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![]() 慶長5年(1600年)9月13日に豊後国速見郡(現在の大分県別府市)の石垣原(いしがきばる)で行われた 黒田官兵衛軍と大友義統軍による合戦の様子を再現したもの。 代名詞の赤合子を身につけ、輿の上で勇壮に軍配を振るう黒田官兵衛を忠実に再現しただけでなく 有名な井上九郎右衛門と吉弘統幸との一騎討ち、また隠れキャラとして名槍・日本号を振るう黒田軍の猛将・母里太兵衛など 黒田村の名にちなんだ黒田軍の武将達が、特徴の兜まで生き生きと彫り込まれている播州初の構図。 |
永禄4年(1561年)に千曲川と犀川が合流する三角状の坦地である川中島(現在の長野県長野市の南郊)で行われた武田信玄軍と上杉謙信軍による合戦での上杉謙信が武田信玄の本陣に単騎で斬り込んだ一騎討ちの様子を再現したもの。 白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀・小豆長光を振り上げた謙信が、床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、 信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原虎吉が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。 信玄は、後にこの武者が上杉謙信であると知ったという。 |
![]() 神功皇后は夫である仲哀天皇に従い、三韓征伐のために筑紫にやってきた。その時、天照大神と住吉三神から神託(お告げ)があり、 朝鮮半島に遠征するように求められた。しかし、仲哀天皇はこの神託を信用しなかったために急死する。 住吉大神は、神功皇后に対し「仲哀天皇がなしえなかった事を、その胎中の皇子がなす」と神託を下した。 既に身ごもっていた神功皇后は胎内の皇子と共に朝鮮半島の新羅を攻め、制圧した。 その後、筑紫の宇瀰(ウミ・福岡県糟屋郡宇美街)に戻って皇子(後の応神天皇)を産み、母子は無事に大和へと帰還を果たした。 応神天皇・神功皇后・比淘蜷_の三神を祭神とする甲八幡神社の祭神に因んだ場面。 |
![]() 室町時代より悠久600年の歴史を誇る黒田村。 「夏は出水で 稲作り 夢と希望の 種を蒔く 感謝の気持ち 偲びつつ ここに幸あれ 黒田村」と 唄われたように、稲作で発展してきた黒田村の伝統的な村人総出で仲むつまじく行う田植えの様子を 文字通り「心豊かなふれあいの里」をイメージして忠実に再現した、まさに黒田村ならではの場面。 屋台彫刻は、勇壮な武将の合戦物の題材がほとんどの中、播州初の挑戦となる「自分の村の田植えの様子」の場面を 敢えて取り入れることからも、黒田村のこの屋台にかける並々ならぬ熱い心意気が伝わってくる。 |