回想録「オホーツクの大地に生きる」から


 十八、芭露ハッカ (124頁)



 夏も過ぎ秋になるとハッカ刈りが始まる。一掴み刈ると右にむけ、又一掴み刈ると左に向けて交互に重ねて置いていく。
 ある程度重ねると次の個所に同じように造っていく。夕方になると畑一杯に小山が出来る。ハッカはしんなりして扱いやすくなる。
 これを決められた長さに切られた縄で編んでいく。縄の先に結びを作り、くるりと手前の縄に重ねて輪を作り、この輪の上にハッカを左右に一掴みずつ重ねて編んでいく。最後に吊すための輪と結びを作り、編み始めた方からくるくると巻いて最後に残した輪と結びを一緒にして編み目に挟んでおく。これを一連といっていた。これをハッカ小屋に運んで一連ずつ吊すのです。吊す時はウエイトリフティングのように下から持ち上げる人と、上から縄を引っ張りハセに引っかける人とのタイミングと呼吸が重要で、一日の農作業の最終段階ではかなりの重労働でした。
 雪が降る頃になるとカラカラに乾いて本当に良い匂いがした。
 他の畑作物が片づくとハッカ製造が始まる。吊されたハッカを降ろして結び目の縄を引っ張るとバラバラとほどける。この縄を四つに折り、ほどいたハッカを一束に縛り直す。こうしてハッカの束で小屋は一杯になる。
 いよいよハッカ製造の段階となるが、製造場は大農家が保有しており、我が家では本家に運んで共同作業をしていた。 
 大釜は半径が四尺六寸もあり、その上に九尺四方の大きなセイロを乗せる。セイロには大人が三人ほど入り、足で踏みながら詰め込んでいく。下から持ち上げるのも大変な作業だった。

 地下に釜戸があり、大量の薪を投げ入れて蒸気で下から蒸し上げる。蒸気は釜の上に設置されたパイプを経由して水槽で冷却され液体として抽出される。ハッカ油は軽く上に浮き上がるので水と分離して一斗缶に詰められる。
 釜や冷却用に大量の水が必要で、当時は水道もなかったことから、沢水を鉄管で引いてきて使っていた。
 蒸し終わると天井の梁に付けられた滑車を使ってセイロを吊し上げる。ロープを大勢の人力で巻き上げるとセイロが持ち上がり、すっかり油の採られたハッカの穀がもうもうとした湯気の中から顔を出す。暑くて直ぐには触れない。この殻は又、縄で縛られ冬の間、馬など家畜の餌として使われた。
 釜焚きには昼夜休むことなく薪がくべられ、いつも真っ赤に燃えていた。
子供達が学校から帰る頃を見計らって、大きなカボチャを二つ割にして火の中に放り込む。長いデレキの先に爪が付いていてカボチャをブスリと刺して取り出す。表面は真っ黒に焦げているが、皮を剥くと湯気とともに美味しい匂いがプーンと辺り一面に広がってくる。
 徹夜作業を含めて数時間毎に入れ替えを繰り返すこととなるので、終わるまでは寝ることもできない。居眠りしてセイロから落ちそうになったこともある。夜食の田舎饅頭が楽しみだった。
 季節になると村中にハッカの香りが漂い、あちこちで共同作業が進められ活気がみなぎっていた。
 全盛時代に北見ハッカの生産量は世界の四割のシェア誇っていたという。潮風にあたらない内陸の気象条件や満足な道路もない時代に、一町歩の収穫物を一缶に納めて冬に馬橇で運搬できるということなどがハッカ産地の所以と聞く。蒸留された油は北見にある工場に出荷され、そこで結晶に精製されて世界中に流通されていた。
 しかし、世界的な産地として興隆を誇った芭露ハッカも、昭和三〇年代に入ってブラジル産や合成ハッカの普及によって競争力をなくし、急速に衰退して他の畑作や酪農に経営転換され村の風景は一転してしまった。