板東俘虜収容所 徳島県鳴門市大麻町板東映画化ロケ地見学
バルトとは、 ドイツ語でDer bart:髭(ひげ)のこと。
松江豊寿所長は、見事な口髭を生やしており、当時の収容所としては、
楽園???のごとき人道主義的処遇が実施されていたとのことです。
1914年 第一次世界大戦で日本軍は、同盟国であったイギリスの要請を受けて、約3万人の大軍を
派遣し、ドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略した。
ドイツ兵約4,700人は捕虜として日本に送還され、日本各地12ヵ所の収容所へ収容されることになる。
その1つが、板東俘虜収容所である。
同収容所では、大正6(1917)年から大正9(1920)年にわたり、約1,000人を収容していたとのことである。
当時の板東俘虜収容所所長は、松江 豊寿中佐(会津出身)である。他の収容所は徹底した管理体制
であったが、板東俘虜収容所は、人としての処遇を全面に実施した人道体制で臨んだとのことである。
人の前歴を加味した作業、特技を生かした余暇の利用等々数多くが残されている。
施設の配置図、行事等をみても、処遇の一部が垣間見えます。
◎ 管理棟・・・所長室
・・・一般事務室 管理棟の近くには、別棟として衛兵詰所:待機室が所在している。
◎ 収容棟等
・・・居室 ・・・各工場((印刷:製パン:ハム・ソセージ加工等々) ・・・柔道場兼集会所
・・・酒保 ・・・浴室(共同) ・・・便所(共同) ・・・運動場 ・・・鉄棒 ・・・面会所
・・・将校室 (クルト・ハインリッヒ少将:個室)
収容所内に酒保(酒場)があり、自由に集会:歌声喫茶的な処遇があったことに驚きである。
また、浴場経営が個人?とは、所内の運営が、国の管理と被収容者の立場をどのようにして
調整していたのか興味深い。
松江所長は、上層部の管理体制の指示に反し、ハーグ条約に則り人権を遵守したとある。
裏面には、国からの予算不足があり、窮余の一策として処遇が考慮されたとも思われる。
◎ 施設周囲は、塀はなく、有刺鉄線で囲んでいるに過ぎない。
◎ 主な行事等の実施
俘虜が建設したドイツ橋:大麻神社の裏側に設置されている。
(県文化財に指定)
・板東俘虜製作展覧会(製品即売会等)
・芸能大会等 徳島市内の新富座で演奏大会を実施したこともある。
・野外音楽堂の設置。音楽活動
・所内での芝居公演、日常の練習
・海水浴(櫛木海岸:近くの吉野川の一部)
・石橋(めがね橋:ドイツ橋)の新設等
・地域住民との協調 鉄棒:音楽の指導等
・ハム・ソーセージ・パン等の生産
・西洋料理講習会
・印刷物の外注 新聞の発刊等々
・絵画
・図書館の設置
・日帰り遠足
・グランド・テニスコート・ボーリング場開設
・道路作業
・クリスマスのお祝い
・収容所健康保険組合設立
・その他
ドイツ帝国が崩壊し、自由となった捕虜たちは、松江所長そして地域住民に感謝を込めて、
日本で初めてベートベン作曲(交響曲第九歓喜の歌)を演奏した。
ロケ地(ロケ村)は、総工費3億5千万円 1万uの敷地に板東俘虜収容所のオープンセット
が製作され、映画化された。
松江所長の官舎跡:徳島県郷土文化会館西側には、「武士の情け」の石碑が、映画化を記念
して建立されています。
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