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★備前吉備別院二重塔
備前児島吉備別院に二重塔が存在したが、昭和の終り頃か平成の初め頃、取壊されて今は存在しない。
2008/07/05作成:
◆吉備別院二重塔写真
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◆備前吉備別院二重塔:左図拡大図
「日本の塔総観(中)」中西亨、昭和42年11月 所収
情報は吉備別院二重塔(昭和42年4月2日写)とあるのみで詳細不詳。
写真で判断すると形式は二重塔、RC造(注)、軸部・斗栱などははっきりとは分からないが、かなり省略すると推定。屋根桟瓦葺。相輪は特殊な形態をとる。
写真は背後の山腹(天神山)から撮影、塔の周囲は塀で囲み、北側に石柱の門が見えるが、この門は天神山石塔群に至る石階への門であったと思われる。
規模・高さ、塔の用途・本尊など不詳。
◆建築年代は「縁起」(下に掲載)の記述からおそらく大正末期・昭和初頭と推測される。
◆取壊は現地聞き取り・上掲載「縁起」の記述から昭和末期・平成初頭と推定される。
2010/11/21追加:(注)吉備別院現ご住職談;塔はRC造ではなく、木造である。 |
2010/11/21追加
◆吉備別院伽藍全景:吉備別院様ご提供
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◆吉備別院伽藍全景:左図拡大図 昭和6年頃(推定)の吉備別院の伽藍全景が写る。
撮影時期は他の保存写真とあわせ見て、昭和6年の落慶直後もしくはその前後の頃の写真と思われる。
※縁起(下に掲載)では落慶は昭和6年と云う。
※建物記念碑の年紀は大正10年、善光寺出張所石碑の年紀は昭和5年、吉備別院石碑は昭和6年竣工の年紀がある。
伽藍は天神山を背景に南面する。恐らく2〜3段の壇を造成し、その壇上に堂宇を配置したような印象を受ける。
二重塔・本堂を除き、堂塔の名称は明らかでないが、仮称を含めて、左から
二重塔・庫裏(仮)・高燈籠(仮)・重層本堂・寺務所(仮)・客殿(仮)<寺務所の手前、現存建物>・寄棟高層建物(仮)・五重宿所(仮)<入母屋造>
などが並ぶ。
2012/07/02追加:
高燈籠(仮)は鐘楼と判明する。<下に掲載の吉備別院鐘楼の項を参照> |
伽藍の前面は田畑であり、1本の南北参道がある。
※上の写真に写る田畑は、現在では住宅及び道路となり、この当時の面影は全くない。
吉備別院現ご住職談;
戦前には多くの泊り掛けの参詣者で賑わう。また戦後直後には戦地からの復員者を受け入れる。
(仮称・五重宿所などは、戦前には参詣者の宿泊の便に供し、戦後は多くの復員者の仮宿となると云う。)
2010/11/14撮影:
吉備別院二重塔跡付近:
二重塔があったと推定される付近を南東から撮影。
吉備別院前南北道:上の「吉備別院伽藍全景」の中央に写る吉備別院前南北参詣道の名残りと推定される。
2010/11/21追加:
◆信州善光寺大本願分身安置所二重塔(絵葉書):「Y」氏ご提供
絵葉書発行年代は大正7年〜昭和7年(「Y」氏推定)
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◆信州善光寺大本願分身安置所二重塔:左図拡大図 発行年代は大正7年〜昭和7年(「Y」氏推定)
写真には新築である雰囲気が漂い、上に掲載の「吉備別院伽藍全景」の塔付近の様子や塀の左側に写る畑などを考慮すれば、吉備別院落慶直後前後の撮影であることはほぼ間違いないであろう。
であるならば、昭和6年前後の撮影ということになる。
これは「Y」氏推定の発行年に合致する。
絵葉書にある「信州善光寺大本願分身安置所」とは吉備別院のことである。
※信州善光寺出張所碑:下に掲載、現在も吉備別院の旧地に残る。
つまり吉備別院は善光寺出張所であった。
※吉備別院は通称「善光寺さん」と呼ばれていた。(吉備別院ご住職談)
撮影の方向は二重塔の南東から撮影、上に掲載の「吉備別院伽藍全景」で写る瓦葺練塀、塔石積基壇、右端中央には庫裏(仮)の特徴的な屋根の一部、背後には天神山などが写る。
塔の姿は勿論、周囲の状況も「吉備別院伽藍全景」と完璧に合致する。
塔は木造で、石積基壇の上に建つ。上下重とも方3間、斗栱は省略、軒下は漆喰塗りと思われる。
屋根荷重を支えるため上下重とも屋根四隅に金属製と思われる細い支柱を建てる。屋根桟瓦葺。
相輪は独自の形式か。 |
2012/07/02追加:
◆吉備別院鐘楼:絵葉書: 2026/06/15追記:出所が欠落しているが、おそらく「Y」氏ご提供の絵葉書と思われる。
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吉備別院鐘楼:絵葉書:左図拡大図
この鐘楼は異様に高い袴腰を持つ異形な鐘楼である。その異形は一見高燈籠を思わせる。
下に写る石碑の銘ははっきりとは判別できないが、朧気な文字の形や碑の形状などから、
ほぼ間違いなく下に掲載する「建築記念碑」であろう。
下に掲載の「建築記念碑」
建築記念碑その1:碑の背後にある民家の所に写真の鐘楼があったのであろう。
建築記念碑その2
門柱(一対の内の西側):中央右に写るのが建築記念碑 |
2026/06/15日追加:2026/06/11日「下津井在住の方」撮影:
◆新発掘・吉備別院古写真:菰池文殊院蔵・ご提供
新発掘・吉備別院古写真

1)本古写真の入手の経緯:
2026/06/11日、「下津井在住の方」が倒壊した吉備別院庫裡の再撮影のため、文殊院様の駐車場をお借りする。
その折のご挨拶で、文殊院様玄関に掲額された「吉備別院古写真」を「発見」し、許可を得て、写真撮影する。
その撮影画像が管理人(s_minaga)に転送され、入手に至る。 拝見すると、まさに「新発掘」の「貴重」な吉備別院古写真であった。
文殊院ご住職からは「撮影時期、撮影者などの詳細は不明である」との説明を受けるという。
※「下津井在住の方」については、下に掲載の「惜別:吉備別院庫裡 〜 腐朽倒壊した吉備別院庫裡」を参照下さい。 2)本古写真の考察:
写真中央には、田畑を貫き、右から左に1本の道路【A】が走る。この道路は現在も存在する。
そして、左端中央で左から右方向に1本の道路【B】が交差する。この道路は現在の菰池北交差点と清楽寺交差点を結ぶ道である。
さらに、写真では分かり難いが、【A】と【B】との交差点から5mほど右(東)の地点には、文殊院(参道【C】が直角に交わる。
さらに注目すべきは、文殊院参道【C】の入口脇には、石柱(児島四国霊場28番)が写っていることである。
この石柱は今も文殊院参道脇に現存するが、その石柱が写ったものであろう。
勿論、この石柱の背後に写るのが吉備別院伽藍であり、特に巨大な報道屋根や二重塔がはっきりと写っている。 以上の説明のため、
※上記の状況を現在の地図(平面図)に落としたのが「文殊院付近図」である。 ※石柱(児島四国霊場28番)付近を切り取ったのが「文殊院入口付近」である。
3)写真の撮影年代と撮影場所 写真の撮影年代は、国土地理院地図からは手掛かりがなく、絞り込むことはできなかった。
2026/06/15日、念のため、電話にて文殊院ご住職にお訊ねしたが、「写真の撮影年代や由来は全くわからない。この写真は写真などを整理していた時偶然見つけたもので、写真を引き延ばし、掲額しているものである」とのことであった。
結局、昭和6年落慶、昭和60年裏山大崩落、本堂庫裏二重塔など大破というから、この間の撮影ということは確かであろう。
また、撮影場所については、上に掲載の「文殊院付近図」に青○印で示す付近であろうと推測される。
◆児島四国霊場28番石柱:在・文殊院入口 2026/06/14日「下津井在住の方」撮影:
児島四国霊場28番石柱:下図拡大図:菰池文殊院蔵

向かって左から、右面、正面、左面、背面である。 正面:第二十八番 左面:嘉永三戌年三月是建:嘉永三年/1850年 右面:文殊院
裏面:判読不能:文字が彫られているようには見えるも、彫が浅く読める文字が1文字もない。
※菰池文殊院蔵来歴については、下に掲載の「備前菰池文殊院」の項を参照
★備前高野山吉備別院概要
2008/07/05作成:
「高野山真言宗備前お寺めぐり」高野山真言宗備前宗務支所、昭和63年 に以下の記載がある。
●高野山吉備別院、本尊阿弥陀如来、住所倉敷市児島赤崎1-13-8、住職松本光韶
縁起の記載がある。(全文は以下の通り)
「岡山県児島郡赤碕村の住人福田嘉平治つねに三宝に帰依し信仰の志深く、一奇なる哉、暗夜に光明あり、天高く棚曳く紫雲に乗り、気高き女臈の御姿現れ「我れこれより東南百里の地にある阿弥陀如来なり、願は西方の地を撰み遷し衆生済度を尽し度し」と仰せらる。
三男藤吉家を襲ぎ、志を奉じて高野山に詣で、高祖の廟を拝し、本山を訪ね調査を請めたるに果たして紀州那賀郡安楽川に阿弥陀寺と称する古刹あり廃頽に帰せるを、藤吉、本山並びに県知事に遷寺を出願許可を得て、赤崎天神山の霊地を拓き、大正9年10月3日起工、昭和6年2月28日落成、茲に福田嘉平治の祈願成就、併るに昭和60年6月29日〜30日の大雨により裏山大崩落、本堂庫裏大破、赤碕1127番地の現地に遷寺現在に至る。」
以上によれば、福田嘉平治が阿弥陀如来を感得し、三男藤吉(家を襲ぐ)が福田嘉平治の志を継ぎ、廃頽していた紀伊那賀郡安楽川阿弥陀寺を当地天神山(児島赤崎3-4-1)に遷し、大正9年〜昭和6年に吉備別院を造営する。
昭和60年裏山崩落大破、児島赤崎1-13-8(松本邸)に遷寺する。この時の住職は松本光韶と云う。2010/11/21追加:
吉備別院現ご住職談などによる
松本光親師(三男藤吉)は大正9年から昭和6年落慶まで、吉備別院の造営に力を尽す。
また光親師は松本光憲(二男)を後継と定め、薫育するも、昭和20年5月戦死<墓碑銘による>。
昭和21年1月光親(俗名藤吉)師遷化・享年86歳<墓碑銘による>。
松本光韶師後継す。昭和60年直後に遷寺する。
吉備別院は赤崎の地に現存する。
仏間には遷座した善光寺三尊立像、ほかに阿弥陀立像3躯、如意輪観音(と勝手に判断)坐像、弘法大師像、観音立像、不動明王立像、多宝小塔1基を祀る。
善光寺三尊立像は本尊であり、信濃善光寺の廃寺になったどこかの末寺に祀っていた像で、それを譲りうけて、吉備別院に安置と云う。
2010/11/21追加:
2008/06/28に現地にて聞き取り調査、2010/11/14吉備別院現ご住職に面談
2008/06/28の現地聞き取りは以下の通りであるが、一部誤解や不適切な点もある。
従って、2008/06/28の聞き取り結果はあくまで付近の人の認識であり、必ずしも事実であるとは限らない。
□吉備別院・二重塔に関する現地聞き取り(以下の通り)
1)二重塔はもう無い。おおよそ20年くらい前に取壊された。
※但し20年くらい前(昭和の終り頃か平成の初め頃)とはかなり大雑把と思われる。
※近所のかなりの年輩の方でも、塔のあったこと、取壊しの時期、塔のあった位置、吉備別院という寺院について、
既にかなり曖昧な記憶になっている印象がある。(聞く人によってかなりのバラツキがある。)
2)この地区に土着の人、さらに塔のあった位置から道路を隔てて正面の家(塔の南)の方の証言があり、塔の位置はほぼ確定出来る。
3)塔の取壊理由:塔のあったすぐ北側の家やすぐ南側の家などから(この地の吉備別院が荒廃し)倒壊したら危険である
との声があり、(立派なもので)勿体ないが、取壊した。
※上掲載「縁起」では昭和60年裏山大崩落があり、その影響かとも思われる。
なを、取壊しは重機で行った。
4)取壊し直後は更地であったが、その東側にアパートが建ち、塔の跡地は何時の間にか藪地となり跡地に入ることは出来ない。
※事実三方が住居・・北と南は民家・東はアパート・・に囲まれ、西は藪であり、立入る隙間も無く、
辛うじて接近して見ると、鬱蒼とした藪地で普通では踏み込める状況ではないと思われる。
5)二重塔があった頃は真裏(北)の山頂近くにある供養塔(墓碑)群に通じる地下の道があった。
※子供の頃の記憶のようで若干意味不明である。
おそらく、二重塔附近が地下で、そこから山腹の参道は石階であったと推測される、
現在山頂の供養塔群から下に降りる急な石階が残る、この石階は途中から突然崖で途絶する。
6)吉備別院は善光寺如来を祀っていた。寺院がなくなり、善光寺如来は善光寺にお帰りになった。
※善光寺との関係は唐突であり、この意味は良くわからない。
7)松本不動産は多くの墓地を持っている。松本不動産が二重塔を持っていた。松本不動産が吉備別院の本宅である。
8)<吉備別院は赤崎の地に遷寺したことは一般には広く知られていなかったと思われるため>、この項は削除。 |
上記の聞き取りに関係する、吉備別院現ご住職談は以下のとおりである。
3)の塔の取壊理由について
塔は木造であり、雨漏りによる老朽化が進む。修理を検討するも修理には多大な費用が必要であり、諸般の事情により修理を断念。
やむを得ず取壊す。
5)に関連すると思われるが、本堂(と思われるが、二重塔であるかも分からない)下には「戒壇廻り」があった。
「地下の道」云々はおそらく「戒壇廻り」の記憶と思われる。
6)吉備別院は一般的には「善光寺さん」と呼ばれていた。
「善光寺さん」の本尊は善光寺阿弥陀三尊立像である。このご本尊は赤崎の現吉備別院に遷座し、今も祀られている。
であるから、信濃の善光寺に帰ったというのは事実ではない。
※善光寺阿弥陀三尊立像:大きさは等身大で、おそらく木造金箔、本堂倒壊時には本像も前に倒れる。
なお、本像はもとは廃寺となった善光寺末寺の像であったというから、少なくとも近世以前の像であろう。
7)墓地や二重塔は吉備別院所有であり、事実誤認である。
○吉備別院1/25000の地形図:2008/07/05作成
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吉備別院1/25000の地形図:左図広域図 中央寺院記号:廃吉備別院、西:文殊院、東南:清楽寺。
吉備別院すぐ手前左に「高塔」の記号がある。この「高塔」は吉備別院二重塔と推定される。2008年最新地図にも残る。
同じく吉備別院すぐ手前右に「記念碑」の記号がある。この記号は吉備別院名号碑(高野山吉備別院石碑)と思われる。 |
★高野山吉備別院現況:2008/07/05作成
・・・2010/11/14:庫裏は仮称客殿と呼称する。

2008/06/28撮影画像:
(01)高野山吉備別院石碑:上掲吉備別院1/25000の地形図の「記念碑」の記号に相当する。
(02)善光寺出張所碑前:左は二重塔跡、右は吉備別院
客殿(仮称)、直登すれば墓地及び石製塔婆群に至る。
(03)信州善光寺出張所碑:この石碑は「(02)善光寺出張所碑前」の中央左にある蘇鉄の中にほぼ埋もれて建つ。
・・・2010/11/14画像入替
2010/11/14撮影:善光寺出張所碑年紀:年紀は昭和5年6月建立とある。
(04)建築記念碑その1:「(03)信州善光寺出張所碑」の一段上に建つ、左に「昭和12年6月・・」と刻す石柱が見える。
(05)建築記念碑その2:大正10年8月の年紀がある。吉備別院そのものあるいは本堂、二重塔などの建築紀念と解釈される。
(06)善光寺出張所碑横:左はアパートで左奥に二重塔跡がある。
このアパートが二重塔に続く参道であったと推定される。
(07)吉備別院二重塔跡1:アパート裏(北)で、写真中央の藪地が二重塔跡と推定される。中央は人の身の丈程の窪地で組み込みは不可。
(08)吉備別院二重塔跡2:南の道路から撮影、中央右の建物がアパート、写真中央の竹薮が二重跡で、取壊前まではここに塔が立つ。
(09)吉備別院二重塔跡3:南の道路から撮影、中央右の建物がアパート、手前ほ平屋と後に「ヘ」の字に見える平屋の間に塔はあった。
(10)天神山石塔群1:中央に
大型の五重石塔、左右には巨大な十三重塔5基がある。各々は墓標・供養塔と思われる。
(11)天神山石塔群2:石製五重塔、詳細は未確認、墓標あるいは墓域と推定される。石塔群東には太宰天神社の祠がある。
(12)天神山石塔群3:未観察のため詳細は不明、
内1基は昭和11年の年紀がある。
(13)吉備別院二重塔跡4:天神山中腹から南方を撮影、中央右二階建
・屋根茶色の建物がアパート、その右藪地が二重塔跡。
(14)吉備別院庫裏俯瞰:天神山(北)から撮影、中央建物が庫裏、左上建物は清楽寺。
・・・2010/11/14:庫裏は仮称客殿
;2026/06/13画像入替
(15)吉備別院庫裏:完全に廃屋で相当荒れている、自然崩壊を待つのみの状態
である。・・・同上 ;2026/06/13画像入替
(16)この項削除
2010/11/14撮影:
(17)門柱(一対の内の西側):建築記念碑の東に一対の石製門柱が残る。昭和12年6月の年紀を刻む。
右端は建築記念碑。
2010/11/21追加:
以上のように吉備別院跡にはわずかに
仮称廃客殿、松本家墓所を含む墓地、建築記念石碑、善光寺出張所石碑、吉備別院石碑、石製門柱一対
の遺構を残すのみである。
なお、4基の石碑類はそれぞれ以下の年紀を刻み、草創時の年代を偲ぶことができる。
・建築記念石碑:大正10年8月の年紀。
・善光寺出張所石碑:昭和5年6月建立とある。
・高野山吉備別院石碑:当山竣工記念昭和6年5月と刻む。
・石製門柱:昭和12年6月とある。
・・・・・何れも上に掲載写真。
2026/06/08追加: ◆空撮による吉備別院庫裡の現況
○2026年GoogleEarthの画像 より
最近のGoogleEarthの画像によれば、高野山吉備別院庫裏はほぼ倒壊状態のようである。
2008年に実見した時は相当荒れ果ててはいたが、建物が倒壊という状態ではなかった。
なお、この建物が崩壊・解体・撤去されれば、現地の木造建造物はおそらく壊滅することとなる。 また、2008/06/28に撮影画像はすぐ上に掲載の(14)吉備別院庫裏俯瞰、(15)吉備別院庫裏の通りである。
吉備別院庫裏空撮1 吉備別院庫裏空撮2 吉備別院庫裏空撮3:いずれも「↓(白)」で示したのが庫裏である。
○2026年GoogleMapの画図 より
赤崎の地に移転した吉備別院の外観
赤崎の吉備別院外観1 赤崎の吉備別院外観2
2026/06/13追加: 在りし日の吉備別院庫裡の姿 :完全に倒壊したと思われるので、かつての撮影画像(姿)を改めて掲載する。 2008/06/28撮影: 吉備別院庫裏俯瞰;上に掲載写真:2026/06/13画像入替 吉備別院庫裏;上に掲載写真;2026/06/13画像入替
吉備別院庫裡2 吉備別院庫裡3 吉備別院庫裡4
現在の吉備別院:吉備物院の移転先である。
2010/11/14撮影:
吉備別院庫裡俯瞰2 吉備別院庫裡俯瞰3
吉備別院庫裡5 吉備別院庫裡6 吉備別院庫裡7 吉備別院庫裡8
2026/06/13追加: ★惜別:吉備別院庫裡 〜 腐朽倒壊した吉備別院庫裡
次に掲載の倒壊した吉備別院庫裡の写真は「下津井在住の方」にお願いをする。
このお方はご婦人で、今回も快く引き受けて下さいました。 今回も・・・という意味は、以前(2026/04/25)にも、備前下津井祇園社の撮影を行って頂いた方であるという意味です。
さらに、上に掲載の「新発掘・吉備別院古写真:菰池文殊院様ご提供」の「古写真」を「発見」し、撮影・送付もして頂きました。
以上をここに記し、再度、感謝の意を表す。
さて、残念ながら、ご提供頂いた写真を見る限り、旧地に残っていた吉備別院の最後の木造建築であった庫裡は完全に倒壊したものと言わざるを得ない。
人には知られることなく、長くひっそりと残っていた建物であったが、ここに永遠の眠りにつき、この後また長い年月をかけて、土に還るようである。
栄枯盛衰は世の常とはいえ、
平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ」の言葉を想起する。
倒壊した庫裡については、安らかに土に返って頂くことを念ずるのみである。
また、「下津井在住の方」は写真送付に、”写真を撮るのもショック、落涙を禁じ得なかった”との言を添付されたことを付言させて頂く。
◆備前菰池文殊院
上に掲載の「新発掘・吉備別院古写真」及び「児島四国霊場28番石柱」を蔵する。
2008/06/28撮影:2026/06/15追加:
菰池文殊院:写真右下に寺院の掲示板の背後が写るが、この掲示板の左手に「児島四国霊場28番石柱」がある。
しかし、残念ながら、写真の枠外であり、写っていない。
文殊院の概要は次の通りである。 2026/06/15追加: ○「岡山県児島郡誌」私立児島郡教育会
編、大正4年刊の復刻版 より 第8章 佛閣 第1節 仏母山善岡寺文殊院 宗派:真言御室 本寺:本荘村般若院 本尊:釈迦
開基:應長年間(1311-12)、再興:宝暦年間 所在:赤坂村菰池
○「倉敷市史 巻5」永山卯三郎
編著、名著出版、昭和35-39年刊の復刻版 より 次のような古文書が掲載されている。
1.「児島郡通生山神宮寺由来」天和3年(1683)では ・・・ 末寺 ・・・ 仏母山文殊院恵雄 ・・・ とある。
2.「通生山般若院神宮寺末寺」元文3年(1738)書上では 及び 3.「児島郡通生村神宮寺般若院来歴」宝暦5年(1755)では
一、末寺 9ヶ寺 ・・・ 仏母山善岡寺文殊院 菰池 ・・・ ・・・ 一、本尊 釈迦牟尼世尊
・・・・ とある。 4.「通生山般若院並末寺来歴書上帳扣」・宝暦11年(1761)では ・・・
備前國児島郡菰池仏母山善岡寺文殊院 領主:松平伊予守 一、法流:三宝院 一、本尊:釈迦牟尼仏 ・・・
一、寺 客殿3間半×5間半、庫裡2間半×4間半、冠木門4尺×1間、長屋2間×4間 宝暦9卯年寺再建立
一、本山 通生山般若院 とある。 5.文政5年(1822)にも、同様趣旨の来歴の記載がある。 ※以上を要約すれば、
文殊院は菰池に所在、仏母山善岡寺文殊院と号し、真言宗御室派に属し、児島郡通生村神宮寺般若院の末寺である。
開基は開基:應長年間(1311-12)といい、宝暦年間に中興されたようである。
○「備前の霊場巡り 岡山文庫151」川端定三郎、日本文教出帆、平成3年(1991) より 1.22児島四国霊場
「倉敷市史」では次のように記すという
僧圓明(柳田吉塔寺住職)、四国88ヶ所の霊場を児島に移さんと志す、幾度か四国88ヶ所を巡拝、天保4年より郡内を巡り寺院を調査・里程を計り、順路を定め、道路を通し、橋を架け、3年後に児島四国霊場を開基する。
全行程はおよそ140km、日程は5,6日という。大きさは大小あるが、全札所に札所の石柱(札所石碑)が建つ。また遍路道の石柱も多く残る。
札所は全て寺院・庵であり、堂宇は大きく、大寺には茶所(接待所)が設けられ、大規模な札所であったようである。 2.児島四国霊場一覧
28番 倉敷市菰池文殊院 本尊:釈迦如来、真言宗御室派 ※西国8番(長谷寺)も兼ねる。
○「観光案内 倉敷 総集編・後編」倉敷市観光協会、昭和54年(1979) より 第4編 鷲羽山スカイライン 菰池文殊院
真言宗、伝母山善岡寺文殊院といい、本尊釈迦如来、児島第28番札所
○国土地理院地図の不可解 文殊院玄関に掲額の「吉備別院古写真」の撮影時期を探るために、5枚の国土地理院地図を参照する。
(但し、この地図は撮影時期の判断には参考にならず) ・明治30年と大正14年の地図では、現在地に文殊院が明示されている。
・昭和45年・昭和59年・平成8年地図では地図から文殊院が消えている。
・現行の地図では現在地に文殊院が復活して表示されている。 以上の現象から、国土地臨地図が信頼のおけるものとすれば、
大正14年(昭和元年)から昭和44年の間に文殊院はどこかに移転し、そして、平成9年以降に、文殊院は現在地に戻ってきたのではないかという可能性が浮上する。
以上の点について、2026/06/15日、電話にて文殊院ご住職にお聞きすると「文殊院は宝暦年中に再興されて以来、ほぼ現在地に所在する、昭和の前期に遷寺したということはない」とのご見解であった。
国土地理院地図の精度?の問題であろうと判断するしかない。
※この写真は備前吉備別院と何の関係もありません。

2008/07/05作成:2026/06/15更新:ホームページ、日本の塔婆
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