紀  伊  高  野  山  山  上  の  諸  塔

紀伊高野山大塔・西塔・東塔・金剛三昧院・金輪塔・瑜祇塔・光台院・成福院・その他

高野山古塔婆の概要

2015/02/20追加:
高野山水屏風絵:(重文):国立京都博物館蔵、13世紀末
 

本屏風は描かれた伽藍から、13世紀末頃の景観であると推定され、様式からもその時期のものと肯定される。
 (高野山を描く全図の最も古い絵図と云われる。)
 2015/03/20追加:「根来寺を解く」中川委紀子、朝日新聞出版、2014 より
  図中に弘安8年(1285)供養の町石が描かれるも、建武元年(1334)建立の愛染堂が描かれないため、
  製作年は弘安8年〜建武元年の間とする。(「高野山古絵図集成」)
  山陰加春夫氏はこの当時の高野山は東寺一長者を座主に頂く本寺方、御室仁和寺が座主補任権を持つ大伝法院(別院、末院)方、
  そして鎌倉源実朝の菩提寺である金剛三昧院(関東祈願所)の三勢力が鼎立し、
  これらの周辺にはこれらの三方とは係りあいを持たない聖たちが集団をなして居住する山であったという。(新編中世高野山史の研究」)
右隻には向って左から大門、西塔、金堂、大塔、勧学院、大伝法院が描かれ、左隻には左から金剛三昧院、真別所、奥の院が描かれる。
そして、この右隻には10基の多宝塔(内2基は大塔)が描かれる。
 高野山水屏風右隻:全図 、上図拡大図
 高野山水屏風右隻部分図1:中央は根本大塔で、下重平面は方5間、上重平面は平面円形である。屋根瓦葺。右端は東塔(多宝塔)。
 高野山水屏風右隻部分図2:大伝法院及び真然廟所、真然廟所はこの時期は 聖霊塔(多宝塔)であった。中央下の二層堂が大伝法院。
 高野山水屏風右隻部分図3:根本大塔の西側部分であるが、中央やや下は大治2年(1127)再興の西塔である。
               この西塔は下重平面方5間、上重辺面は円形と思われ、大塔形式である。
               西塔上方谷上谷に多宝塔が見えるも不詳(谷上谷多宝塔)。
               更に西塔東(根本大塔西)に多宝塔が見えるも不詳(金堂西多宝塔)。
 高野山水屏風右隻部分図4:左端は大門、西院谷を東に進むと北側に多宝塔がある。(詳細不詳:西院谷多宝塔)
 高野山水屏風右隻部分図5:右端は根本大塔、左端は(金堂西多宝塔)。下左の六角堂は荒川経蔵で平面六角である。
 高野山水屏風右隻部分図6:左下は根本大塔、根本大塔の上部(北)にある多宝塔は一心院谷の金輪塔であろうか。
               更に根本大塔東やや北に多宝塔が見えるが不詳(仮に本中院谷にあるとして本中院谷多宝塔としておこう)。
 高野山水屏風右隻部分図7:右側は勧学院伽藍で勧学院多宝塔がある。左下は東塔でその上・左上は「本中院谷多宝塔」。
  ※解説に「右隻には向って左から大門、西塔、金堂、大塔、勧学院、大伝法院が描かれ」とあるので、右側は勧学院伽藍と推定する。
  丁度位置は廃興山寺付近と思われるが、かって勧学院は興山寺付近にあったのであろうか。

 高野山水屏風左隻:全図
 高野山水屏風左隻部分図:合計4基の多宝塔が描かれる。
  左下は小田原谷金剛三昧院多宝塔、金剛三昧院北東すぐの寺院に多宝塔があるも不詳(小田原谷多宝塔)。
  さらにどの谷に属するのか不明であるが、右上端と右下に各々1基の多宝塔が描かれる。

※鎌倉末期のこの2隻の屏風絵には大塔2基と多宝塔12基の合計14基が描かれる。
つまり、空海が密教の世界感を建築で表そうと構想した「毘盧遮那法界体性塔」は大塔やいわゆる多宝塔形式の塔として、平安・鎌倉期に多く建立され、この高野山に花開いたということなのであろうか。

2020/10/06追加:
○「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019 より
 「作品解説」
高野山水屏風【重文】鎌倉ー南北朝期(14世紀後半)
高野山大門が左叟左端、奥之院が右叟右端に描かれる。大門に続く左叟中央には桜の季節の壇上伽藍が広がる。そして左叟の右端には濃緑の木々に囲まれた大伝法院、右叟に移って、左側に金剛三昧院とそれに隣接する安養院と思われる一画の秋景。右叟中央の下には蜜厳院の八角堂と推測され、最後が奥之院の雪景色で締めくくられる。画中には13世紀末に整備された町石卒塔婆や僧・猟師・商人、鹿・犬・猪などの小さなモチーフが書き込まれる。・・・
 ※金剛三昧院に隣接する安養院と思われる一画 とあり、この一画に描かれる多宝塔は安養院多宝塔と推定される。
  (上に掲載の高野山水屏風左隻部分図を参照。)
 しかし、安養院は現存するも現在は別の場所にあり、また現存する安養院が中世の安養院と同じ寺院である確認がとれず、
 ここでいう安養院の由緒などは不明である。
中世絵画で、高野山壇上伽藍や奥之院以外の領域が描かれることは殆どなく、その意味でも貴重である。
 この屏風はかっては金剛三昧院の什物であった。このことと、金剛三昧院が画中にひときわ大きく描かれていることと無関係ではないだろう。金剛三昧院の最盛期は14世紀前半なのである。
 「付論 高野山の風景」泉 万理
注目すべきモチーフの一つに大伝法院の建設中の湯屋がある。弘安9年(1286)の「大湯屋騒動」といわれる高野山上の大伝法院と金剛峯寺との抗争の発端はこの湯屋が大きすぎると金剛峯寺方が問題にしたことにある。この湯屋は大伝法院の向かって右端に建設中として描かれている。しかし、その描写は至って平穏なものである。
 もう一つ、弘安8年(1285)に供養された町石卒塔婆のモチーフにも注目すべき。
この町石は山下の慈尊院から山上の大門までの180基と山上の大塔から御廟までの36基が建立された大事業であった。本図には大塔横のもの、大伝法院前、御廟前のものなど4基が描かれる。
この町石の整備には、金剛三昧院を支えていた鎌倉幕府安達泰盛が尽力したといわれるが、弘安8年の「霜月騒動」によって安達一族は北条一族によって滅ぼされる。そしてその翌年泰盛との関係が深い金剛三昧院長老良俊が金剛峯寺方の訴求によりその座を追われる。
本図にはこれら13世紀の事象が拾えるが、それを根拠に本図の製作時期を13世紀とするにはためらいがある。それは本図の整然としたまた冷静な表現は、これらの事件から一定の時期が経過し、それを客観視できるようになった時期でなければ、描けないであろうと思われるからである。それが本図を鎌倉末から南北朝期とする大きな根拠である。

一遍上人絵伝:鎌倉後期
 一遍上人絵伝(巻2)・・・中世の壇上伽藍 が描かれる。
高野山壇上伽藍を描いたものと推定され、描かれる大塔は保元元年(1156)<久寿3年>に再興された根本大塔であろう。
この塔は下重は方5間に描かれ、上重の平面は円形である。屋根は瓦葺。(保元元年再興大塔は屋根瓦葺とされる。)

2008/03/12追加:
高野惣山之絵図:正保二乙酉年(1645)十一月廿一日(1645)より
 高野惣山之絵図(壇上伽藍部分):中央に大塔の絵、中央左端に西塔、中央右端に東塔を配置

2021/07/30追加:
高野山壇上寺家繪圖:宝永3年(1706)

江戸初期の高野山絵図は以下が知られる。
正保2年(1645)「高野山惣山之繪圖」
正保3年(1646)「御公儀上一山之圖」
 ※本図の寺院総数は1957ヶ寺で、
  その内訳は学侶方210ヶ寺、行人方1440ヶ寺、非事吏方120ヶ寺、小坊145ヶ寺、客坊42ヶ寺と記すという。
承応2年(1653)「高野山繪圖」
萬治原燃(1658)「高野山総圖」
元禄6年(1693)「高野山壇上并寺中繪圖」
宝永3年(1706)「高野山壇上寺家繪圖」及び宝永4年「奥院繪圖」 である。

○高野山壇上寺家繪圖・全図:宝永3年(1706)

    高野山壇上寺家繪圖・全図:上図拡大図

○高野山壇上寺家繪圖・部分図1
本部分図の向かって左上に無量壽院多宝塔、中央上方に瑜祇塔が描かれる。
いわゆる壇上伽藍には左から西塔、新御塔屋敷、大塔、東塔が描かれる。
 高野山壇上寺家繪圖・部分図1:壇上伽藍附近
その他、高野明神・丹生明神、荒川経蔵、金堂假堂、興山寺、青巌寺などが描かれる。

○高野山壇上寺家繪圖・部分図2
本部分図向かって左の中央に不動堂(現在は壇上伽藍に移建)と多宝塔が描かれ、本多宝塔が金輪塔である。
金輪塔の下、山越えをした所のは瑜祇塔が描かれる。
右側上は光臺院多宝塔、その左斜め下は高祖院多宝塔、
右端下は青巌寺でその上方に真然堂と塔屋敷(大伝法院大塔跡であろう)がある。
 高野山壇上寺家繪圖・部分図2:金輪塔・高祖院多宝塔・光臺院多宝塔・青巌寺(大伝法院跡)
なお、本図の高祖院多宝塔の左には大徳院東照宮家康廟/薬師堂・秀忠廟/位牌堂)と中央右には興山寺東照宮が描かれる。

○高野山壇上寺家繪圖・部分図3
本部分図の向かって左の高祖院多宝塔、中央上に光臺院多宝塔が見える。
 高野山壇上寺家繪圖・部分図3:高祖院多宝塔・光臺院多宝塔
なお、光臺院は三条天皇第四皇子御室性信親王が参籠し、開基は白河上皇第四皇子の高野御室覺法法親王である。
以来、当院は「光臺院御室」と称され、覚性、守覚、道助、道深、静覚各親王の参篭があったという。
また、当院には覚法親王五輪塔、織田信長嫡孫中納言秀信(三法師)五輪塔、青巌寺で自刃した豊臣秀次宝篋印塔などが残るという。
さらに、多宝塔は道助法親王の菩提のために建立するという。

○高野山壇上寺家繪圖・部分図4
本部分図には大徳院(聖方本寺)、興山寺(行人方本寺)、青巌寺(学侶方本寺/大伝法院跡)が描かれる。
  高野山壇上寺家繪圖・部分図4:大徳院・興山寺:青巌寺(大伝法院跡)

○高野山壇上寺家繪圖・部分図5
本部分図の向かって左下に金剛三昧院多宝塔・右端中央に往生院谷多宝塔が描かれる。
 高野山壇上寺家繪圖・部分図5:金剛三昧院多宝塔・往生院谷多宝塔
 往生院谷多宝塔:上図から往生院谷多宝塔部分を抜き出したもの、但し南北を逆にしている、上が南。

2008/03/12追加:
高野山古地図:製作年代不詳:江戸中期と推定される。
 高野山壇上伽藍古図:中央は大塔、中央左端に西塔、中央右端に東塔、大塔の右上に瑜祇塔
  同 壇上伽藍古図2:中央左に大塔、大塔右上に瑜祇塔、下部右に東塔
 高野山金輪塔古図:中央が金輪塔、今輪塔右に不動堂(現存・国宝)
 高野山光薹院多宝塔古図:上部中央に光台院多宝塔
 高野山金剛三昧院古図:下部やや右に金剛三昧院多宝塔
 高野山高祖院古図:中央やや右に高祖院多宝塔(退転)
 高野山無量寿院古図:中央に無量寿院多宝塔、中央は壇上伽藍西塔。
 高野山往生院谷多宝塔古図:塔の名称不詳、現在は退転

2020/10/06追加:
○「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019 より
 高野山図屏風     高野山図屏風トレース:元文元年(1736)から宝暦10年(1760)の間のものと推定される。
紙本着色、162×158cm、堺市博物館蔵。
本図の特長として、壇上伽藍の建物配置を左右逆転して描いていることが指摘される。これは町石を右端に描き、その到達点としての大門を右端上に描く必要があったために、左右を逆転させたものと思われる。
 本図では、金堂背後には灌頂堂の礎石が描かれる。寛永7年(1630)の大火で壇上伽藍は焼失するが、金堂・灌頂堂の再建は遅れる。金堂は元文元年(1736)灌頂堂は漸く宝暦10年(1760)に再建されたから、本図は元文元年から宝暦10年の間つまり18世紀中葉から後半に描かれたものであろう。
 ※上方の壇上伽藍に大塔、東塔、下方の山下に慈尊院多宝塔、天野社多宝塔が描かれる。

2011/07/19追加:
高野山細見大繪圖:
「于時文化10癸酉載7月吉辰」、「浪華 橘保春行年64歳筆」:文化10年(1813)
版本者: 山本平六(高野山)、經師八左右衛門(高野山)、名倉市場 寄屋喜兵衛(板元)、国際日本文化研究センター蔵本
 高野山壇上伽藍151:西から西塔・大塔・東塔が並ぶ、西上は無量寿院多宝塔、大塔背後に瑜祇塔が描かれる。
 中院谷無量壽院多宝塔152:多宝塔に関する情報は皆無。
 高祖院多宝塔・光臺院多宝塔153     五之室谷高祖院多宝塔154     一心院谷金輪塔155:不動堂が並んで描かれる。
 小田原谷金剛三昧院多宝塔156
 往生院谷多宝塔157     往生院谷多宝塔158:多宝塔に関する情報は皆無。
2017/09/02追加:
○高野山細見繪圖:和歌山大学付属図書館蔵本:文化10年(1814)
 ※上記と同一の繪圖であるが、より鮮明な画像が入手できたので掲載する。
 高野山細見大繪圖:全図
○壇上伽藍・谷上部分図
 壇上伽藍・谷上部分図:壇上伽藍の東塔、大塔、西塔、瑜祇塔及び谷上の無量壽院多宝塔、大日堂(かって東西2塔があったという)が描かれる。
○一心院谷・千手院谷部分部
 一心院谷・千手院谷部分部:一心院谷金輪塔、千手院谷高祖院多宝塔が描かれる。
○千手院谷・五ノ室谷部分図
 千手院谷・五ノ室谷部分図:千手院谷高祖院多宝塔・五之室谷光臺院多宝塔が描かれる。
○小田原谷部分部図
 小田原谷部分部図:小田原谷金剛三昧院多宝塔
○往生院谷部分図
 往生院谷部分図:往生院谷道の南限附近に多宝塔が建つ。多宝塔の周囲には萱屋堂、上池院、如来蔵院、蜜厳院、八幡、福生院、壽量院、千蔵院などがある。 依然として、多宝塔の名称など不明のままである。

紀伊國名所圖繪
2017/09/02画像更新・追加:
 2026/01/28追加:
  ○「紀伊国名所圖會」
   江戸後期に和歌山城下の書肆・帯屋伊兵衛(高市志友)によって企画された地誌であり、紀伊藩領及び高野山寺領について編纂される。
      ※「紀伊続風土記」と並び、江戸後期の紀州に関する基本的文献の一つに数えられる。
     (編)  (刊行年)      (巻数) 冊数   (編述・撰)  (図画)
     初編 文化9年(1812)    6巻  5冊    高市志友  西村中和  和歌山城下とその周辺
     二編 文化10年(1813)頃  6巻  5冊    高市志友  西村中和  名草郡・海部郡など
     三編 天保9年(1838)    6巻  7冊    加納諸平  西村中和  伊都郡(高野山など)・那賀郡など
     後編 嘉永4年(1851)        6巻  6冊    加納諸平
                               ・神野易興   西村中和  有田郡・日高郡・牟婁郡(熊野三山)など
       ※高野山は三篇にあり、
           四之巻上 高野山 (第18冊)
           四之巻下 高野山 (第19冊)
           五之巻 高野山  (第20冊)
           六之巻 高野山  (第21冊) である。
○「三編巻之4高野山之部上」天保9年(1838) より:
 高野山
 高野山惣図紀伊國名所圖繪」復刻版 ・・・高野山を北から描いた図。
  (高野山惣図2:「紀伊國名所圖繪」木版の図:2026/018/25追加)
 ※右より、丹生四所明神(天野社)多宝塔、慈尊院多宝塔、(大門)、壇上伽藍(東塔、(金堂)、大塔、瑜祇塔、西塔)、
 小田原谷金剛三昧院多宝塔、一心院谷金輪塔、千手院谷高祖院多宝塔、左端に(大師御廟)が描かれる。
壇上伽藍(東塔、大塔、西塔、瑜祇塔)
 奥院より大門口までの図の其十二と其十三(部分図):壇上伽藍の堂塔部分図
無量壽院多宝塔
 谷上其二(部分図):無量寿院多宝塔:左下隅にある。
 なお、無量寿院右側が大日堂である。
光臺院多宝塔
 以下千手院谷五之室谷一心院谷惣図(部分図):五之室谷光臺院多宝塔:右上にある。
高祖院多宝塔
 以下千手院谷五之室谷一心院谷惣図(部分図):千手院谷高祖院多宝塔:右上にある。
金輪塔
 以下千手院谷五之室谷一心院谷惣図(部分図):一心院谷金輪塔:中央やや右にある。
山下慈尊院多宝塔
 高野山慈尊院
山下丹生四所明神多宝塔
 高野山鎮守天野社

○「三編巻之5高野山之部中」 より:
壇場惣図
 壇場惣図:東塔、瑜祇塔、大塔、西塔が描かれる。
壇場
 記事:「大塔(高さ16丈。往年畢方の災ありといへども、皇帝将軍崇信の厚命ありて、しばしば旧観に復せり。
 今の塔は寛永8年献廟の特命によりて、小出大和守・戸川土佐守奉行して、同19年に落成する所なり)中尊胎蔵界大日如来・金剛界四仏。
 「明王院如法上人は・・・」の図に見る「大塔」(推定)の図。
谷上
 大日堂(金剛心院といふ)
 記事:「東西二基塔(礎石あり)」
 長元年間後一条院の創建。天養元年宇治入道忠実再興を企画。久安4年(1148)内大臣頼長落慶供養。
 東西2塔が存在したと云う。・・・大日堂は現在は廃絶。
  ※上に掲載の谷上其二(部分図):無量寿院多宝塔に大日堂は描かれる。無量寿院は左下隅にあるが、その右側が大日堂である。

○「三編巻之6高野山之部下」 より
金剛三昧院多宝塔
 小田原谷の奥湯屋の谷:小田原谷金剛三昧院多宝塔
髑髏峠
 轆轤峠(部分図)・・・大塔・東塔が見える。
 女人道轆轤峠「紀伊國名所圖繪 三編六巻」木版の図:2026/01/28追加、上の轆轤峠の絵は復刻版の絵。
 記事:「高野山より熊野への往還で、この峠から壇場の諸伽藍が眼下に見える。」

2006/04/07追加:
高野山略図
 高野山略圖:江戸後期:「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図」より<画像容量大 >
図の中央やや左は壇上伽藍:西から西塔・大塔・東塔がある。
大塔の北方に龍光院瑜祇塔、更に北方に金輪塔があり、さらにその東(五の室谷)に光(高)台院多宝塔・高祖院多宝塔がある。
図中央下(小田原谷)には金剛三昧院多宝塔がある。
図最左端の中央やや上に天野多宝塔が見える。
2006/12/03追加:「Y」氏ご提供
「高野山略圖」
 下図は良く出回っている「高野山略圖」(江戸期・詳細時期不詳)の一種と思われる。
高野山略圖」:左図拡大図

以下は「高野山略圖」の部分図です。
九度山慈尊院多宝塔(原図から180度回転)
 :高野山表参道180町の出発点で、高野山大塔に至る最初の180町目の町石が多宝塔横から七社明神(現丹生官省符神社)に登る石段途中(右手)にある。
天野社多宝塔
 :慈尊院からの表参道の約50町附近で分岐し、分岐から約20町の所に鎮座する。参考:天野社
西塔・大塔・東塔・瑜祇塔
 ;壇上伽藍
瑜祇塔(竜光院)・金輪塔
 :本中院谷瑜祇塔、一心院谷金輪塔
高祖院・光台院多宝塔
 :五の室谷高祖院塔は退転、五の室谷光台院
金剛三昧院多宝塔
 :小田原谷金剛三昧院

2006/12/03追加:「Y」氏ご提供
高野山絵図
 
※状況から江戸期のものと推定されるも、詳細は不詳
 九度山慈尊院・天野社多宝塔:慈尊院左、天野社右、参考:天野社
 西塔・大塔・東塔:壇上伽藍
 金輪塔・瑜祇塔:一心院谷金輪塔、本中院谷瑜祇塔
 光台院多宝塔:五の室谷光台院
 金剛三昧院并往生院谷多宝塔:中央やや下左に小田原谷金剛三昧院、中央やや上右に往生院谷多宝塔(名称不明)がある。
 (小田原谷の東「往生院谷」に多宝塔があったものと思われるが、不詳。
 れんげ三昧院、丈六堂、千ぞう<蔵>院、上ち(池)院、不どう院などが附近にある。)

2008/01/26追加:
高野山参詣案内図:推定江戸期:高野山大学図書館蔵
 高野山参詣案内図
  ※中段右は天野社(四社明神、多宝塔、さんのうどう、太皷橋・・)、下段中央は慈尊院(多宝塔、七社明神・・・)、
   上段中央は高野山伽藍が描かれる。
  ※案内図には「慈尊院は弘法大師御母公の御びょう處にて女人の高野と稱する霊場なり」とあり、
   女人禁制で山内に参詣出来なかった女性はその代替の一つの方法として、弘法大師生母の廟所である慈尊院に参詣したのであろうか。


高野山大塔

高野山大塔の興亡

弘仁10年(819)大塔心柱用材を伐採。
承和元年(834)弘法大師、「勧進奉造仏塔知識書」を著作。
  ※この塔は「毘盧遮那法界体性塔」といい、毘盧遮那仏(大日如来)を具現する塔で、東塔に胎蔵界五仏、西塔に金剛界五仏を祀り、
   両塔をあわせ両界不二の密教根本教理を表そうと構想したという。
貞観18年(876)あるいは貞観17年、大塔完成といわれる。(「毘盧遮那法界体性塔」)     ・・・・・・・・・初代大塔
正暦5年(994)大塔に落雷焼失、伽藍御影堂を残し全焼し、一山寺院類焼。     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・初代大塔焼失
康和5年(1103)大塔落慶供養。(多宝塔・高16丈、広8丈、裳層付)。     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2代大塔
 ※この塔は「多宝塔1基、高16丈、下壇広8丈、土壇9丈6尺、・・・母屋内柱12本円形、次仏壇柱12本八角、
  次水輪柱12本円形・・・」とあり規模・母屋柱12本などより、大塔形式であったと思われる。
  また創建塔の規模・構造を引継ぐとされる。
久安5年(1149)大塔に落雷炎上。五仏中尊の御首、脇侍三躰、仏具等を搬出。     ・・・・・・・・・・・・・・・・2代大塔焼失
保元元年(1156)<久寿3年>大塔落慶供養。                         ・・・・・・・・・・・・・・・・・3代大塔
 ※弘安8年(1285)「高野山曼荼羅供図」では「大塔は方5間、内部に12本の円形柱列、8本の八角柱列
  4本の仏壇柱」が描かれているという。
永正18年(1521)大塔焼失。寺院より出火、伽藍諸堂悉く焼失し、全山ほぼ壊滅する。     ・・・・・・・・・・・3代大塔焼失
慶長2年(1597)大塔落慶供養。                            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4代大塔
寛永7年(1630)大塔に落雷、焼失。伽藍諸堂宇・多数の一山寺院が焼失。         ・・・・・・・・・・・・・・・4代大塔焼失
寛永20年(1643)大塔落慶供養。                            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5代大塔
天保14年(1843)壇上宝蔵の軒先から出火し大塔焼失。五仏の内、何躰かが搬出される。  ・・・・・・・・・・・・・5代大塔焼失
 その後、久しく再興されず、長く基壇を残すのみであった。
昭和12年、大塔落慶供養。                            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6代大塔
 ※高さ16丈(48.5m)で、一辺約22mの大建築である。
  中央は胎蔵界大日如来、四方の金剛界四仏、周囲16本の柱に16大菩薩像を描く(堂本印象画)。
  壁には真言八祖大師像を描く。後陣には中門の2天像を仮安置する。
  
参考:初期多宝塔を参照

○「伸和建設資料集」より
竣工記念写真
正  面 図
大     塔(左図拡大図)
天沼俊一設計、
構造は鉄骨造(大林組施工)で内外の木工作は伸和建設施工。

昭和12年再興、設計監修:天沼俊一、武田五一、大浦徳太郎
当初は総木造の計画であったが、昭和元年金堂焼失や大塔の過去の経緯から、骨格はRCS・外装は木材朱塗りとして再建される。

○2001/07/21撮影:
高野山大塔1
高野山大塔2
高野山大塔3
○2006/12/02撮影
高野山根本大塔1
  同      2
  同      3
  同      4
  同      5
  同      6
  同      7

2015/02/27追加:
 高野山壇上伽藍空撮:2015/01/01朝日新聞掲載、根本大塔・金堂が写る。

2021/03/26撮影:
 高野山大塔11     高野山大塔12     高野山大塔13     高野山大塔14     高野山大塔15
 高野山大塔16     高野山大塔17     高野山大塔18     高野山大塔19     高野山大塔20
 高野山大塔21     高野山大塔22     高野山大塔相輪

2007/02/24追加:
 建設中の根本大塔:昭和7年天沼俊一撮影、「大日本建築全史」佐藤佐、文翫堂、昭和8年
2013/07/13追加
 高野山根本大塔工事中2:絵葉書
2012/06/06追加:「Y」氏ご提供画像
 高野山根本大塔工事中:絵葉書:弘法大師1100年御遠年忌(昭和9年)を記念して発行された絵葉書の1枚と云う。

2015/02/20追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
高野山大塔模型:大正13年製作、昭和7年大塔は再建されるが、それに先立ち製作されたものと推定される。
但し、再建塔と比して、椽廻り、組物、屋根葺材料など多くの相違がある。
 高野山大塔模型:京都大学工学部建築学科蔵

○「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
初期真言宗では多宝塔は大日如来を象徴するものとされ、それ故、後には密教の多宝塔が多く建立されるようになる。
「金剛峰寺建立修行縁起」康保5年(968):
多宝塔1基、高18丈、一層之勢是勝数重塔、奉安置1丈8尺6寸大日、1丈4尺4佛、胎蔵
(西塔の記事)
9丈多宝塔1基、奉安置8尺大日、5尺4佛、金剛 とされる。
なお、高野山創建大塔については各氏の復元図がある。

○「塔における両界曼荼羅空間の展開−平安時代の層塔を中心に−」より:
 ◆高野山大塔各氏復元図
「金剛峯寺建立修行縁起」(康保5年・968)、「紀伊国金剛峯寺解案」(寛弘3年・1006)、「高野山根本大塔興廃日記」(嘉保2年・1095、康和2年・1100)などに大塔資料があり、特に「高野山根本大塔興廃日記」に基づき 「各氏の復元」がなされていると思われる。
 詳しい解説は表記「論文」を参照いただくとして、各氏に共通するのは、高野山根本大塔は下層平面5間、入側柱は円形に12本、と中心に4本の柱で母屋を形成することは共通する。下層の心柱の有無、仏壇の構成などに見解の相異がある。

2015/02/20追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
 空海が高野山上で構想した「毘盧遮那法界体性塔」は空海入定後「大塔」として実現された。そしてこの塔の形式は、金剛界曼荼羅中、大日如来の象徴である「宝塔」を基としたといわれる。しかし大塔は4次の焼失を経ており、創建大塔の姿はいまだ明確ではない。
 康和5年(1103)再建時の記録である「高野山根本大塔興廃日記」には創建大塔の記録・基壇跡の調査に基づき2代目の大塔を再建していく過程が記される。中には創建及び2代目大塔の総高や柱、相輪の寸法があり、規模や構造の概要を知ることができる。
また近年、久寿3年(1156)再建の3代目大塔を示す「石町卒塔婆供養曼荼羅供指図」(「金沢文庫蔵」)が紹介され、初期の平面構造により迫ることが可能になった。
以上などの資料に基づき復元を試みたのが次の図である。
 高野山創建大塔復元図
一見した印象は後世の多宝塔や根来寺大塔と比べて亀腹が非常に大きいことである。
この姿から、大塔の起源は単層の宝塔にあったことが強く印象つけられる。
なお、鎌倉期の3代目大塔は瓦葺であるが、2代目大塔は檜皮葺で、創建大塔も檜皮葺の可能性が高いと思われる。
 ※鎌倉期の3代目大塔は上掲の「高野山水屏風右隻」に描かれる。
  高野山水屏風右隻部分図1:中央は根本大塔、下重平面は方5間、上重平面は平面円形である。屋根瓦葺。右端は東塔(多宝塔)。

2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
 密教を特徴づけ、その教学の根本となるのが、胎蔵界・金剛界からなる両界曼荼羅である。
これを平面の画像として現したのが「両界曼荼羅図」である。
胎蔵界・金剛界いずれも中心は大日如来で、その四方の四体の如来からなる五仏が中核をなす。
 空海はこの両界曼荼羅を建築空間として表現することを構想する。山城教王護国寺(東寺)の伽藍では講堂で立体的に表現した。
一方高野山では2基の「毘盧遮那法界体性塔」の建立を構想し、これは空海入定後に胎蔵界五仏を安置する東塔(根本大塔)と
金剛界五仏を安置する西塔として実現する。これらの塔は今までの伝統的な五重塔・三重塔とは違った全く新しい形式であったのである。
 一方空海は東寺で五重塔の建立も企図し、この五重塔も空海入定後完成する。
「東宝記」には永仁年中(1293-99)の再建五重塔の指図が載っている。
これによれば、東は阿閦、南は宝生、西に阿弥陀、北に不空成就の金剛界四仏を配していたことが分かる。
中心の大日如来は安置せず、心柱もしくは塔そのものを大日如来に見立てているのである。

2015/03/05追加:
○「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 高野山結界絵図:「御手印縁起 1巻」として重文指定、「金剛峰寺根本縁起」とも云う。
「御手印縁起」は弘仁7年(818)の高野山四至を点定する太政官符と承和元年(824)の弘法大師筆という山上四至点定の文書を持って1巻とする。承和元年の文書に描かれている絵図が「高野山結界絵図」である。
なお本図の巻末に建武2年(1336)の奥書があり、それは後醍醐天皇の宸筆であり、門外不出とされ、そこの所に後醍醐天皇の御手印が加えられている。奥書の内容やその筆跡からして、この1巻は建武2年の書写本と判断される。
残念ながら、太政官符も大師文章も原本とは認めがたいのである。
 高野山結界絵図:中央に根本大塔、その他、金堂、御廟宝塔、大門、天野羽生・高野明神、慈尊院政所まどの初期伽藍が描かれる。
特に特筆すべきは初期と推定される根本大塔の姿が描かれていることである。
但し、承和元年(824)の弘法大師筆と伝える文書と貞観18年(876)ころに大塔完成というと事実との間に時代の齟齬があるが、
文書(絵図)に描かれた根本大塔は初代の大塔の姿である可能性を捨てきれない。
 もし、本図に描く根本大塔が初代の姿であるならば、絵図はひどく摩傷しているが、宝塔(平面円形で方形屋根を架した一重塔)に裳階を付けた様に描かれる。そして現在でいう亀腹は異様に大きく描かれるが、これは亀腹というより、宝塔の塔身の肩の部分がそのまま残っているといった方が正確であろう。まさに単層の宝塔に裳階を付けた形式であったことを強く示唆する姿であろう。
 ※弘法大師御手印縁起について次の「解説」がある。
弘法大師御手印縁起とは、弘仁7(816)年太政官符・同年紀伊国符・高野山四至注文・高野山絵図・承和元(834)年空海遺告・同3年紀伊国判からなる
古文書集で、太政官符と遺告に空海の手印が捺されていることから、御手印縁起と呼ばれているものである。  
本資料では、さらに「遺告真然大徳等」が附属しており、末尾には天正17年(1589)4月21日の木食応其(1536〜1608)の修理銘が記されている。また、高野山絵図(古戸後期の作?)はその後に着色して描かれているが、文字情報はまったく含まれていない。

2006/11/26追加:
「日本建築史要」天沼俊一、奈良飛鳥園、1927 より
 高野山根本大塔復原立面図       根本大塔復原初重平面及び見上図       根本大塔復原第ニ重平面及び見上図

2007/03/05追加:
「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」:
「大塔」と呼ばれる形式は基本的には「多宝塔」形式と同一と思われるが、規模は大きく、下重は方5間とする。
(紀伊根来寺大塔は一辺49尺2寸5分、下重は方5間、内部に12本の柱を円形に建て、その中に四天柱を立てる。高野山東塔(大塔)は一辺80尺、下重は方5間で、内部には12本の円形柱が2重に並び、その中に四天柱を立てる。高野山西塔は一辺46尺9寸、下重は方5間で、内部は入側柱(12本)が立ち、その中に四天柱が立つ。要するに内部は円形ではなくて、下重は方5間総柱の形式であるが、何時からこの形式なのかは不明。)
    →高野山大塔・西塔指図:「高野春秋」所載

2007/08/30追加:
「日本名勝旧蹟産業写真帖」西田繁造編、横浜:西田耕雲堂、明治45年
 万延元年再興金堂136:写真下方は根本大塔土壇・礎石、右は御影堂


高野山西塔

高野山西塔の興亡

仁和3年(887)創建(九丈多宝塔)。
 ※西塔は、真然大徳によって建立されたと伝えられる。
 空海の構想では、大塔と西塔を二基一対とし、大日如来の密教世界を具体的に表現する「毘盧遮那法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として真言密教を具体的に表現しようとして、建立が企図されたという。
 大規模建築であること、経済的な理由などで、必ずしも同時期・同規模での並立は無かったと云われる。また創建塔は五層五丈であったと伝え、五層とは五重塔を意味する可能性があるとも云う。
正暦5年(994)焼失。
大治2年(1127)再興。
応永8年(1401)炎上。
天文16年(1547)再建。
寛永7年(1630)焼失。
天保5年(1834)再興・現存。覚道を中心とした正智院住職三代にわたって再興したと伝える。
 ※近世末期の塔であるが、明治維新前建立の方5間の大型塔であり、貴重な遺構である。
高さ27.3m、一辺12m。
内部は大塔と違い、格子戸によって内陣外陣に分たれる。
柱は外陣に20本、内陣に12本、中心に4本の合計36本を中心柱を加えて金剛界三十七尊を象徴しているといわれる。
 ※平面図は下に掲載の高野山大塔・西塔指図:「高野春秋」所載を参照。柱36本(四天柱4、内陣12、外陣20)の表現のように、平面は柱列の格子状の交点に柱が立っているということであろうと推測するも、高野山大塔・西塔指図では、必ずしも格子状の交点に柱が立っているようには見えない。いったい、どうしたことであろうか。しかし所謂大塔の内部平面が円形であるのとは明らかに違うということははっきりしている。
言ってみれば、初重平面5間の大型多宝塔と処すべき建物であろう。つまり、天台大塔(比叡山惣持院大塔)と同じ形式であろうと思われる。
中央仏は創建時の金剛界大日如来(平安初期・重文)で四仏は胎蔵界四仏(江戸期)を安置する。

現地の「西塔」説明板では次のように云う。
 現在の西塔は5度目の再建で、天保5年(1834)欅材を以って5間×5間として建てられる。
方形の初層に之を覆う裳階とその上に小さな覆鉢をおき、さらに大きな屋蓋で全体を覆う。
柱は外陣に20本、内陣に12本、中心に4本合計36本に中心柱を加えて金剛界37尊を象徴する。
 ※この説明は建築としてどういう構造なのかよく理解できない。
 参考:初期多宝塔

○紀伊国名所図会 三編巻之5より:壇場
記事:「西塔(高さ9丈)本尊金剛界五仏。光孝天皇勅で真然僧正の創建とする。数百年後破壊するも、
鳥羽院の院宣で大治2年行幸ありて落慶供養と伝える。」
 大塔・西塔図(部分図)

○2001/07/21撮影:
高野山西塔1
 :(左図拡大図)

高野山西塔2
 

高野山西塔3

 

○2006/12/02撮影
高野山西塔(大塔)1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12

2021/03/26撮影:
 高野山西塔11     高野山西塔12     高野山西塔13     高野山西塔14     高野山西塔15
 高野山西塔16     高野山西塔17     高野山西塔18     高野山西塔19     高野山西塔20
 高野山西塔21     高野山西塔22     高野山西塔23     高野山西塔24     高野山西塔25
 高野山西塔26     高野山西塔27     高野山西塔28     高野山西塔29     高野山西塔30
 高野山西塔31     高野山西塔32     高野山西塔33     高野山西塔34     高野山西塔相輪
○「橋本新聞」更新日:2013年5月24日 より
内陣の「格天井)」には、図案化された草花、梁付近には雲中菩薩や天女、飛龍、鳳凰が描かれ、来迎壁の背面には、上半身が人、下半身が鳥の姿をした「迦陵頻伽」と蓮池が描かれていて、まさに絢爛豪華な世界。
 高野山西塔内部1     高野山西塔内部2
○「橋本新聞」更新日:2014年6月3日 より
全国から訪れた参拝・観光客は、塔内に入った後、金剛界大日如来など4仏を祀った須弥壇の前で合掌。天井画や壁画を鑑賞しながら、「なんと美しい壁画」「きょうは高野山へ来られてよかった」などと感激していた。
 高野山西塔内部3     高野山西塔内部4     高野山西塔内部5

「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
(大塔の記事)
多宝塔1基、高18丈、一層之勢是勝数重塔、奉安置1丈8尺6寸大日、1丈4尺4佛、胎蔵
(西塔の記事)
9丈多宝塔1基、奉安置8尺大日、5尺4佛、金剛 とされる。

2007/03/05追加:<上掲と重複記事>
「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」:
「大塔」と呼ばれる形式は基本的には「多宝塔」形式と同一と思われるが、規模は大きく、下重は方5間とする。
(紀伊根来寺大塔は一辺49尺2寸5分、下重は方5間、内部に12本の柱を円形に建て、その中に四天柱を立てる。高野山東塔(大塔)は一辺80尺、下重は方5間で、内部には12本の円形柱が2重に並び、その中に四天柱を立てる。高野山西塔は一辺46尺9寸、下重は方5間で、内部は入側柱(12本)が立ち、その中に四天柱が立つ。要するに内部は円形ではなくて、下重は方5間総柱の形式であるが、何時からこの形式なのかは不明。)
    →高野山大塔・西塔指図:「高野春秋」所載

2007/08/30追加:
「日本名勝写真帖」大阪:玉鳴館、明治31年 より
 万年元年再興金堂134   万延元年再興金堂135:写真右端の大塔は高野山西塔


高野山東塔

高野山東塔
白河上皇の御願により大治2年(1127)に創建。東塔も焼失再建を繰返し、現在は6代目の再建塔と云う。
5代目が天保14年(1643)大塔とともに焼失し、長期間礎石のみ残すも、昭和59年再建される。
 (なお東塔は元来大塔ではなく多宝塔として企画される。)尊勝仏頂尊と不動明王・隆三世明王を安置。
「(続)塔の旅」中西亨、1989 より
一辺6.26m。屋根檜皮葺。院政期の様式を模した塔で木造である。

「紀伊国名所図会」等に見る東塔の様子は「高野山塔婆の概要」(既出)の項を参照。
 轆轤峠(部分図)・・・大塔・東塔が見える。
 女人道轆轤峠「紀伊國名所圖繪 三編六巻」木版の図:2026/01/28追加、上の轆轤峠の絵は復刻版の絵。
記事:「高野山より熊野への往還で、この峠から壇場の諸伽藍が眼下に見える。」
2001/07/21撮影:
 高野山東塔1  高野山東塔2  高野山東塔3  高野山東塔と大塔:東塔から大塔を見る。
2006/12/02撮影:
 高野山東塔1  高野山東塔2  高野山東塔3  高野山東塔4  高野山東塔5  高野山東塔6  高野山東塔7
2021/03/26撮影:
 高野山東塔11     高野山東塔12     高野山東塔13     高野山東塔14     高野山東塔15
 高野山東塔16     高野山東塔17     高野山東塔18     高野山東塔19
○「日本の塔総観 近畿地方編/増補改訂版」中西亨、昭和48年 より
 高野山東塔跡


高野山小田原谷金剛三昧院多宝塔

高野山金剛三昧院多宝塔(国宝)

貞応2年(1223)建立[「金剛三昧院紀年誌」]。現存する多宝塔では(河内金剛寺)石山寺塔に次ぐ古塔である。
一辺5.5mの大型塔で、多宝塔の原型とも言うべき姿を今に伝える。
自然環境の厳しい、また火災の多かった高野山で、幾多の塔婆が廃亡した訳であるが、その形の秀麗さとともに、良く今日まで伝えられる。
金剛三昧院は北条(平)政子が源頼朝の菩提を弔うために建立(禅定院)と伝え、そのため鎌倉幕府によって手厚い保護を受け、大いにその規模を拡大する。多宝塔もこのとき建立される。
その後鎌倉期・室町期を通じ、当院は高野山の政治及び教学の中心寺院としての地位にあった。
多宝塔本尊は創建時の五智如来坐像(重文)で、内部には極彩色の菩薩像等が鮮やかに残されていると云う。

○紀伊国名所図会 三編巻之6より:小田原谷
 金剛三昧院(部分図)・・・現存塔婆

○高野山金剛三昧院多宝塔

○2001/07/21撮影:
高野山金剛三昧院多宝塔1

高野山金剛三昧院多宝塔2

高野山金剛三昧院多宝塔3

高野山金剛三昧院多宝塔4
         :(左図拡大図)

高野山金剛三昧院多宝塔5

○2006/12/02撮影:
金剛三昧院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  2021/03/26撮影:
金剛三昧院多宝塔11
金剛三昧院多宝塔12:左図拡大図
金剛三昧院多宝塔13
金剛三昧院多宝塔14
金剛三昧院多宝塔15
金剛三昧院多宝塔16
金剛三昧院多宝塔17
金剛三昧院多宝塔18
金剛三昧院多宝塔19
金剛三昧院多宝塔20
金剛三昧院多宝塔21
金剛三昧院多宝塔22
金剛三昧院多宝塔23
金剛三昧院多宝塔24
金剛三昧院多宝塔25
金剛三昧院多宝塔26
金剛三昧院多宝塔27
金剛三昧院多宝塔28
金剛三昧院多宝塔29
金剛三昧院多宝塔30
金剛三昧院多宝塔31
金剛三昧院多宝塔32
金剛三昧院多宝塔33
金剛三昧院多宝塔相輪

2014/07/25追加
「高野山霊寳帖」藤村密憧編、金剛峯寺、大正14年 より
 大正14年頃金剛三昧院多宝塔

2007/03/05「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」:
明治39〜40年大修理。
下重総間18尺3寸5分、中央間6尺8寸5分、両脇間5尺7寸5分。上重軸部径7尺3寸7分。
 金剛三昧院多宝塔立面図
 金剛三昧院多宝塔亀腹下地:亀腹は漆喰塗りで、下地は厚板から亀腹曲線を造出した巾広の縦板材(当初材)と云う。
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
金剛界五仏の仏像を安置し、四天柱の月輪内に尊像を描く。
 多宝塔初重内部

○本坊・客殿・庫裡
重文、江戸期の建立か。
2021/03/26撮影:
 本坊・客殿・庫裏1     本坊・客殿・庫裏2
 金剛三昧院玄関1     金剛三昧院玄関2     金剛三昧院玄関3
 金剛三昧院客殿1     金剛三昧院客殿2     金剛三昧院庫裡
○経蔵
重文、貞応2年(1223)建立。多宝塔と同一時期の建立という。
2021/03/26撮影:
 金剛三昧院経蔵1     金剛三昧院経蔵2     金剛三昧院経蔵3     金剛三昧院経蔵4
○四所明神
重文、天文21年(1552)建立(正面方位板裏面の墨書)。高野・丹生・気比・丹生御息を祀る。
2021/03/26撮影:
 金剛三昧院四所明神1     金剛三昧院四所明神2     金剛三昧院四所明神3     金剛三昧院四所明神4
 金剛三昧院四所明神5     金剛三昧院四所明神6     金剛三昧院四所明神7
○山門(鐘楼門)
文政年中(1818 - 31)再建。
2021/03/26撮影:
 金剛三昧院山門1     金剛三昧院山門2
○本堂
2021/03/26撮影:
 金剛三昧院本堂


高野山金輪塔

高野山金輪塔
天保5年(1834)再建塔。
一心院谷女人堂を下ったところ、西室院の向かい側あたりにポツンと残る。
本尊として一字金輪を安置する。明算上人(高野山中興に尽力)の廟所で嘉承元年(1160)創建と伝える。
現在は少々荒廃しているようで、相輪が後方に傾く。一辺4.95mの中型塔。
○紀伊国名所図会 三編巻之4より:高野山
 高野山惣図:紀伊國名所圖繪」復刻版 ・・・高野山を北から描く。
  (高野山惣図2:「紀伊國名所圖繪」木版の図:2026/018/25追加)
  上記の東塔・金輪塔・瑜祇塔・大塔・西塔・天野社多宝塔の部分図
   (図左端中央:金剛三昧院多宝塔、左端上:金輪塔、中央部分:東塔・瑜祇塔・大塔・西塔、右端下:天野社多宝塔)
:一心院谷
記事:「金輪塔(不動堂の西にあり、菩提院といふ)本尊金輪仏頂。寛治年間明算大徳遷化の後、
その遺骨をこの塔下に納め、名づけて菩提院といふとぞ。」
○2006/12/09追加:
 一心院谷不動堂金輪塔1  一心院谷不動堂金輪塔2:古写真
○2010/10/26追加:
 昭和3年高野山多宝塔:金輪塔であろう。
2001/07/21撮影:
 高野山金剛峰寺金輪塔1  高野山金剛峰寺金輪塔2
2006/12/02撮影:
 金輪塔1    金輪塔2    金輪塔3    金輪塔4    金輪塔5    金輪塔6
2021/03/26撮影:
 高野山金輪塔11     高野山金輪塔12     高野山金輪塔13     高野山金輪塔14     高野山金輪塔15
 高野山金輪塔16     高野山金輪塔17     高野山金輪塔18     高野山金輪塔19     高野山金輪塔20
 高野山金輪塔21     高野山金輪塔22     高野山金輪塔23     高野山金輪塔24     高野山金輪塔25
 高野山金輪塔26     高野山金輪塔相輪


高野山本中院谷瑜祇塔(龍光院瑜祇塔)

高野山本中院谷瑜祇塔
本中院谷龍光院は弘法大師の住坊であったと伝え、平安時代には高野山の中心寺院であったと云う。
本中院谷龍光院背後の山上に弘法大師建立と伝える瑜祇塔がある。現存塔は昭和6年の再建である。
 ※創建は貞覿12年(870)真然大徳による、三度の火災で焼失、現塔婆は昭和6年の再興。
なお、高野山霊宝館の年表では瑜祇塔は昭和4年上棟式とある。

○紀伊国名所図会 三編巻之4より:高野山
 高野山惣図:紀伊國名所圖繪」復刻版 ・・・高野山を北から描 く。
  (高野山惣図2:「紀伊國名所圖繪」木版の図:2026/018/25追加)
  上記の東塔・金輪塔・瑜祇塔・大塔・西塔・天野社多宝塔の部分図
   (図左端中央:金剛三昧院多宝塔、左端上:金輪塔、中央部分:東塔・瑜祇塔・大塔・西塔、右端下:天野社多宝塔)
 高野山全図の其十二と其十三
  上図の西塔・大塔・瑜祇塔・東塔の部分図
 東塔(部分図)・・・瑜祇塔も 見える。
本中院谷
記事:「瑜祇塔(龍光院境内にあり、金剛峯宝楼閣瑜祇塔と称す。また大塔に対して小塔と云ふ)」 本尊金剛界大日・阿しゅく・宝生観音・虚空蔵」 この塔は貞観年中の創建とされる。爾後数度の興亡があり、寛永3年直江山城守の後室が再興。文化6年炎上。今の住持これを造営。
2001/07/21撮影:
 高野山竜光院瑜祇塔:一般は近寄ることは出来ない(寺院側説明)とのことで、竜光院前庭から遠望。
  写真中央に微かに瑜祇塔が見える。
 ○高野山竜光院瑜祇塔2「X」氏ご提供画像:1980年後半撮影と思われる。
2006/12/02撮影:
 竜光院瑜祇塔1  竜光院瑜祇塔2  竜光院瑜祇塔3  竜光院瑜祇塔4  竜光院瑜祇塔5
 竜光院瑜祇塔6  竜光院瑜祇塔7
2021/03/26撮影:
 高野山瑜祇塔11     高野山瑜祇塔12     高野山瑜祇塔13     高野山瑜祇塔14     高野山瑜祇塔15
 高野山瑜祇塔16     高野山瑜祇塔17     高野山瑜祇塔18     高野山瑜祇塔19     高野山瑜祇塔20
 高野山瑜祇塔21     扁額:金剛峰楼閣瑜祇塔     高野山瑜祇塔相輪
 塔前不動明王坐像:江戸浅草堂前川村屋と刻む、基壇背後には龍光院と刻む。

○2006/11/26追加:
「日本建築史要」天沼俊一、奈良飛鳥園、1927 より
 瑜祇大師図:絹本着色、高野山龍光院蔵  高野山根本瑜祇塔復原立面図

○2007/02/24追加:
 高野山瑜祇塔:龍光院御貸下、大正9年地鎮祭執行、「大日本建築全史」佐藤佐、文翫堂、昭和8年
 発行年代から、完工後、余り時間を置かない頃の写真と推定される。

○2007/03/14追加:「Y」氏ご提供:絵葉書
 ・・・瑜祇塔自体の絵葉書も珍しいものであるが、ましてや断面図や鉄骨骨組の絵葉書があるとは貴重な一枚と思われる。
 高野山瑜祇塔断面図(絵葉書)      高野山瑜祇塔鉄骨骨組(絵葉書)


高野山五之室谷光台院多宝塔

旧光台院多宝塔は藤田男爵が購入し、大正5年に大阪藤田邸に移建・現存する。
 旧藤田男爵邸・藤田美術館旧光台寺多宝塔
従って現在残る塔は移建に際し、藤田男爵が大正5年頃同型に建造・寄進した塔といわれる。

光台院は白河天皇皇子覚法親王あるいは道助親王(後鳥羽天皇皇子)の開基といわれ、高野御室と称する。
 ※他にも諸伝がある。
覚法親王あるいは道助親王は院内に五つの庵室を作り、このことが「五之室谷」の名称となる。
本尊は弥陀如来は快慶作で重文。

多宝塔は道助親王の供養塔として元禄年中(1688-1704)に建立されたと伝える。
塔は書院の庭の小池の上の丘の斜面中腹の潅木中に立つ。このため写真は若干撮り難い。
移建にあたり、藤田美術館塔は銅板葺に改められるが、この塔は桧皮葺き。
藤田男爵への所有権移転の経緯は不明なるも、藤田男爵が同型の塔婆を現地に寄進したという行為は一つの見識というべきか。
一辺2.45mの小型塔。

高野山光台院多宝塔1

  同         2

  同         3

  同         4
2006/12/02撮影:
 光台院多宝塔1
   同     2
   同     3
   同     4:左図拡大図
   同     5
   同     6
   同     7
   同     8
   同     9
※近年の台風で屋根破損、葺替が行われる。

2021/03/26撮影:
 光臺院多宝塔11     光臺院多宝塔12     光臺院多宝塔13     光臺院多宝塔14     光臺院多宝塔相輪
 光臺院山門     光臺院客殿か
 拝観案内掲示:以前は予約制であったが、宿泊以外は全て拝観謝絶とのことである。
予約制になるさらに前は多宝塔拝観の案内を乞うと快く案内されたが、この美風が無くなったということで、この寺院も終である。念のため寺僧に門前払いを承知で案内を乞うと、ケンモホロロに謝絶された。従って、多宝塔は外から上重のみしか撮影は出来ず。

高野山蓮華谷成福院八角三層塔

高野山成福院八角三層塔
昭和59年建立。高さ15.6m。鉄筋コンクリート製と思われる。但し内外装の一部は木の造作と思われる。銅板葺き。
伝統的な三重塔のシルエットとは遠く離れた代物と云うべきか。八角三重塔に分類するのは疑問と思われる。
 ※高野山摩尼宝塔(あるいはビルマ戦没者供養塔とも)と称する。内部は展示館を兼ねる。
一層は極端に大きく、三重塔の建立を意識したというより、ビルマのパゴダを意識して、八角形を採り、初重平面を大きくしたと思われる。
2001/07/21撮影:
 高野山成福院三重塔:写真に写っているシートは門が建立(改築)中?であり、その覆いである。
2006/12/02撮影:
 成福院特殊三層塔1  成福院特殊三層塔2  成福院特殊三層塔3
2021/03/26撮影:
 成福院八角三層塔11     成福院八角三層塔12     成福院八角三層塔13     成福院八角三層塔14
 成福院八角三層塔15


紀伊高野山六角経蔵(荒川経蔵)

紀伊高野山六角経蔵
六角ニ層(裳階付一重塔なのか二層塔であるのかは不明)の建築で、相輪を載せ、塔婆の形式を採る経蔵である。
平治元年(1159)美福門院が鳥羽天皇の菩提のため創建し金泥一切経を奉納したと伝える。
この時、紀州荒川庄を伽藍維持を目的として寄進したため、経蔵を荒川経蔵、金泥一切経を荒川経とも呼ぶという。
 2015/02/30追加:
  「堂塔建立次第」では「美福門院は仁和寺経蔵にならって二蓋八角の経蔵を建立するよう命じたが、完成したものは一蓋六角の経蔵」
  であったという。この時の建物は一面2間半の六角六面であったという。また内陣も六角という。
   ※この経蔵は創建時から平面六角であったのであろう。
天正19年(1591)創建時の建物を建替、文化6年(1800)焼失
文政年中もしくは天保4年(1833)再建、天保14年(1843)に炎上、
明治17年再興、昭和元年金堂とともに炎上、現在の経蔵は昭和8年の再建。木造。金泥一切経は現存。(霊宝館・重文)
2001/07/21撮影:
  高野山六角経蔵
2006/12/02撮影:
  高野山荒川経蔵
  美福門院陵:蓮華谷不動院境内?にある。
          但し写真のとおり、明らかに近代の天皇教狂信によって改変された様子が歴然で、興ざめする。
2021/03/26撮影:
 高野山荒川経蔵11     高野山荒川経蔵12     高野山荒川経蔵13     高野山荒川経蔵14
 高野山荒川経蔵15     高野山荒川経蔵16
2015/02/20追加:
○明治17年再興昭和元年焼失六角経蔵:
いずれも高野山霊宝館所蔵絵葉書
 昭和元年焼失六角経蔵1     昭和元年焼失六角経蔵2     昭和元年焼失六角経蔵3

※六角納経塔として、越前永平寺に平面六角の塔がある。この塔は平面六角の一重宝塔に裳階を付けた構造であると思われるが、
高野山のこの塔が裳階付一重塔なのか二層塔なのかは不明。

参考:紀伊の塔跡・最上廃寺の項を参照:
「続風土記」:尼丘(最上廃寺の地)は「奥氏の免許地なり、方50間の芝地なり、美福門院この地に来り給ひて寺を建て・・・、巽の隅に塔の跡とて真柱を居し礎石今存す、傍に又礎石あり、その西3間許り小高き地あり、経蔵の跡といふ、門院・・紺地金泥の一切経を書写せしめ、・・この経蔵に納め給ふ、遺告により・・・経蔵は高野山に移す、今檀上に荒川経蔵と称する是なり。」


高野山五之室谷南院仏舎利塔(宝塔)

高野山南院仏舎利塔
本堂背後北西の一角に仏舎利塔(宝塔)がある。RC製、垂木は木製。昭和53年建立。高さ11m、径約3,5m。屋根銅板葺。
スリランカのジャワルダナヤ大統領から贈られた仏舎利を奉納するという。
南院本尊は著名な浪切不動明王(重文)を祀る。南院は小嶋寺真興僧都の建立と伝える。
2001/07/21撮影:
 南院仏舎利塔1  南院仏舎利塔2
2006/12/02撮影:
 南院宝塔1     南院宝塔2      南院宝塔3
2021/03/26撮影:
 高野山南院宝塔11     高野山南院宝塔12     高野山南院宝塔13     高野山南院宝塔14
 高野山南院宝塔15     高野山南院宝塔16     高野山南院宝塔17     高野山南院宝塔18
 高野山南院宝塔19     高野山南院門前


高野山蓮華清浄心院宝塔

高野山蓮華谷清浄心院宝塔
2019年建立、塔身は石造
2021/03/26撮影:
 清浄心院宝塔11     清浄心院宝塔12     清浄心院宝塔13     清浄心院宝塔14     清浄心院宝塔15
 清浄心院宝塔16     清浄心院宝塔17
 清浄心院山門     清浄心院鳳凰奏殿     清浄心院永山帰堂     永山帰堂内部1     永山帰堂内部2


紀伊天野社多宝塔(羽生都比売神社) :

「中世高野山における神仏関係-天野社・御社の造営を通じて-」太田直之(「日本文化と神道 3」国学院大学、平成18年 所収) より
「高野明神の導きを得ることで高野の地を知った空海は、弘仁7年高野山に入定処を作り、その際丹生明神の示現を受け、高野山を中心とする紀伊南部の広大な地を譲渡され、」このことによって「丹生・高野両明神は高野山の鎮守として永くその仏法を守護する存在となった」とされる。
  →紀伊天野社多宝塔

紀伊慈尊院多宝塔

山下慈尊院には多宝塔が現存する。
  →紀伊慈尊院多宝塔
 


高野山の退転塔

紀伊高野山大伝法院大塔

2017/08/28追加:
高野山大伝法院の草創は大治5年(1130)に覚鑁が、鳥羽上皇の御願寺として、伝法堂を建立したことに始まる。
大治5年の「伝法院供養願文」では「奉建立宝形造一間四面伝法堂一宇」とある。つまり草創期伝法堂は方3間の宝形造の堂であった。
すぐに、鳥羽上皇の御願にて大伝法院が拡充される。
長承元年(1132)鳥羽上皇を迎えて大伝法院の落慶法要が行われる。
建長6年(1254)「伝法院造営間事」では「本堂三間四面、塔三間四面、中門2階、鐘楼」とあり、三間四面(平面五間)の大塔が建立される。
建長8年(1256)「奏上再興事」では「所焼失之堂舎既以数十宇也として、所謂二階本堂、十丈宝塔、鐘楼一宇、経蔵二宇三間二面、神殿七間四面、拝殿三間二面、護摩堂一間四面、二階不動堂、宝蔵、中院僧正(真然大徳)廟堂五間四面、温室」の12棟が記載される。
この第1期大伝法院は仁治3年(1242)伝法院方と高野山衆徒との争いで焼失する。
文永9年(1272)大伝法院は再興されるも、高野山に於いては大伝法院大塔は再興はされず。
 高野山大伝法院大塔の再興はいわば根来寺大伝法院大塔として実現される。

紀伊高野山大伝法院/真然堂塔婆 (聖霊堂/多宝塔)

2015/02/20追加:
真然廟を含む一帯は現在は金剛峰寺の寺域である。
もともと、この地は高野山第二世真然の廟所であった。
しかし、天承元年(1131)には覺鑁上人が鳥羽上皇の勅許を得て伝法院を建立する。
文禄2年(1593)秀吉は母堂の菩提のため、木食応其上人に命じて、後の青巌寺を建立する。
明治元年官の介入によって、青巌寺を金剛峰寺と改称、その後金剛峰寺は隣の興山寺を合併し現在に至る。
「日本歴史地名大系 和歌山県の地名」平凡社 より
真然堂は寛平3年(891)寂した高野山第2世真然の廟所である。
大治5年覚鑁が伝法院を創建したとき、現在地に移設したといわれる。
「続風土記」には青巌寺主殿上室の西二間の真然床の下が廟堂の旧跡であったという。
「高野山大伝法院本願霊瑞並寺家縁起」では真然堂は聖霊堂と名付けられ三間の拝殿があり、当初は多宝塔であったと記す。
・興山寺跡:現金剛峰寺の西半分の地にあった。近世には行人方の中心寺院であった・
明治2年学呂・行人・聖の三派が停止された時、廃寺となる。
・青巌寺:現金剛峰寺の東半分の地にあった。学呂方の寺務を採る中心寺院であった。
明治2年興山寺と合併し、金剛峰寺となる。
2021/03/26撮影:
 金剛峯寺眞然廟1     金剛峯寺眞然廟2     金剛峯寺眞然廟3

「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」菅原正明、清文堂出版、2001 より転載
 ■真然堂:現在は方形造三間堂(一間の向拝付)が存在する。寛永17年(1640)建立。
昭和63年の真然堂の解体修理及び発掘調査により、基壇下から緑釉四足壷が発見され、これは蔵骨器であり、その様式から推定される製作時代および真然堂基壇直下から発見されたことにより、高野山第2世真然大徳の舎利器と判断される。
また発掘調査により真然堂の基壇は4期に渡ることが判明する。
 紀伊國名所圖會 後編巻之6に見る真然堂:
  紀伊國名所圖會/真然堂:江戸後期には青龍寺の背後の丘に真然堂が描かれる。
                  この真然堂は寛永17年(1640)建立で現存する。
昭和63年の発掘調査の概要は以下の通りである。
1)真然堂最下層遺構:真然大徳墳墓であろうとされる。
2)その上の第2期遺構:塔基壇であり、この地に覚鑁上人が天承元年(1131)、大伝法院を建立したとき、真然墳墓を聖霊塔(多宝塔)として整備したときのものと 判断される。
3)さらにその上の第3期遺構:これも塔基壇であり、真然御廟の塔であり、おそらく高野山の伽藍の大半が焼失した大永元年(1521)の大火で焼失したものと思われる。
4)現基壇で現存する真然堂基壇:
         寛永17年(1640)建立の真然堂が現存する。
 つまり、現在の真然堂はそもそも高野山第2世真然の墳墓(蔵骨器発見)であり、
その後、おそらく覚鑁上人が大伝法院を建立した時、真然墳墓を聖霊塔(多宝塔)として整備したものであろう。(第2期遺構は塔基壇)
さらに、おそらく覚鑁上人建立の多宝塔はいつしか退転したのであろうか、
さらに塔基壇が築き直され(第3期遺構の塔基壇)多宝塔が再建されたものと思われる。
その再建塔も退転したのであろうか、現基壇が築かれ、寛永17年現在の真然堂が建立される。
◆鎌倉期の真然廟所多宝塔及び高野山大伝法院
「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」 より
 高野山古絵図(鎌倉期)に見る大伝法院:壇上伽藍の東に位置し、大伝法院の北側に聖霊堂(多宝塔)が描かれる。
                     (左上の多宝塔は壇上伽藍の東塔とも思われるが、多少位置がずれているとも思われる。)
                     本図は下の「高野山水屏風」であるが、中央左下に描かれる二層堂が大伝法院本堂である。
2015/02/20追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
高野山鎌倉期古絵図:大伝法院/真然多宝塔
 高野山水屏風右隻部分図2:大伝法院及び真然廟所、真然廟所はこの時期は 聖霊塔(多宝塔)であった。
                  中央下の二層堂が大伝法院本堂。
 高野山水屏風右隻:解説は次の通り。
  京都国立博物館蔵、鎌倉期の製作、図の向かって左は壇上伽藍、右は大伝法院伽藍である。
   ※上の「高野山古絵図(鎌倉期)・・」は本「高野山水屏風」である。
 2015/03/20追加:「根来寺を解く」中川委紀子、朝日新聞出版、2014 より
  図中に弘安8年(1285)供養の町石が描かれるも、建武元年(1334)建立の愛染堂が描かれないため、
  製作年は弘安8年〜建武元年の間とする。(「高野山古絵図集成」)
  山陰加春夫氏はこの当時の高野山は東寺一長者を座主に頂く本寺方、御室仁和寺が座主補任権を持つ大伝法院(別院、末院)方、
  そして鎌倉源実朝の菩提寺である金剛三昧院(関東祈願所)の三勢力が鼎立し、
  これらの周辺にはこれらの三方とは係りあいを持たない聖たちが集団をなして居住する山であったという。(新編中世高野山史の研究」)

 ※真然上人:弘法大師の甥で佐伯氏を称する。
弘法大師入寂の後、未完成の高野山の経営にあたり、高野山伽藍の原型を完成させた。高野山第2世。
墳墓は元伝法院(元青巖寺、現金剛峰寺)のあった場所に営まれたと云う。
 ※覚鑁上人:大治4年(1129)伝法会を復興させ、真然墳墓の丘陵地下に伝法院を創建する。
おそらく覚鑁上人が大伝法院建立にあたり、真然墳墓を多宝塔(聖霊堂)として整備したものと推測される。
上人は金剛峰寺座主と大伝法院座主を兼任していたが、高野山衆徒との長い反目の後、高野山反覚鑁派により、保延6年(1140)ついに武力で高野山を追われる。上人は根来の豊福寺山内に円明寺と神宮寺を建立し、この地で入寂する。
その後も高野山との争いは絶えず、正応元年(1288)学頭頼瑜上人は大伝法院の寺籍を根来に移し、新義真言宗が成立する。

2015/03/28追加:
●「真然大徳と覚鑁上人」菅原正明(「根来寺 第3版」根来寺文化研究所、2002 所収) より
 本稿は「根来寺」第3版において「発掘関係の資料を整理していただいた」ものという。
○真然堂は江戸期の宝形造三間堂であるが、堂保存修理工事に先立ち、昭和63年発掘調査が実施される。
発掘調査は真然堂基壇(東西6・3m、南北6,2m)の中央に十文字のトレンチを設定し、掘り下げを行い、この基壇中から、4層にわたって重複している遺構を検出する。下から各造営期をA〜Dとする。

 真然堂基壇発掘:左図拡大図

A期は当初で地山を削り出して造った一辺6.3m、残存高さ0.6mの台状遺構である。
B期は12世紀(含有土器による)頃の一辺5.3m基壇で、西側中央にある木炭に詰まった土壙から舎利器を発見する。この舎利器は緑釉四足壷で猿投窯で焼かれた9世紀の作品と考えられる。
C期は14世紀(含有土器による)頃の基壇でこの基壇には塔が建っていたことが判明。それは基壇上面から塔の風鐸・風招が出土したことと「高野山諸院家帳」文明5年/1473の大伝法院に「同塔」(真然廟所)と記載されていることからわかる。
この塔は何れの時期にか焼亡(大永元年/1521の大火?)、そのまま荒れるに任せていた。
D期は現存の真然堂で棟札から寛永17年(1640)建立と分かる。

○真然大徳の緑釉四足壷
 真然大徳緑釉四足壷
壷の大きさは人頭より一回り大きいものである。色は美麗なオリーブ色でありガラスのような光沢がある。紋様の美しさからも逸品であろう。
「霊瑞縁起」(正応5年/1292)によれば、鎌倉期にはこの地に真然大徳の廟院としての「聖霊堂」(多宝塔)が建っていたことから、この四足壷に納められた御骨は真然大徳(寛平3年/891示寂)その人のものと思われる。
 とするとA期の遺構は「真然墳墓」であり、覚鑁上人が大伝法院を建て、さらにこの墳墓を「聖霊堂」として整備するためA期の墳墓の中から四足壷を取り出し、塔の下に再埋納したものと考えられる。その年は大治6年(1131)であろう。
 真然堂の変遷
当初は真然の墳墓であったが、多宝塔に改葬され、荒廃の後、現在の真然堂が建立される。
○「霊瑞縁起」による大伝法院伽藍

 高野山水屏風大伝法院伽藍

「霊瑞縁起」によれば、大伝法堂を中心にその北の山中に御社と真然僧正の廟所である「聖霊堂」と号する多宝塔であり、その前には拝所を配する。
さらに本堂の西南には不動堂を、その南には護摩堂を、、南面の東南隅には鐘楼を配している。
この伽藍配置は「高野山水屏風」の壇上伽藍東側に描かれている一画の配置に近い。

覚鑁上人は真然大徳の実践した伝法会を再興するために、真然墳墓のある山裾に伝法院を立てる。
覚鑁上人は伝法院を拡大整備したときに真然墳墓を「聖霊堂」と号する多宝塔として整備したのに違いない。
伝法会を復活することこそ高野山の興隆はもとより、国家を鎮め、衆生を救う道であると覚鑁上人は堅い信念を持っていたと思われる。
 高野山正智院文書「覚鑁私日記」(弟子の記したものと思われる)に多くの秘事を書き連ねた最後に「安然御骨ハ覚王院塔下有之云々、秘事雖多、存略如此、他門之人ニ不可開見、秘事々々・・・・」とあり、秘事であるから、 真然は安然に、聖霊堂は覚王院塔下は書き換えていることが分かる。真然大徳の御骨は聖霊堂多宝塔下にありと伝えられているのである。
 16世紀後半の根来寺伽藍を描くと推定される「根来寺伽藍古絵図」があるが、その中枢である七堂伽藍所は金堂大伝法院、大塔、大師堂などとともに真然僧正堂などで構成される。要するに高野山上の大伝法院伽藍構成が基本的に根来寺で再興されているということであろう。
本図中では御開祖(覚鑁)が真然僧正堂(真然)と法話する様が織り込まれている。
 根来寺伽藍古絵図・七堂伽藍所
いかに覚鑁上人は真然大徳を尊敬していたかを示し、伝法会再興の強固な意志を示すものではないだろうか。高野山上で覚鑁上人が真然大徳を丁重に改葬した訳が分かるような構図ではないだろうか。

   → 高野山太伝法院/紀伊根来寺などの概要については 紀伊根来寺 のページに掲載、参照を乞う。

高野山五之室谷高祖院多宝塔

○紀伊国名所図会 三編巻之4より:
 高祖院多宝塔・・・高祖院に多宝塔が存在していたと思われる。 高祖院は五之室谷にありしが、現在多宝塔は廃絶。
2008/03/12追加:
○「高野山古地図」・・・上に掲載画像
 高野山高祖院古図:中央やや右に高祖院多宝塔(退転)
2011/07/19追加:
○文化10年(1813)高野山細見大繪圖・・・上に掲載画像
 高祖院多宝塔・光臺院多宝塔153
 五之室谷高祖院多宝塔154
高祖院は五之室谷にあり、現在の南院がある地かその付近にあったと思われる。
元応年間(1319-)、円雅月寿坊の開創と云う。本院高祖弘法大師を本尊とするが故に高祖院と号する。
火災焼失(年代不明)し、現在は蓮華谷三宝院が高祖院の「名跡」を受け継ぐ。

高野山新別所三重塔

2008/03/09追加:「大仏再建」講談社選書文庫メチエ56
重源「南無阿弥陀佛作善集」では
専修往生院と称する新別所には、一間四面の堂や三重塔があったと云う。(詳細は不明)

高野山本中院谷無量寿院多宝塔

2008/03/12追加:「高野山古地図」・・・上に掲載画像
 高野山無量寿院古図:中央に無量寿院多宝塔、中央は壇上伽藍西塔、現在は退転 。
2011/07/19追加:文化10年(1813)高野山細見大繪圖・・・上に掲載画像
 中院谷無量壽院多宝塔152:多宝塔に関する情報は皆無。
中院谷無量壽院については僅かに以下の情報がある。
大正2年、高野山教学の中心であった二大門主寺院の宝性院(宝門)と無量寿院(寿門)が合併し、寳壽院が発足する。
寳壽院は無量寿院の境内に置かれ、僧侶の教育指導機関である専修学院が設置される。
なお、宝性院跡は現在大師教会となる。

高野山往生院谷多宝塔

往生院谷は小田原谷の東、蓮華谷の西にある。
「高野山絵図」・・・上に掲載画像
 金剛三昧院并往生院谷多宝塔:中央やや下左に小田原谷金剛三昧院、中央やや上右に 往生院谷多宝塔(名称不明)がある。
(れんげ三昧院、丈六堂、千ぞう<蔵>院、上ち(池)院、不どう院などが附近にあり、小田原谷の東「往生院谷」に多宝塔があったものと思われるが、不詳。)
2008/03/12追加:「高野山古地図」・・・上に掲載画像
 高野山往生院谷多宝塔古図:塔の名称不詳、現在は退転
2011/07/19追加:文化10年(1813)高野山細見大繪圖・・・上に掲載画像
 往生院谷多宝塔157
 往生院谷多宝塔158
上池院、如来蔵院、密厳院、八幡社、千蔵院、寿量院、福生院、蓮寿院などが付近にある。
以上のうち上池院、密厳院などは多少場所は替っているとも思われるが、現地に現存する。
2021/07/30追加:
 高野山壇上寺家繪圖・部分図5:金剛三昧院多宝塔・往生院谷多宝塔
 往生院谷多宝塔:上図から往生院谷多宝塔部分を抜き出したもの、但し南北を逆にしている、上が南。

谷上大日堂東西二塔
「紀伊國名所圖繪 三編巻之5高野山之部中」 より:
 大日堂(金剛心院といふ)
 記事:「東西二基塔(礎石あり)」
 長元年間後一条院の創建。天養元年宇治入道忠実再興を企画。久安4年(1148)内大臣頼長落慶供養。
 東西2塔が存在したと云う。・・・大日堂は現在は廃絶。
  ※上に掲載した「紀伊國名所圖繪」中の谷上其二(部分図):無量寿院多宝塔の図に大日堂は描かれる。
   無量寿院は左下隅にあるが、その右側が大日堂である。
 


高野山のその他伽藍

高野山の歴史・文化財については多岐に渡り、詳細に述べるには、膨大な枚数が必要となる。

高野山内の構成
壇上伽藍、奥之院と十谷からなる。
 ※高野十谷:西院谷・南谷・谷上院谷・本中院谷・一心院谷・五之室谷・千手院谷・小田原谷・往生院谷・蓮華谷

高野山の組織
平安期から江戸期まで高野三方(学侶方・行人方・聖方)が組織される。
 学侶方:本寺は青巌寺、教学・祈祷を担う。
 行人方:本寺は興山寺、一山の管理・法会を担う。
 聖方 :本寺は大徳院、全国を行脚、高野山に対する信仰・勧進を担う。

近世の高野山寺領
徳川幕府は高野山に寺領を2万1000石を安堵する。
慶長6年(1601)の朱印状では、学侶方9500石、行人方11500石とされる。一方、聖方には寺領は与えられず、家光の時、聖方の大徳院・徳川家霊台の祭祀料200石のみであった。

最盛期の高野山院家
正保3年(1646)の「御公儀上一山図」によると、学侶方210院、行人方1440院、聖方120院、客僧坊42院、その他53院の1865院と記録されているという。
元禄5年(1692)元禄高野騒動といわれる学侶方と行人方の権力闘争に、幕府が裁定を下し、従わなかった行人627人を流刑にし、結果、行人方の坊は280坊に減少する。
以降、院家数はこれを越えることは無かったという。

●大門
重文、寛喜2年(1230)五間二階の楼門に改築、天正5年(1577)に焼失、慶長9年(1640)木食応其上人によって再建、元禄元年(1688)に焼失、宝永2年(1705)落慶供養。現在に至る。
2001/07/21撮影:
 高野山大門
2021/03826撮影:
 高野山大門11     高野山大門12     高野山大門13     高野山大門14     高野山大門15
 高野山大門16     高野山大門17     高野山大門18     高野山大門19     高野山大門20
 高野山大門21
●高野山壇上伽藍
 紀伊高野山壇上伽藍図(高野山発行パンフレット):
  ただし西塔は多宝塔形式で描かれるも、西塔は初重平面方5間の大塔である。
○中門:
天保14年(1843)の焼失後、長く再建されず、礎石を残すのみであったが、平成27年(2015)伝統工法で再建される。
2021/03/26撮影:
 高野山中門1     高野山中門2     高野山中門3
○金堂:
弘仁10年(819)創建、承和5年(838)造営
その後、正暦5年(994)、久安5年(1149)、永正18年(1521)、寛永7年(1630)、天保14年(1843)焼失、本尊・諸尊像はその都度、持ち出されたと云われる。
天保年中焼失堂は 万延元年(1860)再建、14間四面、重層、銅瓦葺、欅材・装飾(彫刻)を多用。
万延再興堂は昭和元年火災焼失、本尊x秘仏薬師如来像(弘仁期)・諸尊も焼失。
現在の金堂は、昭和3年起工、昭和7年竣工、昭和9年落慶。
2007/08/30追加:
「近畿名所」高木秀太郎、神戸:関西写真製版印刷、明36年 より
 万延元年再興金堂131
「高野山霊宝絵端書帖」、平田永吉編、高野村:宝玉堂、明41年 より
 万延元年再興金堂132   高野山壇上伽藍
「日本名勝写真帖」大阪:玉鳴館、明治31年 より
 万年元年再興金堂134   万延元年再興金堂135:写真右端の大塔は高野山西塔
「日本名勝旧蹟産業写真帖」西田繁造編、横浜:西田耕雲堂、明治45年
 万延元年再興金堂136:写真下方は根本大塔土壇・礎石、右は御影堂
2001/07/21撮影:
 金   堂:昭和再建堂。
2021/03/26撮影:
 高野山金堂1     高野山金堂2     高野山金堂3     高野山金堂4
○御影堂:
大師御影を祀り、信仰の中心の一つとなる。
天保14年(1843)の大火で焼失、弘化4年(1847)再建。
2001/07/21撮影:
 御影堂
2021/03/26撮影:
 高野山御影堂1     高野山御影堂2
○不動堂:
国宝、建久9年(1196)頃一心院谷に建立され、明治 41年一心院谷から現在地に移建。高野山に現存する最古の建築といわれる。
2001/07/21撮影
 不動堂1    不動堂2
 2006/12/02追加:
  一心院谷不動堂金輪塔1    一心院谷不動堂金輪塔2:明治期頃は錐揉不動との名称で呼ばれていたと思われる。
   ※写真手前は不動堂、多宝塔写真は金輪塔である。
    特に2の写真の撮影された頃は、金輪塔附近に多少の伽藍が残っていたと思われる。
2006/12/02撮影:
 高野山不動堂1    高野山不動堂2    高野山不動堂3    高野山不動堂4    高野山不動堂5    高野山不動堂6
2021/03/26撮影:
 高野山不動堂11     高野山不動堂12     高野山不動堂13     高野山不動堂14     高野山不動堂15
 高野山不動堂16     高野山不動堂17
○准胝堂:明治16年再建。
2021/03/26撮影:
 高野山准胝堂
○孔雀堂:昭和9年再建。
2021/03/26撮影:
 高野山孔雀堂
○大塔鐘楼:RC造、建築(再建)何代不明。
2021/03/26撮影:
 高野山大塔鐘楼
○愛染堂:弘化5年(1848)再建。
2021/03/26撮影:
 高野山愛染堂1     高野山愛染堂2
○大会堂:弘化5年(1848)再建。
2021/03/26撮影:
 高野山大会堂1     高野山大会堂2     高野山大会堂3
○三昧堂:文化13年(1816)再建。
2021/03/26撮影:
 高野山三昧堂
○高野山山王院鐘楼
建築年代不詳。
2021/03/26撮影:
 高野山山王院鐘楼
○高野山山王院
四所明神の拝所である。両側面向拝付入母屋造、正面21.3m、側面7.8m。弘化2年(1845)再建。
2021/03/26撮影:
 高野山山王院1     高野山山王院2     高野山山王院3     高野山山王院4
○高野山四所明神
 現在は御社と呼ぶようである。重文。
大永2年(1522)再建。弘法大師が弘仁10年(819)丹生都比売神社(天野社)から丹生都比売を勧請、次いで地主神である高野明神、その他の神々を勧請、高野山の鎮守する。
更に、承元年中(1207-10)行勝が気比・厳島両明神を勧請し、四所明神と称する。
社殿は3棟あり、一ノ宮は丹生明神・気比明神、二ノ宮は高野明神(狩場明神)・厳島明神、総社は十二王子・百二十伴神を祀る。
一ノ宮とノ二宮は春日造、総社は三間社流見世棚造で何れも屋根は檜皮葺。
2021/03/26撮影:
 高野山四所明神1     高野山四所明神2     高野山四所明神3     高野山四所明神4
●金剛峯寺
 明治2年、学侶方本寺青巌寺と行人方本寺興山寺 (廃寺)を合併し、高野山真言宗総本山金剛峯寺と改称する。
青巌寺は、文禄2年(1593)秀吉が亡母の菩提のために木食応其に命じて建立し、母の大政所の剃髪を納めたことから当初「剃髪寺」とよばれ、のちに「青巌寺」と改称する。
興山寺は同じく秀吉が木食応其のために建立し、行人方本寺であった。
境内は48295坪であり、主殿(文久3年/1863再建)、奥殿(昭和9年建立)、別殿(昭和9年建立)、新別殿(1984年建立)、阿字観道場(昭和42年建立)、蟠龍庭(石庭)などを具備する。その他、経蔵、鐘楼、真然堂(廟)、護摩堂一棟、山門<文禄2年(1593)再建>、会下門などがある。
この地は、古くは眞然の住坊であり、覚鑁建立の大伝法院跡でもある。江戸期、興山寺裏山には東照権現社が造営されていた。
眞然廟:寛永17年(1640)再建、宝形造、屋根檜皮葺。昭和63年(1988)〜平成元年(1989)解体修理、この時舎利器が出土し、真然の廟所とされる。
  →紀伊高野山大伝法院(真然堂/真然廟)
2021/03/26撮影:
 高野山金剛峯寺山門     主殿・大玄関など1     主殿・大玄関など2     主殿・大玄関など3
 主殿・大玄関など4       金剛峯寺庭園1       金剛峯寺庭園2
○」高野山大師教会大講堂
大正15年建立、布教の中心をなす。
2021/03/26撮影:
 高野山大師教会大講堂

興山寺東照宮及び大徳院東照宮については、このページの下の「東照宮(東照大権現)」の項に掲載

2021/03/26撮影:
 高野山不動坂口女人堂1     高野山不動坂口女人堂2
2021/03/26撮影:
 一心院谷蓮華定院
2021/03/26撮影:
 一心院谷西室院
○五坊寂静院
寺伝では「妙法蓮華経」に因む、妙智坊・法智坊・蓮智坊・華智坊・経智坊という宿坊があり、明寂、これらを一心院とするという。
平安期以降、学侶方の有力寺院であったという。
建久9年(1198)八条女院、不動堂・八大童子像・不動明王像を寄進。
貞応2年(1223)貞暁上人、伽藍を再建し、五坊寂静院と改称する。
寶治2年(1248)日蓮が遊学する。
明治41年、不動堂・八大童子像・不動明王像を金剛峯寺へ移設する。
昭和15年、火災により、全伽藍焼失。
昭和42年、大和中宮寺旧本堂を当院へ移築する。
2021/03/26撮影:
 一心院谷五坊寂静院入口:入口標石の裏面:大正15年、大阪本化栴檀林建立 とある。大阪本化栴檀林は現在は廃檀。
 五坊寂静院鬼子母神     五坊寂静院門前     五坊寂静院題目石
 五坊寂静院山門     五坊寂静院庫裡1     五坊寂静院庫裡2
 五坊寂静院本堂1     五坊寂静院本堂2:但し、本堂は未見

刈萱堂
刈萱道心と石童丸が30年にわたって修行した場所といい、高野聖の一派である萱堂聖の本拠地となる。現在は高野山密厳院の仏堂である。
密厳院は長承元年(1132)覚鑁によって創建される。
保延6年(1140)高野山の内紛により焼き討ち(錐揉みの乱)され、これを契機に、覚鑁は下山し、新義真言宗根来寺を開創する。
現在の密厳院はその後再建されたもので、本堂には覚鑁の像が祀られる。
2021/03/26撮影:
 高野山刈萱堂

井伊掃部頭霊屋(井伊直弼 墓所/廟)
彦根藩初代藩主・井伊直政の五輪塔一基がある。つまり初代直政の廟所である。
2021/03/26撮影:
 井伊掃部頭墓所1     井伊掃部頭墓所2     井伊掃部頭墓所3

上杉謙信廟所:重文
霊屋の創建は詳らかでないが、様式手法から江戸時代初期の造営と推定されている。
現在は謙信廟に景勝も合祀される。
2021/03/26撮影:
 上杉謙信廟所1     上杉謙信廟所2     上杉謙信廟所3     上杉謙信廟所4
 上杉謙信廟所5     上杉謙信廟所6


東照宮(東照大権現)

2023/10/08追加:
興山寺東照宮
寛永8年(1631)行人方本寺興山寺は裏山である伝法院山に東照宮を建立する。
この時期、豊臣秀吉の庇護を受けていた高野山各派は寺院経営上、徳川幕府に接近する必要性があり、行人方としてはその忠誠の証として本寺興山寺に東照宮を建立する。
興山寺東照宮は本殿、拝殿、中殿、唐門、御供所、経蔵、宝庫、鐘楼、表御門、裏御門、鎮守社などを具備する伽藍であった。
以降、この東照宮は明治維新まで存続する。
明治維新の変革で、高野山は寺領・山林を失い経済的基盤が崩壊し、さらに明治21年の大火で多くの寺院が廃寺となる。
こうした中で、興山寺東照宮は解体され山内寺院復興のため解体し、山内寺院復興の為払い下げられる。
本殿と四脚門は普賢院、拝殿は普門院、校倉造の経蔵は常喜院へ払い下げられ現存する。
(常喜院経蔵は、見学は出来ないが、蛇腹路から見ることが可能と云う。)
遺構などは未見の為、繪圖のみ掲載する。
「高野山壇上寺家繪圖」宝永3年(1706) より:本絵図については、本ページ中のあり。
 高野山壇上寺家繪圖・興山寺東照宮:唐門、本殿、拝殿、経蔵、鐘楼、鐘撞庵、御宮守庵などが見える。
「高野山細見大繪圖」文化10年(1813) より:本絵図についても、本ページ中のあり。
 高野山細見大繪圖・興山寺東照宮

2006/12/02撮影:
大徳院東照宮
○徳川家霊台:重文。
家康・秀忠霊屋のほぼ同形の2棟が並ぶ。寛永20年(1643)落慶。
3間四方の宝形造り、屋根銅瓦葺き、正面は唐破風の向拝を付設、勾欄付きの縁を廻らす、内部は金銀蒔絵などで荘厳される。
一辺は6.7m。元は大徳院(聖方本寺であった)の境内であったが、明治維新後、大徳院は廃寺合併。
 徳川家霊台1   徳川家霊台(家康)1   徳川家霊台(家康)2   徳川家霊台(家康)3   徳川家霊台(家康)4
 徳川家霊台(家康)5  徳川家霊台(家康)6  徳川家霊台(家康)7  徳川家霊台(秀忠)8  徳川家霊台(秀忠)9
 金剛峰寺パンフレットより:
  徳川家霊台絵図  徳川家霊台内部1  徳川家霊台内部2
 2011/07/19追加:
 高野山聖方本寺大徳院は元々蓮華院と称し、弘法大師もしくは快仙僧都の開基と云い、五の室谷に位置した。
 天文4年(1535)松平清康(徳川家康祖父)の遺骨が納められ蓮花院から光徳院に改号、
 文禄3年(1594)徳川家康から大徳院の院号が与えられ再び改号する。
 慶長12年(1607)家康から朱印200石を受ける。幕藩体制下で聖方總触頭となり、聖方百余ヶ寺を統括する。
 寛永20年(1643)大徳院裏方に東照宮が落慶、徳川家の菩提所となる。
  ※大徳院は東照宮別当
  ※現在は家康廟(神仏分離で薬師堂)・秀忠廟(神仏分離で位牌堂)と称する。
 一方、大徳院宥雅法印、寛永年中(1624〜44)神田紺屋町に屋敷を拝領、高野山聖方総触頭大徳院在番所を開設。
 寛文6年(1666)在番所、本所猿江へ移転、貞享元年(1684)には再度、両国の現在地に移転。
 明治維新後、五の室谷大徳院は他寺院と合併、蓮華院に復号し、千手院谷の現在地に移転する。
 あるいは、五の室谷大徳院の”寺籍”は両国大徳院に移されたとも云われる。
 五の室谷大徳院跡地には南谷の行人方南院が移転され現在に至る。
  ※明治維新後のこの処置は行人方の反発や徳川家に鞭打つなどの機運があったものと推測されるが、その理由は良く分からない。
   五之室谷高祖院多宝塔154:上に掲載、高野山東照宮・大徳院が描かれる。
2021/03/26撮影:
元和3年(1617)学侶方青巌寺が主殿に家康像を安置し本尊とする。
寛永5年(1628)には行人方興山寺が境内に東照宮を造営して3年後に落成する。
寛永20年(1643)には聖方・大徳院が10年の歳月を費やし、徳川家霊台を竣工させる。
 徳川家霊台2     徳川家霊台3
 徳川家霊台・家康11     徳川家霊台・家康12     徳川家霊台・家康13     徳川家霊台・家康14
 徳川家霊台・家康15     徳川家霊台・家康16     徳川家霊台・家康17     徳川家霊台・家康18
 徳川家霊台・家康19     徳川家霊台・家康20     徳川家霊台・家康21     徳川家霊台・家康22
 徳川家霊台・家康23     徳川家霊台・家康24
 徳川家霊台・秀忠11     徳川家霊台・秀忠12     徳川家霊台・秀忠13     徳川家霊台・秀忠14
 徳川家霊台・秀忠15     徳川家霊台・秀忠16     徳川家霊台・秀忠17     徳川家霊台・秀忠18
 徳川家霊台・秀忠19     徳川家霊台・秀忠20
2023/10/08追加:
「高野山壇上寺家繪圖」宝永3年(1706) より:本絵図については、本ページ中のあり。
 高野山壇上寺家繪圖・大徳院東照宮
「高野山細見大繪圖」文化10年(1813) より:本絵図についても、本ページ中のあり。
 高野山細見大繪圖・大徳院東照宮


2026/01/28追加:
女人禁制/高野山女人堂

(1)女人禁制

◇高野山の概観

 高野山は「八葉(はちょう)の峰」と称される1000m級の山々に囲まれた山上の盆地にある。
高野山は弘法大師空海の開創した山で、創建以来真言密教の根本道場であり続け、平安末期には覚鑁の別立などがありしも、また中世には封中世には建領主化し武装するも、秀吉の武装解除により、近世徳川幕府体制の秩序の中に組み込まれる。
近世(江戸期)記録ではおそらく2000ヶ寺を越える寺院及堂塔で構成されていたという。
明治維新で多くの山内寺院が困窮、火災焼失などもあり、明治維新前後に680余ヶ寺あった寺院は明治17年には431ヶ寺に減少する。
さらに、明治21年3月の2日間に渡る大火によりおそらくは100ヶ寺以上の寺院と多くの什宝が焼失。
その結果、明治維新前後に680余ヶ寺あった寺院は明治28年になると130ヶ寺まで減少し、廃絶した堂社は40軒を数え、現存するのは30軒に満たないほどとなる。
明治維新後、上記のように火災・経済的困窮で多くの寺院が廃絶し、山内には多くの町屋が進出してきて、高野の町の原型が出来上がってくる。
現在では、壇上伽藍などの堂塔及び110ヶ寺超の寺院及び町屋で高野山を構成している。

◇女人禁制

 高野山は空海開創のときから、女人禁制であったとされる。
  ※上述の
   2015/03/05追加:
   ○「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 では「高野山結界絵図」(「御手印縁起 1巻」)があり、
    それは「弘仁7年(818)の高野山四至を点定する太政官符と承和元年(824)の弘法大師筆という山上四至点定の文書」
    を持って1巻とするという内容であるという。
    しかしながら、それは(太政官符・大師文章は)原本とは認めがたいともいう。
以上のように、女人禁制は開創以来の宗制ということが事実なのかどうかは確たる証拠がないが、女人禁制の理由は「修行の聖地を守り、僧侶から煩悩を絶つ」というように解説されるようである。
だとすれば、やはり、女性蔑視(血の穢れ<月経・出産>が根本にあったと言わざるをえない。
 高野七口の各入口には女人堂が建てられ、ここから先は「女人結界」とされ、女性は高野山々内に入ることができなかった。
この「女人禁制」は明治5年に太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」が布告されるも、この時には高野山では禁制は解かれず、明治37年(明治39年という説もある)にやっと禁制は廃されるという。
     ----------
     ◇太政官布告第98号
      明治5年3月27日「太政官布告第98号」にて女人禁制の廃止が布告される。
      布告の原本ではないが、国立国会図書館には次の資料がある。
       「明治五年布告目次」があり、「目次の第九十八号」では「神社佛閣之地女人結界之場所ヲ廃ス」とあり、
      「第九十八号」の具体的内容は「神社佛閣ノ地ニテ女人結界ノ場所有之候處、自今被廃止候條登山参詣等可為勝手事」とある。
       しかし、高野山ではこの布告をもって、直ちに女人禁制が解かれた訳ではなかったが、
      いずれにしろ、第一歩を踏み出したということであろう。
       ただ、およそ170年後の現在においても、前近代的な「家父長制」や「男尊女卑」の残滓が刷り込みとして、
      制度的にも意識の面でも残り、それを擁護する政治思想や政治勢力なども残るというのはどうしたものなのであろうか。
      ----------

◇女人禁制の起源/女性蔑視・穢れ/血盆経(偽経)の果たした役割

○2026/01/14日本経済新聞(夕刊)Studies より
記事タイトル:
 「女人禁制の今昔」、「明治期まで禁じられた入山」、「穢れ」恒常化した民間信仰 
  この稿はおそらく慶應義塾大学名誉教授・鈴木正崇氏の寄稿と思われる。
掲載絵図:
血の池地獄に墜ちた女性は、血盆経を朗誦すれば救済されると考えられた
 (「立山曼荼羅」吉祥坊本、部分、1866年、富山県[立山博物館]蔵)
     ※この掲載絵図(「立山曼荼羅」吉祥坊本)は次項に掲載する。
 【記事の大意】
富士山を代表とする秀麗な日本の山々の大半は霊山として基本的に明治5年までは女人禁制であった。
 ※富士山だけではなく、今思いつくだけでも、二荒山(男体山)比叡山・高野山・出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)・立山・白山・御嶽山・戸隠山・大峰山・多武峰なども基本的に明治5年「太政官布告第98号」が布告されるまで女人禁制であった。
最も古い伝承の記録は、「本朝神仙伝」第五(12世紀前半)で、吉野山麓の住人の都藍尼(とらんに)が金峯山への登攀を試みたが、雷電に打たれて退却したという。金剛蔵王が守る山で、「戒地」なので女人は登れないと説く。
 女人禁制の山には、女人たちが参籠修行する女人堂が建てられ、そこに投宿・修行・祈願をした。
高野山の女人堂は現存する。(現存する女人堂の写真が掲載される)
なぜ女人禁制なのか、その起源には次の4つの理由が考えられている。
 (1)血の穢(けが)れに対する不浄観
 (2)仏教の戒律(不邪淫戒)の適用
 (3)仏典に見える女性蔑視思想の影響
 (4)日本の民俗の本質に根差す習俗、である。
一般には血の穢れによると説かれることが多い。
仏教の影響も大きく、女性は男性僧侶の修行の妨げになるので戒律を定めたことに由来するという。
元々は禁足地だった山が、僧侶の山林修行の地となり行者が霊力を得る修行が始まって、境界の意識が顕在化し「山の結界」、さらには「女人結界」になったのではないかと思われる。
境界に関わる禁忌の一つが女人への規制であった。
 史料上で女性への登拝規制が現れるのは、11世紀半ばには定着したという。
(中世仏教史専門・大阪大学名誉教授・平雅行によれば9世紀後半で、宮中での穢れへの規制と女性の罪深さを強調する仏教の罪業観が融合し、家父長制の浸透で王朝貴族女性の劣位性が顕在化という)
併せて都市での穢れ観の肥大化が起こったのが要因とされる。
 仏教経典の女性蔑視の影響もある。
法華経は「女身は垢穢(くえ)にして、これ仏法の器に非ず」と説き、涅槃経は、女性は罪業のゆえに、死後に梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏になれないという「五障(ごしょう)」を説く。
さらに「五障三従」という四字成句が登場する。
「三従(さんじゅう)」とは、女性はまず父母に、成婚しては夫に、老いては子に従うことで、古代から見え、「源氏物語」(11世紀初頭)にも現れる。
「三従」とは「儒教思想」に源流が求められる(「儀礼」喪服編)。
「五障三従」と二重の意味で女性は男性に対して劣位に置かれた。
また、女性は男性に転生しないと成仏できないという「変成男子(へんじょうなんし)」の説も説かれる。
「今昔物語」(12世紀前半)巻十一第二十五話には「女永ク登ラズ」とあり、仏教説話集「沙石集」(1283年)巻十第八話は「女人ナレバ惣門ノ中ヘハ入リ給ハジ」と記す。
女人禁制や女人結界という四字熟語は室町や江戸期に登場する。
血盆経の普及
 大きな変化は、12世紀頃に中国で創作された血盆経が、15世紀頃(室町期)に日本へ請来されて、女性の「血穢(けつえ)」を強調して以降である。
血盆経は広く民衆に普及したのである。
 血盆経は、女性は出産や月経の血で地神や水神を穢し、その罪で死後に血の池地獄に堕ちる運命にあると説く。
血の池地獄は女性だけが堕ちる地獄で、子供を産まない女性が死後に堕ちると説く不産女(うまずめ)地獄と共に室町期に新たに登場した地獄である。
血盆経を朗誦すれば救済されるとされ法要や供養で用いられる。
 16世紀には熊野比丘尼が各地で熊野三山への参詣を勧め、血の池地獄を描いた熊野観心十界図で地獄の絵解きをして女人救済を説く。
女性が絵解きすることで一般の女性への説得性を獲得したということである。
 越中立山の芦峅寺の衆徒も山中の地獄極楽を描いた立山曼荼羅(御絵伝)を各地に持ち歩いて絵解きして、血盆経を不浄除けとして配布し、女人救済・往生祈願の護符を出す。
 血盆経は短い経典で日常生活と関わりが深く、女性の罪深さや不浄観を浸透させ、穢れと女性との観念を強く連合させた。
血盆経は仏教の教理とは関係ない民間信仰に過ぎなかったが、血穢を強調し女性の穢れを生理や出産に伴う「一時的」なものから「恒常的」なものに変貌させた。
 ※血盆経は仏教とは無関係で、偽経の類である。
日本での大きな特徴は女性の穢れの「恒常性」の強調にあるといえよう。

◇血盆経:但し偽経である

血盆経
 ネットで検索すると、容易に入手できる。
 諸本があるということなので、その中の一つを以下に引用する。
 訓読みも容易に入手可能である。
------------------------------------------------------------
仏説大蔵正経血盆経
 爾時、目連尊者、昔日往到羽州追陽県。見一血盆池地獄。闊八万四千由旬。池中有一百二十件事、鉄梁鉄柱、鉄枷鉄鎖、見南閻浮提許多女人、被頭散髮、長枷杻手、在地獄中受罪。獄卒鬼王、一日三度、將血勒教罪人喫。此時、罪人不甘伏喫、遂被獄主将鉄棒打作呌声。目連悲哀、問獄主、「不見南閻浮提丈夫之人、受此苦報。只見許多女人、受其苦痛。」獄主答師言、「不干丈夫之事。只是女人産下血露、汚触地神、并穢汚衣裳、将去溪河洗濯、水流汚漫、誤諸善男女、取水煎茶、供養諸聖、致令不淨。天大將軍、劄下名字、附在善惡簿中。候百年、命終之後、受此苦報。」目連悲哀、遂問獄主。「将何報答阿娘産生之恩、出離血盆池地獄。」獄主答師言。「惟有小心教順男女、敬重三宝。更為阿娘持血盆斎三年、仍結血盆勝会、請僧転誦此經一蔵、滿日懺散便有般若船、載過奈河江岸、看見血盆池中、有五色蓮華出現。罪人歓喜。心生慚愧、便得超生仏地。」諸大菩薩、及目連尊者、啓告奉勸。南閻浮提衆信男女、早覚修持、大辦前程、莫教失手、万劫難復、仏告説女人血盆経。若有信心書写受持、令得三世母親、尽得生天、受諸快楽、衣食自然、長命富貴。爾時、天龍八部、人非人等、皆大歡喜、信受奉行、作礼而去。」

◇立山曼荼羅に見る「血の池地獄」

◇「立山曼荼羅」における地獄の描写
 立山曼荼羅の基本形、次の5つの要素が描かれ成立する。
  立山開山伝説、立山の地獄、立山の浄土、禅定登拝道、布橋灌頂会の5つである。
立山曼荼羅の基本的な用途は、「立山信仰」(神仏集合)の教えを、文字の読めない一般庶民にも分かりやすく伝えるための「絵解き)用テキスト」であり、それは「巡回布教の道具」というべきものである。
立山の芦峅寺及び岩峅寺の僧侶・宿坊衆徒が全国を巡り、この絵を掲示し「立山の教えや功徳」を物語る「絵解き」に使用されたものである。
 ※おそらくは立山僧侶。衆徒の経済的存続基盤に関わる活動であったと思われ、現代の資本主義的コマーシャリズムに即して解釈することも可能であるが、それは身も蓋もないので省略する。 
 「立山の地獄」に関していえば、次のような「絵解き」(解説)が行われたという。
 間は死後、その魂は必ず立山に赴く。
人間は一生で様々な「業」を背負い、それ故立山には「悪業」をなした者を責め苦しめる様々な地獄がある。
その中の一つに「血の池地獄」がある、この血の池地獄はどんな女人でも、持って生まれた血の穢れの故に必ず堕ちてしまう地獄であると説く。
では「救い」は無いのか?、「立山」では次の方法が用意されていると説く。
 男性は立山(雄岳)に禅定登山し雄山神社に参拝すれば、立山の阿弥陀浄土に行くくことができると説く。
しかし、女人は「血の穢れ」の故に、立山禅定登山道は女人禁制とされ、登山は不可とされる。
では女性は救われないのか。
女人にも用意されていて、立山山麓の芦峅寺・岩峅寺で行われる「布橋灌頂会」に参加すれば阿弥陀浄土に行くことができると説く。

◇立山曼荼羅の諸本

◎「立山曼荼羅」吉祥坊本
立山博物館蔵、絹本四幅一対、128.5×146.7cm
慶応2年(1866)4月に制作、三河岡崎藩主・本多忠民らが、当時師壇関係を結んでいた芦峅寺の吉祥坊に寄進したものである。
 ※本多忠民は讃岐高松藩主・松平頼儀の4男、後に幕府老中
○サイト:中部地方環境事務所>旅する掛軸「立山まんだら」って何? より転載
 「立山曼荼羅」吉祥坊本・血の池地獄部分図

  クリックで「立山曼荼羅」吉祥坊本・全容を表示
 立山曼荼羅 吉祥院本
上に掲載の○2026/01/14日本経済新聞(夕刊)Studies 記事中に引用された「立山曼荼羅」吉祥坊本 である。
記事では「血の池地獄に墜ちた女性は、血盆経を朗誦すれば救済されると考えられた」とある。

◎「立山曼荼羅」善道坊本
○サイト:中部地方環境事務所>旅する掛軸「立山まんだら」って何? より転載
135.2×181.3cm、紙本四幅一対
 立山曼荼羅 善道坊本:「血の池地獄」は左端中央付近に描かれる。

----------
  以下は○「何が分かるか、社寺境内図」国立歴史民俗博物館、平成13年(2001) より転載

◎「立山曼荼羅」佐伯家本
 立山曼荼羅 佐伯家本
個人蔵、江戸後期、148.8×180.9cm、紙本四幅一対、芦峅寺系。
「血の池寺読」は左端・上部にえがかれる。
下部左端の伽藍は岩峅寺、左2双目・下部の伽藍が芦峅寺、左3双目の最高頂は男山

◎「立山曼荼羅」坂本家本
 立山曼荼羅 坂本家本
個人蔵、明治の神仏分離以降の作成(復古神道系の祭神名が記される)、芦峅寺系。
「血の池寺読」は左端の双の「火の珠」が飛ぶ上に描かれる。
左端・最下部の伽藍は岩峅寺、左3双目・最下部の坊舎群が芦峅寺、左3双目の最高頂は男山

◎「越中立山開山縁起大曼荼羅」富山県立図書館本
 「越中立山開山縁起大曼荼羅」富山県立図書館本
同館蔵、芦峅寺泉蔵坊底本、江戸後期、裏に「遠州敷智郡引馬城南 米津村 磐谷写之」とあり、毎年遠州を巡回してきた芦峅寺泉蔵坊が絵解きに使ってきた立山曼荼羅を米津村磐谷なる者が模写したものと思われる。芦峅寺系。

◎「立山曼荼羅」桃源寺本
 「立山曼荼羅」桃源寺本
江戸後期、桃源寺蔵?、岩峅寺系

◎「立山曼荼羅」中道坊本
  「立山曼荼羅」中道坊本
個人、明治、岩峅寺系

  以上○「何が分かるか、社寺境内図」 より転載
----------
◎「立山曼荼羅大仙坊A本
○サイト:富山県・立山博物館>施設紹介>教界ゾーン>収蔵資料 より転載
 立山曼荼羅 大仙坊A本
大仙坊蔵、133.0×157.0cm、絹本四幅一対

○「絵図にみる立山信仰」岩鼻通明(「何が分かるか、社寺境内図」国立歴史民俗博物館、平成13年 所収) より
 立山の参詣道は常願寺川の流れに沿って遡るもので、常願寺川扇状地の扇頂部には岩峅寺僧房集落があり、ここから山間の峡谷部に入り尾根道の登山道にさしかかる手前に芦峅寺宿坊集落がある。
明治5年以前までは、立山の登山は夏の数か月だけであり、女人禁制であり、男性の登山も修験者の先導が必要と定められていた。
しかし、明治の神仏判然令で修験道が禁止、また西洋文明の流入で登山はスポーツの一種とされ、次第に岩峅寺・芦峅寺の宿坊坊舎はその役割を終える。
 立山曼荼羅は江戸期以降制作され、多くは四幅の大きなサイズの絵図である。
立山信仰の布教を目的として作成され、岩峅寺・芦峅寺の僧侶・衆徒が持ち歩き、信者の家々で「絵解き」を行い、立山登山を勧誘した、
 立山曼荼羅の「絵解き」の内容は
・立山開山縁起:奈良期の越中国司であった佐伯氏の逸話
・立山地獄:活火山・立山の火山活動の現象する地獄谷を地獄に見立て、地獄を可視化する(血の池など)
・立山浄土:立山の上空には天女が舞い、阿弥陀三尊のご来迎があり、地獄の傍には極楽浄土が存在することを説く
・立山登山案内:立山登山道にそって、様々な伝説(美女杉・藤橋・・)が散りばめられる
・芦峅寺布橋大勧請:女人禁制であった女性のため、秋の彼岸の中日には芦峅寺で布橋大勧請が行われ、これに参加すれば、女性も極楽往生できるという救済策があると説かれる。
 さて、立山曼荼羅は40点余が伝来するが、岩峅寺系と芦峅寺系(伝来てんしいでは大部をしめる)の2系列がある。
それらの画面構成には違いがあるが、共通項は画面の左下に岩峅寺が、その右に芦峅寺が、左上には立山地獄が、右上には立山浄土が描かれると指摘できる。
しかし、それぞれ自らの集落は大きく誇張して描き、岩峅寺系は布橋大勧請を省くが、芦峅寺系は布橋大勧請を詳細に描く。

○「国立歴史民俗博物館資料調査報告 情報資料研究部 社寺境内図資料集成1 東北・関東・中部・中国・四国・九州」国立歴史民俗博物館、2001 より
 この報告書「社寺境内図資料集成1」に大量の「立山曼荼羅」図が収録されている。
但し、図版は全てモノクロ、「原資料を撮影したものを基本に」し、それを直接焼き付けし印刷したものと思われ、図版が粗く、また当然印刷図版は小さく詳細が読み取れないため、図鑑の転載はしない。
 以下に、収録されている「立山曼荼羅」の明細を記す。
1.「立山曼荼羅」A本(仮称):個人、江戸後期、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】150×150cm
2.「立山曼荼羅」B本(仮称):個人、明治、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】135×147cm、裏面に銘文あり
3.「立山曼荼羅」C本(仮称):個人、明治、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】125×225cm
4.「立山曼荼羅」D本(仮称):個人、天保元年以降、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】180×186cm、裏面に銘文あり
5.「立山曼荼羅」E本(仮称):個人、安政5年(1858)、絹本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】140×180cm
    立山曼荼羅寶泉坊本の寄附状あり。西尾拾遣乗全(西尾藩主松平乗全)より立山寶泉坊へ、安政5年12月15日
6.「立山曼荼羅」F本(仮称):個人、慶應2年(1866)、絹本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】129×147cm
    芦峅寺吉祥坊の東部檀那帳がある
7.「立山曼荼羅」G本(仮称):個人、江戸後期、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】149×180cm
8.「立山曼荼羅」H本(仮称):個人、江戸後期、絹本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】133×157cm
9.「立山曼荼羅」I本(仮称):個人、幕末、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】132×170cm、裏面に銘文あり
10.「立山曼荼羅」J本(仮称):個人、江戸後期、絹本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】156×212cm
11.「立山曼荼羅」K本(仮称):個人、江戸後期、絹本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】122×134cm
12.「立山曼荼羅」富山県立図書館本:同左、江戸後期、絹本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】133×153cm、裏面に銘文あり
    ※銘文:「遠州敷智郡引馬城南 米津村 磐谷写之」、
     毎年遠州を巡回してきた芦峅寺泉蔵坊が絵解きに使ってきた立山曼荼羅を米津村磐谷なる者が模写したものと思われる。
     芦峅寺系。
    ※本絵図は上に掲載:「越中立山開山縁起大曼荼羅」富山県立図書館本:「何が分かるか、社寺境内図」 より転載
13.「立山曼荼羅」L本(仮称):個人、江戸後期、絹本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】140×167cm
※※.「立山曼荼羅」M本(仮称)は四幅一対の立山曼荼羅ではないため、割愛
14.「立山曼荼羅」N本(仮称):個人、江戸後期、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】135×190cm
15.「立山曼荼羅」立山藩物館本:同左、文政2年(1819)、紙本二幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】132×59cm、※2幅の変形
※※.「立山図」O本(仮称):立山曼荼羅ではなく、立山の俯瞰図であろう
16.「立山曼荼羅」P本(仮称):個人、江戸、紙本八幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】170×185cm
     8幅であり、上に4幅・下に4幅を並ばれば立山曼荼羅の絵図とあるが、元からこの形であるのかは不明。
17.「立山曼荼羅」Q本(仮称):個人、明治、紙本一幅、肉筆、着色、【絵解き図】173×90cm、1幅の変形である
18.「立山曼荼羅」R本(仮称):個人、江戸後期、紙本二幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】153×137cm、※2幅の変形
19.「立山曼荼羅」S本(仮称):個人、江戸後期、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】156×188cm
20.「立山曼荼羅」T本(仮称):個人、天保7年(1836)、紙本一幅、肉筆、着色、【絵解き図】137×86cm、※1幅の変形、銘あり
21.「立山曼荼羅」U本(仮称):個人、江戸、紙本二幅、肉筆、着色、右94×56cm、左125×56cm、
     ※2幅の変形、【絵解き図】の断片か
22.「立山和光大権現伝」V本(仮称):個人、安政2年(1855)、紙本一幅、肉筆、着色、【絵解き図】175×96cm、※1幅の変形、銘あり
23.「立山曼荼羅」W本(仮称):個人、明治、紙本三幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】110×91cm、※3幅の変形
24.「立山曼荼羅」西田美術館本:同左、年代不詳、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】150×224cm
25.「立山曼荼羅」X本(仮称):立山開発鉄道、江戸後期、絹本三幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】143×173cm、※3幅の変形
26.「越中國岩峅寺圖會」Y本(仮称):個人、文化3年(1806)、紙本一幅、肉筆、着色、【絵解き図】102×56cm、※1幅の変形
27.「立山曼荼羅」Z本(仮称):個人、江戸、紙本四幅一対、肉筆、着色、【絵解き図】163×240cm

--------------------------------------------------------------------------------------------
2026/01/28追加:
(2)女人堂

 ※「紀伊続風土記」仁井田好古編、天保10年か は 「歴史図書」、昭和45年刊行本を参照 する。

◆高野山への参詣道

○サイト:「山と渓谷オンライン」>いにしえの時代より歩かれてきた、山上の聖地・高野山への参詣道 より転載
 高野山参詣道概略図
 高野山には高野七口と呼ばれる7個の「口」(入口)があり、下記のような参詣道が接続する。
  町石道:大門口
  京大坂道:不動坂口
  黒河道:黒河口
  大峰道:大峰口
  熊野参詣道小辺路:大滝口
  龍神道:龍神口
  相ノ浦道:相の浦口
1.町石道
 女人高野・慈尊院から壇上伽藍・根本大塔に至る道。根本大塔まで180基、大塔から弘法大師御廟36基の町石が置かれる。
 町石は1町毎に建てられ、高さ約3m強の五輪卒塔婆石柱である。
 大門口女人堂に至る。
2.京大坂道
 山城石清水八幡宮下からの東高野街道と、和泉堺からの下高野街道、中高野街道を合流した西高野街道が、
 河内長野で高野街道京大阪道となり、高野山へ至る道である。
 この道の終端が不動坂口で、唯一現存する女人堂(不動坂口不動堂)が残る。高野山へのメインの参詣道であった。
 不動坂口女人堂に至る。
3.黒河道(くろこみち)
 紀伊橋本の賢堂を起点として高野山へ至る。大和方面からの参詣道であった。大和口とも呼ばれる。
 黒河女人堂に至る。
4.大峰道
 大峰口は高野山と吉野山・大峰山を結ぶ道であった。
 大峰口女人堂に至る。
5.熊野参詣道小辺路
 熊野三山・熊野十二所権現と高野山を結ぶ最も険しい道であった。
 熊野参詣道のひとつ「小辺路」(こへち)の起点であり、高野山から大滝を経由して熊野につながる。
 熊野からみれば、大滝口を経て高野山内(小田原谷)に通じる。
 轆轤峠が大滝口女人堂のあった場所という。
7.有田・龍神道
 熊野参詣道「中辺路」から北へ分岐し、龍神温泉を経て、南側から高野山を目指す街道である。
 竜神口女人堂に至り、女人堂は大門脇にあった。
7.相ノ浦道
 最も短い古道で、高野山中心部から西へ下る。最も利用の少なかった道とされる。
 相の浦口女人堂に至る。

◆女人堂

 高野七口には、基本的には、それぞれ女人堂が設けられ、それから先の高野山内は女人禁制とされた。
女人禁制の時代、女性はこれらの女人堂に参篭し、祈りを捧げたという。また、七つのお堂はひとつの道でつながっていて、「女人道」と呼ばれた。
  ◇女人道
   女人禁制の時代、女人は「女人道」と称する各口の女人堂を結ぶ道を巡り、各口の女人堂に参篭し祈願をし、
   はるかに高野山内を遠望したという。
   あるいは女人高野と言われる高野山下の慈尊院を参拝・祈願し、高野山のそれの代替としたのであろう。
高野7口女人堂と谷上女人堂
1.大門口女人堂:町石道終端、但し、女人堂は大門脇にあるのではなく、大門の北側登ったところにある。
2.不動坂口女人堂:京大坂道(京道)終端、一心院谷に属する。
3.黒河口女人堂:黒河道(くろこみち)終端、千手院谷にある。現在では跡地は不明確となっているという。
4.大峰口女人堂:大峰道終端
5.大滝口女人堂:熊野口ともいう、小辺路(熊野道)の終端、小田原谷に続く。
6.竜神口女人堂:有田・龍神道終端、女人堂は大門脇にある
7.相の浦口女人堂:相ノ浦道終端
※ 谷上女人堂:谷上女人堂は、女人道上にあった女人堂の中では独特なものである。
 他の7つの女人堂は、それぞれ高野山に至る「参詣道」の終端・高野山入口の傍らに設けられていた。
 しかし、この女人堂へはここに至る道がなく、ここからは高野山内へ下る分岐しかなかった。
 つまりここは「入口」という位置にはなく、高野山内への近道というべき場所にあった女人堂というべき存在であった。

○高野山惣図:
 (高野山上の「奥院より大門口までを総覧した図)
 「紀伊國名所圖繪」:三編四之巻上 高野山 にある。
  高野山惣図:「紀伊國名所圖繪」復刻版の図:この図はこのページの各所に掲載している。下に木版刷の図を掲載。
  高野山惣図2:「紀伊國名所圖繪」木版の図
   高野山惣図2▼印入れ:上図に「▼」印を加筆、「▼」印は女人堂及びそれに関連する施設・地名などに附す。
  には次の6個所の女人堂が描かれる。
   左端の絵の中央右端(黒河女人堂・合體不動・黒川■)
   左から2枚目絵の左上(五大尊・大峰口女人堂・五大尊堂跡)、
    同じく右上(轆轤峠:大滝口女人堂)、同じく中央のやや左(一心院谷に接続:不動坂口女人堂)
   3枚目の中央付近(谷上:谷上女人堂と推定される)、右やや上(南谷:「女人みち」とある、相の浦口女人堂・南谷)
   4枚目の中央左(大門傍:竜神口)  の7個所である。
    ※谷上の女人堂が描かれる。おそらく「紀伊國名所圖繪」中では唯一描かれた「谷上女人堂」の絵であろう。
    ※谷上女人堂は高野7口に接続しない場所に設けられた女人堂であり、この意味で特殊な女人堂である。
    なお、谷上女人堂からは山内の谷上に通ずる道が接続(分岐)する。
    ※「高野山惣図」には7つの女人堂が描かれるが、谷上女人堂は7口の女人堂ではないので、
     高野7口に接続する女人堂では、大門口女人堂が描かれていないということになる。
◇高野山女人道の概略
○サイト:「名鉄観光」>高野山・女人道(和歌山県) より転載
 高野山女人堂・女人道略図
◇高野三山・女人堂めぐり
○サイト:「高野山宿坊協会」>ウォーキングガイド>女人道 より転載
 高野三山・女人道コース図
  ○「岩波写真文庫39 高野山」岩波書店、昭和26年
    不動坂瀧不動:この不動が不動坂の由来となった不動である。
   学文路から京大坂道を進み、神谷の宿を過ぎれば、滝不動がある、瀧不動よりさらに登山すると、不動坂口女人堂に至る。
    高野三山遠望:右から摩尼山・轉軸山・楊柳山の1000n級の三山で高野山奥の院はこの三山に囲まれた懐にある。
  ○GoogleMap より転載
    不動坂瀧不動2
 高野山女人道コース図:上図を切取      高野山女人道コース図2:左図をマイナス45度回転図した図

1.大門口女人堂
○「紀伊國名所圖會」:
◇登山七路:七口ともに女人堂あり。堂より上には女人の入ることを禁ず。
◇大門口:又西口といひ、矢立口、麻生津(をふづ)口、若山口ともいふ。
       矢立より大門迄五十八町。此道當山西方の入口なり。
       慈尊院の廟を拝し、坤(ひつじさる)に向ひて攀躋(よじのぼ)る。
       これ忝くも 帝王の臨幸し給へる道にして、山路迂廻なれども嶮ならず。
       文永年間の町石、今猶依然として町毎に存す。故に町石道といふ。
       府下より登るものは、麻生津峠より志賀郷を経て、矢立にて此道に合し、大門に入る。
       故に若山口の名もあり。
※大門脇にある女人堂は龍神口女人堂であり、大門口女人堂は大門の北側の坂を上っていったところである。
現地は未見であり、確かなことは不明であるが、辨財天社の手前のようであり、案内板が設置されていると思われる。
上記「紀伊國名所圖會」に述べるように、この口は「町石道」の終端である。

2.不動坂口女人堂 : 現存する唯一の女人堂である。
2021/03/26撮影:
 高野山不動坂口女人堂1     高野山不動坂口女人堂2
○「岩波写真文庫39 高野山」岩波書店、昭和26年
 不動坂口女人堂
◇不動坂口女人堂
 現存する唯一の女人堂である。
建築年代は不明であるが、室町後期の部材を一部使用して江戸前期に再建されたと考えられる。
江戸末期に内陣を拡張する。
大正4年(高野山開創1100年記念大法会に当たり)地盤を掘り下げて3mほど下に移設され、正面側内部の床を撤去。
昭和58年檜皮葺から銅板葺に改める。
間口11.9m、奥行7.1m、入母屋造、銅板葺で、西面して建つ。現状は正面側を土間、背面側に床を造る。
背面側は中央間を内陣とし、脇間は前後に間仕切り小部屋を設ける。柱は角柱、組物は正背面を除き舟肘木とする。
軒は一軒疎垂木で、化粧木舞を打つ。屋根の妻飾は木連格子に造る。
各期にわたって改造がなされてきた堂であるが、小屋組は当初形式を良く留めている。
この小屋組に残る痕跡より当初の柱位置や天井形式が明らかである。建設当初は正面側に吹き放しの縁側を設け、背面側中央間を仏間とするほかはコ字形の広い一室に造られていた。
金剛峯寺が所有し管理・公開。
○「紀伊国名所圖會 三編四巻下」 より
女人堂絵図:
 不動坂口女人堂     不動坂口女人堂2:不動坂口から學文路迄の圖、上部の右が女人堂
女人堂記事:
 不動坂口女人堂・記事
 女人堂
 諸国より参詣の女人投宿する所なり。七口各(おのおの)堂ありといへども、此堂最大なり。
当山の内院に女人を禁ずる事、古(いにしへ)詳論あり。今具(つぶさに)陳ずるに及ばずといへども、いささか女児の為に其一端を述べむ。
惟(おもんみ)るに大師豈(あに)婦女を忌み給はんや。
其「誥記(こうき)」には、「女はこれ萬姓の本(もと)、氏族を廣め家門を継ぐ」とのたまへり。
然れども是と親近する時は、互に視聴の慾に誘われて、貞良如法(ていりょうにょほう)の弟子といへども、意外の過(あやまち)なきにしもあらず。
故(かるがゆえ)に「是を親むこと厚ければ、諸悪の根源嗷々の本なり」と示したまへり。
且弘仁聖主の勅(みことのり)にも、男の尼寺に入り、尼の僧院に赴く事を制したまふ。
迷源を塞ぎ慾根を断つ、聖慮祖意(せいりょそい)の深き所、其辱(かたじけな)きを察知すべし。
若(もし)有信の女子、一度(ひとたび)登詣してこの堂に宿し、遥(はるか)に伽藍を拝礼し、合絲聚塵(がっししゅじん)の微貨に拘らず、随分の功徳を修せば、其良縁に因りて、忽(たちまち)長夜の迷室を出で、永く一真の覚殿に入らむ事うたがふべからず。
○「高野山之図」 より
 不動坂口女人堂3
○「紀伊続風土記 第4輯」仁井田好古編、天保10年か(「歴史図書」、昭和45年刊行本を参照) より
 女人堂
  内不動の北にあり、乾に向かふ是を一心院谷女人堂と云、諸国より参詣の女人投宿するところなり、
  総して七口に皆ありといへとも此堂珠に参詣の女人多き故に只女人堂と呼ぶときは斯口の堂と意得るなり。
    (※不動坂口女人堂の事である。)
 地蔵尊一躯
  銅鎔の尊像たり、女人堂の前にあり延享二年(1745)に東都横山某の建立する所なり。
○「紀伊続風土記 第5輯」仁井田好古編、天保10年か(「歴史図書」、昭和45年刊行本を参照) より
蓮華谷>五大尊像
 五大尊像
  本尊五大明王 大師の作
  ・・・本尊五大明王は大師開闢の時地鎮の本尊なり・・・此地に女人堂あり、當山七口の一にして大和口又は大峰口という。
 女人堂
  ・・・東口又は不動坂口といふ七口の一なり・・・
  下乗
   女人堂の傍にあり
  不動堂
   ・・・里人錐揉不動といふ・・・・
  地蔵尊
   女人堂の前にあり、延享年間江戸横山某の建立にて一丈六尺の鋳造なり。

3.黒河女人堂
 大和からの参詣客が多く利用する故に、大和口ともいう。
女人堂跡は不明確になっているようで、現地には案内板が設置という。
○「紀伊国名所圖會 三編四巻下」
 黒河口女人堂
○「高野山之図」 より
 黒河口女人堂2
・高野七口の一つである黒河道は高野山千手院谷に通ずる。
絵図に描がかれる「長寿院・林松(昌)院・眞光院・西方院・円光院・中性院など」は、千手院谷の寺坊である。
・女人堂の脇にある不動は「合鎚不動(あいづちふどう)」あるいは「合槌不動」と呼ばれる。
 但し、この不動の由来などは不明、堂宇も退転、不動明王像自体も不明という。
・「高野山之図」には「玉川井(たまがわい)が描かれる。
 これは「姿見の井戸」であり、この井戸で自分の姿を映し、はっきりと見えれば心身が清らかである(参詣できる)とされ、姿が見えなければ心に穢れがある、あるいは死期が近いとされた霊水であるという。

4.大峰口女人堂
○「紀伊國名所圖會」:
◇大峰口: 又東口といひ、野川口ともいふ。蓮花谷に通ず。大峰より凡そ十五里。
       此道當山東方の入口にして、大峰山上より洞川に下り、天川を経て天狗木より入る。
       俗此道筋を七度半道といふ。一度此道より登詣すれば、功徳七度半にあたるとぞ。
※現地には案内板が設置されているようである。

5.大滝口女人堂(轆轤峠)
○「紀伊国名所圖會 三編巻之6高野山之部下」 より
◇大瀧口 :又熊野口といふ。小田原谷に通ず。此道當山東南の入り口なり。
       熊野本宮に詣し、夫より絶嶮の深山幽谷を経て、凡十五里にして高野に至る。・・・云々。
        ※小辺路の起点であり、熊野三山に至る。
◇轆轤峠
  轆轤峠(部分図):「紀伊国名所圖會 三編六巻」復刻版の絵、下記が木版刷の絵。
  ○「紀伊国名所圖會 三編六巻」
  女人道轆轤峠「紀伊國名所圖繪 三編六巻」木版の図
  「高野山より熊野への往還へ、この峠より壇場の諸伽藍寺院とも眼下にみる女人堂巡りをすればこのところに出るなり・・・」
  「化(ばけ)もの 轆轤(ろくろ)峠か 《向ふ向ふと》 くびさしのべて拝む 檀場(だんぢやう)」
                       ※《向ふ向ふと》の部分は判読できない、仮に《向ふ向ふと》と解釈する。
  とある。
   ※女人結界で締め出された多くの女人が「女人道」を巡る様子が描かれる。この様な実態であったのだろう。
  但し、女性の髪型が高島田であり、振袖姿であるなどとは不可解(旅姿とは思えない)であるが、その理由は分からない。
   案内役(二本差しであるので武家か)や人足(荷物担ぎ)が随行しているので、
  この一行は身形から見て、上級武家か大店の婦人の一行かもしれない。
  この峠からは壇上伽藍が遠望でき、首を伸ばして遠望したという女性たちの姿から轆轤の名がつけられたという。
  女人堂は轆轤峠にあったといい、現地案内板が設置と思われる。
○「高野山之図」 より
 女人道ロクロ峠
○「紀伊続風土記 第4輯」仁井田好古編、天保10年か(「歴史図書」、昭和45年刊行本を参照) より
 大瀧口
  熊野口とも称す。女人堂并下乗制札あり、小田原の南に高く秀る轆轤峠と云、口碑に昔大塔造営の時、此に轆轤を立、心柱を曳と云う。

6.竜神口女人堂
○「紀伊国名所圖會 三編巻之6高野山之部下」 より
◇龍神口:又湯川口といひ、保田口あるひは簗瀬口ともいふ。
      大門の左に通ず。龍神より十三里餘。
      此道當山坤(ひつじさる)方の入口にして、
      日高郡龍神より来ると、有田郡山保田より来ると、
      新村にて合して大門に入る。
    ※女人堂は大門の南側にある。現在は現地案内板が設置されている。
    GoogleMapで見ると、跡地に一宇の建物が建っていて、女人堂風の建物のようにも見えれが、この建物の性格は不明である。
○「紀伊国名所圖會 三編四巻下」
 竜神口女人堂1
○「紀伊国名所圖會 三編五巻」
 竜神口女人堂2
○「紀伊続風土記 第4輯」仁井田好古編、天保10年か(「歴史図書」、昭和45年刊行本を参照) より
 女人堂
  大門の傍にあり、諸国より参詣女人の投宿する所なり、七口の所に皆あり。

7.相の浦口女人堂
○「紀伊続風土記 第5輯」仁井田好古編、天保10年か(「歴史図書」、昭和45年刊行本を参照) より
「総分方巻之十二南谷」>女人堂
 女人堂
  山の堂ともいふ
   本尊地蔵菩薩・・・参詣の女人此所に宿す、當山七口の租一にて相浦口といふ、下乗札あり、花園装相浦村まで壱里十一町許。

※ 谷上女人堂
 谷上女人堂は、女人道上にあった女人堂の中では独特なものである。
他の7つの女人堂は、それぞれ高野山に至る「参詣道」の終端・高野山入口の傍らに設けられていた。
しかし、この女人堂へはここに至る道がなく、ここからは高野山内へ下る分岐しかなかった。
つまりここは「入口」という位置にはなく、高野山内への近道というべき場所にあった女人堂というべき存在であった。
○「紀伊続風土記 第4輯」仁井田好古編、天保10年か(「歴史図書」、昭和45年刊行本を参照) より
谷上山堂
 女人堂と云、當院(※由緒客坊 文殊院と思われる)支配なり、嶽山又は神谷口の間道の右手にあり

 

備忘記録)
○「紀伊国名所圖會 三編六巻」
興山寺東照宮
興山寺東照宮:記事
大徳院東照宮
○「高野山 カラーブックス33」佐和隆研・田村隆照、保育社、昭和56年
西塔本尊大日如来坐像:重文、平安初期、仁和3年(887)創建という西塔の創建時本尊とされる。現在は霊宝館に展示。
○「高野山 現代教養文庫427」大山公淳・三栗参平、社会思想社、昭和38年
金剛三昧院多宝塔本尊


2006年以前作成:2026/01/28更新:ホームページ日本の塔婆