ノート10

● (旧)沖縄県立沖縄女子師範学校・第一高等女学校(Okinawa Prefectural OKINAWA JOSHI SHIHAN school /DAIICHI high school)

【基本データ

・略称・愛称等:ひめゆり学園

 沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校は併設校で、校名は異なるものの、実質的には一つの学校だった。愛称の「ひめゆり」は、両校でそれぞれ発行していた学校広報誌「乙姫」(第一高等女学校)と「白百合」(女子師範学校)の名を合わせて創られたという。沖縄戦での看護隊の悲劇によって、全国的に知られる存在となっている。

・女子校

・住 所:  沖縄県島尻郡真和志町間切安里村(当時)
・校 種: 全日制
・設置者: 沖縄県
・創立年: 1900年―1945年
・校 訓: 不明

初代制服  青2本線付き白襟、水色チェックのセーラー服

2代目制服 夏服/白2本線付き濃紺地襟の白セーラー服

2代目制服 冬服/白2本線付き濃紺地のセーラー服

3代目制服 / ヘチマ襟制服

(旧)県立沖縄女子師範学校・第一高等女学校(ひめゆり学園)の制服を紹介します。

今回は、あまり知られていない初代夏服?の紹介。

沖縄における洋装制服は、1922年に 沖縄県立第一高等女学校の全校生徒自治会で「女学生の制服として和服と洋服と何れが可なりや」の議題が提案されて議論が始まったのを皮切りにスタートし、首里市立女子工芸学校(後の県立首里高女)で洋装の運動着が採用されたのが最初とされる。

同じ年に、同校でもシャツとワンピースの体操着が取り入れられ、とにもかくにも女子生徒への洋装の普及が始まったらしい。

琉装が一般的な沖縄では、和装も洋装と同列で、女子の教育という視点から服装の議論から始まったのは、とてもおもしろいことだと思う。

そして選定されたのは、今日の私たちが考える「通学などで着用する、組織への所属を象徴する統一されたデザインの衣服」ではなく、体操用の衣服だったというのが注目に値する。欧米における女子教育での体操用服のひとつとして、ミディブラウスが生まれていたという情報もあるので、その時もし、それを採用していれば、本土におけるセーラー制服の起源(1919?)に迫ることもありえたかもしれない。

でも結果として沖縄の女子洋装は、体操服からスタートし、今日的な意味での制服(当時は学校で着る服という意味?)で洋装が実現したのは、1923年の同校が最初らしい。制定後、洋服和服自由期間を設置して、半年でほぼ全員が洋服に変更したとされる。

そして、洋装というかなり範囲の広い意味で制服が定着した後の1926年になって、ようやくセーラー服(水色ネル地)へのデザイン統一が決定導入された。

登場した制服は下図のとおりとなる。

残された写真も少なく、カラーもまったく見当たらないのだけど、当時の生徒たちの証言記録があったので、それを元にカラーでの復元を試みた。

夏服と紹介しているのだけど、実は夏服冬服という区別があったのかどうか、はっきりしない。

当時の制服という定義も、どうも今とは微妙に違うし、イスラムほどではないにしろ、女性は肌を極力隠すのが常識だった時代のことなので、夏冬兼用だったかもしれない。今の私たちの目からすると、見た目は夏服なんだけど。

注記) 今のところ、どう調べても冬服?に該当する服が見つからない。新たな資料が見つかったら修正していきたいと思う。

そんな画期的な制服だったものの、イラストにも書いているように、この制服は1932年には退役している。

洋装がめずらしい中で、実は市内を歩く刑務所の模範囚が、似た色の洋服を着けていたため、女生徒が反発したとされる。

ただでさえ目立つ自慢の制服の色が、囚人服の色と同じ……!

なるほど、そりゃ怒るよね。

でも、「女に教育はいらない」という風潮が強かった時代にあって、自分たちの意見をしっかり主張し通したところに、沖縄の女性の強さを感じるのは、私だけだろうか。

女子生徒の運動によって改定された制服の紹介は、次回。

美鈴/記

注記)今回の記事は、様々な書籍からの情報を基に組み合わせ、解釈してまとめています。新しい資料や情報で修正されるべきところもあるかと思うので、その点はご理解の上、お楽しみください。(量産工房)

5/16 追伸/ややこしい解説なのだけど、ここで紹介した制服が、沖縄における(洋装でデザインが統一され、日常的に着用するという)今日的な意味での、最初の制服ではない。

制服とは何か?セーラー服とは何か?という定義に関わる問題もあって、しかも歴史の奥深くにうずもれている内容だけに調査はかなり難航している。


今回は、よく知られた同校のセーラー服の紹介。

前述の生徒たちによる制服改善運動で、新たに登場した制服がこちらになる。

まずは夏服から。

 

戦争の足音が聞こえる中で、最も戦争の影響がダイレクトに反映されて変化した制服でもある。極力肌をさらさないという考えで、長袖だったのだけど、物資不足で半袖になっていき、さらに簡素化されていったらしい。

驚いたのは、襟留めピンの存在。

美鈴は、このアイテムの存在をここで初めて知った。だから初めはこのピンの名前さえ知らなかったんだよね。

調べてみると、セーラー襟が開いてしまわないようにするアイテムらしいのだけど、学校の文献資料にはそのことについて触れたものはない。証言もない。

けれど、残された写真にはしっかりと映っているものがあって、今回はそれを描くために正装の一環として再現してみた。

もっとも、図に書いているように、デザインはまちまちなので、これは市販品だったのではないかと思う。沖縄だけのものとは到底思えないので、たぶん当時は本土の学校でも普及していたんじゃなかろうか? 和服のアイテムという情報もあるが、詳しくはわからない。

あまり見たことがないのだけど、制服研究してる人には、自分たちのところの古い資料写真をよく観察、見てみることをお勧めするね。新発見があるかも。

ただし、このピンが存在しているのは、初期の頃だけ。だから戦争の影響で物資不足が深刻化して、「ぜいたく品」ということで着用されなくなったんだと思うんだけど、スカーフをしっかり結べば、襟が開いてしまうこともなさそうだし……。不要となったので、消えていったのかもしれない。

次は冬服。

 

夏服はセーラー襟が着脱式だったという証言があったのだけど、冬服についてはよくわからない。

身頃を濃紺に変えただけかと思ったのだけど、上衣裾の絞り込みがないみたいなので、見えない違いがいろいろとあったのかもしれないね。

校章の他に学年章などの徽章類も充実していたのは、ご覧のとおり。

同校の制服については、ひめゆり平和祈念資料館でも複製品が展示されているという話を聞いたことがある。参考までに。

続いて、戦争激化で全国的に登場したヘチマ襟制服を紹介するね。

物資不足が深刻化して、セーラー服はなくなり、1941年からヘチマ襟制服が導入されるんだけど、これは既存の制服を禁止したわけじゃない。古い制服を使いまわすのはOKだったので、このころから制服が混在することとなったらしい。

このヘチマ襟の制服は、県内の全高等女学校で取り入れられたわけだけど、少しずつデザインが違う部分が確認されている。学校の差異、個性だけは残したかったのかもしれない。ついでに言うと、沖縄の制服の歴史の中で、ノープリーツのスカートが登場したのは、この時期だけとなる。

今回、戦前の沖縄の高等女学校の代表として、ひめゆり学園をとりあげたんだけど、戦前の沖縄の高等女学校の制服については、調べれば調べるほどとんでもない発見が出てくる。ジャンパースカートもあったし、セーラーのブレードは、親子ラインあり、先丸ラインだってあった。さらにジグザグラインというものまで存在したらしい。ヘチマ襟の替え襟、校章バックル付きのベルトとかも出てきた!

さらに最近になって、ある学校では襟カバーまで存在したらしいことがわかった!

襟カバーで有名な愛知県の影響が、当時の沖縄まで届いていたのだろうか? なんで? どんなルートで、誰が導入したの? 襟カバーのルーツはどーなってんの? わからないことが続出。

それにしても、こんな多彩なデザインのほとんどが戦争で絶滅し、戦後の制服デザインに引き継がれなかったという事実に、戦争と分断の歴史の影を感じるのは、私だけだろうか?

慰霊の日ということで、少し沖縄の過去の歴史を制服で振り返ってみました。

渚 美鈴/記 NAGISA MISUZU