劣を論じることができるし、そうすべきだ」。これはこれでそれなりに成り立ちうる考えであり、特に政策論的な発想に立つなら、こういう風に考えるのが自然だろう。ただ、その場合にも、次のようないくつかの難問が残る。@ここでいう犠牲も成果も、それぞれ非常に多様で異質な要素からなるが、それらをどのように計量し、比較することができるのか。A仮に計量が何らかの形で可能だとしても、資本主義工業化・社会主義的工業化ともに様々な異なった国で様々な異なった時期に様々な異なった条件下でなされたのだから、そうした多様性を超えた一般論として優劣をいうことは無意味ではないか。Bコストを担わされた人たちとベネフィットを享受した人たちはしばしば別だから、どんなにベネフィットが大きかったとしても、コストを担わされた人たちにとってそれは何の慰めにもならないのではないか。
*E・H・カー『歴史とは何か』岩波新書、一九六二年。
E. H. Carr, What Is History? Second edition, edited by R. W. Davies, London, 1986.
(二〇〇〇年一一‐一二月)
(補注)
本文の三で、歴史と科学の関係という論点に触れたが、そこにおける「科学」観は、基本的にはカーが本書を書いた一九六〇年代初頭時点の自然科学観を基礎としていた(私自身が中学・高校・大学教養課程で自然科学の初歩を教育されたのも六〇年代のことであり、その後は、そうした世界から縁遠くなってしまった)。その後、半世紀近くの間に「科学」のあり方もずいぶん大きく変わっているから、今となってはカーのような「科学」観は時代遅れだという見方もありうる。ジョン・ギャディスの近著『歴史の風景』などは、そうした観点から、「歴史と科学の関係」を、いわば二一世紀初頭版に書き換えようと試みている*1。私自身は、現代科学の動向に通じているわけではないので、この点について立ち入って論じる資格はないが、あえて漠然たる読みかじり、聞きかじりで言うなら、確かにここ数十年の科学の変化には非常に大きなものがあるようである。
ある時期まで、「科学」といえば物理学が「学問の女王」などといわれ、単純化していうと、物体の運動が微分方程式によって完全に表現されるというようなスタイルが模範例とされていた。社会科学の一部もこれを真似て、たとえば商品の価格体系を連立方程式で表現するような行き方が「科学化」の例とみなされたこともあった。しかし、最近では、むしろ生命科学とか、情報科学とか、認知科学等々の新しい分野が脚光を浴びているようであり、そこにおいて駆使される道具立ても、ゲームの理論、カオスの理論、複雑系の理論等々、かつての数学とはかなり性格を異にするものになっているらしい。そしてまた、そうした手法の人文社会科学への適用も、かつての状況からは大分隔たり、文理融合型の新しい学問が誕生したり、一部の社会科学において最初に開発された数学的手法がその後で自然科学に適用されるといった事態も起きているらしい。こういったことを一九六〇年のカーが予期していなかったのは明白である。だが、だから彼の科学観は古くさい、という一言で切って捨てることができるかどうかは、微妙である。
この読書ノートでも触れたが、『歴史とは何か』の中にも「不確定性原理」への言及があることに窺えるとおり、ニュートン力学に代表される厳格な決定論と因果法則の世界だけを自然科学の典型とみなしているわけではない。また、本書第二版のための準備ノートには、トマス・クーン、ファイヤアーベント、マイケル・ポラニーらへの言及があり、科学的知識の相対性というものがかつて彼が考えていた以上に大きかったという見解が示唆されている*2。歴史および社会科学に関しては、フランスのアナル学派への言及や構造主義への言及があって、この点でも視野が広がっている*3。もちろん、これ自体、中途半端な試みに過ぎないし、十分「現代科学」に近づいているわけでもないから、これでもって「時代遅れ」という批判を退けることができるということではない。しかし、人はみな時代の子であり、その後の科学の発達を予見できなかったからというだけで非難されるべきではない。
ギャディスがその書物で取り上げているカオス、複雑系、フラクタルなどの理論の具体的内容は、私には十分正確には分からないし、今日の一部の社会科学は高度に洗練した数理的方法を駆使して、現代科学の最前線に躍り出ているのかもしれない。だが、それがすべての分野に同じように適用できるわけではない。ギャディスにしても、それらの理論を実際に歴史研究に「適用」しているということではなく、いわば一種の比喩として歴史学への示唆を読みとろうとしているように見える。その中心的なアイディアは、古典力学的な決定論・因果法則性・還元主義などに依拠するのをやめるという点にあるように見えるのだが、それだけのことであるなら、カーの段階でもある程度意識されていなかったわけではない。現代科学に十分通じていない私としては、これ以上立ち入った議論をすることはできないが、科学の新しい動向に注意を払うべきだという主張自体は当然だとしても、カーの科学観は古くさいという一言だけで切り捨てるのは性急と思われる。
*1 ジョン・L・ギャディス『歴史の風景――歴史家はどのように過去を描くのか』大月書店、二〇〇四年(原書は、John Lewis Gaddis, The Landscape of History: How Historians Map the Past, Oxford, 2002)。
*2 E. H. Carr, What Is History? Second edition, edited by R. W. Davies, London, 1986, pp. xxiv-xxv.
*3 Ibid., pp. xxxii-xxxiv.
(この追記は、二〇〇五年三月)