本 寿 院 日 船 上 人

本寿院日船上人

本寿院日船上人

本寿院日船上人については以下が知られる。

本寿院日船聖人の350遠忌に思う。

「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮 より
備前蓮昌寺 23世 日船上人 万治4、4、12、化 (万治4年:1661)
 ※但し、遷化の年代が万治4年とは良く分からない。おそらく明暦4年の誤りであろう。(明暦4年=萬治元年)

「日樹上人傅」花田一重 より
「備前日蓮宗革史」を引用しながら、日樹上人両山(池上本門寺・京都妙覚寺)歴代から除歴、池上には日遠、妙覚寺には日乾が補任された後の京都妙覚寺の動きを以下のように記す。
 (同書67ページ)

 一方京都妙覚寺に於ては、日乾入山との報を聞くや、当時所属の備前蓮昌寺より来って日奥歿後を董していた
日船は、憤然一山の大衆三十餘名を率いて、開基日像作の宗祖御影像を擁し、洛北紫竹の浄徳寺(大檀那後藤元乗建立の日奥隠居寺)に一時引揚げ涙を飲んで誓約し離散したのであった。

 一 時節到来するに於ては異体同心に、一間四面の草庵にても妙覚寺を取立て、不受不施の法水を
   相守り像師御作の御影様を安置するの処、当門家(当門流)の本山と為すべき事、
 右の条目違背するに於ては、法華経中一切三宝、日蓮薩埵(大菩薩)並に代々列祖の御罰を罷り蒙る
 べき者なり。
   寛永7庚午(1630)六月十四日
                                    日船 在判
                                    大乗 在判
 「ぐれの蔭でも麦ゃはえる。」これぞ明治の聖代に至り、備前に日蓮宗不受不施派祖山龍華山妙覚寺再興の縁由となったのであった。その後日船は京を去って蓮昌寺に帰ったが、同寺も受派に傾いたので失望し、寛文禁止以降和泉国法泉寺に住し、次いで美作に帰り福渡の妙福寺に退隠し、明暦4年(1658)四月十ニ示寂した。(「備前日蓮宗革史」による。( )内は釈日学師侍史)

※和泉法泉寺とは不明、或は和泉和気妙泉寺か:和気妙泉寺は大覚大僧正開基寺院

●関係年表
・寛永7年(1630)2月21日:身池対論:不受不施派『身池対論』
・寛永7年4月2日:幕府、池上日樹違目の件(日樹流罪、日奥<死後>流罪・・・)言い渡し。
           幕命をもって、池上には日遠、妙覚寺には日乾を補任
・寛永7年4月22日;日遠、池上普山、これにより日樹法弟十如院日増、仙国院日仙、華蔵院日由は自坊にて自刃、
           他の数名は裏門より消え去ると伝える。
・寛永7年6月:日乾、京都妙覚寺普山、日船と大衆三十餘名は妙覚寺より出寺(上掲載のとおり)

参考:京都妙覚寺  備前蓮昌寺   池上本門寺

2008/08/08追加:
「蓮昌寺史」より日船上人関係資料を転載。

●蓮昌寺歴代
  二十三世 本寿院日船
御津郡建部町福渡の生まれというが確証はない。津島妙善寺九世蓮昌寺二十三世となり、さらに日奥の死後京都妙覚寺歴代となる。晩年は故郷に巡錫し福渡化城院に寂したという。八幡温泉の発見者。明暦3年(1657)四月十一日寂。66歳。

以上の過去帳は51世日棹(寺中妙善院、本成院住職を経て、昭和20年入山、昭和28年寂)によって作成される。
これには以下の付記がある。
 「昭和20年空襲で蓮昌寺灰燼に帰し、歴代過去帳も焼失、以前の過去帳には11代以降29代まで記載無かりしを覚ゆ。
 ・・・昭和24年金川妙覚寺の記録に依って登載せり。
 即ち当山においても当時禁制の不受不施の儀あり公儀に遠慮除戴したものか。
 ・・・永代歴代不明のままなるを遺憾とし茲に敢えて登録するものなり。(51世通妙院日棹識)」
しかしながらこの(日棹の)過去帳には不自然な点が散見される。例えば18世日典まで京都妙覚寺の歴代と全く同一であり、三山一主、両山一主の制が当初はあったとしても、3、4代ならいざ知らず18代も同一とは肯定けない。また11代から29代までの記載が無いのを不受不施の禁制とするのも年代的に合致しないであろう。
 ※読史年表には日船は当山10世となっている。しかるに日棹作成歴代では23世とする。

系譜は
  日典(18世)───日生(20世)
            └─日奥
            └─日船(23世)───日相(25世) であり、
おそらく蓮昌寺歴代は日典─日生─日船─日相と継がれたものと推定される、
しかしながら、何れにしろ、現段階では蓮昌寺歴代は明らかにされていないというのが実情であろう。(54世日泉追記)
なお日相は不受不施の故を以て備前を追放と云う。

●日船上人「蓮昌寺再建書」(金川妙覚寺文書):寛永15年(1638)

  当寺者慶長戊戌暦 権大僧都日韵聖人 刑部卿法印恕慶日眼 為檀度而開基結之云 然頃年上造日累霜厳
軒梢旧柱根摧朽虹梁斜傾矣 余当此時継於伝法之役
自恣寺務減数歳 視此忘廃而兄豈黙誌止乎 爰励信心之檀越
而励再興之懇志 建立事竟修営早成 方今安置久遠諸尊表不毀之厳 刹処是即為正法伝将来 且為国家於守無窮也
伏乞伽藍久栄仏日増光 寺内有慶直俗得福云尓

  造営中助力抜群之衆
    石 屋 奈須久兵衛尉 浄半院日通
    材木屋 来住宗十郎 徳行院幸悦
    工 匠 横田甚右衛門尉藤原朝臣正次
    材木屋 廣田六兵衛尉 徳住院日理
    銭 屋 納所与三左衛門 常玄院日尭
          本願之沙門 日船
    寛永15年戊寅年
             卯月八日入仏
  左記の書下:
【当寺は慶長戊戌の暦、権大僧都日韵聖人、刑部卿法印恕慶日眼、檀度を為し之を結ぶと云う、
然るに頃年上造日々霜を累ぬること厳に、軒梢(ようや)く舊(ふ)り、柱根摧朽挫し虹梁傾斜せり、
余此の時に当り伝法の役を継ぎ、自ら寺務を恣にして数歳を減ず、此の忘廃を視て豈黙止せんや、
爰(ここ)に信心の檀越を励まして再興の懇志を励ます。建立の事竟(おわ)り修営早(つと)に成る。
方今安置せる久遠の諸尊は不毀の厳を表はす。刹処は是即ち正法を将来に伝えんが為にして、且国家を無窮に守らんが為なり、伏して乞う、伽藍久しく栄へ仏日に光を増し、寺内慶有り真俗福を得んことを云尓(しかいう)】

※日奥の入寂は寛永7年3月10日であり、左記のことから日船の蓮昌寺より京都妙覚寺への入山はその直後と推定される。
しかし、この書状では蓮昌寺伽藍再建の成就が寛永15年となっており、この時には既に日船は蓮昌寺を出ている。
以上を推測すれば、日船は寛永7年以前に蓮昌寺伽藍再建に着手するも、その途上で妙覚寺に入寺し、その後出寺・備前美作に帰り、各地への巡錫中の寛永15年に蓮昌寺再建・入仏に邂逅したものと思われる。そしてこの邂逅によってこの書状を著したものと推定される。

●日船揮毫の本尊:
寛永17年(1640)銘の3幅および年記不明の1幅が残る。

日船上人御本尊1
確証はないが以下と推定される。
田原村妙應寺弟子本住院日暁に授与:寛永17年(1640)銘:岡山富田黒田家所蔵1幅
※田原村:備前津高郡田原村か?

日船上人御本尊2
建部法住山妙住寺大蓬坊日感に授与:寛永17年(1640)銘:岡山富田黒田家所蔵2幅の内
建部:備前御津郡および美作久米郡

日船上人御本尊3:左図拡大図
建部法住山妙住寺大蓬坊日感に授与:寛永17年(1640)銘:岡山富田黒田家所蔵2幅の内

日船上人御本尊4:詳細不詳

寛永17年頃も備前・美作を巡錫していたと推定される。

●常徳寺文書:日船書簡

※54世日泉の弟子中山慈観が寄せるとある。左記以上には不明、京都常徳寺什宝か?

常徳寺文書・日船書簡:下記拡大図

◇長文なれど、以下に掲載。寛文7年京都妙覚寺出寺後の日船上人の様子ならびに心情などの推察が可能。

 今般、余と蓮昌寺の衆中と聊か不快の儀有り。而も、世人両端の是非に迷ふ。遥かに之を伝聞して、ことさら(故)に黙視することを得ず。つい(卒)にニ三紙にしるし(點)て、彼の疑網を散せんと欲す矣。請ふ、貴寺すみやか(洞)に斯の蒙趣を察し并に彼の迷者に対して、詳らかにこ(焉)れを購読せよと、しか云ふ。

 余、去春已来数月在洛の間、関東仏法の諍論、自他の陵夷、しば(数)々々告げ来るが故に、京都両派の寺院憂喜相ひ交わること称計すべからず矣。爰に六月(林鐘)中旬の初め、池上・妙覚寺并びに、今般追却の御下知を蒙る寺家学室等、延山の訴訟(詔)に従って、悉く彼の徒に相ひ渡さるる由を告知し来る。故に、一寺の長幼、永く法灯の滅せん事を悲しみ、数輩の檀越、久しく参詣の留まらん事を恨む矣。
即ち、同十四日、満山の大衆本院に集会して、天衣の袖を以て悲涙を押へ、哀傷の声を吐きて僉議して曰く、夫れ、吾が山は花洛一宗開闢の霊地として、要法弘行の功已でに年旧りたり矣。殊に像公薩 埵、直に蓮祖の貴命を蒙り、法華の深義を山寺に弘めたまひし、已来、終に謗法淤の泥土に交はらざること、恰も、蓮華の明池に在るが如し矣。然るに、去る文禄年中、前太閤秀吉公の厳命に依りて、衆徒訛って謗施を受け、貫主妄りに遠島に謫せられ畢んぬ、斯の恨み綿々として絶ゆる期無し矣。假使ひ今、弾侶はたち(立)どころに謫戮の巨難を蒙り、寺院は、忽ちに破却の災害に及ぶと雖も、争かでか先非を悔ひずして、亦上炭に墜ちんや。即ち共に筆翰を執って剛志を顕はし、各判形を加へて再興を契る。其の詞に曰く、
    初条之れを略す
一 時節到来有るに於ては、異体同心に一間四面の草庵にても、妙覚寺を取り立て不受不施の法水を相ひ守り、
 像師御作の御皆様を安置の処に、當門家の本山を持つべき事。
 右之条々違背有るに於いては、法華経中の一切三宝、日蓮大薩埵、井びに代々列祖の御罰を罷り蒙るべき者なり。
   寛永七庚午六月十四日大衆在判


 次に、余が、この儀を評して曰く、當寺に於いては、既に謗徒に賜はる。法義の紀明におよ(逮)ばざるか。然れば、日船は備前に下り、暫く末寺の衰廃を扶く可し矣。予、報じて曰く、縦とひ、本国に在りて當山の摩滅 を間くと雖も、争かでか置いて訪れざらんや。幸ひ此の地に在り、何ぞ衆中に先んじて寺を退く事を為さざらんや。衆これを許諾す矣。亦告げる者有り、其の儀然なりと雖も、先ず其の趣を備前の真俗に告げ、兼ねて不退の信力を励せと矣。余、これ(焉)を可とす。即ち、慈善院に命じて曰く、吾れ、欣はくば、華洛に在りて上意を蒙りて、遠島に滴せられんと欲す。若し其の意趣を遂げずして、空しく但だ、衆と共に寺を出づべくんば(可者)、必ず本国に下りて、須らく留難を待つべし。然りと雖も、真俗の志し怯弱にしては、此の功成し難がらん歟。御分先ず本国に下りて、其の趣を述(伸)べ、預かじめ誓書連判を催し、余に投じらるれば、猶、預の心無くして、進退に凝滞有るべからず。若し亦、承伏無くんば、早く其の趣きを知らしむべし。別におもんばかり(憶度)有るべし云々。其れ已後、辞し難き誼煩の請に因って人院す矣。二三日を経る処に、真俗又衆会を遂げて、余に告げて曰く、當に本国に下りて、是くの如く請ふこと三度に及ぶと雖も、敢へて了承(領掌)せず矣。四五目を経て、御房より使者を賜はる。井びに又、真俗の連署到来す、彼らいて之れを見れば、殊に寺中の紙面猛烈の心底其の書に顕る。故に、快悦の餘り、先ず衆檀に対して、自ら之れを賛嘆す。余衆も亦然なり矣。然りと雖も、寺中弥よ堅固にして、東説また静かなり。故に、徒然として日を送る矣。茲に、六月晦莫、紀州蓮心寺の使僧、関東より上洛す。傅書有り、仍って妙覚寺に寄付す。其書の趣、弥よ難儀に及ぶ。天下の一宗悉く、受謗施為る可きの旨御下知に依りて、起請連判を催さる者なり。事に寺の儀、延山の支配に任せらるる間、兼ねて、其の用意有るべし云々。其の書今に所持す。之れに依りて、又、評定を企て終日僉義して曰く若上意を黙止し(せ)難くば、衆徒は一旦謗罪に堕すと雖も、時刻到来有るに於いては、必ず日船に対して改悔を修すべし。日船は須らく先ず本国に下るべし矣。即ち両使僧(一人は二老、一人は行事)を以て、其の趣を予に訴ふ矣。前々已でに、再三下向を請すと雖も、敢へてこ(焉)れを諾せず。然るに、今般は、意趣聊か相違する故に再任の問答に及ばず。其の夜半寺内を退く矣。已後また傅へ問く。奥公の直弟・近習井びに寺僧衆すべての余輩、寺を退くと云々。余は翌日、大阪に下着す。不意にして教行院・一如院に違ふ。先ず備前の安否を問ふ。信力退転無しと答ふ。次に京都仏法の躰を談話す矣。尚三日大阪に逗留して、委しく妙覚寺の沙沃を聞くに、別趣無きが故に。即ち、七月三日大阪を出て、同五日岡山に下着す。聊か思慮有る故に、潰野に到って船を留め、一両僧を招きて、閑談を遂げ、衆徒の心中を伺ひ聞き、粗ぼ其の意を得たり。直ちに旧寺に帰らずして暫く御局の下屋敷に徘徊せしめ、いよいよ公儀井びに衆旦の心底を相ひ伺ふと。是全く大守の許不許の貴命を憚り、真俗約諾の変不変を試みんが為なるのみ。然るに、或ひは使僧を以て、頻りに、件の誓書を返へすべしと請ひ、或ひは学徒来たりて謀りてこれを取らんと欲す。種々無尽の計略、挙(稱)げて敏ふべからず。心躰もっぱ(併)ら外相に顕れ、宗義全く樹立し難き段、顕然の間、速やかに彼の誓書を慈善院に渡し、兼ねて遺訓を加ふ。此書若し直ちに寺中に返へさば、自他の嘲弄を塞ぐに術有るべからず。亦、宗義相続の志し、弥よ懈たるべし。請ふ、貴方志し有らば、縦ひ幾たび譴責有ると雖も、須からく、余が一左右を待つべし。妄りに返へすべからず矣。偏船に乗りて蟄居せしむ矣。余、遠嶋に有りて衆徒の心中を傅へ聞く。初め、彼の書に判形を印せしより已来、これを悔やむに尤も甚だし、云々。故に余を誹謗すること恰かも宿敵の如く、使僧を罵言すること、頗る怨家に似たり。而して、其の餘殃今に止まらずと、首尾詳びらかに之れを案ずるに、疑氷爰に解けたり。初め、余下向の砌、旧寺の諸生甚だ之れを嘉す可き所に、曽て其の色無し。又、累年親愛の僧侶敢へて訪れず。又、頻りに帰寺せしめよと請ぜずして黙止す。還りて、ますます讐使を立つ。又余、所存を伸べて問答を遂ぐると雖も曽って納得せず、剰つさへ、檀那を集めて披露と稱して、甚だしく慚耻を蒙る等、不審繁多にして目を送り、今始末を聞きて、委しく其の意を得たり。即ち、顕露に誓書を返へす矣。初めは、只若輩無知の徒ら、是非を弁ぜずして、妄りに斯儀を興すと推察せらる所に、今詳びらかに聞くに、二三輩の僧侶、他の俳談を止めん為に、満山の弾徒に代りて、頻りに咎無き由を弘傅せんと欲し、種々の巧弁を吐き、無尽の謀計を構ふと云々。是皆一山の儀、嗜宿大衆の禅頭なり。悲しき哉、恨めしき哉。縦とひ無知蒙昧にして、是非を分かたざる伴侶有りと云ふとも、何ぞ連やかに諌鞭を加へて正道に趣向せしめざらんや。只先般、謗徒に共して、罪無き由を他に教ふる故に、更に変改有らは彼の嘲りを蒙らんことを恐れ、増々非義を募るか。過ちて改めざる、是れを過ちと謂ふ矣。若し其の意を得は、何ぞ改めざらんや。罪を犯して覆蔵するときんば其の過ち甚だ深し矣。若し此儀を知らは、何ぞ悔ひえざらんや。若し、上来の勘事毫末も差違有らば、諸ふ、誓言を以て諂侫無き旨を顕せ。別に改悔を須ちひず、何ぞ偽妄を以て、他に珪僅を付せんや。唯、無慈詐親の誠を恐る故に、今、其の訛謬を顕はすのみ。尚、廻邪改信の懺悔を待つ故に、敢へて他人に語(謂)らず矣。然るに、黙止するを以て幸と為し、いよいよ非義を増す、還へりて、謗法の増長縁と成ることを悲しむ。亦、護借建立の志し無く、呵責謗法の勤め懈るに似たり矣。故に、大衆の怨憎を顧りみず、つひ(卒)に筆端を染めて、聊か謗法の相を示す。冀はくは、速かに慢幢を倒して、普ねく改悔の浄業を修し、快よく諸生を誡めて、倶に謗法の苦因を免ぬがれよ矣。問ふて曰く、連署の違反は全く立義の破立に拘らず、偏へに貫主の帰寺なき故なり。又既に今に誓書の約束を守る、何ぞ破誓と云はんや。弾じて曰く、誓書返転、何ぞ必ずしも予が帰不帰に預からんや。是れ、全く宗祖の風儀を守らんが為めなるのみ。縦ひ亦、予、遮ぎり難たき謂はれ有りて、旧寺に帰へらずと雖も、立義通用するときんば、天涯、豈、遠からんや。若し又寺に帰ると雖も立義通らざるときんば、即ち、咫尺亦天涯の如し。其の意趣、先月、行事に(乗殊院・禅定坊)云ひ含め畢んぬ矣。然も又、予が帰寺不帰寺は下着已後の沙汰なり。誓書を悔ゆる事は、加判の翌日已来なり。是れ、豈、予が帰寺不帰寺に預がらんや。只固辞し難き厳令有る時に到りて、此の書を破らんことを恐れ、兼ねて之れを違犯する事決定なり。諍ふこと莫れ矣。縦然ひ、之れを取り返すと雖も、豈、冥旨にあ(契)はんや。儚(墓無)し々々、況んや、今に至りて制法を守る、云々。此の語勢甚だ笑可し、人亦之れに迷ふ。未だ熾んに謗徒に共せざるを以て、猶其の制限を破らずと謂ふか。例へば、勇士は心を変へざるを以て忠と為し、若し敵と與みする則んば忠にあらず。然るに臣有りて怨みと共に謀りて、将に主君を害さんとし、遂げずして露見すれば、即ち辜せらるるが如し。今亦尓なり。吾が家の風儀を破らんと欲する豪勢の敵有り。若し夫れに與みせざれば、即ち必ず罰せらる。故に、一宗の僧侶大半彼の命に帰す。然るに一徒有り、甚だ之れを恐る。預め其の臆度を為し、共して、法義を害せんと欲し、遂げずして露見す、寧ろ、披陳懺悔の柄誡を加へざるか。今、はかりみる(■魚偏+見 の文字)に、彼の徒に與みせざることは、時倒らざる故なれば、不意の事なり。何ぞ之れを以て証と為す乎。呵々として笑ふ、挙げて破るに足らず。問ふて曰く、凡そ謗法とは、或ひは誹謗三宝罪、或ひは受用謗施罪、或ひは他宗所崇の神社仏閣に参詣する等、或ひは誣人山伏等に附して冶病の法を誂へる等なり。又相似の謗法と、又與同罪の謗法と無きこと有り。是等皆宗門の格式となして、上古より堅く禁しめ来たる制戒なり。然るに今、制書の返転を以て妄りに謗法と称す。豈、其の理に応ぜんや。只、先般、寺中の若輩、麁言を以て日船を叱る。故に、其の宿意を遂げんが為に、言を謗法に寄せて、旦度の参詣を停廃し、信者の供施を拒止するのみ。敢へて其の謂れ無きなり。自から先ず問ふ、相似の謗法とは、其の相未だ知らず。他の示して曰く、旧記の趣二種の相似を出でず。所謂ゆる行跡の相似言語の相似なり。猶を委く聞かんと謂ふ。示して云く、共に例を引いて之れを説かん。先ず、行跡相似とは、京都寺町に蛸薬師と云ふ小堂有り。或る當宗の檀那、早旦に彼の前を通る折節、朝日東嶽に出でたまふ、不意にして、彼の堂に向かひて合掌礼拝をなす。人之れを怪しむ。日天を拝すと答ふ。相似の謗法落居して、改悔を修せしむ。次に、言語相似とは、或る信者遊覧の為に堺より住吉に至る路次にして、朋友に遇ふ。何ずくへと問ふ。往古に詣ると答ふ。行くと云ふ可きを、誤ちて詣ると云ふ。相似謗法治定して、是亦改悔を修す。共に其の記文本山に有り、憚しむ事莫れ。是等皆小乗は四重を以て正と為す。大乗は譏嫌を以て本と為る。故に是くの如きの格式有るなり。問ふ與同罪謗法其の相如何。歎きて曰く、汝委しく謗法の相を知れり。我何ぞ歎かん乎。然るに今将に宗義を破らんとして、是れを謗法と憶はず亦改悔を修せず、其の謂れ有りや。他の曰くしかなり。今論ずる所は誹謗三宝等の謗法にあらず。又行跡言語の相似にあらず。何を以て、改悔を修すべきや。弾じて曰く、嗚呼、尚、未だ傍法の根源を詳びらかにせずして此の想ひ有る歎、聊か議を談じ例を引きて、頑疑をさと(況)さん。凡そ道人行を修するに、其の品多しと雖も、束ねて三業を出ず云々。異(殊)なり有ると雖も、共に、意業を以て本源と為す故に、身に万行を持し、口に万偈を唱ふと雖も、意地、若し彼の善に依らざる則んば、福必ず孤なり。故に尺して云く、受持無ければ餘行を行ずとも徒然なり矣。受持は是意地の所作にあらざるや。故に、意地不善にして、事善を作さば、豈、福を得るや。故に宗祖専ら信力を勧め給ふ。信は亦意業の善にして功徳の父母なる故なり。経論釈書皆以てしかなり。繋るが故に之れを略す。請ふ、周ねく尋ねて之れを詳びらかにせよ。悪業亦しかなり。事悪躰軽し。意地を加ふる則んば、其の業甚だ重し。故に貧瞋癡の三毒を以て諸悪の根本と為す。是れいかでか諍んや。而も善、而も悪共に意地にもとずく者をや。然も今、宗風の破立何を以て之れを辨ぜん。若し、僧侶有りて、専ら謗施を受く可きと謂ふと雖も、施者無き則んば、必ず黙止すべし。身口未だ謗施を受けざるを以ての故に、謗法にあらずと云ふべきか。若し、尓なりと云はば、延山の遠・暹、未だ謗施を受けたりと聞かず、未だ受用せざる故に不謗と謂はんや。彼若し謗罪極成せば、豈意謗を取るに非らざるや。今全くしかなり。若し厳命を以て、強ひて謗徒を入れらるれば、固辞すべき事を得ずして、彼の徒と共せんことを必せり。然るに、誓書有りてこれを妨げ(妨礙)る故に、預かじめ彼の書を取り戻し、兼ねて謗法の造を開らく。未だ身口に交はらずと雖も、意地先んじて與同す。しかも陳して不謗と謂ふ。一いと何ぞ痛しき哉矣。只、理を弁へる僧侶無きが故に、妄りに我執を起こし、亦、他を蔑如す。自から非を招き、他をして謗咎に堕せしむ。是れ夫れ誰が所為か矣。尚又、例を引きて慢幢を倒す。未れ、三論師嘉祥大師は、十流の僧綱法華玄論を造り一乗を敷演す。天台已前は此の師に如くは無し矣。然るに少分異解有る故に、忽ちに智者の為に破せらる。七年、智禅師に仕へて肉橋と成りて、其の罪科を悔ひる云々。録内に曰く、嘉祥は天台より高僧なりしかども、態と人の見る時は高座に近づき肩を寄せて高座に登らせ奉る、云々。又曰く、嘉祥大師の法華玄論を見るに、痛く法花を誹謗せる疏には非ずと、云々。妙楽彼を責めて云く、毀り其の中に在り、何ぞ弘讃となさん矣。又、法相師慈恩法華の疏を追って、還って苛責をせらる。是れ等皆、賛嘆の徳有りて敢へて毀謗の語無し。誰か謗法の師と謂はんや。只、聊か異解有る故に、共に大師の所破と或る。円家の法敵之れより甚だしくは無し矣。故に必ず身口の業たらすと雖も、意地若し一毛相違たる則んば、謗罪大山より重し。何ぞ慎まざらんや。何ぞ恐れざらんや。身口相似の謗法像法高徳の異解尚改悔を修む。況んや意地顛倒の謗罪に於いてをや。何況んや、末法薄徳の比丘に於いてをや。故に、天台梵網の疏に、謗法の義を釈して曰く謗とは乖背(かいはい)の名なり。すなはち是れ解、理に稱(かなは)ず、言実に當らず、異に解説する者、皆謗と名づくなり。己が宗に乖く故に、罪を得る。(文) 然るに今先善を悔ひで、忽ちに後非を起こす。豈己が宗に乖く乖背の者にあらざるや。其の瑕疵を護惜せんが為に、妄りに無知の追俗に対して恣に之れを弘博す。是又異解説の者にあらざるや。只、口に不受不施と囀ずれども、こころ(意)専ら両楹に踟躊す。頗る猟者の■(奇偏に鳥の字)蛙《いつぽう=かわせみとはまぐり=両者が相争って、共に漁肺に捕られる(戦国策)》の費を伺ふが如く、蝙蝠の二類に漏れたる{昭和定本四四八頁法門可披申様之事=参照}に似たり。道俗之れを聞きて、仰ぎて之れを信ず。あさまし(浅猿)々々矣。たま(適)に得心の檀度有りて、参詣供施を停留すれば、専ら予の所以と号して、怨憎口に益す。噫、甚だしく転倒せり。罪己に有り、何ぞ他に預からんや。瑕使ひ、余、他に対して之れを説くと云も、又、咎無し矣。若し、賢策有らば、何ぞ早く其の源を塞ぎて、其の毀しりを停めざる矣。然るに、余、斯の嶋に蟄居して、人境に交はらず。希れに訪ふ者未だ二三子に過ぎず矣。先き立ちて蓮昌寺不参の由を訴へ、且つ入眼を請ふ。或は亦矣。紙面に顕して、先づ披見に入る。是等豈、予に逢いて已後、詣施止むるならんか。已外未だ来て訪はず。僧侶三四輩、対顔を遂げずして、帰す。并びに亦、書中の往返頗る跡絶えたり。疑ひ有らば、悉く、其の他に於いて、之れを糾だすべ吉や矣。只、造次にも非を招き、顛沛にも邪を積すに非らざるや。悲しき哉、昨迄は、他の悔え無き事を恨むと雖も、今自身に當たりて、益々其の罪を犯す。只、推ばかるに、初め、にはかに(卒に)妄言を吐きて、他の嘲りを顧み、返転し難き故に此の諂侫を増し、亦謗咎を募る歟。古人言へること有り、人、尭舜にあらざれば、過ち有らずと云ふ事無し。能く改めるを吉と為す。取席。又云く、過ちて能く改めるは善の人なる者なり矣。又云く、小人の過ちは、必ずかざる(文)なり矣。此の語は偉なる哉。至れる哉。志学の侶ら、箴鑑と為すべきか。時、澆季に覃{およん}で、人根轉た鈍なり。三毒日々に倍し、五濁月々熾なり。人誰か過ち無からん。智者は早く改めて善に移る故に嘉名一天に流る。愚者は偽り飾りて非を長ず。故に、悪名四海にあまねく。いかでか慎まざるべけんや。請ふ、万端を擲って眼を閉じて穿鑿せよ。若し其の理に當らんや。問ふ、謗法の相貌粗ぼ其の意を得たり。誓書の違返、亦罪有るに似たり。旦らく之れを許す可し。但し其の咎、必ず満山に預るべからず。ゆえはいかん(所以者何)、或は談合の席に連なると雖も、還りて之れを悔むる者有り、或ひは是非を弁ぜずして、衆儀に同ずる者有り。其の品一准ならず、罪科、豈差別無からんや。示して曰く所問の如く、尤も其の謂はれ有り。罪咎に軽重有る可し。但し、一往遮し難くして、彼と與みすと云へども、再往何ぞ慙愧せずして、共に辜無しと云ふか。又初め之れを知らずして、彼の徒と與みすと雖も、更に無言の義を聞知せば何ぞ改めざる。是亦不可なり。若し又初めより今に至るまで、其の義を知ると雖も、たやす(轍)く寺内を出るを得ずして時々、慙愧の念を起こし、節々に謗者に受くるを恨むは、又宣なり。蓋し與同罪を恐る。須らく改悔を修すべきなり。況んや、直ちに彼の張本と成り、枉げて諂侫を説く者をや。是全く予の私情に非ず。恐らくは冥旨を仰ぎて、兼ねて聖語を拾ふに在るなり。然も今厳命甚だ恐れ多し、何ぞ此の義に依りて是非を論ぜんや。何況んや、書を顕はして、筆を染むるに於いてをや。敢へて時を知らざるに似たり矣。然りと雖も、備前の一宗は、是れ、宗旨開闢より已来今に至るまで、謗法の汚泥に染まらず、殊更、口奥聖人、一宗の諸匠に抽んで、宗義の諌暁、新たなる故に、法中の怨憎を蒙り、天下の貴命を以て、遠島に謫せられ給ふ。其の時に及び、累年顧眄(こめん)の侍者、尚は随従せず。況んや、其の餘輩に於いてをや。然るに、吾が先師口韵・日魏、公私の留難を顧へりみず、偏へに宗義の法水を対州に汲み、専ら立行の可否を奥公に任す。故に、国中の緇素併っぱら彼の命に応じて、法の為に数回辛苦を凌ぎ、終に御赦免を蒙り、帰洛弘法の本懐を遂げ給ひ畢んぬ。其の間、義を施し忠を尽くすこと、恐らくは備前に限る。功併っぱら韵・魏の両師に在る者乎。余、某の正嫡と為して譲を蓮昌寺に受く。飽くまで旦度の信施を用ひで恣に寺務職を貪る矣。剰つさへ、全く其の器にあらずと雖も、更に奥公の遺命を蒙りて、宗旨正統の血脈を領す。門家に於いて、豈、無慈詐親を成さんや。只だ、一両輩の侫僧有り。宗義長練の由を称し、妄りに胸臆を(伸)べ、将に彼の堅信を遂せんとす。予、何ぞ之れを見聞して、争かでか之れを救はざるや。嗚呼廃たるかな矣。道一国の僧侶、竹葦の如しと雖も、是非を糾す者無くして、却へりて邪義に與す矣。只、纔かに、未だ以て謗徒に交はらざるを以て、語と為して、思惟未だ練せざると。深く意地を察し、洞に三業の謗罪に達して、義趣分明なるといずれと(孰與)。請ふ、明哲宜しく之れを評決すべきのみ。

追加
 南条抄<「南条兵衛七郎殿御書」文永元年十二月、昭和定本三二一頁>に云く。「又信心深き者も法花経の敵を責めざれば、何なる人善根を修し、法花経を千部万邦読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経の敵を責めずば得道は有り難し。譬へば朝に什ふる人の十年二十年奉公あれども、君の敵知り乍ら奉せず、私にも恨まざれば、日来の奉公皆失ひて、還りで失に行はれんが如し。」

 祖害斯の如きの例文多々なり。今吾が宗一類の徒、只折伏の弘通を止めるのみにあらず、還へりて謗人の施を受けんと謂ふ。是もっぱ(併)ら、宗門の制誡摩滅の時到る者也。一家の法義を損害すること、他家の毀謗より甚だ重し、全く是れ法花の敵也。彼の徒に共ならざるを以て、義、法花の敵を責むるに當たる。寧ろ喪身命の弘通、正しく斯の時に在り。
 何ぞ破損の一坊を惜しみ、若干の大功を立てざるや。
 御者<「種種御振舞御者」建治二年、昭和定本九六一頁>に云く、「各々が弟子と名乗らん人々は、おしく思はるべからず。親を思ひ、妻子を思ひ所領を顧みる事なかれ。無量劫より已来の事を思ふに、忽ちに親の為、子の為、妻の為、所領の為に身命を捨つる事は、大地微塵より多し。法花経の御故には、未だ一度も捨てず。法華経を若千行ぜしかども、かゝる事出来せしかば、退転してとゝまりにき。譬へば、湯をわかして水に入れ、火を切るに、とげざるが如し。各々思ひきり給 へ。此身を法花経に替ふるは、石に金を替へ、糞に米を替ふるなり。(文)

●日船書状
   岡山県立博物館蔵
   『来住家(きしゃけ)文書』(浦伊部)より

 猶々苗杉五本進候
此地御こしのよし不存而不申承候、何とて此ニ御逗留候ハす候哉、先口者香爐被下、辱存候、
乍去結構なる道具ニてハ無之候、つゝじ過分ニ存候、仍而従関東文席帰国のよしニ候、貴面二可申談度義、御座候へ共、
明日御帰被成由候間、無是非、委曲中正坊ニ可申渡候、恐々謹言

●日船の墓塔

本寿院日船墓塔:左図拡大図
 福渡緑町にある。

「両山中興日船上人覚位」
 「明暦四戊戌(1658)四月十二日化」

 ※両山とは日船の住持した京都妙覚寺・津島妙善寺、備前蓮昌寺のうち、妙覚寺・妙善寺を意味するのであろう。
 ※明暦4年は万治に改元

2018/10/15追加:
「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より
日船は福渡の生れと伝えられ、妙覚寺貫首となったが、寛永7年の身池対論によって妙覚寺を追われ、晩年は川口村に小庵を設けて住し、福渡村にて遷化するといわれる。福渡字山根(現新町)の路傍に墓がある。

2008/01/09作成:2018/10/15更新:ホームページ日本の塔婆