大和今井町天台宗常福寺鎮守春日明神
◆大和今井町天台宗常福寺鎮守春日明神
今井町に常福寺の堂宇と春日明神が存在する。 今井町自体が、中世あるいは近世の面影をかなりの程度残すようである。
そういったこの町に残存ずる常福寺の堂宇と春日明神は、中世あるいは近世の信仰の形を今に色濃く伝えるものである。
明治の復古神道によって、佛や地主神が破壊され、その一方では「記紀の神々」が国家神道の強制の道具とされたのが一般的であった中で、今なお、中世や近世の佛と神との融合の姿を色濃く今に伝える形態が残存しているのは喜ばしい限りである。
○「奈良県史 第5巻 神社」 より
◆今井町春日神社:【要旨】 由 緒
大和今井町の西南隅、南北を環濠に囲まれた森の中に鎮座する。 祭神は天児屋根である。
創始年代は明らかでないが、当社現存最古の石燈籠銘に「慶安五壬辰年仲春吉日」とある。
明治維新前には天台宗多武峯末常福寺(注1)の鎮守であったというが、その棟札に「上棟大和国高市郡今井常福寺」「干時慶長十八年七月癸丑十六日敬白」とる。
つまりは、常福寺の鎮守として現在の本殿が慶長18年(1613)に上棟されたということであろう。
これは春日社の最古の石燈籠の奉納に先たつこと39年前ということになる。
即ち春日社は少なくとも江戸初期には祭祀されていたことは確実ということであろう。
ところが、明治の神仏判然の処置で、常福寺は廃寺、鎮守春日社だけが存続することになる。
本殿は春日造屋根檜皮葺で桁行2.26m、梁行2.83m、丹彩で、1.81mの向拝が付設する。
殿内に衣冠束帯彩色の木質紳像を安置するほか、径30cm.の神鏡が奉安され「春日社御鏡 嘉永七年(1854)寅年九月吉祥日 和州今井町氏子中」の刻銘がある。
本殿前の狛犬・石燈籠などに堺や大阪商人銘があるのはかって今井町と堺・大阪商人との交易関係を示すものである。
例祭は元十月二十六日であったが、今はこの日に近い日曜日を当てる。
戦前は七ヶ町から御輿が出て広庭に勢揃いし、今井町内を練りまわったが、今は子供ミコシに変わった。
常福寺境内には絵馬堂のほか、常福寺本堂(観音堂・四注屋根瓦葺・十一面観音像・阿弥陀如来像・弘法大師像等を安置)、行者堂(入母屋造・役行者像・前鬼・後鬼像・地蔵菩薩安置)、寺門などが残る。
境内社は金毘羅大権現・人丸社(柿本人麻呂)・厳島社・天満宮・蛭子神がある。 (注1)多武峰末寺常福寺
「多武峰の神佛分離」辻善之助・高柳光壽(「明治維新神佛分離史料 巻下」昭和4年 所収)に収められている
「本末并分限御改書」天明3年(1783)船橋文治蔵 中の 「和州十市郡多武峰護国院天台宗妙楽寺」>多武峰末寺 の項 に
【和州高市郡今井村 常福寺】 と書き上げられている。 さらに
「桜井市史 上巻」桜井市史編纂委員会、1979 の ◆近世の多武峰 の項でh
「多武峰領百濟村の百濟寺、高市郡今井村の常福寺も多武峰の末寺であった。」と記載されている。
《上記は「大和多武峰妙薬寺」に収録しているので参照を請う。》
○「Wikipedia」 より
◆今井町春日神社 今西家の旧宅地で常福寺の鎮守のために創建された。
創建年代は明らかでないが、現存の当社石灯籠中最古の狩野形石灯籠の銘に「慶安五壬辰年(1652)仲春吉日 春日大明神奉寄進石灯籠
願主和州高市郡今井東町」とあることからそれ以前に建っていたとみられる。 その後、享保20年(1735)に再建されたとみられる。
境内には石灯籠を含めて49基が奉納されているが、慶安五年に続くものは今井中町と西町今西正利奉納の承応2年(1653)仲冬吉日とあるもの、承応3年(1654)五月吉辰日に今井東町尾崎源八と同南町尾崎七左衛門とが寄進した遺品。
他に寛文元年(1661)・元文5年(1740)・享保(1716~173年)・明和(176年~177年)・安永(177年~178年)・享和(180年~180年)・文化(180年~181年)から明治に及ぶ。
手水舎は天保7年(1836)のもので、堺の商人たちが願主で、本殿前の狛犬は、大坂の商人の奉納であり、石灯籠などに堺や大坂の商人の名前を記すのは、今井町と堺・大坂商人との深い交易関係を示すのものと言える。
◆今井町の概要 ○「Wikipedia」 より
大和國の歴史については、ほぼ知識がないため、「Wikipedia」の「今井町」の項目から参照させて頂く。 古代:
現在の八木町は京都・奈良・難波・伊勢・四日市・吉野・紀伊への要衝であり、古くから町屋化していたと考えられるが、現在の今井町付近は低湿地であり、泥地であったと考えられる。
古代(鎌倉-室町期): この時代は大和興福寺領であった。
鎌倉は敢て大和には守護を置かず、古代豪族の流れを汲む大和四家と呼ばれる有力衆徒国人(筒井氏、越智氏、十市氏、箸尾氏)が各地の荘園を管理していた。
今井庄は、興福寺一乗院の荘園であった(興福寺一乗院文書)。
天文2年(1533)畿内一向一揆終焉後ではあるが、今井に一向宗の道場が建立されるが、興福寺一乗院の国人越智氏によって幾度も破却される。
永禄2年(1559)畿内を支配していた三好長慶の家臣松永久秀が大和に入国し、国衆との乱闘が繰り広げられた。
この時、本願寺を背景とした今井郷はそれらの勢力の排除に成功し、興福寺からの弾圧にも対抗し、永禄年中一向宗の道場は顕如より寺号を得て、河瀬兵部丞(後改め今井兵部房)と河合清長(後改め今西正冬)が門徒や在郷武士・牢人を結集させ今井道場を中心とする寺内町が成立する。ここに今井庄は環濠集落を母体として発展し、東西南北の他、新町・今町の6町が成立する。
※今井町が一乗院支配であったことを考えると、春日明神が勧請されたことは自然な流れであったと思われるが、多武峰と興福寺の関係を考えると、多武峰末寺常福寺と春日明神の成立の後先やその関係性は単純でないと考えられるはどうであろうか。
※今井町には大覚大僧正開基という今井町蓮妙寺が現存するが、大覚大僧正開基ということが眞であるならば、蓮妙寺の成立は室町初期であり、その後一向宗の居城と化した今井町で、本願寺と日蓮宗の関係性を考えると、どのようにして今井町にて日蓮宗寺院が存続できたのあろうかと不思議な気がする。
安土桃山期 永禄11年(1568)織田信長が上洛、松永久秀は信長に従属し、大和一国の支配を認められる。(筒井順慶は退勢となる)。
元亀2年(1571)久秀は三好三人衆と和睦して信長に反旗を翻し、信長包囲網の一環として石山本願寺と呼応する。
今井郷も石山合戦の時には、石山本願寺、三好三人衆について織田信長に反抗し、堀を深くし土塁や見通しを妨げる筋違いの道路等を築き桝形として虎口を固め、最前線である西口に櫓(城郭)を設け、今西家を城構えとして環濠城塞都市となる。
天正3年(1575)織田信長の降伏勧告を拒絶した在郷武士団(十市家、川合家の一族郎党)や長島一向一揆の牢人などを中心とした今井郷民が蹶起し、佐久間信盛を大将とした織田郡と半年ほど戦闘する。
しかし、一向宗率いる顕如が信長に和睦を申し入れたために降伏を余儀なくされる。しかしながら、堺の豪商津田宗及の斡旋により、今井郷に対して信長から朱印状(今井郷惣中宛赦免状)が付与され赦免される。
同年、信長は、武装放棄を条件に「萬事大坂同前」として、この町に大坂と同じように検断権(自治権)を認める処置を下す。
要するに、今井郷に対する処遇は、他の一向宗寺内町の扱いとは別格で寛大なものであり、自治都市として「海の堺」「陸の今井」と謳われて、今井郷は交易を通じて、繁栄することとなる。
信長の死後、天正3年(1575)から疎開していた今井道場坊主の河瀬兵部丞は、天正10年(1582)に今井へ復帰する。
今井御坊が復興されるのは、豊臣秀吉の時代となってからで、河瀬兵部丞は今井兵部房と姓を改め、大和守護職が筒井氏から豊臣秀長に代わり、今井兵部富綱は進んで豊臣氏の家臣となる。
江戸期:
元和元年(1615)大坂夏の陣では、大和の大坂方牢人、筒井、箸尾・布施・萬歳・細井戸の諸士はその先鋒として郡山城を襲い、町家の大半を焼き、転じて今井を攻撃する。
この時、今井西辺において大坂方の大野治房らと激戦があったが河合清長以下の活躍により町は無傷のまま残る。
寛永11年(1634)幕府から許可の元、今井町は「今井札」の札元となり、藩札と同じ価値の紙幣である「今井札」が発行されるなどに象徴されるように、交易で富裕であり続ける。
しかし、鎖国により海外との交易は絶え、また延宝7年(1679)に今井町は天領に編入され、今井家と今西家は武士の資格を停止、今井家は純然たる釈門に帰し、今西家は郷中並の惣年寄筆頭となる。
これによって、町内に武門は跡絶え、事実上自衛権を剥奪されて天正3年(1575)から104年間続いた自治都市制度を終焉を迎える。
しかし、今井町の財力は大きな力を有し、幕府は、今西家、尾崎家、上田家の三人の惣年寄を頂点に町年寄・町代を置き、警察権・司法権・行政権を与え、自治的特権を与えたことはまだ今井町が富裕であることのい象徴であろう。
農村の多くが20~30軒程度だった当時「今井千軒」と呼ばれ、延宝7年(1679)には家数1082軒、人口約4400人を数える。
享保5年(1720)の改めによると、付近の村々92ヶ所にわたって、延べ414人3200石余りの高を所持しているが、最盛期には7000から8000石におよんだ時代もあったという。
しかし、江戸後期には、次第に、町勢は沈滞傾向を示すも、今井町はその後も奈良中南部の一中心地として重要な位置を占め続けるという。 近代:
幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅する。
また、明治時代の鉄道開通の時、今井町近隣に持ち上がった鉄道駅建設計画に市中取締役の任にあった今西逸郎らが反対する。これにより乱開発が阻止され、町の保存に貢献したと言われる。
2024/04/14撮影:
今井町常福寺々門1 今井町常福寺々門2 常福寺北門
今井町常福寺山内1 今井町常福寺山内2:環濠 今井町常福寺山内3 今井町常福寺山内4
常福寺観音堂1 常福寺観音堂2 常福寺観音堂3:内部諸仏 常福寺観音堂4:内部本尊
行者堂:「現地案内板」: 沿革は不明、寛政5年(1793)に再建との記録が残る。二間四方の小宇である。
堂内には中央役行者、左に不動明王、右に延命地蔵を祀る。今も毎年役行者会が執行される。 常福寺行者堂1 常福寺行者堂2 常福寺行者堂3:内部 常福寺行者堂4:役行者
常福寺春日明神拝殿 常福寺春日明神拝殿扁額
常福寺春日明神本殿1 常福寺春日明神本殿2 常福寺春日明神本殿3
今井町春日明神模型:今井まちなみ交流センター 華甍 より
2025/07/25作成:2025/07/25更新:ホームページ、日本の塔婆
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