| 『聖なるズー』をめぐって | |
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(TAOさん) ヤマ(管理人) |
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◎mixiメッセージ(2020/08月06日~25日)から
(TAOさん) 『聖なるズー』の感想文日誌拝読。細部まで楽しんでいただけたようで、推薦人としてもお薦め甲斐がありました。ヤマさんには本当に絶好のタイミングでしたね~。 ズーにしろフリーセックスにしろ、私もつくづくドイツ人ないしドイツという国はじつに興味深いなと思いました。観念的かつ理詰めでもフランス人のそれとはまるでちがって、とことん生真面目だしロマンティックなのですよね。そこが「聖なる」所以でもあるのですが…。ズーにしても、動物=自然への共感、崇敬の面など、戦前のワンダーフォーゲルに通じるところもあるなと思いました。 私が最も刺激を受けたのは、お察しのとおり、ロンヤの発言でした。暴力性は性器の形状には由来しない。言われてみれば本当にそのとおり。おかげで私はようやく腑に落ちたことがありました。映画『愛を読むひと』にしても原作の「朗読者」にしても、その主人公は少年時代に性的な関係を持った年上の女性に対して、なんとも煮え切らない男だなと思っていたのですが、そうか、あれは性的虐待だったのだなあと。女が犯罪者だからという以前に、いくら快楽があっても、対等とはいえず、納得感もない関係と一方的かつ唐突な別れに、少年は傷つき、その傷が癒えてなかったのだなあと。 『ワイルド わたしの中の獣』は私も見逃して気になってます! そうだ、狼といえばエリーヌ・グリモーというピアニストをご存じですか? 楚々とした美人で、ピアニストとしても超一流なのですが、野生オオカミの保護活動をしていて、養育をしながら、研究を続けているのです。ずっと前に本人の書いた本を読んだところ、音楽の話以上に、狼への愛が延々と綴られていて、なんじゃこれは???と不思議でしたが、たぶん彼女もズーだったんだなと納得でした。 ヤマ(管理人) ロンヤは本当に興味深い方だね。僕は、彼女の話に著者が見て取った「暴力性は性器の形状には由来しない」を読んで、むかし『キリング・ミー・ソフトリー』の拙日誌に「ところが、形状的にも受け入れる性である女性の受容力と感応力というのは男の想像域を越えて卓抜していて、それが受容力や感応力によるものなのか、真性の性的嗜好なのか見紛いかねない。もちろん、形状的に受け入れる性だという受動性のイメージとは逆に、形状的にはくわえ込む性だというイメージも成立し得る。そして、その場合は、むさぼるという能動性を認めることになるが、歴史的にも性文化の大勢は女性の側が受動性だという気がするし、男女とも多くの者がその影響下にあると思う。」と綴ったことを思い出したよ。読書感想文では敢えて言及してないけど。このときの貴女との談義も、なかなか面白いね、いま読み返しても。 んで、『愛を読むひと』の性的虐待の件を伺って、僕が想起したのは『キリング・ミー・ソフトリー』の談義での貴女の「あのヘザー・グラハムの変化、ものすごくリアルでした。未知の世界の扉を開いて、新しい自分を発見する喜びにどっぷり浸ってますよねえ。」との発言と、それを受けて僕が返した「これなんですよ! これ! 押し付けられた挙げ句に否応なく引き出されての感受ではなく、共犯的に臨むような選択と積極性が窺えましたよね。扉をこじ開けられたのではなく、自身も加担して扉を開いていくことで、まさにおっしゃるような自己革新の発見の喜びを感受していましたよ。」という遣り取りだったよ。 そして『聖なるズー』でのティナが扉を開いた未知の世界が持つ彼女にとっての意味というものが、著者が直接聞いたときの形のまま変わることなく続くことなのか、ロンヤやティナが“なった人”であることが即ち“なくなる人”にも変わり得ることの証左でもあるのか、と思えば、心許ない気もした。 しかも、ティナたち三人(?)のしたこと自体は、著者が最初に日本のアダルトサイトにアカウントを作ったときに申し入れられて「平静に受け止めることはできなかった。耐えられなくなり、私は累積するメールを消した。直接話したわけでも、危険にさらされたわけでもない。無視すればよいだけだったが、私は生理的に気味悪く感じた」ことの一番最初に挙げていた行為と外形的には同じわけだよね。でもそれは、著者が聖なるズーのミヒャエルとコンタクトを取り始めたばかりのときのことで、ティナたちを知るようになったら、そういったメールに対しても気味悪さを感じなくなるのかと言えば、それはそうではないだろうという気がする。そのうえでティナたちには気味悪さを感じていないはずだ。ここのところが実に興味深いと思う。 僕が感想文に「ますます暴力性と対等性における“偽物”とは何かということが悩ましくなってくる」と記したのは、そういうことであって、「性的虐待」というのも「動物虐待」というのも、何を以てどう捉えるのが相応なのかが非常に難しいというか、当事者以外には不可能なのでは、とか当事者には余計に難しいのでは、とか思ったりするよ。 ともあれ、とっても触発されて面白く読んだ。ホントに、ありがとね。 (TAOさん) そうですね、アダルトサイトで感じた気持ち悪さは、ティナたちへの理解を経てもなお変わらないでしょうね。アダルトサイトの当事者にだって好ましく思える人物がいないとは限らないのに。たしかに悩ましいです。 当事者にはさらに難しいでしょうね。虐待や共依存と愛情の区別なんてつけたくないかもしれないし。そもそも真の愛情なんてあるのかという考えだってあるわけで。ただ長い間自分を偽っているとからだに不具合が出てくる気がするので、最終的にそこでなんとかするしかないのかも。 いずれにしろ当事者でない者としては、常識にとらわれず、できるだけ見聞を広げ、想像力を磨いておきたいものです。 ヤマ(管理人) そうやね。想像力を磨いておきたいものやと僕も思う。 では、ティナたちを知った後でも、おそらく著者は、アダルトサイトからのメール者には変わらず気持ち悪さを感じ、ティナたちには気持ち悪さを感じない(バディの参画の仕方における対等性への懐疑は抱きつつも)だろうと僕たちが共に受け取る違いというのは、どこから生じてくるものだと思う? また「ただ長い間自分を偽っているとからだに不具合が出てくる」場合というのは、元から内在している不具合の顕在化の側面と、時間経過のなかで“なった人”から“なくなった人”に変わったことで不具合が出てくるようになる側面とのいずれが大きいように思う? (TAOさん) 最初の問いのヒントは、やはり相手が匿名で顔が見えないことでしょうか。ある程度同じ場と時間を共有したうえで、信頼感なり共感なりが芽生えない限りは、「気持ち悪さ」は拭えないように思います。 二番目の問いはむずかしいですね。というのも、「自分を偽る」というときの「自分」は、元から内在しているものもあれば、折々の関係性やホルモンやなんらかの契機によって変わったり発展したりもするものでしょう? とはいえ、そこは目をつぶって、元々内在していたものが発見されたり、深められたりするのだということにしておきましょうか。 そうすると、“なった人”から“なくなった人”に変わるときの自己決定に関わる「自分」は、当然意識的な自分でしょうから、たとえば初めからズーではなかった人が、あるとき自分を偽っていたことに気づいて“なくなる”可能性もある。ヤマさんがおっしゃるように、じつに心許ないですね。ただ、偽りに気づいて改めるのであれば、むしろ不具合が解消されるのでは。 それと、ズーになる人は、元々自分のからだや五感に対し、一般的な人よりも敏感であるように思えます。そういう人は本来的にあまり深刻な不具合には至らずに済む気がします。 ヤマ(管理人) 一問目については、同感。同じように感じているわけだから、一致して道理なんやけど(笑)。お書きの部分は、まさに本書でザシャが語っていた「パーソンとは、パーソナリティを備えていると認識できる存在のこと」の部分だよね。著者が敢えてキャラクターとパーソナリティは違うと書き分けていた意味合いにおける“パーソナリティ”の介在の有無だよね。 加えて大きいのは、「ふたりと一頭の実践」の項(P222~P228)に記されていた実践において、ティナと犬のバディのセックスを求めたのは、エドヴァルドではなくて、バディであることに対してティナが自分から試みようとして実践されたことである点が、著者がメールで求められた「犬を交えてセックスをしようとか、動物とのセックスを見せて欲しいとか」(P27)いった人間の男性からの求めではない点だと思う。むしろエドヴァルドは、「ティナを傷つける可能性があるから、積極的になれないよ」(P224)と言ってるくらいだから、その部分でのティナの自己決定にエドヴァルドの影響はなさそうだしね。 二問目については、僕も非常に悩ましく感じてるんだけど、どちらかと言えば、後者のほうが強いように感じてる。貴女は、前者なんだね。不具合が解消されるということに関して言えば、元々内在していて顕在化した不具合であろうが、時間経過による自身の変化によって生じ始めた不具合であれ、止めることで解消されるのは同じだと思う。 僕が後者のほうが強いように感じているのは、『キリング・ミー・ソフトリー』の拙日誌に「形状的にも受け入れる性である女性の受容力と感応力というのは男の想像域を越えて卓抜してい」ると記したような可塑性というか変幻自在みたいものを感じているからだろうね。 著者が性暴力を受容していたときにしても、受忍的受容であって納得していたわけではないように「不具合」を感じていたわけで、僕が思うに「自分を偽る」というときは得てして「(相手に対して)自分を偽り(本当の自分を)表現できない(或いは、しない)」ということだろうから、それが当を得ていたかどうかはともかく、当人において自覚している“本当の自分”というものが“偽りの自分”との対照のなかで認識されているはずだと思うのよ。 で、生来的に生理的感受力が男性よりも高そうに思える女性という存在が、その時点での本当の自分とのズレなり違和感に気づかないことは少なそうな気がするのと同時に、他方で女性的な受容力と感応力の高さがまた、その本来の生理的感受力をも上回りそうな気もして悩ましいわけ(笑)。むろん個人差も大きいことは当然なんだけどね。 とはいえ、ティナが後に再び“なくなった人”に変わったとしても、それは元々内在していて顕在化した不具合によるものではなくて、彼女自身が再度自己変革を果たしたことに伴うもののような気がする。 そこには、やはり著者の経験した性暴力の受容との大きな違いがあって、著者が「相手をなだめすかし、その晩を眠りに充てるためにだけ…合意する」(P173)無意味で無感動なセックスにおいて、「まったく反応しない私の身体を弄び、男はヴァギナに透明なジェルを塗りたくってペニスを挿入し、そのうち果てる」(P8)のとは違って、「身体的にはちょっと退屈だったな。動きが少ないから。(としつつも)でも、バディをこれ以上にないほど近く感じられて、精神的にはとても素晴らしい感覚を得られたよ。もしかしたら、亀頭球まで挿入してGスポットに当たるようにしたら、身体的にも気持ちいいのかもしれないよね。でも大きすぎるから怖いし、私には無理だと思う。挿入のあとは、バディの精液で膣が満たされて、すごくよかった。だけど一番素晴らしい喜びは、頭のなかにあったよ」(P227)とまで語っているティナの感じたものが、後出し的に“偽りの自分”になってしまうことには合点が行かなくなるからじゃないかな。 (TAOさん) ヤマさんのいう生理的感受力って主に性的なものですよね? だとしたら、女性と言えども生来的に備えてる人は少ないかと。それも自分自身で貪欲に探求できる人は少数で、多くは異性ないし同性との性的な体験を通じて会得していくわけで、経験が浅いうちは、自分の基準がないわけですから、違和感の感じようがないんじゃないかな。 それとズーになった人がそれをやめるとしたら、偽り云々よりも、単にその気がなくなるときなんじゃないかという気もします。つまり、気が済んだわけだから、不具合はないのでは? ヤマ(管理人) >ヤマさんのいう生理的感受力って主に性的なものですよね? もちろん性的なことも含めて、だけれど、主にということではなく、俗に女の勘と言われるような部分だとか、頭で思考するロジックとは異なるものからの感受力といったものを想定してた。 そのうえで、本書の扱っている領域が「性愛」だから、貴女が指摘した「ただ長い間自分を偽っているとからだに不具合が出てくる」ということに関連したからだの問題にかかる引用を本書からすれば、おのずと性的なものになったというのが実のところ。 「多くは異性ないし同性との性的な体験を通じて会得していく」に異論は勿論ないよ。ただポテンシャルの違いがあって、男は女性には敵わないと思ってる面はある。そうは言っても、斯界の達人的域にある男と未経験の女性を比較して、どちらが観察力をも含めた感受力に優るかは自明のことだと思うよ。 で、違和感というのは、経験してるもの、経験してきたこととの違和感ではなくて、自分自身にとっての違和感という意味で、それこそオーガズムの基準もないままに不感症だとか心配するといった話ではなく、不全感があるとか後味の悪いものが残るといった感じで「違和感」として不具合を感じるという意味なんだけどね。 「その気がなくなる」というのはまさしくそのとおりで、だから僕は「後者」つまり変化によるもののほうが大きいような気がすると感じてるわけだ。その際、気が済んだから不具合が生じないというのは、本書になぞらえて言えば、トイとして接していたのであれば、気がなくなればトイで遊ばなくなるだけだから不具合が生じる余地はないけれども、パーソナリティを介在させた関係として接していれば、直ちに解消ともならなくて、まさに不具合を感じ始めるなかで自身の「変化」のほうに気づくことになるパターンのほうが「動物性愛」においても他の場合と同じように、関係性においては自然なことなんじゃないかという気がするけどなぁ。 (TAOさん) なるほどそういう不具合ですか。それはもちろんそうですね。人間であれ動物であれ、そこは困難が生じるでしょう。しかも人間に依存して暮らさざるを得ないペットが相手なのだから、およそ対等とはいえないという問題は残りますよね。 ちなみに、私がいう不具合というのは、本人が長い間からだのサイン=違和感を無視し続けたことによって起こる心身症的なもの(失語症やうつや脚が動かないなどのヒステリー症状)や、がんや突然死といったもののことです。もともと男性のほうがからだからのサインを無視しやすいのは、ヤマさんがおっしゃるとおりですが、近頃は女性も都市化・男性化しているうえに、男性以上に同調圧力や刷り込みに弱いという特性があるので、この手の不具合を起こしている人がとても多いように見受けられます。 生理不順や不妊が増えているのは前駆症状ではないかな。で、本人がその根本的な理由に気づいていないだけに、文字通り致命的になりうるこうした不具合に比べれば、関係性を直ちに解消するわけにもいかずに生じる不具合は、自己嫌悪であったり後悔や傷は残るにせよ、対処のしようはあるだろうと考えているわけです。 ヤマ(管理人) >人間に依存して暮らさざるを得ないペットが相手なのだから、およそ対等とはいえない これ、本書の鍵となる部分だよね。 この、普通には対等と思えない存在との関係における対等性って、何により保証されるものなのか。『犬身』にあった「しかし、彬はそんなことにも気がついていない、というか無頓着なのだった。」とも繋がってくるとこだと思う。聖なるズーたちが拘り、著者が目を留めた対等性というものがそもそも在り得るものなのか、飼い主の無頓着による思い込みではないのか、在り得るなら如何なる形で成立するのかってとこが難問だ。 (TAOさん) そうなんです、ペットの去勢に対する是非以前に、そもそもペットという人工的な存在自体をどう捉えるのかというところまで関わってきますよね。 ヤマ(管理人) それはそれとして「近頃は女性も都市化・男性化しているうえに、男性以上に同調圧力や刷り込みに弱いという特性がある」との指摘は、とりわけ自民党の女性国会議員たちに顕著に窺える傾向だと僕も思ってて、実に興味深いな。でも、かの女性議員たちも不具合を起こしているのだろうか。それとも、そうはならないタフさを備えているからこそ、議員をやってられるのか。それとも、仮面うつ病みたいなことが起こってるのかなぁ。 (TAOさん) それほど多くの方に会ったわけではありませんが、実際に会った限りでは、政治家だけでなく、医師や学者や弁護士や経営者…男性と互角以上に張り合わざるを得ない社会で成功している人たちは、恐ろしくタフです。むしろ、こういう人たちを専業主婦やパートタイマーに押し込めていたら、それこそ不具合を起こすでしょうね(笑)。 だから、そういうパワフルな人たちは放っておいても大丈夫なのですが、問題はそこまでやる気もタフさもない人までが、社会や政治やメディアの圧力や、不本意に専業主婦を強いられてきた母親たちからの洗脳によって、仕事も子育ても完璧にやらなくてはならないと、からだの悲鳴に蓋をして無理し続けてることじゃないかなと思います。 ヤマ(管理人) まさにそういうことなんだけど、この「そこまでやる気もタフさもない人」が「洗脳によって」というところが、それぞれ両方とも傍から容易に見分けられるものではないってとこが難問なんだよなぁ。動物性愛や『キリング・ミー・ソフトリー』も含めてね。元々とかホントのとか、言うは易く見極めは難しってことだね。想像力の磨き甲斐でもあると同時に、とても太刀打ちできないような難問だ。 (TAOさん) 洗脳といえば『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』という本が面白くて、著者である漫画家の田房永子が言うには、バブル世代の女性はクンニ、ロスト世代以降はフェラが常識と、世代によるギャップがあるんですって。どこかで「雑誌ananのSEX特集が素人の女の子を風俗嬢にした」という指摘もありましたよ。AVの影響とか経済や男女間のパワーバランスの変化とか、いろんな影響で、SEX観が変わっていくんですね。 ヤマ(管理人) え?「バブル世代の女性はクンニ、ロスト世代以降はフェラが常識」って、どういうこと? “アッシー、メッシー”のバブル世代から“はい、御主人様”のロスト世代ってことかな? メイドカフェってロス・ジェネからだっけね? う~む、気になる。またまた宿題を抱えたではないか(笑)。 でも「セックスで、きれいになる」のananがなんで風俗嬢? 特集で業務用技術を教示して素人娘が真に受けたっていう意味かな? それとも対価を要求するようになったってこと? だとしたら、それがananの「セックスで、きれいになる」と、どうつながるのかな。 ともあれ、人間の可塑性というものと、一貫性というか「栴檀は双葉より芳し」とか「蛙の子は蛙」みたいな変わりなさとの配合って、どうなってるんだろうね。 (TAOさん) うふふ、やっぱりヤマさん向きのネタでしたね。 バブル時代の女の子はマグロでも十分ありがたがられたけれど、AVが普及した氷河期世代では、男女共に女が奉仕するのが当然となったみたいです。「SEXで綺麗になる」はバブル時代の特集じゃないかな。私もそのタイトルには覚えがあります。当時は若い女性向けのファッション誌がSEXをテーマにしたというだけで画期的だったのが、その後はSEX特集もだんだん変化して、いかに喜んでもらうかがコンセプトになっていったようですよ。anan自体もファッション誌からお金、占い、恋愛、アイドル、仕事みたいな実用&自己啓発雑誌に変わっていったし。「対価を要求」はないと思います。 人間の可塑性について、医学系の調査でよくやるのは一卵性双生児の研究で、遺伝子情報がまったく同じでも、スイッチが入るかどうかは環境によるので、ちがう環境で暮らす双子は顔だちや体型まで変わってくるそうです。人間の変わる可能性は、私たちが思っているよりはるかに大きいのかも。 ヤマ(管理人) こういう記事があったよ。これによれば、「セックスで、きれいになる」は、1989年から10年続いたみたいだね。となれば、バブル期から崩壊後までカバーしてる(笑)。で、少し途絶えた後も、2003年には「恋に効くセックス」で再開されて、今に至ってるんだって。 可塑性というのは、「固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質。」のことだから、元々はなかったものが定着するということを意味すると同時に、また別な強い外力が作用すると再び変形して固定化するってことでは、動物性愛でもLGBTでもBDSMでも、内在していたものが目覚めたのか、メンタル的にもフィジカル的にも強い刺激を受けることによって定着したものかを見極めることが、「なった人」と自認している人においては、とりわけ難しいように思うね。 その「スイッチが入る」という表現には、内在していたものが顕在化するスイッチとのニュアンスが濃いように感じるけど、変形のスイッチと言えなくもない点が微妙だな。でも、「内在していたものの顕在化」と「外力による変形」とは大きく異なる領域のものだという気がする。 (TAOさん) その記事、労作ですね~! こんなに続いていたとは。見出しを読むだけでお腹いっぱいというか、ゲンナリ(笑) そうか、可塑性というのは元に戻らないほうでしたか。PTSDみたいなもんですね。じゃあ、PTG(ポストトラウマティック・グロウス)はどうですか? 心的外傷を経て精神的成長を遂げる人がいるように、外からの働きかけによってであれ、いちどズーになった人は、やめた後もなんらかの痕跡は残るんじゃないでしょうか。 ん、ヤマさんのそもそもの質問は、内在していたものの顕現と外からの刺激の塩梅でしたっけ? 他の性的マイノリティと同じだとしたら、生まれつきが多いのでしょうけれど、ズーの場合は人為的な部分が大きいから、そこが悩ましいですね。 ヤマ(管理人) 雑誌ananの「セックスで、きれいになる」が、1989年から10年なら、秋葉原のメイドカフェが2001年のようだから、前に僕が「「バブル世代の女性はクンニ、ロスト世代以降はフェラが常識」って、どういうこと? “アッシー、メッシー”のバブル世代から“はい、御主人様”のロスト世代ってことかな?」と書いた部分は、いい線いってたみたいやね。 アンアンの特集のほうは、僕も笑ってしまった。オヤヂ週刊誌からヂヂ週刊誌に移ろってきたポスト・現代と同じ状況のようや(笑)。 グロウスねぇ。この「成長」という言葉がまた、なかなか曲者だよねぇ。社会的な意味からの価値性を抜いた、生体の形態変化(端的には衰えを意味することの多い老化も成長みたいな)を言うこともあって微妙なんだけど、PTSDの対概念としてのPTGというときのグロウスは、障碍に対する成長なんだから、ポジティヴな価値性を認めているよね。 それで言えば、必ずしもグロウスとはならずともストレス障害にもならない形での痕跡を残すというのは、むしろ最もありがちなことのような気がするな。ちょうど可塑性について「元々はなかったものが定着するということを意味すると同時に、また別な強い外力が作用すると再び変形して固定化する」と書いた際に僕がイメージした粘土細工で言えば、再び変形して全く元と同じ形を再現することが限りなく困難であるように、一度変形した痕跡は拭えないものだと思うね、貴女も言うように。 で、「内在していたものの顕在化」と「外力による変形」の性的マイノリティに対する捉え方について言うと、前者の度合いが強いように感じる傾向を先に挙げた三つにおいて示せば、僕は、LGBT>動物性愛>BDSMとなるように感じてる。何故だかは、自分でもよく判らない。強いて言えば、性感インパクトに支配される度合いが高そうに感じられるものほど、「外力による変形」領域が高まる気がするのかもしれない。でもって同時にそれは「でなくなった人」に変じる可能性がより高い領域とも言えるような気がしてるなぁ。 (TAOさん) ああ、その3つの順番は、私もまったく同感です。動物性愛はLGBTよりは恣意的に感じられるし、BDSMのような刺激や解放を求めての嗜癖ともちがう気がします。 今さらですが、「でなくなる」とは、どうなることをイメージしてますか? 1.一切の興味を失って性的マジョリティとして生きる 2.実際の行為はやめるけど、欲望や関心は持ち続ける 3.べつのカテゴリーに移行する 4.性的なものすべてからリタイアする たとえばBDSMで1ってあり得るのでしょうか。好奇心とお金のためにその手の店で働いていたけど、うんざりしたとか? ヤマ(管理人) 1もしくは3やね。移行先がマジョリティになる場合もあれば、ならない場合もあると思う。 4って、人が生きてる限りあり得るのかな。何をもって性的とするかによっても違ってくるけど、フロイト的に考えれば、生のエネルギーの根幹を成しているわけでしょ。まぁでも、性的指向として当人が自覚しているものにおいてという条件付けをすれば、4もあり得るかな。 そんなことを思ったのも、「でなくなる」変化について、貴女は、かなり選択というか自己決定を重視していて、僕は、先に「身体的不具合のほうから気付きを得る形」についても触れたように、自覚なきままの変化のほうをむしろ重視しているところがあるからね。 そして、先には「可塑性」なる言葉を持ち出したりしたけれども、他方で「復元力」みたいなものも人間にはあるから、可塑性の「固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質」に準えて言えば、「固体に外力を加えて変形させても、力を取り去るともとに戻ろうとする性質」というのもある気がする。もっとも元に戻ろうとしても一旦変形した痕跡が全くなくなるような復元は考えにくいのは、新たな外力によって元の形に再変形しようとする場合と同様だけど。 で、自ら選択して性的指向を「変える(やめる)」場合と復元力のようなものが働いて元に戻ろうとする場合も含めた「変わる(やまる)」場合の両方があるように感じてる。でもって、感覚的には、変える場合よりも変わる場合のほうが多い形によって「でなくなる」気がしてるなぁ。 例示されたBDSMの場合って「していた人」ではあっても自身の性的指向がBDSMになっていたわけではないから、いま交わしている論議の事例にはなじまない気がするよ。 僕が「なった人」になってから「でなくなる人」に変化する事例に関心が強く向くのは、やはり「何がそうさせたのか」ってとこが興味深いからなんだけど、例えば、聖なるズーたちにおいて凄く重要視していたパーソナリティの介在の部分(まぁ彼らは人間と違って動物は裏切らないと言ってたけど)に揺らぎが生じると、マジョリティの人間における性愛関係でもそうであるように気持ちよかったはずのセックスに「からだが不具合」を覚え始めるのと同じようなことが起こるんだろうけど、それでもって動物性愛自体に不具合を感じ始めたとは必ずしも言えないのはマジョリティの交わしている性愛関係と同じはずなんだけど、もし、そういうことが起こった場合に、彼らはそうは思わなくて(動物は裏切らないと考えてるから)、パートナーの動物に不具合を覚えるのではなく、動物性愛に不具合を感じ始めたと思いそうな気がしてならない。 もっとも、ミヒャエルみたいにパートナーの動物には名づけをしても他の飼養動物には名前を付けていないという意識純度の高い動物性愛者の場合は、そうはならないかもしれないけど。 で、BDSM指向については、動物性愛よりも更に変化の可能性の高さを感じているので、そこにおける「何がそうさせたのか」が大いに気になるね。その場合、好奇心はまだしも、カネで自身の性的指向を変える変わるというのは、今ひとつピンと来ないね。もっとも順応力の高さに秀でた女性的特性の強い人の場合、従事する間は指向そのものを変化させることができるってこともあるのかな。だとすれば、人間の性的指向ってそんなものじゃないとLGBTの人たちのなかから猛反発が来そうなくらい、彼らには容認しがたい感覚のようにも思う。 (TAOさん) 面白いな。たしかに私は自己決定に重心を置いてますね。 たぶん恋愛好きな女性が、付き合う相手(同性も含めて)によって音楽やスポーツなどの趣味や、もちろん性的な嗜好も含めてまるっきり変えることが少なくないのを興味深く思っているからですね。まさにヤマさんがおっしゃる「順応性の高さ」に関してです。 そして、たしかにそういうケースは、LGBTの人に性的指向はそんなものじゃないと否認されそう! ただ、そういう人もじつは自己決定ではなく、そうせざるを得ない業みたいなものを抱えてるのじゃないかな。 ヤマ(管理人) >女性が、付き合う相手(同性も含めて)によって…性的な嗜好も含めてまるっきり変えることが少なくない これ、これ(笑)。僕が「順応性の高さ」という観方をするようになった大元がまさに、これ。趣味・嗜好って言ってみれば、個性そのものじゃない。言うなれば、別人ってことだよね。 それを「去私の業」という捉え方をしたことはなかったけど、業だとすれば、もはや逃れようのない決定的なものになってしまうね。そういう人において、自己実現なんてのは、どのように捉えられるんだろうな。 (TAOさん) ああ、やっぱり(笑)。私も同性ながらまるで理解できず注目してるんです。 で、その傾向がある人たちに折々にヒアリングしたなかでわかったのは、もともと自己肯定感が乏しく、相手に順応できる自分でいることにアイデンティティをみいだしているということなんです。恋愛こそが自分がいちばん輝けるステージなんだという人もいました。 ステージと言えば、俳優もそうじゃないですか。アクターズ・インタビューなどを見ると、素の自分でいることに明らかに居心地悪さを感じている役者も少なくないし、そういう人にとっては別人になることが自己実現なんじゃないかな。そういえば、インタビュー番組で居心地悪そうな俳優は男性ばかりで、女優はそんなことないんです。たぶん、そんな場面でも、素ではなく、「女優」を演じるからでしょうね。 ヤマ(管理人) >相手に順応できる自分でいることにアイデンティティをみいだしている >恋愛こそが自分がいちばん輝ける だけど、僕の印象では、貴女のおっしゃる「たぶん恋愛好きな女性」ほど、いわゆる「自分探し」とやらに熱心で、あれこれ手を出したり、あちこち出掛けるイメージがあって、とても「アイデンティティをみいだしている」ようには思えないんだけど(笑)。 そのうえで、「何がそうさせるのか」が大いに気になるわけ。別に探さなくたって、いいじゃん!みたいな(笑)。もっとも、この「自分探し」こそが目的ではなく口実めいてたりするとこがあって、さらに可笑しいんだけどね。 俳優の話は、面白いね。確かに、強烈な個性派と言われる役者さんが、ステージを降りると、なんかえらく謙虚だったりして驚かされることがある(笑)。その落差が女優では割と少ないというのも、イメージ的には僕も合致するなぁ。降りても演じてるってのは、慧眼かも。 まぁ、人の態度振る舞いにおいて、何を演じていて演じていないとするかは、これまた猛烈に難しいところなんだけど。 (TAOさん) たしかに「自分探し」してそうです(笑)。まずは「アイデンティティをみいだそうとしている」に訂正しますか。 恋愛にしろ自分探しにしろ、目的を定めてそれに向かっているときは、自分の能力を発揮できて充実してるような気がするんだけど、ゴールに達してしまうと、つまらなくなるんじゃないかな。 ヤマ(管理人) >目的を定めてそれに向かっているときは、自分の能力を発揮できて充実してるような気がするんだけど、ゴールに達してしまうと、つまらなくなる ここのとこ、性的アバンチュールというか冒険と、性的指向というものの違いに繋がってくるような気がするね。キーワードは、切実さかな? いや、ちょっと違うようにも思う。難しいよね。ティナにとってのバディとのセックスは、そのいずれでもなかった感じだしなぁ。 (TAOさん) ティナはそういうエネルギーを持て余したようなタイプとはちがいますよね。もともとパートナーとの関係に満足してるようだし。 ティナが恋人に秘密を打ち明けられても動揺しなかったのは、まず相手の品格への信頼があったからで、モラルに反するものでも、生理的嫌悪感を生ずるものでもなく、自分でももっと理解したいと思ったわけでしょう? そして、子どもの頃の日本のアニメ「ワンワン三銃士」(だったかな?)を見て犬とセックスする夢を見たときの感覚を思い出して、自分もそうかなと感じたわけで。 ティナにとってそれは長い間忘れていた感覚の再発見であり、恋人との絆をさらに深める体験だから、恋人との関係が続く限り、バディもしくはそれにかわる1匹との関係も続きそうな気がします。恋人と別れたらどうなるかはわからないなー。でも、ティナの場合は、相手が変わってもズーの刻印は残る気がします。少なくともバディとの体験を告白してドン引きされるような相手とは付き合わないんじゃないかな。しばらく人間の男はいいやと思うかも。 ヤマ(管理人) >自分でももっと理解したいと思ったわけでしょう? そう。そういうイメージがあるから、内在していたものの発現という感じよりも、選択的自己決定の印象があるよね。で、その選択動機は好奇心や性的冒険ではなく、エドワルドが自己開示した動物性愛を理解したい思いではないかと観られる点には、生来の性的指向のような切実さはないように思えて仕方がないところに掴みどころのなさを感じてた。 そういう意味では、「長い間忘れていた感覚の再発見」と捉えれば、理解しやすくなる気はするね。生来の性的指向みたいなところに近づきつつも、忘れていられたわけだから切実感はなくて当然だし(笑)。「恋人との絆をさらに深める体験」としてティナが捉えているのではないかというのは、“なった人”としての納得感は凄くあるよね。それゆえに「恋人と別れたらどうなるかはわからないなー」となるわけだけど(笑)。 ただ相手が変わったときに「バディとの体験を告白」したりするのかなぁ。試金石として、ある段階においてするようになるはずって思えるほどの痕跡ということだよね、それ。まぁ、女の人は判らんからなぁ(笑)。 (TAOさん) いえいえ、次の相手に過去の体験を告白するかどうかは別ですよ。ただそういう話をまるで受け付けなさそうな相手には、はじめから惹かれないだろうなと思うわけです。 たぶんティナならわかってくれるかもと思って話したエドワルドだって、著者との出会いがあったから、ティナに打ち明けるになったわけでしょう。だけど、話す話さない以前に、もともとティナのそういうところに惹かれて付き合っていたんじゃないですか。ズーの人たちなら、そういう嗅覚に長けているはずです。 もつともこれはあくまで「私なら」という話なので、実際にどうなるかはわかりません(笑) ヤマ(管理人) >ズーの人たちなら、そういう嗅覚に長けているはず なるほどね。“なった人”のティナは、“でなくなった人”になっても、痕跡を留めるであろうから、やはり“ズーの人たち”に属すると見るんだね。LGBT、BDSMにおいても、同様のことが言えるのかなぁ。 まぁでも、各カテゴリーはともかく、マージナルなマイノリティに身を置いたことのある人は、どういう領域であれ、対人関係に対して、ある種のセンシティヴな“嗅覚”を身につけそうな気はするよね。でないと、生きづらいだろうから。それと同時に、さればこそ、日ごろ抑制せざるを得ない自己開示のできる場や人を強く求めているのだろうから、警戒心を解いて気を許した著者に対して、詳しく語るのだろうね。自分をわかってもらいたいというのは、人の根源的な欲求だものね。 (TAOさん) そうそう、マイノリティの人はそうやって人を見分けてると思いますよ。 LGBTの場合は同様じゃないかなと思いますね。試行錯誤もあって「やっぱり違った」という場合もあるだろうし、思春期など一過性のものだったり、いろんな事情で踏み止まった結果、マジョリティとして生きている人もいるかもしれないけれど、やはりシンパシー(場合によっては過去を隠したいがゆえの嫌悪感)を持っているでしょうね。 BDSMはどうかな。そうせざるを得ない業とか元々の性癖もあるでしょうけれど、刺激や解放を求めての手段のひとつのようでもありますよね。 たとえば女装もある種の人にとってはただの解放の手段みたいです。昔、ミック・ジャガーが女装は紳士の嗜みなんだと言ってましたが、現代のアメリカで女装愛好家のために開催される秘密のパーティやキャンプに参加する人の多くは、社会的地位があり、シスジェンダーたる男性であることにプライドを持っているので、性転換手術をする人を軽蔑するらしいです~。トランスジェンダーの切実さとは対照的ですよね。 ヤマ(管理人) >試行錯誤もあって「やっぱり違った」という場合 性的指向に限らず、趣味、嗜好も含めて、こういうのあるよねー。こういう“本来”ではないことへの気づきと自身の“変化”の違いって、どういう形で意識づけられるのか、すごく興味深いんだよね。ここに“習慣”というものの及ぼす影響なんかも考慮すべきだと思うし。 むかし好きだったことがさほどにもなくなってたり、苦手や苦になってたりってなことは、誰しもにあることだと思うけど、それを左右しているものの殆どが習慣の有無だと見受けられることって多いよね。その場合、“本来の自分”なんていうのもおこがましい気がしてくるし、“自身の変化”ってな御大層なことじゃなくて、行動パターンが環境によって変わったというだけのことじゃんってな気もする。“変わる”ということにとても敏感というか反応しがちな人が、女性に多く見受けられるように常々感じているんだけど、そもそも“自分探し”の自分って何なんだろうね。LGBTに目覚めた、BDSMに目覚めた…でも「やっぱり違った」みたいな(笑)。 それはそれとして、トランスジェンダーとトランスヴェスタイト間のそれって当事者にとってはけっこう深刻なんだろうけど、どちらにも程遠そうな僕からすると、なんか近親憎悪のように見えてくるのは何故だろうな。トランスヴェスタイトだって、“秘密のバーティやキャンプ”を必要とする程度には十分にマージナルなわけで、その点では信用リスクを抱えているわけだから、それでも手放せない切実さは、あるような気がするよ。芸能領域以外だと、ある意味、トランスジェンダー以上にカミングアウトしにくいように見受けられる気がする。それこそ、切実感にも欠けた趣味領域だと見做されやすいことによってね。 (TAOさん) 習慣って大きいですよね。ニコチン中毒も煙草をやめてしまえば、あれはなんだったの?という感じだし。映画館に行くのも習慣なのかも。ただ、アルコール依存症患者が長期間の断酒の後にたった1杯で元の木阿弥になってしまうように、習慣の結果とは言えないものもありますよね。アルコール、ギャンブル、ドラッグ、セックス、仕事などなど、心身の健康を破壊するほど度を超えても、何かに依存しないと生きていけなくて、何かをやめても、もぐら叩きみたいに他の対象に依存してしまうような。 ヤマさんはたぶん自分のことをキライだと思ったことがないでしょう? 自分が好きになれない、自己肯定感が持てない人は、今の自分ではない、「本来の」自分、好きになれる自分を探しちゃうんじゃないかなあ。「私は私」と思えないから、誰かに承認されないと不安なのでしょうし。 どうしてそれが女性に多い傾向なのかというと、時代のせいも大きいのでは。昔は女に学問は必要なしと言われていたので多くの人はそんなもんだとあきらめていたけれど、戦後の男女平等教育を受けた団塊世代の女性や、アメリカのベビーブーマーの女性たちは、結婚して専業主婦になって鬱屈し、娘にはいい学校に行って男並みに働くことと、それだけならまだしも、女子力を高めて良妻賢母になることの両方を期待したわけです。 これじゃあ娘は混乱するし、身近なロールモデルもなく、というかもともと両立なんかできるわけないのですが、真面目な人ほどあきらめず、自分の努力が足りないと思ってしまいそう。しかも建前では「個性的であれ」と強いられるのに、逸脱するといじめられるでしょう。ほどほどに個性的で「イイネ!」と言われるポジションを探すのが自分探しなんじゃないですかねえ。 トランスヴェスタイトがトランスジェンダー以上にカミングアウトしにくいのではという視点は面白いですね! 男性のトランスヴェスタイトの場合は、ジェンダー的特権をキープしつつ、ちゃっかりガス抜きもしているところがズルい!と思うわけですが、たしかに彼らは、いまや世間的な理解を集めつつあるトランスジェンダーに比べて、人知れぬ苦労があり、リスクも引き受けていそうですね。今後は共感度のメモリを上げることにします! ヤマ(管理人) 習慣と依存の分かれ目か、成程なぁ。意志の力なんてものじゃなさそうなことは察しがつくけど、そうか、自己安定(肯定)感によって左右されるとな。意志などより数段、納得感があるね。そのもたらす陶酔感がアイデンティティに直結しちゃうと“習慣”では済まなくなるわけね。酩酊であろうが、快感であろうが、苦痛であろうが、そのもたらす興奮状態が自分そのものと同一視される「感覚」となってしまえば、それをもたらす行為もただの「行動パターン」とは言えなくなるかもしれないね。 自己嫌悪については、僕も人並みに十代までの間は、しばしば見舞われていたような覚えがあるよ。むしろ強かったからこそ何とかそれから逃れたくて、対象化して分析したり考察する癖がそれこそ習慣化したような記憶がある。それによって相対化を果たし、嫌悪といった感情的な反応に囚われずに済むようになったんじゃないかな。逆に言えば、そういうめんどくさい作業(もう習い性になってるから面倒くさいとも思わないくらい血肉化してるけど)に追いやられるほどに元々は強かったというわけ。 おかげで「自分」というものはかなり把握できてて、「本来の…」なんていう題目を要しなくなっているのは確かだね。自分は自分ってな開き直りができてるようなとこは確かにある。 そういう意味では、現代女性が生きづらいというのは、確かにあるかもしれないなぁ。男の生き方よりも遙かにヴァリエーションが豊かで自分で混乱して行きやすいだろうね。しかも、どのバリエーションにおいても、それなりの生き方を果たしている女性が目立つから、どっち?なんて単純さではない方角のどれに向かいたいのか、向かうのが自然なのか判らないまま彷徨うのかもしれない。探すと言うより、さ迷ってるんだね。 (TAOさん) >対象化して分析したり考察する癖がそれこそ習慣化した >逆に言えば、そういうめんどくさい作業(もう習い性になってるから面倒くさいとも思わないくらい血肉化してるけど)に追いやられるほどに元々は強かったというわけ。 ああ、すごくよくわかります! そうやって今のヤマさんが出来上がったんですね。 自己相対化って自分の中にコンパスをつくるということなんでしょうね。それを持っていないと、親や世間が提示する「かくあるべき」に振り回され続け、彷徨ってしまう。 それと、バブル世代や団塊ジュニア世代の女性は、若い頃とりあえずチヤホヤされて自分が下駄を履かされていることに気づかず、べつにモテなくても、友だちとしゃべったり、「友だち母娘」で仲良く旅行やショッピングを楽しんだり、それなりに楽しく過ごしているうちに、多少の自己嫌悪は見ないことにして、自己相対化の労を避けがちだったかも。その先送りの結果が、自分探しなんでしょうけど。 >しかも、どのバリエーションにおいても、それなりの生き方を果たしている女性が目立つ それもSNSで必要以上に拡散されるじゃないですか。自分だけが取り残されているような気になって、焦ったり、落ち込んだりしそうですよ。昨年見たアメリカ映画『エイス・グレード』では、自己啓発的なトークを毎日発信している女の子が、学校では無口でバカにされていて、そのギャップに苦しんでいるんです。ジョン・ヒューズやハワード・ドイッチの青春映画の、なんと牧歌的だったことか・・・としみじみ思いました。 ヤマ(管理人) 若い女性の下駄というのは、履かされているような代物ではなくて、実際にそうだものね。男がチヤホヤするだけじゃなくて、むしろその時期を過ぎた女性のほうが、備わっていたものとしての下駄の存在を思い知っているような気がする(笑)。 まぁ、それゆえに実際の自分の足の長さや身の丈を知らずに過ごしてしまいがちというのは、確かによくあることだろうね。でも、男からすれば、下手に下駄の強みを意識しているような女性よりも、そうでない女性のほうが好もしく感じられるんだけどね。 ところで「自分だけが取り残されているような気になって、焦ったり、落ち込んだり」というのが僕には不思議で仕方がない。それで向かうのが「個性」とか「自分探し」って、まるで矛盾してるじゃないかという気がしてくる(笑)。皆と同じように十把一絡げの流れに乗せられることほど嫌なことはないと思っている少々天邪鬼な僕からすれば、何故その自己矛盾に気づかないのだろうと…(あは)。 それとは別に、リアルとネットの自分のギャップの大きさに苦しむというのは、さもあらんという気がするけど、『エイス・グレード』の彼女がどのような顛末を迎えるのか、ちょっと観てみたい映画だなぁ。 (TAOさん) そりゃそうですね、女性にしたって、若い時分に”下駄の強み”を意識して生きるのはせつないです~。 >何故その自己矛盾に気づかないのだろうと…(あは)。 みんながヤマさんみたいに惑わされなくなったら、スマホは売れないし、ライフスタイル提案型ビジネスはまるで成り立たないだろうなあ(笑)。 『エイス・グレード』は機会があればぜひ観てください! 自分探しの必要はなさそうな、将来が楽しみな女の子です。父親との関係もいまどきで面白かったなあ。 ヤマ(管理人) 『聖なるズー』からは、だいぶ離れてきちゃったけど、いろいろ話が拡がり、面白かった。またひとつずつ本と映画で宿題ももらって…(笑)。ありがとねー。 (TAOさん) ほんと遠くまで来ちゃいましたね。こちらこそまたよろしくお願いします! |
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| by ヤマ(編集採録) | |
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