1 はじめに
2 江戸時代の刑罰
(1) 御定書百カ条
(2) 刑罰の種類
(3) 人足寄場の創設
(4) 人足寄場
3 徳島の行刑
(1) 収容施設の沿革
(2) 時代の史抄
(3) 県民との協調・貢献状況
(4) 現在の問題点等
4 その他
1 はじめに
私は、映画、テレビ観賞、特に時代劇が大好きな人間です。今は、亡き父に連
れられて、東映映画3本立てをよく見ました。70歳にして懐かしい思い出です。
池波正太郎:原作「鬼平犯科長」火付け盗賊改め 「長谷川平蔵 宣以」
長谷川 伸:原作「刺青判官」 北町奉行 「遠山左衛門慰 景元」
(いわゆる遠山の金さん)
山手樹一郎:原作「鉄火奉行」 南町奉行 「大岡越前守 忠相」
暴れん坊将軍 徳川吉宗(8代将軍)等々に加え、テレビ映画 北大路欣也が
演じていた 元公儀介錯人:子連れ狼 「拝 一刀」
里見浩太郎が主演の「水戸黄門」等々が思い出されます。
しかし、私見ですが、ただ一つだけ気に入らないことがあります。
北町奉行:遠山 左衛門慰景元、いわゆる金さんが、おしらす(裁きの場)で、
極悪人に対して「判決を申し渡す。市中引き回しの上、打ち首:獄門、他の者は
遠島申し付ける」これにて一件落着、格好いい見せ場の一つです。
これで、一件落着したでしょうか?犯罪の予防等は、永遠のテーマの一つです。
判決だけで、こと終わりでないのが、現実の社会です。収容施設があり、社会復
帰後の保護の問題等々犯罪予防、防止は、複雑多岐であり、問題山積です。
2 江戸時代の刑罰
(1) 御定書百カ条
八代将軍:徳川吉宗は、華美な元禄以来の軟弱な政治を否定し、武家本来の
質素・倹約に立った武断政治へと改めています。
この享保の改革の一つに 「御定書百カ条」があります。
この御定書百カ条は、幕府の基本法であったが、各地方の三百諸侯は、それ
ぞれの藩の法をもって、社会の秩序を守っていた。
蜂須賀:阿波藩(25万7千8百石)は、蜂須賀の法律をもって、牢獄を持ち、
地方知行制による仕置き(刑罰)の制裁が行われていた。
(御定書百カ条:抜粋)
○ 盗人御仕置ノ事
人ヲ殺シ、盗ミ致シ候者 引キ回シノ上 獄門
盗人ノ手引キ致シ候者 死罪(打ち首)
追剥致シ候者 獄門
手元ニアル品、フト盗ミ取り候類
金子ハ10両ヨリ以上、雑物ハ代金ニ見積モリ10両以上 死罪
同 以下 叩き
湯屋へ参り、衣類ヲ着替ヱ候者 叩き
○ 火付ケ御仕置ノ事
火ヲ付ケ候者 火アブリ(火罪)
但シ、燃ヱ立チ申サズ候(未遂)は 死罪
○ 人殺シ並ビニ疵附ケ御仕置ノ事
主(人)殺シ 2日晒、1日引キ回シ 鋸挽キノ上 磔
主人、手負ハセ候者 晒シノ上 磔
主人ニ切リカカリ、打チカカリ候者 死罪
地主ヲ殺シ候家守(下働・小作人)
引キ回シノ上 磔
親殺シ 引キ回シノ上 磔
牛・馬ヲ引キ懸ケ、人ヲ殺シ候者 死罪
牛・馬ヲ引キ懸ケ、怪我致させ候者 中追放
応報刑時代の最たるものが伺えます。
(2) 刑罰の種類
「獄門」 「死罪」 「火罪」 「磔」 「鋸引」 「切腹」 「叩き」 「手鎖(てぐさり)」 |
「入墨」 「剃髪(ていはつ)」 「預け」「追放」 「流刑」 「徒刑(ずけい)」 |
「幼年者仕置」 「乱心愚昧者仕置」 「縁坐(えんざ)」 「連坐」 「改易」「闕所 (けっしょ)」 「旧悪」等々数多くあります。 |
ここでは、徒刑(ずけい)のみに留めます。 |
唐律を移入した律令制により、苔杖徒流死の一つとして、実施されている。 |
徒1年・徒1年半・2年・2年半・3年の5等に分けられていた。刑期があり、刑期 |
が終われば、烏帽子を戻され、着冠、公民に服するのが通常であった。 |
この刑は、鎌倉時代に廃止された。 |
したがって、江戸時代には、牢屋は存在したが、刑務所的なものはなかった。 |
御定書百カ条においても徒刑は、採られていない。 |
この徒刑制度が、全国的な規模をもって実施されたのは、寛政2年(1790年)に、 |
老中:松平定信が、火付け盗賊改め方、長谷川 平蔵 宣以の献策(構想等)を |
基に「人足寄場」を石川島に設置し、相応の成果・実績を上げたことから、幕末に |
近い天保14年(1843年)全国に、寄場設置を奨励した。 |
この制度が、幕末ころ次第に徒刑的な牢屋へと変わっていくことになる。 |
この奨励により、文久3年(1861年)、大阪:京都:秋田:箱館に寄場が設置された。 |
元治元年(1864年)には、長岡にも寄場が設置された。 |
この間に、徒刑場(犯罪者の身柄を拘束して、それぞれの期間、作業をさせる。) |
が、水戸藩徒刑場、箱(函)館の松前藩徒罪場、福岡藩、四国の松山藩にも |
徒刑場が設けられ、わが国特有の徒刑制度(自由刑)を形成した。 |
(3) 人足寄場の創設
奥州白河の城主:松平定信が老中在職中「天明6年〜寛政5年(1786年〜1793年)」 |
の江戸の状態は、徳川長期政権の下で、貨幣経済の極度の発達による貧富の差 |
が増大、これに伴う犯罪の増加、天明年間に各地を襲った天災、大飢饉による離農 |
者が江戸市中に流入した。それら無宿人化した乞食、浮浪者(今でいうホームレス) |
博徒、日雇い等々に身を持ち崩す犯罪予備軍的な徒輩の増大、横行で江戸市中は |
荒廃していた。 |
元与力:佐久間長敬は、その著書「清陰日記」に「・・・乞食、物貰い等往来で人の袖 |
にすがり・・・町々橋の下、河岸の地、空き地などに集まり、衣類などなく、夏は筵( |
むしろ)など羽織り、冬は、いろいろなな襤褸(ぼろ)などを羽織りて、その体、見苦 |
しいこと甚だしく、夜は橋の下、人家の軒下などを定宿に寝泊りし、地犬は、彼らの |
炬燵(こたつ)と唱えて、これと同衾し、古木、芥などを集めて、夜中焚き火をし・・・、 |
夏は、裸体にて往来し、市中の迷惑者となりたり・・・」と非常事態であったようです。 |
対策として、老中:田沼意次「安永元年〜天明6年(1772年〜1786年)」は、左州 |
(佐渡金山)の水替え人足にさせる制度を導入した。 |
安永6年(1777年)から江戸判別帳に登録されていない無罪の無宿人を毎年50〜 |
60人を強制的に佐渡へ送っていたとのことである。 |
成績良好な者は、4〜5年で役を免じ、釈放後佐渡に住みたい者は、佐渡平民とした。 |
元の地へ帰りたい者は、佐渡奉行交代時等に江戸へ還送して、自力更生を促したと |
とあります。 |
田沼意次の後任、老中松平定信は、火付け盗賊改め方 長谷川平蔵宣以の献策( |
構想等)を基に、各調整を図り「人足寄場」を設置した。 |
加えて、先ずは、無宿人対策として、捕らえては、出身地の大名に引き渡した。これに |
は、各地の大名も相当困ったようである。 |
(4) 人足寄場
@ 場 所 江戸石川島(隅田川下流) |
A 面 積 1万6千坪余り |
B 収容人員 600人 |
C 作業種類 |
紙すき・鍛治屋・屋根屋・竹竿・彫り物・元結・草履・繩細工・百姓・大工・左官・米つき |
等々相当数の手職が用意され、自分の好みの職種に就くことが容易であった。 |
D 作業時間 午前8時から午後4時まで。休日は、月3日間 |
休日には、心学・道徳の講話があった。心学者:中沢道二は、神道・儒教・仏教の教 |
えを分かり易く説き聞かせたといいます。 |
E 処 遇 給食 米5合〜8合 入浴 1日叉は隔日 |
F 規 律 |
逃走・寄場内での盗み・博打・徒博は死罪、そのほか寄場内での懲罰には、折檻 |
繩手錠・減食・作業時間延長等があり、度々にわたる場合は、改善の見込みの立な |
い者として、佐渡水替え人足として、佐渡送りすることもあった。 |
G 釈放後の保護 |
釈放後の保護は、充実していた。 |
(事例 1) |
医道に心掛ける者あり。寄場内でも被収容者の治療をさせていたが、その心底も改 |
まったと認められたので、赦免を言い渡し、衣類・医療用諸道具・店賃・生活用具・ |
薬代・白米1人扶持3ヶ月分を下され、差配人に引き渡し、店を持たせたとある。 |
((寄場旧記留) |
(事例 2) |
深川・丹後の無宿人両人が、改心したので、赦免を言い渡し、売買道具・勝手道具・ |
畳・生活用品・白米1人扶持を下され、店を持たせたとある。 (日本近世行刑史・上巻) |
3 徳島の行刑
(1) 収容施設の沿革
1870年(明治3年7月) | 名東郡塀裏町(現在の徳島市新蔵町・・・徳島橋の東側=徳島 |
地方裁判所あたり)旧阿波藩の米蔵(陰徳蔵)を改修して、徒刑 | |
小屋を設け、11月27日同町において、旧藩牢屋を改修して徒場 | |
2棟を新設した。 | |
1871年(明治4年3月) | 塀裏町、富田川筋・洲渚を埋め立て囚獄を新設した。 |
1873年(明治6年2月) | 名東郡徳島町旧藩の米蔵を改修し、塀裏町に徒刑場を移転した。 |
これを監獄本署とした。 | |
1889年(明治22年5月) | 出来島町ひょうたん堀 2番地に移転した。 |
1922年(昭和20年7月) | 4日、午前1時半ころ、空襲で建物・書類等全てが、灰燼に帰した。 |
被収容者672人を川内町南国民学校に臨時収容して、その一部 | |
をO施設へ移送した。 | |
1951年(昭和26年10月) | 戦災復旧工事中の庁内建物の落成式を挙行した。 |
1971年(昭和46年10月) | 現施設(徳島市入田町)へ移転した。 |
(2) 時代の史抄
@ 明治時代
明治3年7月、名東郡塀裏町に旧藩米蔵を改修して、徒場を開設したことから、徳島の歴史 |
が始まった。 |
開設当初の記録によると、作業は、藁細工とか女囚による洗濯、紡績作業(詳細は不明) |
が行われた外は、もっぱら、首に鉄鎖を連ねて、市内の主要な橋の清掃作業、明治4年1月 |
からは、上鮎喰村の堤防工事を請け負ったとある。 |
明治5年には、新聞で、安価な労働力を広告、施設内で養豚事業を起こし、その糞尿を |
近隣の農家へ分ける等県民との協調を図っていたことが伺える。 |
当時は、県民(父母)からの願いにより、不良の子弟を施設に預かるという現在では、考え |
られないような制度が存在していた。 |
明治36年、N省からH省へ所管換えとなる。 |
県知事の指揮下からH大臣の指揮下に移った。各県の知事は、権限を奪われたとして相当 |
の反対運動を行ったことが記録されている。 |
A 大正時代
監獄の名称が改正され、T監獄からT刑務所となる。 |
脇町の分監が廃止される。 |
大正13年に施設で作られた製品の即売会が行われ、住民からは安価で、丈夫な製品として |
喜ばれるが、地元業者からは民業圧迫として、大反対運動があったとのことである。 |
B 大正から昭和20年まで
あらゆる資料は、戦災で焼失し、記録は灰燼となり、詳細は不明である。 |
当時のN会計係長は、大金庫内に、常にコップ一杯の水を置いていたことから、建物が消失 |
した中で、ポツンとあった大金庫を開いたところ、現金・小切手・印鑑等は消失から守られた |
とのことである。 |
C 昭和時代
終戦後の経済は、治安状況が悪化する中、県下の治水・護岸・道路開拓等々のため、労働 |
力の提供を実施、労働力の不足を補い、県下復旧に貢献した実績が、数多く残っている。 |
昭和30年ころから産業も徐々に復興し、市民の生活にゆとりが生じると、迷惑施設として |
市街地の発展を阻害しているとの理由で移転問題が起きる。 |
昭和46年10月、現施設へ移転する。 |
C 平成時代
ア 刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(平成17年法律第50号)
平成18年5月24日施行
イ 未決拘禁者処遇等に関する法改正 平成19年6月ころ施行予定
したがって、明治41年制定:施行の監獄法は、改正されることになります。
(3) 県民への貢献状況等
地元開発等のため、施設が行った労働力等の提供は、地元住民から感謝された
記録が多く残っている。その一部を紹介します。
構外作業場泊り込み作業(一部通役作業)で貢献した事例
開設年度 | 作業所名 | 場所 | 作業内容 | 出役人員 |
昭和20年 | 高志作業場 | 上板町 | 吉野川北岸堤防工事 | 60名 |
昭和20年 | 津田:漁労作業場 | 徳島市津田町 | 漁労 | 20名 |
昭和21年 | 剣山作業場 | 木屋平村 | 伐採作業 | 60名 |
昭和23年 | 足代作業場 | 三野町 | 護岸工事 | 60名 |
昭和23年 | 林町作業場 | 阿波郡 | 用水路工事 | 60名 |
昭和25年 | 宮浜作業場 | 上那賀町 | ダム・道路建設工事 | 150名 |
同上(通役作業) | 同 上 | 発電所工事 | 30名 | |
昭和25年 | 里浦作業場 | 鳴門市里浦町 | 堤防工事 | 60名 |
昭和26年 | 金磯作業場 | 小松島市 | 客土工事 | 80名 |
昭和31年 | 川内作業場 | 徳島市川内町 | 防波堤工事 | 60名 |
同上(通役作業) | 同上 | 松茂空港埋立て工事 | 10名 | |
昭和32年 | 栩谷作業場 | 木頭村 | ダム・道路建設工事 | 40名 |
昭和32年 | 海川作業場 | 木頭村 | 林道建設工事 | 40名 |
昭和33年 | 福原作業場 | 上勝町 | 林道建設工事 | 60名 |
昭和38年 | 米津作業場 | 徳島市川内町 | 護岸・埋め立て工事 | 40名 |
構外作業通役作業で貢献した事例
開設年度 | 作業所名 | 場所 | 作業内容 | 出役人員 |
昭和36年 | 徳島大作業場 | 徳島市蔵本町 | 除草 | 20名 |
昭和36年 | 付属小学校作業場 | 徳島市助任町 | 除草 | 20名 |
昭和37年 | 田宮川作業場 | 徳島市矢三町 | 河川清掃 | 20名 |
昭和37年 | 米津作業場 | 徳島市川内町 | 護岸工事 | 30名 |
昭和37年 | 沖洲作業場 | 徳島市沖洲町 | 護岸・ブロック工事 | 30名 |
昭和37年 | 北灘作業場 | 鳴門市北灘町 | 国道11号線建設工事 | 30名 |
昭和37年 | 御所作業所 | 土成町 | ダム工事 | 20名 |
昭和40年 | 国府作業場 | 徳島市国府町 | ブロック製作 | 25名 |
昭和45年 | 沖洲作業場 | 徳島市沖洲町 | 木工家具製作等 | 20名 |
* 各構外泊り込み作業場は、作業場近くに、仮設小屋を建築し、職員と受刑者
が泊り込み作業に当たっていた。
* 特に、職員は、昼間の勤務である作業監督等が終わった後、夜間においても
交代で、警備・教育指導に当たるという厳しい勤務状態であった。
* 事例の一つであるが、昭和32年開設の栩谷作業場(木頭村)は、山越えの細
い林道が、南側に抜けるだけのものであったため、村民は、木頭村と南側の連
絡に不便を極めていたそうである。
* 作業は、ダイナマイトを使用して、山を削り、舗装工事を行うというものであった
が、セメントを何袋も肩に担ぎ、山の傾斜約45度を越えながら、工事用の仮道
まで運ぶ等困難な作業であったとのことである。
* 機械化があまり進んでいなかった時代の作業であり、各作業場ともに苦難の連
続であったが、地元住民の方々から今も感謝されている事例が多いとのことです。
(T施設史からの抜粋)
T施設と地元住民・・・作業製品即売会状況(H18年度)
各製品 木工家具:革靴:彫刻衝立等々は、安くて丈夫と 地元住民から喜ばれています。
当日は、施設内の見学が企画され、大勢の地元住民が見学(参観)しました。
T施設の正門です。 玄関前での熱演です。
徳島の特産品 藍染め実演コーナです。
人気商品の一つです。
木工製品の小物販売コーナです。
(4) 裏の社会から見た現在の問題点等
@ 犯罪多発に伴う施設収容人員の激増
A 覚せい剤関係者・暴力団等々悪質、処遇困難者の増加
B 外国人犯罪者の多様化、増加
C 犯罪者の高齢化
D 年少者の凶悪犯罪
E 社会復帰後の保護、支援等
F その他
現行制度については、4−(4)問題点等を除き、守秘義務等があるため、
触れていないことを申し添えます。
5 その他
治にいて乱を忘れず
現役の方々のご労苦とご功績に心から敬意を表します。
この裏の社会についての、ご質問:ご照会は、勝手ながらお断りすることを申し添えます。
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