『デュエリスト/決闘者』(The Duellists)['77]
『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』['93]
 (The Age Of Innocence)
監督 リドリー・スコット
監督 マーティン・スコセッシ

 先に観たのは『デュエリスト』だ。画面は実に美しくて、まさにバリー・リンドン['75]並みに充実しているのだが、お話がまるでピンと来なくて些か退屈した。1800年のストラスブールに始まり、翌年のアウグスブルク、1806年のリューベック、1812年のロシア、1814年のツール、1816年のパリと十五年余りも続いた確執が、実話に基づくとは思えないほど軍規に悖るものとしか思えないのに、アルモン・デュベール (キース・キャラダイン)のみならず、ガブリエル・フェロー(ハーヴェイ・カイテル)も、揃って中尉から将軍にまで昇進していっているのだから呆れる。なんともヘンな映画だった気がする。

 一週間ほどして観た『エイジ・オブ・イノセンス』も同じように、不釣り合いなまでの画面の見事さに比して、話の運びがまどろっこしいばかりか、主役の貴族弁護士ニューランド・アーチャー(ダニエル・デイ=ルイス)の人物造形が盆暗すぎて、逃した魚の大きさに未練ばかりが募るだらしなさに些か食傷した。明治初期に当たる1870年代のニューヨークでも、いかにも欧州的な貴族社会が形成されていたのかと、同時期の西部との落差の大きさには驚かされた。

 若きニューランドが最初にオレンスカ伯爵夫人エレン(ミッシェル・ファイファー)の心の襞に分け入った、ライデン夫妻の催した晩餐会での語らいの場面で流れていた♪pathetique♪こそが主題となっている物語だったような気がする。いわゆる悲愴というよりは、哀愁といったほうがよさそうに思うけれども、自身の選択の覚悟に対するタイミングのずれによって、伯爵との離婚を先に断念させた夫人に対する想いを叶えられずに、流れのままに婚約者との結婚を選んだ男の抱えたほろ苦さを描いた映画のように感じた。五十七歳にもなってまだしこりのような形で抱えていたからこそ、建築家となった息子の用意した再会の機会にも素直に応じられなかったのだろう。哀愁を通り越して、少々見苦しいような気がした。彼の煮え切らなさに比して妻となったメイ(ウィノナ・ライダー)の一枚も二枚も上手のタフさが印象深い。

 両作とも題材的にはかなり好むところの作品なのに、思いのほか響いてこなかったのは、一つには『エイジ・オブ・イノセンス』に社交界の水に染まるにつれ品を失うという台詞もあった、いわゆる貴族社会というものが、まるで肌に合わないからなのかもしれない。ついぞゴージャスで素敵などとは思えない。また、両作ともある意味、緩慢とも言える“場面的劇性を排したスタイル”を敢えて採って叙事的風格を企図しているように見受けられた点では、ともにかなり明白に『バリー・リンドン』を意識していることが窺えたような気がする。

 すると『エイジ・オブ・イノセンス』をかなり気に入っているという方が、この作品の会話は所謂「慇懃無礼」というか穏やかな言葉の裏に様々な嫌味や当てこすりが仕込まれているようで、アメリカで文学者を集めて行った試写会ではあちらこちらで笑い声が起こっていたらしいですと教えてくれた。なるほど、そういう趣旨の台詞劇として楽しめる作品だったのかと思い掛けなかった。確かに取り澄ました集団にありがちな妙に持って回った物言いが頻出していたように思う。些かうるさく興醒めにも繋がったナレーションの過剰さにも、そのような設えがあったのかもしれない。

 だが、言葉の裏を味わうには、言うなれば駄洒落のニュアンスを愉しむような形で、英語の言い回しに対する感覚を備えていなければならないので、僕などには到底及ばない。上手な訳者による吹替え版でないといけないわけだ。もしかすると、貴族ソサイエティの持つ厭らしさ、それも本場欧州には及ばない生半可な米国東部の貴族社会を揶揄した作品だったのかもしれないとも思ったが、そこのところが本旨なら、もう少しニューランドの立ち位置というか人物造形も違えてきているような気がした。また、最後にスコセッシの父だったか祖父だったかへの献辞がクレジットされていたように、作品タイトルからしても揶揄することが作り手の本旨ではなかったからこそ、あのような形になったのではないか。やはり主題は「pathetique」なのだろうと思い直した。
by ヤマ

'24. 5. 1. BS松竹東急土曜ゴールデンシアター録画
'24. 5. 7. NHKBSプレミアムシネマ録画



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