− 安東周辺 −
安東は駿府城から東側の周辺をいう。
安倍川が現在の流れに固定される前は度々氾濫を繰り返しながら賤機山近くを流れていた。
当時の中心市街地もその東岸にあって「安倍の市」と呼ばれ、それより東の地域を安東と称した。
[中町]
本通の突き当たりに中町の交差点が有り、中町ビルが建っている。中町ビルには四ツ足門跡が残っている。
かつては外堀の西端がこの辺りにあったが今は埋め立てられて中町ビルや静岡病院が建設されている。
ここから安東方面へ出かける。
長谷通り、麻機通りを通って臨済寺に寄って安東の記念碑まで行き長谷通りに戻ると約5.5km程の道のりとなる。
本通周辺のページへはこちらをクリック。
浅間神社へ向かうページへはこちらをクリック。
[外堀]
外堀に沿って200mほど行くとNHKがある。
ここを左に曲がったところに稲荷神社がある。
[二加番稲荷神社]
市街地には稲荷神社が多い。由緒の看板があるので読んでみる。
<二加番稲荷神社>
祭神三社 豊受毘売命・猿田彦命・天鈿女命
<由緒>
駿府城は寛永8年以後は城主を置かず「城代」によって統治され、城外守衛のため「加番」という役が置かれた。
当初は二加番屋敷の跡で、その守護神として稲荷神社が祭られた。当社を鷹森稲荷と称されたのは、この付近を流れた安倍川のほとりに鷹が集まった森があった故という。
一加番(鷹匠町1)三加番(東草深町)にも夫々稲荷神社が奉祭されている。
明治維新後は西草深町の産土神として遠近より崇敬されて今日に至った。加番屋敷には馬場・的場・火の見櫓などがある。
[西草深・二加番稲荷]
この稲荷神社の周辺は西草深町の中心に位置し、住宅地として人気が高い。
<西草深町>
駿府城の建設以前の安倍川は幾筋も分かれて流れていたが、その東よりの筋がこの草深辺りを通って南安東村方面へ流れており、草が生い茂っていたことからこの名がある。
徳川家康が町割りと称する区画整理のような事業を行わせた「駿府九十六ケ町」の一つとして数えられていた草深町がその前身。
[西草深・徳川慶喜公屋敷跡]
二加番稲荷神社を北に400mほど行くとポケットパークがあって、石碑が立っている。
<徳川慶喜公屋敷跡(西草深ポケットパークの碑)>と彫られている。さらに説明文もある。
「徳川15代将軍慶喜公は1889年3月から1897年11月まで8年余この地にお住みになった」と彫られていた。
[御器屋町]
ポケットパークの200mほど西の道路脇に「御器屋町」という道標がある。
いわれが書かれていたので読む。
<駿府96ケ町のうち御器屋町>
御器屋町の町名は江戸時代初めに御器(食物を盛る蓋つきの椀)を作る職人が居住したことに由来するとされています。
「元禄5年駿府町数井家数人数覚帳」によると御器屋町の家数は27軒半、人数193人を数えました。
江戸時代の地誌「駿国雑誌」には、徳川家康公が駿府に在城していた当時、この町の職人の手による「浅木御定器」を献上していたと記されています。御器の献上は徳川頼宣公(家康公の10男)・忠長公(3代将軍家光公の弟)の時代もつづき、このことにより諸役御免の恩恵を受けていました。
また、町内にはかつて以心寺という寺院があり、現在の安西小学校の前身として寺小屋教育が行なわれていたと言われています。
現在、御器屋町は西草深町・宮ケ崎町の一部となっています。
[御器屋町]
御器屋町の道標の横に子安観音の石碑が立っている。石碑脇に階段があって2階に祀られているようだ。
[外堀]
外堀まで戻って堀に沿って進む。
[外堀]
西草深町交差点の信号を右折し、堀に沿ってさらに進む。
[東草深・三加番稲荷]
間もなく稲荷神社が見える。
<三加番稲荷神社>
祭神 保食大神(うけもちのおおかみ)
祭日 春分の日、秋分の日
<由緒>
寛永8年に駿府城主徳川忠長が将軍の勘気に触れ蟄居を命ぜられての後は駿河の国は幕府直轄領となり、駿府城には城主を置かず城代・定番が勤める番城となり定番の下に小大名又は旗本の中から、加番を勤番せしめ城外の警備にあたらしめた。
慶安4年の由井正雪の反乱があっての後は従来の一・二加番に加えて三加番が増設され東草深にその屋敷を設けると共に邸内の守護神としてこの三加番稲荷神社を鎮祭し、代々の加番は深く崇敬して毎年2月初午に盛大な祭典を行い又石灯籠鳥居等も数多く奉納された。
明治維新に至り加番屋敷廃邸後は東草深三ケ町の鎮守となり明治11年3月政府公認の神社として存置を許可され後に水落町2丁目も氏子に加わり一般町屋、遠近の人々から深く信仰されるに至った。
<御神徳>
保食大神は伊勢の外宮に奉祀する豊受大神と御同神で人間生活にいちばん必要な食料と衣料をお恵み下さる神である。古歌に、「朝夕の箸とるごとに保食の神の恵みを思へ世の人」とある。
又福徳円満の神、商売繁盛の神として最も信仰される神である。
[東草深・三加番稲荷]
この三加番稲荷周辺は東草深町という。
<東草深町>
西草深町と同じく「駿府九十六ケ町」の一つとして数えられていた草深町がその前身。江戸時代の中頃までは上草深町・下草深町に分けて呼ばれていた記録がある。
[三加番稲荷神社]
神社の通りに面した所に駿府城のイメージ絵が掲げられていた。
「在りし日の駿府城(1608)」「絵じゃないと残せない静岡がある」「100年をかけて「平成の駿府城」をつくる会」と書かれていて、再建を望む声が聞こえるようだ。
[外堀]
外堀をさらに進むと堀の中から来る道との交差点に出る。
ここを左折して進む。
[外堀]
外堀から離れて進むとアイセルという女性会館と生涯学習センターのピンク色した建物が見える。
[長谷通・熊野神社]
さらに進み長谷通と交差する信号を超えると城北通りとなり、間もなく小さな森が見える。熊野神社だ。看板を読む。
<熊野神社>
<祭神> 伊邪那美命 速玉之男命 事解之男命 <合祀神>武内宿禰命 大山津見命
<由緒>
創建の年月日は不詳であるが、和銅4年(711年)の棟札が現存しているので今から1200年以前にはすでにこの地に奉斎されていたことがわかる。
紀州の熊野那智大社に永正3年(1506年)駿河の国安東庄熊野官造営木材取料散用状、永正年安東熊野官棟上料足散用状等の古文書が所蔵されているのをみると古来熊野3山との関わりが深かったことが推測される。
当神社は昔は相当大社であったという。駿河国新風土記には「この社古くは大社にして社人・社僧もあまたありしといふ」と記載されている。
慶長12年(1607年)9月紀州新官城主浅野忠吉が当神社の本殿を建築しその後も幾度か修理の費用の寄進があった。奉納社殿の棟札関係文書等保存されている。
当神社は昔から蝮蛇除の神として信仰された。天明8年(1788年)京都に大火があり皇后も炎焼して聖護院に仮御所が設けられたが度々蛇が出てお困りになった。禁裏・仙洞御所より当神社の蝮蛇除の神符奉るよう命がありこれを献上し白銀一封が下賜された。御初穂の包紙文書等は今も神社に保存されている。
明治維新後、静岡に閉居した15代将軍徳川慶喜公は当社へ木造の鳥居1基を奉納した。
明治8年2月静岡県第5代区1小区の郷社に列し、大正13年3月神饌幣帛供進神社に指定された。
当神社は古来安倍郡北安東村の産土神で、この北安東村の地域は現在の安東1丁目、2丁目、3丁目、長谷町、安東柳町、北安東1丁目、2丁目、及び城東町の一部であり、今もこの各町の氏神として崇敬される。
外県下遠近の人々より広く信仰されている。
[長谷通・熊野神社]
普通の造りの神社だが、取り巻く空気は厳粛な雰囲気を作っている。このあたりは「安東1丁目」。旧安東村の名を取っている。
<安東一丁目>
長谷通りの北東に面した町内が1丁目。城北通りを北へ進むと2丁目、3丁目となる。
江戸時代以前には、安倍川の東側に位置していたから呼ばれた。西側に位置していた安西と対比して呼ばれていたようだ。
[長谷通]
長谷通りまで戻って西へ向かう。古くから商店街として栄えた。
通りの北側が安東1丁目。南側が東草深町。
[長谷通]
安東方面から外堀へ向かう一方通行道路と交差する信号を越えてさらに長谷通りを進む。
[長谷通・駿府薬園阯]
静清信用金庫の前に石柱が立っていて「駿府薬園阯」と書かれている。
家康は薬草にこだわりをもっていて、かなりの博学だったと伝えられている。
そして、このあたりに江戸幕府直営の薬草園が創設された。家康の没後一時衰微したが、享保11年(1726)に拡張・整備され、海外渡来の薬草も栽培するようになったが、幕末の元治元年(1864)に廃止された。
[長谷通・国分僧寺阯・国府阯]
駿府薬園阯から100mほど西へ進んだ信号がある交差点の角に石柱が立っている。
「向かって 右 国府阯 此の奥26m 左 国分僧寺阯 此の奥 30m」と彫られている。
[長谷通・国分寺]
石柱から20mほど西の細い路地を入った所に「龍頭山 国分寺」という真言宗醍醐派の寺がある。
奈良時代に全国へ造ったとされる国分寺とするとかなり寂しい寺ではあるが、どこにも説明がないので謂れはわからない。
長谷通りにある石柱からすると国府だった国分寺の名残りなのかもしれない。
最近の発掘によって、国分寺は大谷の片山廃寺跡が国分寺だったという説が有力になっているが、その他の史跡の存在などを考えると、場合によっては時代を変えて両方とも存在したのではないかと思う。
国分寺は長谷通りの中心となる長谷町という住所にある。
<長谷町>
東海道が整備され、駿府の中心が伝馬町周辺へ移る以前に駿河の国府庁舎が置かれていたことから、「庁や」と呼ばれ、「長谷」と字を当てられ、後に「はせ」となったといわれている。
国府があったという説には異論があり、今では大谷の片山廃寺跡が国分寺だったという説が有力になっている。
[長谷通]
長谷通りはこのあたりから浅間町1丁目と西草深町との間を通り、浅間神社に向かう。
<浅間町>
この町名は文字どおり浅間神社の前にある町であることから名づけられた。
[長谷・天神湯]
昭和の現風景。銭湯が今でも営業している。
[長谷通]
長谷通りは間もなく浅間神社に突き当たる。
[長谷通・志木家]
通りの北側に「しき」という美容室と化粧品店がある。
浅間神社の主祭神である神部神杜の創建以来幕末まで代々神主を勤め、90代も続く旧家の志木家がこのあたりに住んでいるということで近所を探してみたがこの家しか見当たらないことから、この家が末裔と思われる。
[長谷通・駿河総社宮内神社]
「しき」の脇に小さな神社がある。
[長谷通・若宮八幡宮]
「しき」の裏に若宮八幡宮がある。この神社も志木家ゆかりの神社と看板に書いてあった。
<八幡宮> 通称若宮八幡宮
<御祭神> 誉田別命 稚日女尊 大己貴命
<相殿祭神> 奥津嶋比売命 市杵島比売命 多岐都比売命
<例祭日> 10月16日(10月16日に近い日曜日)
<御由緒>
創建の年月は確実にはわからないが、社伝に依ると、人皇十代崇神天皇の7年(西暦91年)天社國社の制が定められた時、駿河の国の神部神社の神主を命ぜられた志貴家の祖先大和國磯城郡(しきぐん)から当地に赴任し、此処に居宅を構え邸内に稚日女尊、大己貴命を勧請鎮座したのが、この神社の創祀といわれる。後に誉田別名と併せて奉祭し若宮八幡宮と称するようになった。
徳川家康公駿府社城の頃は鷹狩等の途次屡々神主邸に立寄り大楠の木陰で休息されたと伝えられている。
この神社は後に宮内村(現在の浅間町)の氏神として町民の信仰厚く明治8年村社に列した。
<境内>
414坪ある。
境内の楠の大樹は推定樹齢2000年周囲10m余り、静岡市指定の天然記念物である。
[長谷通・若宮八幡宮]
もう一つ別の看板が立っている。
社伝に依ると第十代崇神天皇の御代、駿河惣社(現在の静岡浅間神社の内の神部神社)の神主を人命を受けた志貴氏(境内南側に現住)は大和國より赴任し、ここに邸宅を構え守護神として若宮八幡宮を奉祀したと言われる。
この樟の大木は若宮八幡宮鎮座の時既にあったものか、あるいは鎮座の後に植えられたものか詳らかでないが、推定ます樹齢は一千年をはるかに超すものと思われる。
志貴家の伝えに「この樟は永禄12年の武田に依る兵火にも樹勢を損せず、其の後徳川家康公駿府隠楼後この老樟を愛し、しばしば訪れて樹陰に憩ったと言われる。
天保6年(1835年)新庄道雄編の駿河国新風土記に「惣社神主宅は浅間惣社総門前東の角にあり、宅地に若宮八幡の社あり、此社なる樟太さ廻り67間、堅実にして枝葉繁茂す、いずこの老樹も必ず朽ちたる所あるもの多けれども、この樹の如きもの、府の辺に此なし」と記され、又、弘化2年(1845年)駿河名木番付にこの樟は東の小結の位置を示している(この番付にのる24本の内、現存するものは、この樟以外殆どない)こうした古記録等よる見て百数十年以前既に駿河国仲の名木として知られていたことが明らかである。古来「子育ての樟」「不老長寿の樟」としての信仰もある。
目通周囲10.2m、樹高22m、枝張東西26m、南北33m
昭和50年12月18日静岡市天然記念物に指定された。
※新しい看板に「現在、落雷等により幹の中央部が空洞化しているものの樹勢は良好である。」とある。
[長谷通病関天王社]
若宮八幡から東へ200mほど行った所に社が建っている。
説明書きを読む。
今より約100年前、即ち明治41年6月、当時は安倍郡安藤村北安東小字柳小路と称し農家12戸の小村なりしが伝染病流行し村人は農業を忘れて予防壊滅に努めしが殆ど全戸に蔓延し
忽ち患者30余名を出し隔離収容の避病舎を増築し、交通は遮断せられ衛生思想幼稚な為め只々恐怖し往来する者すら他を迂回する状態なりし時村人相諮り神佛の加護を領の外他に託する術なく
村人の代表石割清次郎石割忠次郎の両名は麻機村北小山最勝不動尊修行者なる高井善證師を小笠郡中内田村御門の松本君平宅に訪れ病気平癒の祈祷を懇請したる処
快諾せられ此処に創めて病関天王社を当地に御祀りする事に相成り同年6月13日神霊を御遷座申し上げ集って祈念したる処
忽ち悪疫魔を駆逐し死亡者もなく終息す
爾来信仰する者年と共に増加し今日に到る
?(アン)病関マニヤソワカと3回唱えて禮拝すべし
平成14年9月 安東柳町祭典委員
[石鳥居]
長谷通りに戻る。もうそこには石鳥居があり、浅間神社の入口なのだ。
浅間神社のページへ向かうページへはこちらをクリック。
[西草深公園徳川慶喜公屋敷跡看板]
石鳥居のすぐ脇に西草深公園がある。第15代徳川将軍の徳川慶喜公が明治になってから住んだ屋敷がこのあたりにあった。説明看板があるので読む。
<徳川慶喜公(西草深公園看板)>
「草深町」は、「駿府96ケ町」の一つで、現在の西草深公園の東側に、二筋の通りに面して一画を占めていました。明治6年(1873)に一帯の武家屋敷を含めて「西草深町」となり、昭和44年に御器屋町などを併せて現在に至っています。
駿府城に近い草深町の近辺には、慶安4年(1651)に駿府城の警護や城下の治安維持にあたった加番の一つ「二加番」や与力・同心などの武家屋敷が配置されていました。
草深地区には江戸時代初期に徳川家康公に仕えた儒者「林 羅山」の屋敷があり、また明治維新期には静岡学問所頭であった向山黄村をはじめとする学問所の著名な学者が名数居住していました。
西草深公園には浅間神社の社家の屋敷があり、明治2年(1869)6月に静岡藩主となった徳川家達公が社家新宮兵部の屋敷に移り住みました。
徳川幕府第15代将軍徳川慶喜公葉、大政奉還の後慶応4年(1868)2月から謹慎生活に入り、同年7月に駿府宝台院に移り住みました。
宝台院での謹慎生活が解かれた慶喜公は、明治2年(1869)に紺屋町の元駿河代官屋敷に移り、さらに明治21年(1888)には西草深町に屋敷を構えましたが、東京に戻る明治30年(1897)まで政治の世界を離れ、一市民として過ごしました。
静岡での慶喜公は、狩りや写真を好み、油絵をたしなみ、明治10年代から自転車を購入して市内を乗り回って市民の話題となるなど、多種多様な趣味と共に西洋的な生活を謳歌した当時の最先端を行く文化人でもありました。
中でも静岡で習得した写真撮影の技術から生まれた作品は、各地の風景、生活ぶりを伝える貴重な歴史資料ともなっています。
慶喜公が東京に戻った後の徳川邸は「葵ホテル」となり、さらに、明治37年(1904)には日露戦争の捕虜収容所の一つとして使われましたが、同38年に施設内から出火し焼失してしまいました。
[西草深公園万葉副碑]
西草深公園の片隅に万葉副碑がある。
焼津べにわが行きしかば駿河なる安倍の市道に逢いし衆らはも 春日蔵首 老
万葉集は日本最古の歌集で奈良時代「西暦700年代の文芸の華であるその巻三推歌の中に静岡の古名「阿部の市」の名が見出される。これがわが静岡市に関する唯一最古の文献であり万葉集とともに市の名を千載の後まで留めるのがこの歌である。
歌の作者春日蔵首老は和銅年間常陸国「茨城県」に役人として在任した人であるからこの歌はその旅の途次静岡を通過して詠んだものであろう私たち万葉を愛しふるさとを愛するもの相謀ってここに碑を建ててその由緒を託しふるさと人に捧げるものである。
昭和36年3月 大石徳四郎 森豊 青山於菟
[麻機通り]
浅間神社から北上する通り。
麻機へ通じることから麻機通りと呼ばれる。
[丸山町・東雲神社]
浅間神社の北に隣接して東雲神社がある。小さな神社だが歴史はあるようだ。由緒の看板が立っていた。
<静岡東照宮 東雲神社>
東雲神社は古くから「丸山の権現さん」として親しまれてきた「東照宮」であります。創建は元和8年と伝えられ、「駿国雑志」や「安東村村誌」によれば駿府城内にあった「東照宮」を現在地である府中浅間神社(現静岡浅間神社)の別当、惣持院境内に移したものと伝えられています。
惣持院は明治元年の神仏分離令により廃寺となりましたが「東照宮」は明治8年2月18日、村社に列せられ、同33年、村内にあった八雲神社を合祀し「東雲神社」と改称しました。
御祭神は「東照宮徳川家康公」「速須佐之男命」のほか「天神社」「稲荷社」が祀られています。
宝物として寛永20年に3代将軍家光公の武運長久を祈願して作られた「東照公御尊像」のほか「慈性親王筆東照宮額」「36歌仙額」「駿府城代武田越前守信村奉納釣灯篭」「備前長光作脇差」などがあります。
「丸山」の地名は家康公が大御所として駿府城在城中の慶長年間、鷹狩のためこの地を訪れ、その趣が京の円山に似ているとして名付けられたものです。
[丸山町・東雲神社]
東雲神社の入口に再建してから間もない門が建っている。
お社は見つからないが再建中なのだろうか。
[東雲神社]
石柱が立っていて「猿田彦大神」と彫られている。
[丸山町・太田道灌嵯峨流名園]
東雲神社から太田道灌の嵯峨流名園を覗く。
[太田道灌嵯峨流名園]
街道沿いに入口があるが近代的な門は閉じられていて静岡鉄道の管理地の表札が書かれている。
以前は料亭の喜久屋があって、手入れされている庭を愛でることができた。10年ほど前に知り合いの送り迎えで利用させてもらったことがあったが、この庭は太田道灌が造ったといわれていた。
[麻機通り]
嵯峨流名園は柵で囲まれていて高いところから覗かないと中は見れない。庭園前からこれから進む麻機通りを見る。
[麻機通り]
城北公園を右手に見ながら進む。
城北公園は元静岡大学の跡地にできた。旧制高校時代に中曽根元総理が通っていたことがあるらしい。
[麻機通り]
麻機通りから臨済寺へ向かう参道。
ここは大岩町。
<大岩町>
この山麓あたりの下には岩盤となっていることから大岩の地名となったらしい。
浅間神杜前を通っていた安倍川の流れの一つは臨済寺の前あたりまで流れていて沼を作っていた。
臨済寺の参道の回りも大正時代までは沼田だった。
[臨済寺]
手入れが行き届いている格調高い寺だ。
<庭園の看板>
庭は本堂書院の背後にせまる賤機山の峠へかけ3段となって築かれ雄大な景観をもっている。皐月の頃は百花繚乱さながらゴブラン織をのべたような美しさで秋はまた全山紅葉して、その眺めは筆舌につくしがたい。山麓には細長い流れを通して池泉となし書院から嶺の茶室無想庵へは長い廊を架けわたして互をむすび庭の形式は池泉廻遊式となっているが、すこぶる変化に富み、まことに東海第一の名庭といっても過言でない。桃山末期より江戸初期へかけて完成をみた庭であろう。おそらくは当山四世鉄山和尚の好みである。(西村貞先生の文より)
[臨済寺]
先ずは仁王門が出迎えてくれる。入口の脇に寺の説明書きが書かれている。
臨済寺(大竜山臨済寺)
臨済寺は、今川義元の兄氏輝の菩提寺で、義元の軍師大原雪斎長老が、師の大休禅師を迎え開山した。
雪斎は、今川義元の執権職として、帷幕(軍議する場所)に縦横の機智を振るった人である。義元が、駿、遠、三の太守として東海に勇を振るったのも、雪斉の力によるところ大で、この時代がまた、今川家の最盛期でもあった。
徳川家康は、竹千代時代の天文18年(1549年)8歳のときから、今川家の人質としての12年間、この大原雪斎から文武両道を学んだのである。後年、家康が天下を治め徳川300年の基礎をつくった素地は、この幼年時代に培われたといえる。
雪斎は弘治元年(1555年)10月10日、60歳でこの世を去った。雪斎の没後5年の永禄3年5月、桶狭間の合戦で義元が敗死すると、今川家の勢力は急激に衰えやがて滅亡する。今川家は雪斎によって興り雪斎を失って衰亡したといえる。
境内墓地の最上段には、氏輝公と雪斎長老の墓がある。
主な文化財 庭園(国の指定名園)、大方丈(国の重要文化財)
[臨済寺]
仁王門には文字どおり仁王(金剛力士)が立っている。
開口しているのでこちらが阿吽の阿形(あぎょう)像だろう。
阿吽の呼吸の「阿」の方だ。
[臨済寺]
こちらの金剛力士像は口を結んだ吽形(うんぎょう)。
仁王門の上に見える「大龍山」と書かれた額はコ川慶喜公の筆と言われている。
[臨済寺]
新仏堂は木目が美しい。平成になってからの建築なので、まだ輝いて見える。
30年も経つと有り難みが増してくるだろう。
[臨済寺]
石碑や石像が配置されている。
どれも手入れが行き届いている。
[臨済寺]
正面に本堂が出迎えてくれる。
国の重要文化財に指定されている。
[臨済寺]
本堂を正面に見て右に鐘楼がある。
[臨済寺]
ここは座禅堂。
この臨済寺はここまでは一般の参拝を受け入れてくれるが、この奥には特別な人や特別な時期にしか入る事が禁じられている修験道場なのだ。
[臨済寺]
ひと回りして帰ることにする。
[臨済寺]
門を出た所の池をながめながら臨済寺を後にする。
[麻機通り]
臨済寺から麻機街道へ出てもう少し北上する。
[大岩・天徳院]
大岩3丁目の山際に天徳院がある。
「第16番梅花観音霊場 神谷山 天徳院」とある。
[大岩・天徳院]
この天徳院も落ち着いた立派な本堂を有する。
[安東記念碑]
麻機街道へ戻り街道を渡り、安東方面へ向かうと耕地整理の記念碑がある。
この先に城北高校がある。
[安東記念碑]
記念碑から市街地を臨む。
約1kmで長谷通りの真ん中あたりへ戻ることができる。
−コメント−
中町の交差点から長谷通り、臨済寺を通って安東の記念碑まで約5km。
記念碑のある安東からどこも寄らずに中町へと帰ると約2km。
戦国時代以前に栄えた町を巡った。今は市内で人気の住宅地となっている。