回想録発刊にあたり(6頁)
人間とは何だろう。生きるとは何だろう。こういった疑問を抱いた人は多いだろう。一度も考えたことがないとすれば不思議である。
私も幾度となく人生の節目を経て生きてきたが、いつかは人生を完結することになるだろう。
兵役に出発する時は、これが自分の人生の節目かな、二度と故郷の土を踏むことはできないだろうと思った。
運良く復員できましたが、農業をする予定はありませんでした。家の事情でこうなったのも人生の節目だったと思います。
65才の時には腰痛でしばらく半身が動かせない状態となり、なかなか消えない痛みの中で人生の節目かなと考えました。
そして20年経って今回、3回にわたる大手術を受けて、今度こそ自分の人生の大節目(最後)かなと考えました。
最初は昔の腰痛が再発したものと思っていましたが、変形性で脊髄神経が圧迫され、難しい手術が必要と言われ、平成15年11月8日に手術を受けました。
幸い手術は成功し、一ヶ月ほどで痛みもなくなり抜糸しましたが、その後微熱が続き、胃の異変が判明。胃潰瘍と言われ平成16年1月21日、胃の三分の二を摘出しました。完治してから医者より胃ガンだったと言われました。
その後、過年度に事故傷害により変形していた肘も手術し、3月1日に退院しました。
長い入院生活で体力だけでなく気力もかなり衰えてしまった時期もありましたが、自宅で少しずつ運動し、徐々に回復してきました。先日、検査を受けたところ胃はかなり回復して大きくなり全治してきているとのこと。寿命がある限り生き続けられると信じている今日この頃です。
人間は人生の大きな節目に突き当たる度に、立ち止まり、ためらい、混乱したりするものです。そんな時、運命や自分の決断もありますが、家族や仲間の励ましを受け、その節目を乗り越えることができるのです。そしてまた新しい人生を歩み出すことができるのです。
最近、そんな自分の経験や生き方を文字に変えることは意義のあることだと思うようになりました。
地球上には50億以上の人間がいるなら50億通りの人生があり、誰一人として同じ人生を持っているわけではない。
私はその中で何の変哲もない一人かもしれないが、自分の人生や周辺のことを思い返して回想録を書くことにしました。
書き残すということ、これは人間にだけ与えられた特権です。そのことによって、人間は他の生物に持つことが出来ない歴史を築きあげたと思います。
我が家では昭和59年3月30日より三男が編集する親戚新聞「カミバロー」を発刊しており、いつの間にか150号を越えました。
時々、引っ張り出しては懐かしく読み返し、今では我が家の宝物の一つになっています。
私の原稿もかなりの部分を占めているのですが、考えてみると、その前の時代について私が書き残したものはあまり多くありません。
数年前より湧別町図書館でエッセイ教室を実施しており、年8回ですが出席するようになりました。
講師はK.T先生、K.K先生。遠軽高校を卒業して学校の教員をし、退職した小説家で短歌や小説も教えてくれます。
本誌は親戚新聞「カミバロー」、生きがい大学文集「潮流」等に夫婦で書いた原稿や、エッセイ教室で書いた文章に、新たに思い返しながら書き足し、回想録にまとめました。
私は8人兄弟の末っ子ですが、兄姉はすでに皆亡くなり、昔の事を聞く人もいなくなってしまいました。
病み上がりの高齢で、物忘れはする、老人性痴呆症に近い私ですが、多くの皆様の協力によってなんとか発刊する事が出来ました。
原稿執筆にご指導いただいたK.T先生、K.K先生、編集や資料整理、寄せ書きを頂いた親戚、そして息子達に心から感謝し、発刊の挨拶と致します。
平成17年8月吉日
S.H (米寿祝いの記念発刊)

父は大正7年3月生まれ、平成28年12月12日白寿(数え99歳)で永眠しました。
太平洋戦争では満州、樺太等を転戦し幾度も死を覚悟する経験をしながら生還しました。
戦後の農業情勢の大きな転換の中にあっても、農業は自分の天職であり現場で働き続けたいと言い切ってきた人生でした。
平成17年8月、 米寿の祝いを記念して父の回想録を編集しました。
「オホーツクの大地に生きる」と題して、北海道入植の経緯、地域の変遷、戦争体験、親兄弟のことなど大正、昭和、平成と生き抜いた人生を振り返りました。
A5版234頁

