ルース・ベネディクト『菊と刀』
 
 
 このあまりにも有名な著作を、私は若い時期には読まなかった。もちろん、その存在は早い時期から知っていたが、当時は既に本書に対する諸種の批判が出ており、それを耳学問で聞きかじった私は、読むまでもなく分かっているし、その限界も露わだという先入観をいだいてしまったのである。にもかかわらず、「あれほど長い期間批判され続けつつ、それでも一種の古典としての地位を占めているのは何かあるのかもしれない」という気のすることも時折あった。そんなわけで、私の中で文化人類学への関心が高まったときに、とりあえず一応読んでみようという気を起こしたわけである。
 
 
 先ず何よりも強い印象を受けたのは、第一章で述べられている方法論が私の先入観とは相当違うものだったという点である。本書を読む前にいだいていた先入観をいうと、西欧にとっての異文化としての日本文化への内在的理解を欠き、日本文化と西欧文化を「恥の文化」と「罪の文化」という単純きわまりない二分法であっさりと割り切る図式主義、というものだった。しかし、実際に読んでみると、少なくとも第一章における方法論は、そのような図式主義ではないし、自文化中心主義を免れるべく最大限努力し、異文化を内在的に理解しようという姿勢で貫かれている。
 ルース・ベネディクトはもともと日本専門家ではなく、一度も日本に来たことがなかった。そういう人が、一九四四年六月に米国戦時情報局から日本研究の仕事を委嘱され、それからわずか二年後にこの本を刊行した――こうした外面的事実だけから想像すると、当時アメリカの敵国だった日本をごく皮相に観察し、「罪の文化」という劣等文化をもつ国として見下した作品ではないかという気がするのも自然である。少なくとも、私の先入観はそうだった。ところが、彼女は本書の初めの方で、先ずこう宣言する。「戦争中には敵を徹頭徹尾こきおろすことはたやすいが、敵が人生をどんなふうに見ているかということを、敵自身の眼を通して見ることははるかにむずかしい仕事である」(文庫版、九頁)。 
 日本社会の中に住み、現地調査(フィールド・ワーク)をすることができないという事情が非常に大きな不利を意味するということを、文化人類学者である彼女はよく知っていた。その困難を乗り越えるため、彼女はいくつかの工夫をしている。その一つは、アメリカにいる日本人との面接調査を系統的に行なうということである。これは、いわば現地調査の代替物といえる。それが本物の現地調査とは異なることはいうまでもないが、後者が不可能だという現実の中で、その限界をわきまえつつ、代替手段を最大限探るという態度は、決して安易なものではない。
 また、文献資料を読むときには、書かれていることをただ読むというのではなく、「日本のことについて書く日本人は、本当に重要な事柄を、それらが彼にとって、彼が呼吸する空気と同じように慣れきった事柄であり、眼につかない事柄であるために、見のがしてしまう。アメリカ人がアメリカについて書く場合も同じである」ということを常に念頭におき、「この絵はどこが変なのか」という問いを発しながら読むよう努めた(一二頁)。当事者にとってあまりにも自明であるために意識化されず、それゆえ正面切っては取り上げられないことを読みとるには、書かれていることの背後に前提されていることを探るという読み方が必要とされるというわけである。
 彼女はこうして面接調査をしたり、文献資料を注意深く読んだ他、日本映画をたくさん見た。それは宣伝映画、歴史映画、東京や農村の現代生活を描いた映画など、多岐にわたる。そして、同じ映画を見た日本人が彼女とはどのように違う見方をしたかを調べ、自分の見方とつきあわせる作業を行なった。小説についても同様である。
 このようにして手がかりを収集する一方、彼女は文化人類学者としての経験を最大限に活用した。それはただ単に、多くの文化を知っているというだけのことではなく、自分自身の文化と他の文化との差異という事実に慣れているということである。特に重要なのは、「人びとが自分自身の生活様式を防衛することにきゅうきゅうとしていて、生活様式といえば、これが世界で唯一の解決法である、と信じている時には、〔文化の比較研究は〕とうてい栄えることはできない」という認識である。それは、アメリカ人が「われわれにお気に入りの信条を、世界中の国民が採用することを強要する」ような態度への批判を意味する(二二頁)。つまり、彼女の態度は決して、アメリカ的生活様式を人類普遍のものとして押しつけようとする自文化中心主義(エスノセントリズム)ではなく、むしろそれへの批判が根底にある。「寛容」ということの重要性が強調されているのもそれと関係する。
 このような文章を読んで私がベネディクトに同情したくなるのは、かつてのソ連研究との間にある種の類似性があるからかもしれない。現地調査がほぼ不可能だったとか、「西側陣営」にとっての「敵」という関係が前提されていたため、内在的な理解が困難だったというような事情がすぐ思い浮かぶ。そうした困難を克服するため、ソ連研究者は、種々の工夫を重ねてきたが、その工夫とベネディクトの努力との間には一定の共通性がある。
 例えば、現地調査の欠如を埋め合わせる手段としての移住者調査がある。第二次大戦の直後に、戦時・戦後の混乱の中で欧米に移住した元ソ連人を対象とする大規模な社会学調査が行なわれたことがあるが、これはアメリカのソ連研究の出発点となった。この社会学調査には文化人類学者も協力しており、ベネディクトとの共通性は偶然ではないだろう。もちろん、当時の調査と分析は比較的浅いものにとどまっていたが、それを更に深める努力も継続的に払われた。一九七〇年代のアメリカで、「第三の波」と呼ばれた亡命ソ連人の社会学調査が改めて行なわれたのはその代表例である(1)
 文献資料の背後にある暗黙の前提を読みとる――いわば「行間を読む」――という手法もまた、共通する点である。ソ連専門家の間では常識だが、非専門家の間ではあまり知られていないこととして、かつてのソ連で公刊された資料類は、量的にはきわめて多く、その意味では、「資料の欠如」を嘆くことはできない。それらが強い政治的・イデオロギー的統制下にあったのは当然だが、そのすべてが無内容なプロパガンダとばかりは限らず、それなりに興味深い情報を盛った文献もかなりの量にのぼった。ただ、その社会的文脈や表現法が独自であるため、その読解には独自の技法を要した。特に重要なのは、「何が書かれているか」だけでなく、「どのように書かれているか」「何が書かれていないか」「何が暗に前提されているか」などにも注目する必要があるという点である。
 話がやや飛躍するが、二〇世紀後半の哲学・思想界における大きな新動向として「言説」という概念が注目され、資料を「テキスト」として読むなどといったことが歴史学においても盛んに論じられたりしている。私自身はこうした動向にあまり通じていないし、また多くのソ連研究者もそれを意識してはいなかっただろうが、言説を事実の(一定の歪みをもった)反映として読むというのではなく、むしろ「いかに語られているか」に着目するという限りでは、「言説」の重要性という問題に無意識のうちに気づいていた面があるのではないかという気がする。容易に解読できない材料を扱わざるを得なかったからこそ、ソ連研究者は、その方法意識を研ぎすまさざるを得なかったのである。
 文学作品や映画を、その国の社会を理解するための素材として活用するという点も、共通の事情である。もっとも、異文化理解のために文学や映画が役立つというだけであれば、どの国についても同様であり、特にソ連研究の場合に限るわけではない。ただ、ややもすれば、「ソ連の文学作品は――特に、当局の許可を得て公刊されたものは――くだらないものしかなく、深い洞察を与えてくれるものではない」と思われがちだったため、この方法を採ることの意義が他の国についてのように自明ではなかったという点に特異性がある。確かに、ソ連の文学作品はいわゆる「自由主義」諸国におけるのとは異なった環境のもとで生み出され、その文脈に特殊な配慮が必要だが、注意深い読み方をすれば、決して無意味・無価値なものばかりだったわけではない。たとえ芸術的には二級とされるような作品であっても、また政治的プロパガンダの色彩を帯びたものであっても、その中に、異文化理解の素材たりうるものが潜んでいたのだが、そのことは、かなり意識的に努めてなくては明らかにされなかったのである。私が何人かの友人とともに翻訳したM・シートン=ワトソン『文学作品にみるソヴェト人の息吹』(2)という作品は、一見ありふれた「公認の」ソ連文学を通じてさえも、ソヴェト体制下に生きる人々の生活感覚を感じ取ることが可能だということを見事に示している。映画についても事情は同様である。かつてのソ連映画というと、一部の「映画通」が着目するような芸術性の高いもの――タルコフスキーとかパラジャーノフらの作品のような――だけが突出し、それ以外のものは無価値なものと決めつけられがちだったが、実は、むしろ通俗作品の中に「ソ連的庶民」の生活感覚が――もちろん、独自のバイアスを含んでであるが――表出されていたりしたのである。
 こうして、確かに非常に不便な制約はあったが、そうした条件の中で、苦労を重ねて深い洞察に達した研究もいくつかあった。現地調査(フィールド・ワーク)が――あるいは歴史研究の場合では、公文書館(アルヒーフ)における原資料調査が――できないなら本格的な研究は不可能だ、と思われがちだが、実際にはそう単純な関係があるわけではないのである。一般に、制約というものは、「それをどうやって乗り越えるか」を考えさせることで、人を鍛えるものでもあるという真実が思い起こされる。
 このことは、ソ連解体後に、いわば逆の面からも確証されることになった。ソ連崩壊は外部の研究者による現地調査を可能にしたが、それは直ちに社会科学的研究の深化をもたらすわけではなかった。この点でもベネディクトの叙述は示唆的である。彼女は、社会学者や心理学者が行なう調査と統計的研究について、次のように述べる。即ち、「アメリカ人はアメリカにおける生活の営み方を知っており、それを当然のこととして仮定している」からこそ、そうした研究が可能なのだが、これに対し、「他国を理解しようとするに当たっては、その国の人たちの習慣や仮定に関する質的研究を組織的に行なった後にはじめて、数量的調査を有効に利用できるのである」(二四頁)。この指摘は、異文化研究に当たって、その社会的文脈を十分踏まえないままに、自国で開発された研究技法を安易に当てはめようとする傾向への鋭い批判である。
 彼女の批判は、ソ連解体直後のロシア研究への警告としても読むことができる。実際、「その国の人たちの習慣や仮定に関する質的研究」をなおざりにしたままで、欧米社会における「生活の営み方」を「当然のこととして仮定」した調査が行なわれる――しかも、「ソ連時代には不可能だった、はじめての本格的社会科学的研究」という触れ込みのもとで――という傾向がある。これは外観的には、本格的研究の隆盛化を意味するかのようにみえるが、実際には、「砂上の楼閣」の増大となりかねない。
 
 
 こうして、第一章の方法論には共鳴するところが多いのだが、にもかかわらず、第二章以下の本論に入ると、種々の違和感を免れない。ここで描かれている「日本人」なるものの特性を、今日の私は、あまりリアルなものと感じることができない。ところによっては、滑稽な感じをいだかされることもある。やはり、読む前にもっていた先入観が当たっていたのだろうか。
 本論の叙述に違和感をもつ理由としては、いくつかのものが考えられる。
 一つは、彼女の分析が自らの方法論を裏切っているという可能性である。ダグラス・ラミスが批判するように、戦争の中で「アメリカ社会およびアメリカ権力との和解」が生じ、いわば、アメリカ人としての愛国心が発露されて、それまでにもっていた優れた方法論を適用し損ねたという解釈である(3)。実際、いくつかの個所では、自文化中心主義(エスノセントリズム)批判の視角が徹底されていないようにも見える。もっとも、ラミスは、「『菊と刀』においては文化の相対性という自己批判精神が完全に消え失せ、その代わりに自信に満ちた征服者の態度つまり寛容が表面に出てきた」というが、これはやや言いすぎのような気がする。本書には、アメリカ流の原則を日本人に押しつけるのは、「民族的自己中心主義の誤謬を犯すものである」と述べた個所もあるからである(一七四頁)。ただ、そこにおける異文化への寛容の主張には、「高い者が低い者に対してとってやる」姿勢という恩着せがましさの臭いがないでもない。その点ではラミスの批判もある程度当たっているだろう。
 あるいはまた、文化の「型」という発想自体に問題があるのかもしれない。世界中には多数の「型」があるが、一つの社会には一つの「型」が対応する、という想定がベネディクトの方法の基礎にあるような気がする。その結果、ある国の人々の多様性を軽視して、一つの国に住んでいる以上、時代や社会層を超えて共通の「型」をもっているはずだと暗に想定し、過度の単純化をおかしがちであるのかもしれない(4)
 だが、それだけではないのではないか、という気がしてならない。本書の叙述は、確かに、ところによってはあまりにも図式的だが、しかし、ごく大きな捉え方としては、その当時の日本人の精神構造をかなりよくとらえているようにみえる。ついでにいえば、有名な「恥の文化」と「罪の文化」という図式はただ一個所(第十章の終わりの方)で出てくるだけであり、決してこの単純なキーワードで全編を割り切っているわけではない。本書が長きにわたって読みつがれてきたのは、かなりの程度、当時の日本人の実態をよくとらえているからこそではないか。だとすれば、今日のわれわれ(私)が本書に違和感をもつのは、本書が日本文化をとらえ損なっているせいではなく、著者の研究対象である戦前・戦中の日本人が今日の日本人と相当隔たっているという事情によるのではないか、という気がする。
 私自身は戦後生まれなので、本書で描かれている当時の日本と日本人を直接には知らない。しかし、子供時代から青年時代にかけて年長者から聞いてきた「世の中とは、日本人とは、こういうものだ」という話を思い起こしてみると、本書の叙述とかなりの程度合致するところがある。ひょっとしたら、その後の日本における精神構造の変化があまりにも大きくて、今では「日本人とはこういう風な人間だ」というイメージがこれとかけ離れているということではないだろうか。
 漠然たる印象だが、戦前期と戦後初期とはかなりの程度メンタリティーの面で連続しているのに対し、高度経済成長の間に、相当大きな地滑り的変動があったのではないかというような気がしてならない。私自身は、まさに高度経済成長の中で育ったので、子供時代の日本と大人になってからの日本との間に、巨大な変化があったというのがいつわらざる実感である。
 一般に、文化というものは、あまり短期間には変動しないものだが、それでも全く変化しないわけではなく、長期的には漸次的変化をこうむるものだろう。文化を固定的・宿命的にとらえるのではなく、ゆっくりとではあるが変わりうるものとしてとらえ、その変化を社会構造の変化と関連づけてとらえるという課題に私は強く引きつけられるが、高度経済成長期の日本はまさにそうした変化をまざまざと見せつけるもののように思われる。
 ここでまたしても私自身の専門に引きつけていうと、ソ連解体後のロシア(5)はどこまでその文化を変化させたのだろうか、今日のロシア人はかつての「ソ連人」とどの程度連続し、どこまで断絶しているのだろうか、という問題が私の頭に浮かぶ。
 この問題を考える上で前提的に押さえておかなくてはならないのは、かつての「ソ連人」イメージは、どこまで統制に伴ううわべのものであり、どこまで生地のものだったのかという問題である。もし、かつての「ソ連人」イメージが、権力的統制を恐れるが故の外見的行動様式によって形成されたものであるとするならば、今日のロシア人がそれと異なった行動様式をとっているのは、「文化」そのものの変化というよりは、元来の生地が表に出てきたということになるだろう。現代のロシア人を論じる人の中には、そのように考える人が多いように思われる。
 確かに、ソ連時代の人々の行動は、種々の外的制約によって枠づけられており、その背後にある生活者の実感のようなものをとらえるのは、非常に困難だった。しかし、そうした生活感覚を深く観察した人々が皆無だったわけではない。思いつくままに列挙しても、袴田茂樹、M・シートン=ワトソン、L・フィッシャー=ルーゲ、ヘドリック・スミスなどが挙げられる。ソ連時代に内部に生活したこれらの論者の観察は、今から振り返ってみても、きめ細かいものであり、公式宣伝に惑わされず、鋭く実態を衝いていた。だから、それらを単純に虚像と決めつけるわけにはいかない。それはちょうど、『菊と刀』が大きな制約のもとで書かれたからといって、そこにみられる観察が完全に的外れではないのと同様である。
 しかし、『菊と刀』の日本人イメージが現代日本人からは遠く隔たったものにみえるように、かつての「ソ連人」のイメージとソ連解体後の今日の一部にみられる「新ロシア人」の行動様式は、かなり隔たっている。例えば、かつてロシア人は権威に表立って反抗せず、面従腹背の態度をとるとか、個性を主張するよりも集団に同調しがちだという性格をもつといわれ、その点で、「西欧的人間類型」よりもむしろある程度日本人に近いというようなことがいわれた。そうした「国民性」の故に、帝政時代には専制政治を受けいれ、社会主義時代には共産党の独裁を受容してきたのだという風に論じる人も少なくなかった。ところが、現代の「新ロシア人」は、普通の日本人には真似のできないほど強烈な個性を自己主張することがあり、むしろ「ヨーロッパ人」だと感じさせるようなところがある。
 この変化は、実質的な変化なのか、それとも、かつての観察が皮相だったために、あたかも変化があるかのようにみえるだけなのだろうか。先に、かつてのソ連研究が全く的外れだったわけではないことを述べたが、それでもやはり観察が十分深くなかった面もあるだろうから、これは二者択一というよりは、双方の側面があるといった方がよいかもしれない。
 仮に「ソ連人」の「新ロシア人」への変化があったとして、その変化は何によるものと考えるべきだろうか。外的条件の変化が大きいことはもちろんだが、それが一挙に心性にまで及ぶ変化をもたらしたということになるかどうかは即断できることではない。確かに、心性といえども永久不変のものではなく、ある程度までは外的条件の変化に対応して心性が実際に変化したという面もあるだろう。ただ、それは短時間で一挙に起きるものではないはずである。だとするならば、一つの説明としては、ソ連時代末期に秘かな変化が徐々に進行し、それがソ連解体後に表面化したという風にも考えられる。日本の場合と重ね合わせてみるなら、ソ連時代の末期(ブレジネフ期からペレストロイカ期にかけて)に、ちょうど日本の高度成長期と同様の漸次的変化が徐々に積み重なっていたのではないか。その変化は、当時(特にブレジネフ期)にはあまり目につかなかったが、着実に進行し、それが新しい条件下で表に出てきたとも考えられる。この辺はもっと立ち入って検討すべき問題だが、『菊と刀』から触発された随想としてはそこまで深入りするわけにもいかない。いずれにせよ、こうした問題を考えさせるというだけでも、本書は今なおそれなりの問題提起的な役割を失っていないということになるのように思われる。
 
 
(1)「第三の波」とは、ロシア革命直後、第二次大戦中・戦争直後に次ぐ、第三の出国の波(主にユダヤ人がイスラエルやアメリカへ)が一九七〇年代に起きたことを指す。
(2)朝日新聞社、一九八八年(原題は、Mary Seton-Watson, Scenes from Soviet Life: Soviet Life through official Literature, 1986)。
(3) C・ダグラス・ラミス『内なる外国――「菊と刀」再考』ちくま学芸文庫版、一九九七年、一九四‐一九五頁。
(4)本書の副題は、「日本文化の型」という言葉を複数形で使っているが、実際には、「型」の複数性は叙述に反映されておらず、むしろ単一の「型」の存在を暗に想定しているように思われる。
(5)「ソ連」はロシアだけからなっていたわけではなく、それ以外の地域・民族の存在を忘れてはならないというのが私の持論であるが、ここで問題とする「文化」については、「ソ連」全体を一括するのではなく個別の民族ごとに考察する必要があり、そうなると、私の知識の範囲内で論じられるのはロシアだけになるので、あえて「ロシア」という書き方をする。
 
*ルース・ベネディクト『定訳・菊と刀――日本文化の型(全)』社会思想社(現代教養文庫)、初版一九六七年。
原書: Ruth Benedict, The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture, 1946.
 
(一九九七年三月)
 
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