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『火宅の人』['86]
『麻雀放浪記』['84]
監督 深作欣二
監督 和田誠

 今回の合評会課題作には、公序良俗からすれば外道に他ならない無頼の徒に命を燃やした人々の凄味を描いた作品が並んだ。両作とも公開時以来の再見となる。先に観たのは、四十年前に『片翼だけの天使』との二本立てを第二劇場で観た『火宅の人』だ。当時は、たまたま文才があっただけで、“複数の女性と深入りするだけの器量”を持たぬままに流される、本当にろくでなしの男の姿を見ながらうんざりする一方で、二人の女優の見事なまでに美しい裸身に観惚れた覚えがある。

 母より女を取った母親(檀ふみ)の出奔を引き起こした父親(石橋蓮司)の横暴と殆ど変わらぬ身勝手を、その丁寧な物腰で繕いながら飯の種にしている桂一雄(緒形拳)のろくでもなさは、再見しても変わるところがなかったが、知り合って十年越しで初めて結ばれた翌日に撮った瀧の前で見つめ合う写真を別れに際しても処分できずにいた矢島恵子(原田美枝子)の溌溂とした若々しさと美しく豊かな膨らみに魅せられる思いは初見時に優る感じがあった。次男の日本脳炎の後遺症による障碍と向き合うことから逃げて来た一雄との同棲における蜜月を過ごしている時期の愛らしさと苦悩を全身で体現していた、当時二十七歳の原田美枝子に観惚れるとともに、訪れた恵子の妊娠とも向き合おうとせず、か細くあんまり踏みつけにすると呪い殺しちゃうぞと恵子に言わせていた一雄に苛立ちを覚えた。

 そして、恵子以上の苦境と葛藤に見舞われ、新興宗教に帰依したり、家出をしたりしつつも、五人の子供のために家に戻る後妻のヨリ子を演じたいしだあゆみが漂わせていた、時に不気味ですらある気迫と絶望に恐れ入った。一雄の小説のファンだという警察主任(蟹江敬三)が興味本位で設えたと思しきヨリ子と恵子の対面場面で、恵子の横面を張るのではなく、おでこをぺしっと叩いていた姿が印象深い。

 次男の障碍であれ、恵子の中絶手術であれ、一雄の側が抱いた嫉妬からの激情による大喧嘩であれ、大事な場面ではいつも逃げ出す一雄は本当にだらしのない男なのだが、今回の再見では、四十年前に感じた苛立ちだけではなく、その弱さが彼の優しい気弱さと一体のものであることや、女性たちへの不実さとも表裏一体の隠し事のなさ、それもまた“隠し事を貫くタフさというか強さ”の欠如ではあるのだが、そういう弱さの源にある無神経なまでの細やかさが女性を惹きつける面があるようにも映ってきた。そして、ある意味、一雄を火宅に追いやっていたのは、無意識のうちにあると思しき彼の“滅びへの黒い情熱”のようなものであり、それが夭折した中原中也(真田広之)や太宰治(岡田裕介)に対して引け目を負っていたと思しき一雄の無頼派としての覚悟なき囚われの発露のようにも感じられた。自身の書くものを浮気小説と自嘲しつつ火宅の真っ只中に情痴の儚さを覗いてみたかったのであると綴る作家の心底にあったものは何だったのだろう。いい気なものだと思うと同時に、妙な形で文学に囚われた者の哀れを感じるようなところもあった。檀一雄の小説は一作も読んだことがないが、原作小説を読んでみようかという気になった。

 合評会では、一雄と同棲していたアパートを引き払い、一雄の荷物を送りつけて来ながら忘れ物があると言付けて呼び出した一雄がもう一度、いまから一緒に飲みに行かない?などと言わずに、本当は「もう一度」の後に言い掛けたのであろう「やり直そう」という言葉とともに抱き寄せていたら、恵子はどうしたと思うか訊ねてみたくなった。恵子はそれを待っていたからこそ、靴や写真にかこつけて一雄を呼び出したような気がしてならなかった。荷物を送りつける前に言っていたカズさん、あたしをこれ以上みにくい女にしないでくださいとの訴えが切なかった。

 もう一つ、三十路半ばの女盛りの松坂慶子による雪の聖夜のあばら家での全裸の熱っぽい濡れ場を設えて全28章のチャプターメニューのうち5章【19~23】約30分を配して、シンガポールの華僑からプロポーズされているクラブホステス葉子こと実吉徳子とのエピソードを構えている作り手の思いをどう受け取ったかを訊いてみたい気がした。

 すると同世代の映友から撮影を担当した木村大作氏のインタビューによると、北海道をはじめ日本各地をロケ撮影して苦労したそうです。確かに原田美枝子や松坂慶子の裸体を拝めて眼福を得ましたが、結局、この作品は檀一雄を演じた緒形拳よりも「火宅の人」だったわがままな夫をただ待っていた正妻いしだあゆみでしたね。あのラストシーン意味深長な笑顔が…とのコメントを寄せてもらった。改めて昭和の時代の作品だけのことはあると思った。いしだあゆみも緒形拳も、原田美枝子も松坂慶子も、並々ならぬ存在感と迫力で人の業を演じていた。初見時は一雄の余りのていたらくに憤慨して駄目出ししていた評価も、今回の再見で2ランクアップした。再見して新たな気付きを得ることはあっても、作品評価自体が大きく変わることは余りないのだが、今回は例外だった。また、雪の聖夜のあばら家は、五島ではなく、北海道だったのかと思ったりもした。日本各地のいずこを回ったのだろう。

 また別の映友女性からはこれは未見ですが、ドラマは観ていました。未だ高校生の頃ですかね? キャストは一雄が三国廉太郎、妻が池内淳子、恵子は同じ原田美枝子でした。松坂慶子の役柄は無かったから、脚色なんですかね? 当時お芝居は下手でしたが、素材と素質は満タンにあります!感が迸っていて、原田美枝子の恵子は、女性の私から観ても伸びやかで素晴らしく、ひたすら一雄が悪い印象でした。
 いしだあゆみの本妻は、池内淳子より迫力ありそうですね(笑)。娘の檀ふみによると、自分はドラマ未見だが、母親は面白がって観ていたとか。そういう奥さんだから、やってこれたんでしょうね。映画も観たいな。
とのコメントが寄せられた。全く彼女が「ひたすら一雄が悪い」と言うように、一雄は根性なしのろくでなしだったように思う。僕は、テレビドラマは未見だが、葉子とのエピソードがないのであれば、恵子と一雄がアパートで大喧嘩した後、三カ月間、旅路に出たりする運びはなかったのだろう。葉子と再会した一雄が放浪を楽しむエピソードのないドラマを観ているのなら、映画版を観ると、さらに「ひたすら一雄が悪い印象」になりそうだと思った。ヨリ子のモデルになった母親についての檀ふみの話からは、一雄の窮地に助っ人として呼ばれたヨリ子が口述筆記しながら自分の産後時の記述について嘘ばっかり…と言っていた場面を想起した。檀ふみの母親が映画版のヨリ子を観たら、どのように言ったことだろう。


 翌々日に観た『麻雀放浪記』は、四十一年前にあたご劇場で『修羅の群れ』との二本立てで観て以来の再見だ。改めて当時の日誌に記している画面の端正さは、なかなか見事な作品であることを再認識した。その一方で、どっぷり浸っていた麻雀からも離れ、勝負事自体への執心が薄れたせいか、やや遠いものを観るような気分になったことに苦笑した。

 映画界の労働争議のニュースが報じられていたから、'40年代の戦後間もない米軍占領下の時代で「立直」という役がまだ普及していなかった当時の話になる。“二ノ二の天和”を仕掛ける出目徳(高品格)の坊や哲(真田広之)への符牒が今夜は星が出てるなぁ、明日はきっと天気だなどという取ってつけたような見え透いたものだったことに失笑した。そこで書棚にある原作(『麻雀放浪記(一)青春編』<角川文庫>)に当たってみたら、今夜はあったけえな。明日は降りかな。降られちゃ弱るなァP128)となっていた。こちらのほうが自然だ。また、オックスのママに入れ込む坊や哲が十代のように映る若さに見合った“熟れた貫禄のある若々しさ”を、当時もう四十路に入っていた加賀まりこが体現していることに感心した。

 そして、まゆみ(大竹しのぶ)を博打金のカタに入れるドサ健(鹿賀丈史)と『火宅の人』の桂一雄(緒形拳)だと、女性へのろくでなしぶりでは、どっちが勝っていると思うか、合評会で訊ねてみたいと思った。


 同世代の男女五人が参加した合評会では、『火宅の人』の評価が散々で、冒頭のタイトルバックでクレジットされた煩悩に身を焦がし不安の絶えないさまを火災にあった家にたとえて「火宅」というに対して、仏教用語から来た言葉だけれどもそれに相応しい深みの伴わない内容で、とりわけ緒形拳の演技の薄っぺらさが目立ち、女優を脱がせて濡れ場を売り物にする安っぽさが駄目だったという意見やら、深作欣二が松坂慶子を使いたくて取って付けたような葉子を造形しているのが気に入らないといった意見が、矢継ぎ早に出された。主宰者は事前にどうしようもない男たちを描いた名作同士だったと思うけんど、どちらに軍配が上がるかな?『麻雀放浪記』は麻雀を知らない人にはやや不利なのかも知れない。と言っていたが、豈図らんや『火宅の人』降ろしの意見続出で、『麻雀放浪記』推しの主宰者が緒形拳の演技はなかなかのものだったと思うけど、と庇い立てを始める有様だったのが可笑しかった。一雄の薄っぺらさは、確かにその通りだが、それはまさしく緒形拳の演技力による造形の賜物だと僕も思う。

 今回は珍しく全員一致で『麻雀放浪記』よねとの意見に対し、僕が『火宅の人』のほうにすると言うと、理由を聴きたいと詰められた。僕とても作品自体の出来映えとしては『麻雀放浪記』が優っていると思うのだが、『麻雀放浪記』に四十一年前に観たときほどの感興が湧かなかった一方で、『火宅の人』は、今回の四十年ぶりの再見で随分と面白く味わい深く映って来て、僕のなかでの評価が2ランクもアップしたからだと回答した。僕はかなりの歳月を経て再見して、新たな気付きや発見を得ても、作品評価までは余り変わらないほうなので、『火宅の人』には本当に驚いたのだ。

 その鍵にもなっているのが上述のもう一度、いまから一緒に飲みに行かない?の場面であって、これ以上“重たいもの”を背負う根性のない一雄の情けなさを炙り出し、一雄自身が一番その情けなさを知っていることを描き出しつつ、太宰からもひでぇもんだ、馴染みの女郎に裏切られたような気分だと言われてしまうような半端者でしかあれない無様を曝け出していた。無頼に憧れつつ真の無頼にはなれない、太宰や中原には窺えない“生活感”の滲み出る人物であることが悲しく描き出されていたように思う。この場面についての意見をメンバーに求めたところ、肝心の「もう一度」の部分にさほど気を留めている者がいなかった。

 もう一つの全28章のチャプターメニューのうち5章【19~23】約30分を配している葉子との流離の場面をどう受け取ったかについては、まるまる無くても構わなかった、トーンが変わり破調というか破綻と言う他ない印象だったというような意見が出るなか、主宰者から予告篇でもテロップで流されていた「流浪の《作家》」たらしめるためには必要な場面だと思う、それがなければ、流浪ではなく放蕩になってしまうとの意見が出たのが面白かった。確かにそうだ。

 しかし、僕はそろそろ潮時かなぁ。…ふんぎりがついたみたい。楽しかったからねぇ、本当に楽しかったからねぇ。 でも、あんな楽しい事、一生やってられることじゃないもんねぇ。…先生も大変だものねぇ、奥さんでしょう、子供さんが五人でしょう、それに彼女でしょう、そこへ私が割り込んだりしたら、先生だって堪らんよねぇ。 明日、一番の汽車に乗るわ、キスして…と松坂慶子に涙ながらに言わせるために設えられた登場人物だと思わずにいられなかった。四十年前に観た時分、芸能ネタに疎い僕は深作欣二と松坂慶子の不倫関係のことを知らなかったが、さすがに今は知っているから、時期的に見ても本作の後に華の乱で助演出演しただけで御仕舞になっていることのケジメがここにあると思ったのだ。三ヶ月足らずの流浪の日々に興じただけの葉子から一雄へのものだと妙に取って付けたような“浮いた台詞”なのだが、慶子から欣二へのものとして聴くと彼女の台詞に込めていた感情の深さに納得感が湧いて、些かも浮いたものになって来ないことが感慨深かった。

 脚本にも加わっている深作欣二は、一雄が“浮気小説”と自嘲していた意味合いを含めて“浮気映画”を葉子の造形に託して撮っていたのだろう。加えて、おそらくは最早あちこちに支障も出始めていたのであろう二人の関係に仕舞いを付ける意思を、松坂慶子と共に見せることによって『火宅の人』を書いた一雄に重ねていた気がする。それとともに、流浪と言えば態がいいけれども、ひたすら流され、逃避するばかりの一雄がついぞ見せることのなかった“決然”を露わにすることで対照させているようにも感じた。葉子を演じさせることで松坂慶子に覚悟を促す意図もあったのではないだろうか。それこそが本作の意匠であって、まるまる無くなると土台が異なってくるわけだ。

 だが、それによって本作が破調を来しているというのは、そのとおりだと僕も思う。というか、その破調こそが“決然”を生み、作り手の意思と松坂慶子への想いの強さに力を与えているような気がした。そして、葉子が「楽しい事」と振り返る二人の流浪の三ヶ月足らずを実に丁寧に愛情込めて撮っている気がした。それがために些かバランスを欠いた破調を来し、ある意味、作品的には壊れているのだが、作り手側にそのことへの自覚があるからこその序盤における恵子の台詞お世辞でん嘘でん褒めてくるるば伸びるとです、役者は。豚もおだてりゃ木に登るというでしょうが。ホントの批評なんぞ誰がありがたがるもんですかだったような気もしている。

 他方『麻雀放浪記』で訊ねてみたかった“一雄とドサ健のどっちがよりろくでなしか”については、訊ねる前から思い掛けなくも女性メンバーから、ドサ健のまゆみへの臨み方は、ある意味“究極の愛”ではないかと思うといった意見が出て吃驚した。ろくでなしどころか、そこを突き抜けて“究極の愛”かと恐れ入ったのだが、思えば、四十一年前に綴った映画日誌の結びを彼らが非情なまでにその勝負に賭けるのは、欲ゆえにではなく、そういう大勝負の中に身を置く煌きに取り付かれているからに他ならない。そういうバクチ打ちが女衒の達の言うところの "本物" なのである。つまり、大いなるロマンチストである。そのロマンチスト達がアンチ・ロマンのギリギリ大勝負をする。でないと彼らのロマンは得られない…。このパラドックスの中にこそ身を焼くような魔力があるのである。非情な世界を描きながら、この物語がロマンを感じさせる所以であろう。と記して終えていることとも重なる受け取りだ。作り手もそこが『麻雀放浪記』の核心だと確信しているからこそ、出目徳の符牒としては不調極まりない「今夜は星が出てるなぁ、明日はきっと天気だ」などというロマンチックなものに改変していたのかもしれないと思い、失笑を改める気になった。彼らが実は大のロマンチストであることを端的に表現しようとした工夫なのだろう。小説ほどのボリュームで綴ることの叶わない二時間弱の映画で、麻雀愛好者たちだけをターゲットにするわけにはいかないとあらば、必要なことだったのかもしれない。

 それに対して、ここに描かれた勝負師たちは、ロマンチストというよりは、その死生観も含めて世間的善悪を超えたというか、常識とは相容れない生の指針に基づいて生きている人々だったように思うとの異論もあったのだが、少なくとも作り手は、出目徳の符牒を敢えて原作と違えて“夜空の星”に変えているのだから、彼らをロマンチストとして捉えているような気がする。

 大学時分にプロになるつもりかと揶揄されるくらい麻雀に耽っていた僕は、行きつけの雀荘でママさんからバイトしないかと声を掛けられ、ママさんが店に出てくるまでの日中のボーイをしばらく務めていたことがあって、前夜の片付けや換気、牌磨きやら掃除、お茶出し、場代精算、更にはメンバー不足の卓に就いて客と打ったりなどもしていた。このママさんがちょいと気っ風のいい美人さんで旦那もいて、ちょうどオックスのママみたいな風情があったのだけれど、残念ながら僕は、坊や哲のようなわたしなんかとでいい思い出になりそぅ?…若いんだもんね(と反応を観ながら)、今度は私が楽しむ番よ…などという好い目には合わなかったという話をすると、大いにウケた。

 主宰者によるカップリングテーマが奇しくも「火宅(どうしようもない)の男たち-角川文庫と新潮文庫より-」だったように、意見交換の多くは“火宅”のほうに費やされたのだが、このカップリングテーマには、娯楽エンタメの角川文庫、文学の新潮文庫とのニュアンスも込められていたようだ。映画の作り手にその意識が働いていたとは思えないが、出来上がった映画作品そのものにはそういう側面が感じられたようにも思う。ある意味、作品的深さは、実に薄っぺらい一雄を造形していた『火宅の人』のほうが優っていたのかもしれない。一冊も読んだことのない檀一雄の原作小説をやにわに読んでみたくなったのだが、聞くところによると相当な長編らしく、少し怖気づいている。
by ヤマ

'26. 8.29. DVD観賞
'26. 8.31. 日本映画専門チャンネル録画



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