『サン・スーシの女』(La Passante Du Sana-Souci)
監督 ジャック・ルーフィオ


 国際連帯という人権擁護の組織の創設者であるマックスという初老の男が、ある日、パラグアイの大使を白昼堂々ときわめて冷静に殺害する。マックスはユダヤ人であった。そして、大使は元ナチスの高官。いわゆる戦争の傷跡ものであるが、この導入部での展開からは、人権と差別の問題という政治的社会的色彩が濃さそうである。

 しかし、この作品は、そういう理屈っぽいだけの単純な映画ではない。マックスとマックスにまつわる人々のドラマが回想と裁判劇のなかで語られるのであるが、回想劇において愛と運命の悲劇を人間ドラマとして展開する一方、裁判を巡る現代の側のドラマから政治的社会的視点を投げかけるのである。構成としてのそのバランスが巧みで、観客を緊張と衝撃のなかでラストまで惹きつけて放さない。

 ことに回想劇において語られる、美しくもけなげな人々が政治のもたらした運命のなかでズタズタに痛めつけられていくさまが、観る者の胸に迫ってくる。ユダヤ人であるために両親を殺されたうえ、片足を不具にされた少年マックス。その彼を保護し、体制を告発するという良識を持っていたために離れ離れになってしまったエルザとミッシェルのヴィナー夫妻。エルザは、悲嘆と微かな希望のなかで夫への愛をマックスに投射させ、マックスは、彼女を母とも慕いつつ、異性としての憧れを抱く。エルザに恋しつつ、二人に献身的に尽くす善良な男ブイヤール。そして、エルザの親友ジュリエッタ。彼らの人間的な関わりが肌理細かに描かれていて、その悲劇が切々と哀しい。

 エルザの存在感は、この作品のキー・ポイントになるところであるが、ロミー・シュナイダーは、実によく演じている。エルザの弱みにつけ込み、彼女に屈辱を与えたその後に、決定的な打撃を与えたレゴという男への憎しみは、マックスをして四十年経た後もなお、自己の主義主張を捨ててまでも消すことのできないものだったのである。





【追記】'26.4.11.
 映友から借りたディスクに収録されていたスターチャンネル2録画で、四十一年ぶりに再見した。ロミーの遺作となっている劇映画だ。作品感想としては当時と変わりないが、1933年の十二歳時に父親を路上でナチスに射殺され、自身の足にも生涯に渡る障碍を負わされたユダヤ人男性マックス・ボームシュタイン(ミシェル・ピコリ)が半世紀後に起こした事件を同時代として描いている映画のなかで、“人種差別主義の復権”を指摘している点が殊更に印象深く残った。エンディングでタリラが歌っていた亡命の歌の歌詞に出て来ていたすべてが繰り返されるとの一節が、今現在の世界を照射しているように響いてきたからだ。
 四十一年前の日誌に記してあるジュリエッタはシャルロット・モーパ(ドミニク・ラブリエ)の記憶違いだった。ミシェル・ヴィーナー(ヘルムート・グリーム)が殺されたのは、1938年だったように思うから、ルパート・フォン・レガルトことフェデリコ・レゴ(マチュー・カリエール)パラグアイ大使は少なくとも七十代には到達していた勘定になる気がする。
 オープニングでの人権擁護委員会の記者会見において人権問題の由々しき地域として挙がっていた三地域は、東欧ソ連・アイルランド・南米だったが、四十年以上経った今、筆頭に挙がって来るのは、どこになるのだろう。
by ヤマ

'85. 2.12. 名画座



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