● 沖縄県立名護高校 (Okinawa Prefectural NAGO high school)
【基本データ】
・略称・愛称等:
・男女共学
・住 所: 沖縄県名護市字名護3435
・校 種: 全日制
・設置者: 沖縄県
・創立年: 1928年
・校 訓: 知性を研こう 感性を鍛えよう 個性を育てよう(平成5年制定)
初代制服 1948年の現校名への変更とともに、2本線の三高女タイプのセーラー服が採用された。
2代目制服 1957年に灰味青のセーラー服(夏服)が登場。冬服はそのまま?
冬服/ 白2本線付濃紺のセーラー服
夏服/ 紺の2本線付、灰味青のセーラー服
戦後1946年に田井等高等学校としてスタート。当時の制服は米軍のBHT改造制服だったが、1948年に現校名になってからは、次第に制服が整っていったとされる。掲載制服は、夏服は2代目、冬服は初代ということになるのか。特に夏服の独特の色合いは、他に例がなく注目された。
2015年のブレザータイプの新制服が誕生し、2018年には掲載制服も姿を消した。なお、この旧制服は、名護市の歴史資料として博物館に収蔵されている。
渚 美鈴/記 NAGISA MISUZU
沖縄女子制服ノート第100回は、100回記念SPECIALとして、戦前の(旧)沖縄県立第三高等女学校(名護高校の前身のひとつ)の冬服を紹介する。
まずはイラスト参照。
同校の戦前の写真はわりと残っていて、興味深いものが多い。
本島北部という広い地域を通学区域としたため、公共交通機関が発達していなかったこともあって、自転車通学する生徒たちの集団写真がある。本土ではなじみのある風景かもしれないけど、沖縄ではものすごく異質。
戦前に自転車通学というだけで、すごく先進的な感じがする。この伝統が続いていれば、戦後の沖縄でも広まったかもしれない。けど戦争の激化で自転車は軍に取り上げられ、生徒たちは数時間も歩いて通学することを余儀なくされたらしい。子どものために購入した高価な自転車を取り上げる。そんな住民の犠牲の上で沖縄戦は戦われたのだということを知ってほしいと思う。
通学時に裸足でぬかるみを歩いている生徒の写真もあるけど、これも沖縄の地質を知らないと誤解されてしまうと思う。粘土質の沖縄のぬかるみは、ちゃちな靴底を引きはがしてしまうほど強い粘着力を持つ。
梅雨の時期に沖縄に上陸した米軍戦車も動けなくしてしまうほどだから、当時の生徒の判断は正しいと思う。もっとも、貧しい沖縄では屋外でも裸足で歩く人が多かったから、ためらいはなかったと思う。だから、今の基準で貶めるような発言はしないで欲しいと思う。
量産工房/記
スペシャル掲載 2020年9/13 掲載終了9/20
先丸ライン付きセーラー服の謎についての検証
可能性1.近隣校の制服が混ざっていたのでは?
第三高等女学校は、当時の北部地域唯一の女子中等教育機関として誕生したばかりである。類似の高等女学校は近隣には存在しない。また、それ以下の初等教育機関の制服の存在はまったく知られていない。結論としてありえない。
可能性2.県内、県外女学校からの転入生ではないか?
類似の制服が遠く離れた宮古島の宮古高等女学校で採用されていたという新聞記録がある。(平良市史10巻資料編9 626p)ただし、制服決定報道の日付は、1936年のことなので、同校からの転入学生はありえない。他府県の女学校からの転入生の可能性は情報がないため否定できないが、同じ制服が複数確認されていることからすると、同時に複数人が同じ学校から同校へ転入というのは、ものすごく可能性が低いと思われる。
可能性3.同校の前身、国頭高等女学校の制服ではないか?県立移管時に制服を変えることができずに混ざっていたのでは?
伝えられている組合立の国頭高等女学校の制服は、丸襟セーラー服(表現が妥当かどうかはさておいて)であるので、一致しない。同校が県立移管前に制服をMCしたという記録も今のところ見つかっていない。
可能性4.朝日新聞の写真キャプションが誤りではないか?
集団で自転車で下校していること、裸足で泥濘を突破するという状況からすると、戦前の沖縄、名護高校の前身である第三高女の可能性が高く、同校の卒業生も間違いないと証言して、同写真のカラー化に対するアドバイスを行っている。キャプションは妥当とみるべきだろう。
可能性5.写真の傷、あるいは意図的に作られたものではないか?
AIによる色付け前のモノクロ写真でも先丸ラインの存在は確認できる。注意して見ないとわからないが、後ろ襟の左右対称に存在しているので写真の傷ではないと思う。また、構図の違う3枚の写真に写っていることからしても、存在は事実だと思う。まあ、朝日新聞は過去にやらせ記事(サンゴ損壊)とかでっち上げ報道で非難されたこともあるから、意図的なでっちあげは完全否定できないが。ただ、本人たちが気づいていないのでそれはないと思う。
可能性6.何かのイベントで他校の生徒が来校していたのではないか?
当時の県内に類似の制服の存在はまったく知られていない。他府県からの来校の可能性は否定できないが、交通の便の悪い本島北部の、しかも県立に移管したばかりの同校に?可能性は低いと思う。
可能性7.校則違反の改造制服ではないか?
制服は生徒自身が手作りするということが多々あった時代のことでもあり、可能性はあると思う。ただ、複数人が示し合わせて先丸ラインを作ったことになるので、そうなるとかなり大きな事件となり、記録に残りそうなもの。実際には関連する記録、証言は見つかっていない。メディアも未発達で情報共有も困難な時代に、個人がデザインを発案して広めたというのは無理がありそう。
可能性8.セーラー服であればOKだったのではないか?
近隣に女学校がないこと、県立移管後2年目ということからすれば、制服を細かく規定しなければならない理由はなく、可能性はある。今のところ同校の制服を規定した具体的資料はなく、生徒の証言や写真から類推するしかない。ありえることだが、根拠はない。
可能性9. 市販の既製品ではないか?
2年後に宮古高等女学校が先丸ラインを採用したという情報があるので、このデザイン自体の存在は広く知られていた可能性がある。市販品なら量産されていて規格も統一されていておかしくない。ありうるのではないか? ただし、当時の業者の情報はまったくないので根拠はない。
可能性10.夏服だけデザインが違っていたのではないか?
同じ写真内に同校の通常ラインの夏服が写っているので、それはないと思う。
可能性11.MCしたのでは?
県立移管後2年目の写真である。MCにしては早すぎるし、MCが行われたという記録はない。
最後に、同校最後の卒業生は、AIで色付けされた制服を見て、1930年から1940年までの期間存在した「幻の制服」だと証言したらしい。
結論。同校の夏服は2種類あったということになる。これ以上はお手上げです(量産工房)