@徳島港→和歌山港(南海フェリー)約2時間 陸路約2時間 高野山へ到着
A(陸路:淡路島・大阪経由 高野山へ約4時間) 今回は、@を利用する。
参加者 40人 徳島県外からの参加者(四国霊場逆周りを終え御礼詣り)が多いことに驚く。
*、北海道旭川市から参加された女性(四国霊場お先達の資格を有している。)
その知識の豊富さ等々に心から敬意を表します。
高野山は、蓮華の花びらのような八つの峰々に囲まれた平原の聖地です。 周囲の山々は、標高約1000m、高野町の盆地は、340u 東西6km,南北3kmの この地に、117の寺院、52の宿坊があり、約10,000人が住み、そのうち1,000人余 の僧侶が修行し、教えと文化を継承しているとのことです。 |
高野山開創時、当初の建物は、鳥居でしたが、その後、何度か建て替えられ、 現在の建物は、宝永2年(1705)に再建、両脇の金剛力士像は、江戸時代の 仏師康意(阿形像)、運長(吽形像)の作です。(高野山パンフレットから) こうやくん(高野山開創1200年イメージキャラクター) 住 :所 〒648−0211 和歌山県伊都高野町高野山550 |
一の橋から約2kmで、奥の院です。 手、口を清め、心等を洗って参拝です。
高野山を開創された最大の理由は、真言密教の修行道場の建立でした。 都の賑やかさを離れ、大自然に包まれた深山高野の地こそが真言密教の修行 に最適の場所だったのです。 弘法大師は、この地で、62歳のとき、自らが入定(にゅうじょう)「永遠の瞑想/ 禅定」の地と定め、 承和2年(835)3月21日「虚空つき 衆生つき 涅槃尽きなば 我が願い尽きなん」(この世に身を留め、未来永劫に人々を救い続けます。)との 壮大なご誓願のもと、高野山奥之院にご入定されました。 |
奥之院への参道には、樹齢数百年の杉の木立、20万基以上と言われる名だたる
武将・諸大名をはじめ多くの方々の墓碑が建立され、弘法大師の遺徳を称えています。
これより先 写真撮影禁止です。
奥之院御廟に般若心経等を奉納、四国霊場八十八ケ所
満願の御礼詣でをする。
弘法大師座像 納 経
御詠歌 ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだおわしますなる
水向地蔵尊像 護摩堂
大黒天 無縁塚
枢議参与 慰霊碑ほか 戦没者 英霊殿
(こんごうぶじ)
元・青巌寺といい全国に四千余の末寺を持つ高野山真言宗の総本山である。 豊臣秀吉が文禄2年(1593)に亡母追善菩提のため、応其上人に命じて建立した もので、本坊は東西約60m(30間)、南北約70m(35間)あり、持仏間・大広間・梅の 間・秀次が切腹させられた柳の間・書院上段の間・奥書院・稚児の間・囲炉裏の間 等があり、いずれも狩野元信、探幽、探斉等の襖絵は有名である。 其の他に別殿、奥殿、新書院、茶室等の建物がある。 現在の本坊は、文久3年(1863)に再興したもので、文化財建築物である。 |
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高野山への道等 奥之院への道等 高野山 総本山金剛峯寺 弘法大師直筆石碑等