加藤昇の(新)大豆の話
23. 凝固剤の変遷と豆腐
現代の我が国では豆腐は店先で簡単に買うことが出来ます。皆さんは店頭で豆腐を買うときにどんなことに注意して買いますか?おいしい豆腐を作るのに必要なものは大豆、水、凝固剤です。だからこれらはそれぞれ豆腐の品質に強く影響を与えることになります。豆腐に含まれているもので最も多いのは「水」です。水による豆腐の品質に対する影響は大きいと思いますが、同一地域の中で作られている豆腐であればその差は限られていると思われます。次に量的に多いのは原料大豆でしょう。豆腐原料として考えたときに大豆の品質は大きな影響を与えています。最も影響が大きいと考えられるのは大豆に含まれるタンパク量と収穫後の経時変化による酸化度です。豆腐原料として優れた大豆はタンパク質量が多いことが求められています。これによって凝固剤と反応するタンパク質が多くなり、力強い豆腐を作ることが出来ます。また大豆は生き物ですから秋に収穫された大豆が穀物倉庫の中で長く保管されていると自分の呼吸作用のために品質が劣化していきます。これらの劣化を補うために品種の選択や保管方法の改善などが行われているのです。
また原料大豆が国産大豆か輸入大豆かに気を付けている人もいるかもしれませんが、これは果たして豆腐の味に影響しているかどうかは難しいと思います。実際に豆腐製造時の豆乳濃度を同一にした両者を食べ比べてみないと正確にはわかりませんが、現代の食品大豆の品質レベルから考えると国産・輸入の差を指摘することは難しいと思います。「遺伝子組み換え大豆でない」の表現に注意を払っている人もいるかと思いますが、その人は搾油用大豆と食品用大豆を混同して見ているのかもしれませんね。輸入されている食品大豆は海外の農家と国内の食品会社が直接栽培契約を結んでおり、その輸送ルートも他の大豆と混じらないように注意して輸入しているものばかりです。輸入作業中のコンベアーやサイロでの混入の危険は残っていますが豆腐の味に影響するとは思えません。むしろ、豆腐の品質に影響を与えているのは、どんな凝固剤を使って豆腐を凝固させているか、にあるのではないでしょうか。
凝固剤について
現在よく使われている凝固剤は、にがり(塩化マグネシウム)、硫酸カルシウム、すまし粉(硫酸マグネシウム)、グルコノデルタラクトンなどが主なものです。これらは豆腐の味に影響を与えるだけでなく、それぞれの凝固力も凝固スピードも違うので豆腐に微妙な風合いの差を生み出しています。現在店頭で最も多く見かけるのは「にがり」を使った豆腐です。現代の豆腐には「にがり」がそれだけ多くの消費者の支持が得られているのだと思います。ところがこのニガリには第二次世界大戦の前後における混乱で大きく振り回された歴史があり、さらに豆腐を求める消費者を巻き込んだ苦難の時代を経てきているのです。では凝固剤にはどんな変遷があったのか、我が国の凝固剤が歩んできた道を「豆腐の社会学」(黒田寛子)からその一部を紹介したいと思います。
私たちが近所のスーパーなどで豆腐を選ぶときには、その多くには「にがり使用」の文字が目に付きます。「にがり」とは海水から塩を作るときに残る“塩化マグネシウムが主成分の液体”のことを指しています。にがりは舐めると苦い味が口に残るので“にがり”と呼ばれるようになったと言われています。
はるか昔に豆腐を我が国に伝えた中国では、広い国土の多くは海岸線から遠く離れており、海水から得られる「ニガリ」を容易に手にすることは出来なかったはずです。だから中国で豆腐が生まれた頃の凝固剤は「岩塩から取り出したにがり」か「石膏」であったようです。 しかし、周りを海に囲まれている我が国では、海水からのニガリが比較的安易に入手できることからニガリによる木綿豆腐が当初より作られていたと考えられます。江戸時代の豆腐の料理本である「豆腐百珍」に紹介されている豆腐料理100種にうち87種類の料理は木綿豆腐を使ったものであり、それらはニガリで作られていたと考えられます。
ところが昭和15年(1940)になってニガリが急に豆腐屋の手に入らなくなってきます。それは太平洋戦争の切迫感とともにその深刻度を増してきています。昭和16年12月には「苦汁及ブロム配給統制規則」の制定を境に、ニガリの生産と配給は法律の上では政府の統制下におかれることになります。そして、昭和17年(1942)以降、ニガリが豆腐屋の手元に入ってこなくなったのです。その状況はこの表に現れています。
苦汁需給状況 単位 石 (日本専売公社塩脳部塩業課保存資料、引用論文より)
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苦り生産量 |
供出量 |
製薬用途 |
豆腐用途 |
その他用途 |
昭和13年 |
1,245,989 |
1,137,292 |
1,096,256 |
26,744 |
14,292 |
昭和14年 |
1,540,222 |
1,346,417 |
1,286,192 |
15,166 |
45,059 |
昭和15年 |
1,445,478 |
1,318,661 |
1,244,906 |
23,806 |
49,949 |
昭和16年 |
903,994 |
810,072 |
795,300 |
8,883 |
5,889 |
昭和17年 |
928,239 |
841,450 |
841,450 |
― |
― |
昭和18年 |
891,367 |
781,002 |
781,002 |
― |
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戦争が始まってしまうと多くの若者は戦地に出ていってニガリの生産量が減るのはわかりますが、製薬用途以外のニガリはどこへ行ってしまったのでしょうか、それを示す1944年4月13日付の『朝日新聞』の記事があります。そこには「苦汁は大切な航空原料」と題された記事がイラストと共に掲載されています。ここでは、塩田から苦汁、臭素、加里塩、塩化加里、金属マグネシウムを矢印でつなぎ、それらと飛行機、爆弾、肥料のイラストを関連付けることで、視覚的にもニガリが戦争協力につながることが示唆されています。つまりニガリから生み出されるこれらの物質が緊迫する戦況下において重要であるとしているのです。
こうして豆腐の凝固剤としての苦汁が手に入らなくなったことにより、新たに凝固剤として登場するのが「すまし粉」だったのです。この頃になると戦火も身近に迫り、豆腐用の大豆も入手困難になり、豆腐の風味にこだわる状態ではなくなっており、凝固剤がすまし粉に変わったことを指摘する声もなかったことでしょう。そしてこの状態は終戦後しばらくの間続いていくことになります。すまし粉による豆腐製造のほうが失敗が少ないこともあり、製造業者もすまし粉から帰る動きが出てきませんし、消費者の舌もすまし粉の味に慣れていたことなどの理由から戦後もすまし粉が主力の凝固剤になり、にがり豆腐は過去のものになってしまいました。
しかし、近年になってにわかに「にがり」の健康ブームが起こりました。テレビでにがりによるダイエット効果が取り上げられたことがきっかけとなったのです。それは我々地球に住む生命体は海の中で生まれた歴史があり、我々の血液の成分も海水の成分に似ているほどだ、だからにがりは体に良くて万病に効くはずだ、というものでした。そして次々とにがりによる健康商品が登場してきました。2004年になって独立行政法人国立健康・栄養研究所がそのような科学的データーはないと否定してひとまずブームは収まりましたが、にがり豆腐へのこだわりは根強く残りました。現在は固体の塩化マグネシウムを使った豆腐にも「にがり使用」と表記できることから、ほとんどの「にがり使用豆腐」には本来の製塩にがりを使っていない豆腐になっているのが現状です。もちろんこれによってもマグネシウム摂取の健康効果は充分に期待できます。マグネシウムにはカルシウムが骨に沈着するのを助ける働きが知られており、さらに便秘解消の効果も認められています。
掲載日 2019.7