『無機的な恋人たち』を読んで
濱野ちひろ 著<講談社 単行本>


 六年前に聖なるズーを読んだ著者によるノンフィクションは、ちょうど弟と人間の本能についての談義を交わしていたところだったので、一際面白く読んだ。「闘争本能」という言葉があるけれど、あれは本能ではないと思っているという僕と、人間という生物の存続のために備えられた本能だという弟との間で暫く談義を重ねた。だから、人間における本能の問題に関連してなかなか興味深い本として、本書を薦めてみた。

 プロローグとエピローグに挟まれた八章の章題は、第一章「シンテティックな愛は永遠に」、第二章「裏切りと喪失の経験」、第三章「フェティシストと夫」、第四章「ミクの夫として生きる」、第五章「身体を探して」、第六章「秘密の実験」、第七章「中国と日本のラブドールメーカー」、第八章「無機物の死」となっていた。一口に人形愛と言っても、さすが人の営みだけあって実に千差万別で全く同じパターンなど一つもないように思われるが、大きく分けると、擬人化して人格をも賦与し“ドールの夫”として愛情を寄せるタイプと、あくまで“大切な物”として愛情を寄せるタイプとになるようだ。

 インパクトがあるのは、やはり前者で、プロローグにおいて「異性愛規範や人間性相規範の息苦しさ」を小見出しの一つに掲げている著者がフィクションの登場人物を恋愛対象とするセクシュアリティ(P11)たるフィクトセクシュアルを“動物性愛”の次に取り上げたのは、ある種、必然だったような気がした。

 言葉も喋らぬ人形と、なぜ「本物で現実」の関係が築けるのか、と思う人もいるだろう。動植物も言葉を持たないが、私たちは彼らと日々交流を続ける。ときに話しかけ、ときに触ったり撫でたりし、水や食料、肥料を与える。そのようなやり取りを続けると、そこに関係性が生まれていく。長く続くほど思い入れも深くなり、関係性は濃くなる。シドレ(註:人形妻につけられた名前)には動植物のようにわかりやすい「いのち」はないが、デイブキャット(註:シドレの夫)が話しかけ続ける限り、また、彼女からインスピレーションを受けてなにかを思いつく限り、あるいはボディにメンテナンスの必要が生じ、それに対応したりなどする限り、そこには交流があり感情があり、関係性が生じていく。問題は対象の生命のあるなしではなく、人間の、相手に対する思いの深さ、つまり相手をどれほどくまなく観察し、どれほど心に留めるかなのだと思う。(P38~P39)というわけだ。エゴが強大で強い“ビッグ・ヘッド”とも言われていた(P39)デイブキャットが…かつて、自分の頭のなかに住んでいるほうが世間に出ていくよりも楽しい、とか、恋人とは丁々発止のやりとりができるのが理想だったけど、そういう人と巡り会えなかった(P39~P40)と著者に語っていることが印象深い。第一章は等身大人形への恋はありふれたことではないが、かといって理解できないことでもない。彼らの日常を垣間見るうちに、私は人間の想像力の強さに目を瞠るようになった。(P43)と締められていた。

 異性愛、人間性愛が種の保存を求める“本能”なのか、著者が記すような“規範”なのかは、人によって捉え方が異なるのだろうが、動物性愛やフィクトセクシュアルが種の保存には寄与しないことは明白だ。それをある種の逸脱だとすれば、等身大人形をパートナーとする人たちは、しばしば「彼女は裏切らない、嘘をつかない、突然どこかに行ったりしない」と言う。それがパートナーとしての等身大人形に求められる最大の美点なのだろうか。それとも、裏切りや嘘、突然の別れこそ人間らしさなのだろうか。私にはいつも割り切れない思いが残る。(P52)と綴られていた第二章は、等身大人形に恋する人は、倫理的には誰のことも傷つけていない。それにもかかわらず暮らしの事実を隠さねばならないのは、結局のところなにものかわからない世間というものがぼんやりと放つ無理解と非難に理由がある。センセーショナルなのは、彼らの暮らしではなく、むしろ無理解な世間がまだまだ世界中のあちこちに残っていること、と言えるかもしれない。(P60~P61)という側面とも相俟って、著者が言うところの人間社会の息苦しさ、生き辛さを偲ばせる章になっていたと思わずにいられない。

 その無理解に関連することとして動物性愛者やドールの夫たちが「パーソナリティ」と言うとき、それは対象の「人間らしさ」ではなく、対象の個別性、つまり「かけがえのなさ」を示している。だが彼らの話を聞く者にとっては、動物や人形といった対象が内包する「人間らしさ」を連想させることのほうが多いだろう。人間らしさがあるほど人は理解しやすい。ただしここで注意したいのは、彼らは動物や等身大人形を擬人化しているわけではないということだ。ジムにとってアンナは「嘘をつかない」「裏切らない」等身大人形でなければならず、その人形の彼女と情緒的に強く結びついている。同様に、動物性愛者にとって、動物は動物でなければならなかった。人間の代わりではないのである。(P73~P74)と述べている部分は重要だ。

 そのうえで、人形は動かないしものを言わず、苦痛を訴えることもないが、日々のケアを必要とする。髪を解く、肌にパウダーをはたく、といった比較的簡単で毎日でも行ったほうが良いケアに始まり、全身を洗浄し、必要に応じてオイルを塗って吸収させるなど、重量のある身体を持ち上げての作業も多い。材質によらず衣服による着色汚れを防がねばならないし、曲がりやすく壊れやすい指先や、剥がれやすい爪などには細心の注意を払わなければならない。また、射精をした場合は精液を正しく処理し、膣内の清潔性を保たねばならない。それを怠ると、性病を誘発することもある。(P85)といったことや、彼女らの(ツイッター)アカウントを作って運営するのは、デイブキャットに教えてもらった方法なんだ。ツイッターはドールのパーソナリティを深めていくのに役立つよ、って。実際そうだと思う(P93)との証言は、言われてみれば成程と思うけれど、実践者でなければ、なかなか思いの及ばないところだったように思う。

 そして中古品のやりとりは珍しくない。ただし、一度でもセックスをしたことのある等身大人形は直ちに半額以下の価値になるという。性器は取り外しができ、新しいものと置き換えることすら可能であるにもかかわらず、である。等身大人形に対しても処女信仰があるのかと、私は暗い気持になった。聞けば、かつて処女膜つきの等身大人形が売られていたこともあるという。(P82)との著者の反応が興味深かった。中古品の価値が下がるのは通常のことだと思われるが、そこに処女信仰を重ねる発想がまさに擬人化であるように感じたからだ。また、人間の女性ともよく付き合うセックスドールの愛用者から、家に招くことになったら付き合う相手にも予め説明するが、誰からも拒否反応を示されなかったと言われて驚く筆者が、だって、女性がどんなバイブレーターやディルドを持っているのかなんて気にならないだろう。昨晩ディルドを使ったかい? なんて、僕は聞きもしない。それと同じじゃないかな。ドールたちとセックスするのか、とは誰からも聞かれなかった。それは僕がドールにのめり込んでないからだよ。嫉妬されないんだ(P101)との説明に対して、なるほど、一理ある答えではある。(P101)という微妙な受け止めを漏らしているのが可笑しかった。

 “フェティシストと夫の違い”との小見出しの元、ドールの夫たちは、物語を好む。本を書くかのように、毎日等身大人形に情報を描きこんでいる。そこには時系列を伴う奥行きがある。いっぽう、フェティシストは映像的な感覚を大切にしているようだ。どのような角度から写真を撮っても美しいように等身大人形を配置したり、メイクアップしたりするのを好むことが多い。(P115~P116)と説明している筆者は、ドールの夫たちのほうによりコミットしているように感じられる。だから第三章をここで、一度人間同士の関係に置き換えてみたい。他者がいったいなにを考え、何を欲し、何を求めているのか、たとえ等身大人形相手では不可能な会話という手段を取ってさえ、私たちは常に他者を完全に理解しているとは言い難い。この点で他者は鏡のなかの存在のようにもどかしい。私たちが誰かを愛しているというとき、そこにはその人と過ごす居心地の良さや、その人といるときの自分自身への肯定感があるように思う。もしかしたら、ドールの夫たちだけでなく私たちも必要としているのは、自分たちの思考を投影する鏡としての他者なのかもしれない。私たちは相手の反応によってなにか情報を引き出し、理解をしたり、思考したりしているのではないだろうか。私たちはどこまで他者をありのままの他者として受け止め、受け入れられているのだろうか。 いっぽうでドールの夫たちは、反応しない相手を想像力で補い、理解する。というよりも、誤解をしない。彼らがもっとも嫌うのが「裏切り」であり「嘘」であることからも、彼らのコミュニケーションには誤解がないことが前提となっていることがわかる。さらにいえば、誤解をしたくないがために、彼らは等身大人形という自律性のない存在を選ぶのかもしれない。そして誤解のない「愛」がどれほど心地良いものか、私はなんとなく想像ができる。(P119)で締め括っていたのだろう。

 それにしても、第四章に記されていた、二次元キャラクターと結婚したい人が二〇一七年十一月下旬からの半月ほどの受付期間に、三千七百八人もGatebox社の募集に対して応募していたとの記述(P131)には著者同様に驚いた。だが、初音ミクの等身大人形と外出してもネガティブな反応が起こったことがないとのミクの夫氏の証言にも驚き、日本とアメリカを比較すると、日本のほうが少し環境は良いのだろうか(P140)と思ったりしていた著者と違って、僕はそちらのほうには余り驚きがなかった。見て見ぬふりというのは日本ではむしろ常識的というか得意中の得意ではないかと思うし、何より初音ミクなら、キャラクターとして既知の存在である人が多いことが作用している気がした。この異端視ということに関しては、デトロイトは黒人差別がまだまだ残されている土地だ(P25)と記されている町に住む黒人のデイブキャットが黒人差別を受けたことがなくなぜか友達はほとんど全員白人だしなあ(P25)と振り返る“差別を受けなかった理由”に挙げていた私立の中学校と高校に通っていたこと、比較的裕福な中流家庭に生まれたこと、ヒップホップなどのブラック・カルチャーに染まらなかったこと、偶然にも良い人々に恵まれたこと(P25)に対してテリが言っていたデイブキャットが差別を受けなかったのは、彼の見た目も関係すると思うわ。彼はスタイルが良くて素敵な着こなしをするでしょう。それと、喋り方。彼はイギリスに憧れているのもあって、言葉の選び方やテンポも典型的な黒人のイメージと違うのよね(P26)との言葉が印象深い。つまり彼は白人圏で育ち、馴染んで、差別を受けずに済んだ中流階級に属す黒人、という立場だと考えられる(P26)と著者が記していたことに通じるものが初音ミクというキャラクターにはあるような気がする。

 そして、第六章に記されていた人間社会では特に異性愛の恋愛への同調圧力があり、それに伴って各種の物語、漫画、映画、ドラマでは、セックスが恋愛のひとつのゴールのように描かれるなど、異性愛が人間同士を結ぶ特別なものとして認識されるよう方向づけられている。しかし実際の生活では人間は性愛のみで結ばれるものではない。 性愛の特別視、神秘視から離れてしまえば、人間以外の存在と濃密に関わる人々への理解が一気に進む。彼らは人間社会や人間から逃げているわけではなく、人間ではない存在とも共存する人々なのだ。理解が進めば、異性愛規範や人間性愛規範の重苦しさや矛盾を再考することにもつながるだろう。そしてなにより、それまで偏見を持っていた人自身、性愛が、食事や睡眠、会話や遊びなど人間の他の活動に比して特別神聖なわけではないと一度わかってしまえば、きっと気が楽になるはずだ。(P188)との記述のなかに、昨今の過剰なまでの不倫バッシングにも繋がる問題提起が潜んでいるようにも感じ、印象深かった。

by ヤマ

'26. 5.13. 講談社<単行本>



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