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| 『敵』を読んで | |||||
| 筒井康隆 著<新潮社> | |||||
| 四ヶ月前に映画化作品を観た際に「二年前に読んだ『ネット右翼になった父』を想起させるようなところもあって、原作小説には、どのように描かれていたのか気になった。かなり潤色もしているのだろうが、矢庭に原作小説を読んでみたくなった。」と記した原作をようやく読んだ。 巻末に「一九九七年八月四日脱稿」と記されていたから、一九三四年九月生まれの原作者が六十二歳のときの作品だ。一九六五年に結婚した夫人との婚姻生活が三十年を越えているなかで二十年前に妻に先立たれた七十五歳の元大学教授を描いた作品は、明らかにフィクションなのだが、独居老人によるエッセーのような身辺雑記を思わせる短編の集積から始まって、次第に夢とも耄碌ともつかない夢現の妄想譚に転じていく作品集だった。 映画に描かれていた“北から襲撃してくる敵”や“襲ってくる難民”を妄想する渡辺が、原作でどのように描かれているのか興味深かったのだが、今「北」と言えば北朝鮮を指すとしたものだけれども、標題編「敵」(P161~P167)では「おろしあ国」と明記されていた。既にソ連はなくなり、イデオロギー対立は題目にできなくなっている時代において、パソコン通信の世界での妄言として現れていた。その影響を受けて「供物」「侵略」などの編で渡辺自身も妄想するようにはなるのだが、渡辺が“襲ってくる難民”を妄想する場面は原作になく、「儀助はその夜避難民たちが家の前を象呂ぞろ通り過ぎて行く夢を見た。…人家に押入って物品を強奪するような凶悪さは見られなかった。それでも眼を醒ました儀助は今まで護り維持してきたわが家に押入られて何もかも滅茶苦茶にされてしまう恐怖に駆り立てられ切迫感で飛び起きた。彼らの侵入だけは防がなければならぬと思い懸命に戸締りした。ネットにアクセスするとすでに彼らが来ているということを都内葛飾区の会員が報告している。富裕と思える住宅の門や玄関をぶち壊して雪崩れ込み強奪と狼藉を繰り返しているというのだ。何やら現実ではなさそうだが虚構と断じてよいのだろうか。 新聞もテレビも避難民乃至暴徒に関するニュースはまったく報じていない。だとすれば儀助が参加しているネットの「ときめきの散歩道」を中心として会議室のメンバーだけを襲う連中なのかもしれない。モデのすわ氏までが悪ふざけをするとはどうしても思えないのだ。」(P200)となっていた。まさに現今のSNS社会を三十年前に予言しているようだった。 映画化作品でも魅力的だった「鷹司靖子」をタイトルにした短編では「鷹司靖子は今三十七歳。可愛いだけだった若い頃よりもずっと美しくなっている。」(P50)と記されていた。亡妻の「信子」を題にした短編もなかなか面白かった。 驚いたのは編題「性欲」で、冒頭「人並はずれてと言うほどではないが儀助は自分でも性欲が強いと自覚している。」(P105)としながらも、最終段「挿入までの慌ただしさに反して交接は濃密だった。ふたりが大きく喘ぎはじめるまでの短い時間のうちに鷹司靖子の表情は変化していった。老化し野獣化した。快感の乏しさに儀助が疑念を抱いてこれも夢ではと思った時に眼が醒めた。甘美に夢精していた。現実の鷹司靖子はまだ来ない。いつ来るのだろうなと儀助は思い続ける。」(P111)で終えていて呆気に取られた。齢七十五歳にして、折々自慰にも勤しみながら尚且つ夢精などすることがあるのだろうか。十三歳年上の“妻を亡くして二十年の独居老人”を六十二歳にして描いた筒井康隆の実体験に基づく記述なのか願望なのか、いずれにしても吃驚魂消た。 興味深かったのは、編題「預貯金」だ。「年金は月額二十三万円であり二ヶ月に一度四十六万円の鐘が銀行に振り込まれる。これは奉職中の最後の給料の基本給五十六万五千円と二十八年間という奉職期間が算出の基準にされていて教授としては通常よりやや少ないめだがまずは妥当な額と言える。…定年が六十五歳という私立大学は極めて少数であり通常は七十歳だ。…儀助が退職した頃には定期預金の利率が約四分で年に百三十万円ほどの利息が入り講演料などの収入が四百万円もあった。…講演依頼が曾呂曾呂減りはじめて二ヶ月に一度くらいになった頃にはうまい具合に不動産価格の暴騰があって利率は年六分にもなりこれは二年ほど続いた…しかしすぐに大不況がやってきた。まず利率が四分となりその一年後には二分前後になった。利息は年に約六十五万円しか入らぬこととなり…渡辺家の家計の赤字は次第に増加しつつ連続しはじめる。 その僅か一年半ほど後には政府が不況に梃入れして利率は五厘になり数か月後に三厘となった…儀助が受け取る利息はたったの年九万円だ。この国の政府たるや一体どのようなものであるかと憤慨したものの今まで全く政治に無関心でそのような政治家ばかりに立法行政を任せた責任は自分にもあると生れて初めて儀助は「善良な」一市民としての政治責任を痛感することとなる。」(P140~P143)となっていた。消費税が三%から五%になる一年前のことだ。 | |||||
| by ヤマ '26. 1.18. 『敵』<新潮社>単行本 | |||||
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