回想録「オホーツクの大地に生きる」から
一、父(兵五郎)北海道へ入植(18頁)
(一)我が家について
我が家は福島県の奥座敷と言われる飯坂温泉に近い、「福島県信夫郡大笹生村」(現在は福島市内)にあり、阿武隈山系の山林を保有し、奉公人を使用する大農家だったという。
明治時代、私の祖父市左衛門は木材業として鉄道省と取引があり、当時最盛期だった国鉄東北本線工事に際しては、線路の枕木を一手に引き受けるなど家業は大いに繁盛していた。
(二)入植の動機
昔の木材の運搬は河川を利用しており、山から切り出し
た材木を筏に組んで阿武隈川の洪水時に流送して下流で受
け止めるというものだった。
明治末期、その年は大雪で春は未曾有の融雪洪水とな
り、木材を貯蔵した貯木場のアバが切れて全て太平洋に
流してしまったという。
そのため木材業は倒産し、山林、田畑なども人手に渡
ってしまった。
長男だった父兵五郎は当時33才、弟に両親の面倒を頼
み、北海道開拓で一旗あげようと渡道を決意し、四人の子
供を連れて明治39年故郷を出発した。
北海道の北部、名寄までは船と汽車を乗り継ぎ、そこからは逓停を使って紋別まわりで海岸沿いに湧別まで。植民地東地区の知人、O.Kさんの家に到着するまで実に20日を要したと聞く。当初は湧別港の荷揚げ(ハシケ)で働きながら生計をたてていたが、大正3年にハッカ栽培のために芭露に入植した。
当時の金で壱千円にて五町歩余を買い、開墾に着手したのが上芭露の本家の現在地である。
(三)開拓生活について
開拓に入った芭露の沢は直径が一b以上ある巨木が生い茂り、昼でも暗い程で、熊も時々出没するような有り様だった。
芭露出身の作家、金子キミさんの小説「藪踏みならし」に出てくる生活そのものだった。
まず掘っ建て小屋を建て、屋根や壁はエン麦の藁、暖房は土間の焚き火だけという生活だった。隙間からは風だけでなく雪も入ってくる。吹雪の夜などは朝になって目を覚ますと、布団の上に雪が三寸(約九p)も積もっていることがあった。
それでも原生林を切り倒し、一鍬ずつ開墾して農地を広げ、薄荷を中心に栽培面積を増やした。その間、子供達も成長して農作業を助け、薄荷相場も良く、農業経営規模を拡大して、昭和2年頃には家屋も新築して上芭露一流の大農家に成長した。
ところで父兵五郎の北海道入植時の本音は、御家再建のために一儲けして故郷に錦を飾ることで、北海道に永住する気はなかったようだ。
しかし、内地から連れてきた四人の子供達に加えて、北海道に来てから四人が生まれ、その末っ子が私なのであるが、八人兄弟はそれぞれ、姉は近くに縁があって結婚したり、兄は分家するなど地元に定着したために、父母は故郷に帰ることを断念した。
これが湧別町の我が家のいきさつである。
二、子供の頃(開拓時代)(22頁)
(一)私の故郷、上芭露
私は大正7年3月27日生まれ。8人兄弟姉妹の末っ子である。当時としては平均的な子供数であるが長女の姉とは20才も年が離れている。年長の4人は福島で生まれ親と一緒に北海道に来た。湧別では生田原の兄と柏の兄が生まれた。大正3年に上芭露に入植してからすぐ上の姉と私、宏が生まれた。
当時の上芭露は開拓の最中で交通機関もなく、湧別市街まで片道24qもあり、役場へ出生届けを出すため弁当を持参し徒歩で一日がかりで行って来たという。私が大きくなってから聞いた話では4月が本当の生誕月のようだ。何処の家でも子供は早く卒業させ開拓の労働力として期待されていた。
私にとってはこの上芭露が、生まれ、育ち、その後の人生の殆どを過ごした私の故郷そのものなのである。
開拓時代はストーブもなく焚き火で暗かった。飯は鍋を自在鍵に引っかけて炊いた。
私が3才の頃、村中にハシカが大流行して多くの子供が死亡した。
道路向かいで農業をしていたT橋さんでは私と同じ年齢のH松という子供がいたが、重いハシカにかかって亡くなった。
私も感染し、危なかったらしいがかろうじて助かった。幼少の頃で私には記憶がない。
(中略)
(四)当時の生活
私が小学生の当時は自給自足の生活で、主食は麦飯、イナキビ、芋、トウモロコシ等であった。それでも農業のお陰で腹一杯食べることが出来た。瓜や西瓜なども沢山採れ食った記憶がある。
今にして思えば殆ど農薬も使わず安心安全な食生活で、今日まで健康でこれたのもそのお陰かもしれない。
隣近所は仲良く、皆で助け合い、子供も沢山いて、一戸から五人六人と小学校に通学して賑やかだった。吹雪になると馬に馬橇を引かせて道付けや送迎をしたと聞いている。
当時は家の裏山の高台を開墾しており、家族総出で原始林を伐採し、背丈ほどもある熊笹を大きな丸鍬で一鍬ずつ起こす人海戦術だった。
農地を広げるため伐採した雑木に火をつけると山火事の危険があった。本家の隣に住んでいたH.kさんの家は茅葺きだったため全焼してしまい、しばらく我が家に宿っていたことがある。
私は八人兄弟姉妹の末っ子だったので、小学校に入るまで母に抱かれて寝たことが忘れられない。
母は六十五才の時、子宮癌で亡くなった。私が嫁をもらうまで生きていたいと言っていた。軍隊に行っても死なずに帰ってこれたのは、母の御加護が有ったからと思っている。
(五)当時の上芭露の市街
開校八十四年誌には上芭露市街の住宅地図が掲載されている。私の生まれた大正七年から支那事変頃までは景気が良く、戸数も百戸余りとかなりのものだった。
薄荷生産が盛んで、薄荷の相場も当時は一貫目(今は一.二s)十七円五十銭前後が続き、薄荷御殿も数々残っている。上芭露市街は当時は上芭露十七号と言われ、下芭露(現芭露)、東の沢(現東芭露)、西の沢(現西芭露)、志撫子、計呂地、床丹との往来の基地として賑わった。 薄荷は価格の変動が激しく当時としては極めて投機的な作物であったため、多くの行商人や農産物の仲買人が繁く出入りし、特に秋から正月にかけてはハッカの産地市場を呈するに至り、芭露原野の中心的機能を果たす要衝の地であった。
市街地には、料理屋、飲み屋、劇場、木工場、旅館が二軒、蹄鉄屋が二軒、鉄工場が二軒、精米所が一軒あった。
公共機関では郵便局、病院、警察署が、お寺は宗派の違う寺が三カ所もあった。小学校は初めの二年間は東芭露、西芭露、上芭露に、尋常高等小学校は上芭露市街の高台にあり、芭露部落からも通学してきた。遠くの子供達は片道十q、往復二十q以上を歩いて通学していた。吹雪の日などは大変だったろうと思う。
今は静かな市街もかつてそんな全盛時代もあったと思い出している。

