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| 『東京プリズン』を読んで | |||||
| 赤坂真理 著<河出書房新社 単行本> | |||||
| 僕より六歳年下になる著者が実に凝った設えで綴った全八章のうち第七章までは、まるで響いてくるところがなく、半ば、読むのが苦痛だったけれども、第八章ではなく最終章と表された「十六歳、私の東京裁判」(P342~P441)は共感をもって読んだ。一九八〇年十月の十五歳から、二〇一一年三月四十五歳までの十一月一日生まれ(P57)のアカサカマリの心の旅を過去と現在、日本とアメリカを行きつ戻りつして描いていた。 天皇の戦争責任を質すディベートでの同級生クリストファー・ジョンストンの発言に触発された「“お前の国の最高指導者だった天皇は、男ではない” すべてはこの言葉から始まった気がする。私のこの混乱、そして屈辱。男でなければ女なのだろうか。 この疑問に、答えられないまま私は感じていた、図星をさされたみたいに。なるほど私の国の人たちは、戦争が終わって、女のようにふるまったのではないかと。男も女も、男を迎える女のように、占領軍を歓迎した。多少の葛藤はあったとしても、相手に対して表現せず、抵抗も見せなかった。それどころか、占領軍を気持ちよくするためのことが、公にも個人レベルでも行われ、じじつ、日本人は占領軍と仲良くやった。まれに見る仲むつまじい占領だったのではないか。…男がやって来たら、女としてもてなした。…男ではない――――この感じは今でも続いていて、国内にある米軍基地だって、基地をめぐる政府の態度だって、そうだ。…恥じながら、かつての敵をもてなした。決して武士のようにではなく、男を迎える女のようにサービスした。それを、戦争を知らない私たちでも、どことなく感じ取ってる。戦争に負けたのは、いい。しかたない。だけれど、自分を負かした強い者を気持ちよくして利益を引き出したら、それは娼婦だ。続く世代は混乱する。誇りがなくなってしまう。男もそうした。男が、そうした。」(P378~P379)とのマリの反応が印象深い。 「方便で神にした天皇を、いつか本気で崇め、あるいは神と崇めるふりをして、そしてその神は、男でなければならないと思いこんでいた。戦争をする、男神でなければならなかった。関係ないことどもが、なぜかみながっちりと固まった。 それは、どういう時代だったのだろう? 男というシンボルのもとに結束せねばならなかった時代。すなわち「戦争」の時代。軍神は男の神でなければならなかったのだ。 ことは、天皇問題よりも大きい気がした。」(P391)には、現今、右翼の一部からさえも「どこが保守だ!」と言われるような勢力ながら、メディア等では“保守”と呼ばれる“日本会議等に与する勢力”に押されるようにして先ごろ皇室典範改正が行われたときの模様に繋がる核心部分が著されている気がした。 そして連呼される「きけわだつみのこえ。 きけわだつみのこえ。」(P401)。聴くべき声はこちら側だとの思いが湧き、折しも先ごろNHKプラスで視聴したばかりの「映像の世紀バタフライエフェクト『特攻 若者たちの絶望と祈り』」の備忘録に「ロンドンにある「帝国戦争博物館」に展示されていると紹介されていた、慶大経済学部学生の上原良司(二十二歳)の所感は、手元にある『きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記―』<岩波文庫>のP268に掲載されているものだった。 音読され、テロップにもなっていた「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れることは明白な事実です。ファシズムのイタリヤは如何、ナチズムのドイツ亦既に敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如く次から次へと滅亡しつつあります。」の部分の九倍ほどが全文となる所感で、文庫本の本文の筆頭に遺書が採録されている学徒兵だ。権力主義国家に利用されることを嫌い、靖国などには行かない、天国に行くと妹に伝えていたそうだ。」と記したことを想起した。 また「高い城の中ではなく、同じ土を踏んで立ち、同じ土から生まれて、人民は森で人は木であると言わんばかりに周囲になじみ、気づくと目の前にいる。あまりに自然な唐突さでTENNOUはいる。同じ平面を見ていると、とつぜん垂直の理解がやってくるように、TENNOUはいる。 これがTENNOUというもの。具体的な個人ではなく、TENNOUというもの。私が探し求めていた人。いや、人ですら、ないのかもしれない。といって神と言えるのか、わからない何か――。「大君、教えてください、あなたとは、誰なのですか? 動物なのですか、人なのですか、精霊なのですか、聖獣ですか、それとも神なのですか。これは、あなたが創った世界なのですか?」「神が宇宙を創造したのではなく、神が自分を表現したのが宇宙である。だから、神でないものなどこの宇宙には存在しない。あなたも神なのだ、わが子よ」 そのとき、光とも人形ともつかない大君が変化して、私の母親の姿になった。」(P426)といったイメージには『もののけ姫』['97]を想起した。 そして「そのとき、母より先に英霊たちが呼応した。 そうだ。 なぜ我らを見捨てた。 なぜ我らを見捨てた。 なぜ我らを見捨てた。 すめろぎ。英霊たちの悲しみと呪詛が地鳴りのように唱和した。 母が、私に言った。「私を殺しなさい。…私はあなたに殺されたい」」(P427)と続き、「TENNOUは、母になり、大君となり、ヘラジカとなり、どれもあたたかかったりやわらかかったりする実在感があった。」(P429)となり、「本当にTENNOUの言葉がやってきた。そう感じた。「『彼らの過ちの非はすべてこの私にある。子供たちの非道を詫びるように、私は詫びねばならない。しかし、“私の子供たち”に対する気持ちを吐露する人の親であることをつかの間許していただけるなら、やはり、前線の兵士の狂気や跳ねっ返り行動と、民間人を消し去る周到な計画とはまた別次元であると言おう。そしてこの意味において、東京大空襲や原子爆弾投下は、ナチスのホロコーストと同次元だと言おう。だからといって何も我がほうを正当化はしない。が、前線で極限状態の者は狂気に襲われうる。彼らが狂気のほうへと身をゆだねてしまったときの拠り所が、私であり、私の名であったことを、私は恥じ、悔い、私の名においてそれを止められなかったことを罪だと感じるのだ。私はその罰を負いたい。 兵士たちは、十分な装備も、補給さえ、確保されぬまま、拡大する戦線の前線へと送られていった。行けばどうにかなるというていである。どうなるはずもない。私がそれを、体を張ってでも止めるべきだったのだ。我が身を犠牲にしてでも、止めるべきだったのだ。 積極的に責任を引き受けようとしなかったことが、私の罪である。たしかに私は望んでトップにまつりあげられたわけではなかった。担ぎ上げられたとも言える。が、それは私がこの魂を持ちこの位置に生まれついたのと同じ、運命であり、責任で会ったのだ。巡りあわせであり、縁あって演じることになった役割だ。それには私の全責任があるはずであった。戦争前に、戦争中に、そう思い至らなかったことを悔いている』」」(P435~P436)となっていた。赤坂真理のこのような捉え方に強い共感を覚えた。 | |||||
| by ヤマ '26. 9. 7. 河出書房新社 | |||||
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