実説安兵衛婿入

田中光郎

高田馬場で名をあげた中山安兵衛が堀部弥兵衛の養子になったことは、講談・映画などでよく知られているが、その経緯はたぶんに「見てきたような嘘」であることが多い。これについて最も信頼すべき史料は安兵衛自身が越後新発田の親類坂井平助・川村忠右衛門に報告したものである。原本は坂井家に伝わっていたが、文久元年に尾本鋻(太郎太、右筆)が坂井鍋之助(馬廻120石)から半日借りて写したものを、昭和9年に郷土史家の三扶誠五郎(石雲)が発見して、影写に釈文を付して『中山安兵衛・堀部弥兵衛/父子契約の顛末/安兵衛自記』(以下『顛末』)のタイトルで出版した。地方の少部数刊行物だったので入手は困難であるが、国会図書館デジタルコレクション(ただし、図書館限定送信*)で見ることができる。
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(1)

中山安兵衛がはじめて堀部弥兵衛に会ったのは、元禄7年4月27日のことである。この年の2月11日に高田馬場一件があり、その話を聞きたいということだったと思われるが、仲介したのは久世出雲守(成之)の留守居・中根長大夫だった。
この後も重要な役割を果たすことになるので、彼について少し述べておこう。『顛末』によれば、中根長大夫は菅野六郎左衛門の古傍輩である。これも後で名が出てくる三沢喜右衛門・間瀬市左衛門と中根・菅野の四人は久世大和守(広之)家中でとりわけ親しかったが、出雲守代になって「不勝手」つまり財政上の理由で二十人ほど浪人した中に中根以外の三人がいたという。菅野は西条藩に仕えたし、『顛末』によれば三沢は内藤丹後守(高遠藩)家中で大目付、間瀬は秋元但馬守(谷村藩)で近習頭兼納戸役を務めて、いずれも再就職できた訳である。これは幸運なことというべきか、またはその見込みのある者だけを解雇したのかは定かでない。
中根については、「関宿世禄之記録」(『野田市史料集』第一集所収)に寛文11年から勤仕していたことが知られる。三沢は「元禄年中分限帳」(『高遠の古記録』4)に吟味役(大目付兼)120石として名が載っており、さらに「久世出雲守」と旧主の名が注記されていて、『顛末』の信頼性を強めている。
そういう関係だから、安兵衛とは菅野在世中から親しくしており、菅野の死後はこれにかわって面倒を見なければならないという責任感を持っていた。堀部弥兵衛とは留守居同士の交際があったと思われる。
と、いうことで、話は戻って元禄7年4月27日、中根長大夫の紹介状をもった中山安兵衛が、浅野家の留守居をつとめる堀部弥兵衛を訪問した。「出来合料理」とあるからケータリングであろうが御馳走で歓待し、高田馬場のいきさつを詳しく聞き取った。その際に弥兵衛が「もし養子に望む方があったら相談はできるか」と言いだし、「過分には存じますが、養子に参って名字が断絶することは成りがたく、四五年以前にそういう話もありましたがお断りしました」と答え、弥兵衛も「ごもっともでござる」と挨拶したという。
月がかわって5月7日、安兵衛が堀部方を再訪。先月の礼を述べ、高田馬場の話の続きなどをした程度である。
さらに月がかわって閏5月1日、安兵衛が中根長大夫に用事があって手紙を送ったところ、その返事に「少々御意を得たき儀」があるから、明2日晩7つ時分(不都合なら4日晩)に来てくれというので、2日にうかがうと返事をした。 そして閏5月2日夜7つ(原文の通りだが、真夜中というか夜明け前の訪問ということになる)、安兵衛が中根方で対談していると、長大夫が何となく言い出したことには
長「身躰(身代)向きに相替わる事はないか」
安「別条ございません」
長「この方にても随分心がけ、方々へも頼んでおるのだが、当世のことで、なかなか思うような所がなく、別して苦労に存じておる」
安「ご懇意かたじけなく存じます。身代の儀は縁次第のものと覚悟しております。また、今は堀内源左衛門(剣術の師)先生が身元を引き受け世話してやろうと言ってくれていますので、慌ててはおりません。中根様にもお気長にお願いいたします」
長「源左衛門殿の志、まことに頼もしい。また、そなたの心底も承知した」
と言った上で、長大夫が本題を切り出す。
長「実は一両所より養子の儀を頼まれておる。先方から志を以て所望される仁があれば、養子に参る儀も相談できようか」
安「養子の儀は前からお話ししております通り、亡き親に外に男子がございませんで、名字を相続するのは自分だけですので、私一人の了見で名字を断絶するのは本意でありません。この段、思し召し分けられて下さりませ」
長「そなたの考えは承知いたした。だが、罷り帰ったうえでとくと考えてみよ。こちらも心安き方へ相談してみよう」
安「ともかく御懇志のほど忝なく、お心入れの趣は江戸にいる親類にも話してみます」
ということで、この日は帰宅した。

(2)

閏5月8日、長大夫は堀内源左衛門に書状をよこす。この時点まで面識はなかったが、直談したいことがあるので明9日の午前中に訪問したいという。「お気遣いな事はない」と、トラブルではないという注釈付きである。源左衛門からは「御勝手次第においでください」と返事。
で、翌9日に中根が堀内を訪問した。
長「先頃、中山安兵衛を私宅へ招き、養子のことを相談したが、一向に同意する様子がござらん。そこでお手前と相談いたし、お手前から御意見をくわえていただいて、同心させたいと思って参りました」
源「先日の件は安兵衛から伺っております。さりながら、身上の儀はその身その身の心底次第、意見を加えて説得しては、後々落着かぬと存じます。それに、安兵衛の(名字を守りたいという)寸志は殊勝なことですから、かたがた以て意見がましいことは申されません。まず御了簡いただいて、この後安兵衛の寸志も立つようなことがあれば、多少のことは我慢するように意見もいたしましょう」
ということで、長大夫も了解して帰った(ということを、安兵衛は後で源左衛門から聞いた)のである。

堀内源左衛門の単独説得に失敗した長大夫は援軍を要請した。すなわち先ほど名を挙げておいた古傍輩、内藤家臣・三沢喜右衛門と秋元家臣・間瀬市左衛門である。閏5月15日、ふたりの連名で堀内のもとに手紙が来る。かれらもちろん堀内に面識はないが、先日中根長大夫が相談した中山安兵衛身代の儀について、私どもも直談したいので都合のよい日はいつか、というのである。源左衛門の返事は、18日か24日なら在宿しているので御勝手次第においで下さい、というものだった。
閏5月18日。間瀬は公務があって来られず、やってきたのは三沢がひとり。作戦を練ってきたのか本人の性格か、いささか高圧的な態度である。
喜「このたびの中山安兵衛養子の一件、長大夫が精を出されておるのに?、安兵衛は存念ありとて同心しないと聞いている。存念とやらは、品によるというべきであろう。安兵衛がよき身代にありつけば先祖への孝行、外聞と申すもの。此の度の取組に同心せぬと言うのは安兵衛の了見違いであろう。そこのところを、お手前が御意見くださって然るべきか、と考えてご相談かたがた罷り越してござる」
源「いずれも揃って御苦労なされる段、安兵衛にとり忝ないことでございます。しかしながら、先日中根様にも申し上げました通り、このたびのことは大切のことゆえ、安兵衛に同心なきうち意見など申されません。一度父子契約をいたしましたら以後どのようなことがあっても変替しては世上の唱えも如何。また、先祖への志を存じ名字相続いたしたいとの所存はもっとものように存じます。なんとか安兵衛の願いがかなうようにと私も思っておりますので、不自由難儀千万ながら私が面倒をみるゆえ艱難をともにして願いを遂げるようにしようと申し合わせました。無理に安兵衛に得心させて所存をたがえては詮なき意見と存じますので、私としては意見は申しません」
たぶん喜右衛門いささか怒った口調ではないかと推察される。
喜「思し召しの心底、承った。この上、安兵衛が本名をやめて養子になるという相談はまかり成らぬということでござるかな」
そうまで言われると、源左衛門も少し躊躇する。このまま打ち捨てるのも残念と思い、
源「私の了見で打ち切るということではございません。ともかくも安兵衛の心底次第でござる。皆様の相談で、本名を捨てて養子になる儀苦しからずということになれば、多分に付くのが相談というものでござれば、安兵衛に一通り話してみましょう」
喜「ごもっともでござる。拙者も長大夫と相談することにいたす」

喜右衛門が帰った後、源左衛門がその趣旨を安兵衛に話した。
安「ともかくこのたびのこと、私の本意を違えての相談は了見の外でございます。第一、弥兵衛殿の妻子がどのように考えているかもわかりませんし、将来のことは大変不安で、本意を違えての相談はできません。幼少より今まで艱難にたえてきましたのも、一度は亡親の名字を立てたかったからです。こう申せば、やせ名字建立の儀、いずれも様にはおかしく思し召されるでしょうが、志は多少に限らないと存じます」
ここで注意したいのは、弥兵衛の名を安兵衛が出していることである。『顛末』に記された閏5月のやりとりの中に、堀部家からの話であることは明示されていない。省略されている部分で名前が出ていたのか、雰囲気で察したのか、あるいは最初から暗黙の了解があったのか、定かではない。とにかく、この安兵衛の言葉を受けた堀内が
源「さように存じ切った上は、明日三沢殿に参り、本名を止め養子に参ることは望みでないので、この相談はやめていただくように申し切ろう」
というので、安兵衛も「その通りに仕りたい」と答えたのである。
この日、安兵衛の従兄弟である河村(川村)忠右衛門も堀内を訪ね、三沢にも会っている。相談の様子は、喜右衛門の帰った後で源左衛門から伝えられた。忠右衛門は『顛末』宛先の一人でもある。江戸の親類にも相談するという安兵衛の言葉通り、中山家の親類も関与して交渉が行われている訳である。

翌19日。堀内源左衛門が三沢喜右衛門を訪ねる。
源「昨日の話を安兵衛に委細申しましたところ、安兵衛の申すには『何れも様の御懇意忘れはいたしませぬが、本名を1日たりとも断絶するのは本意ではありません。皆様の御厚情を思えば、とても直接断れませんので、先生からお断り下さい』と言うので、参りました」
喜「安兵衛の心底の趣、伝え聞いたとおり中根長大夫に申しましょう」
源「よろしくお頼み申す」
ということで、この話はきっぱりと断った…はずであった。

(3)

きっぱりと断ってきた堀内源左衛門、安兵衛に「中根様には何やかやの御礼として近いうちに手紙を差し上げるのがよかろう」と言うので、翌々日(閏5月21日)に安兵衛は手紙を書いた。すぐに中根からも返事があり、養子縁組は断ったものの、二人の関係は維持されたのである。
しかし3日後の閏5月24日朝卯の後刻、ふたたび中根から堀内方に書状が届き、「中山安兵衛身上の儀につき、急ぎ御意を得たいので、本日中に伺いたい」という。源左衛門からは「今日は麻布あたりに用事があるので、参りがけにお伺い致します」と返事。
中根を訪うた堀内源左衛門に長大夫が語るよう
長「21日(つまり安兵衛との書状のやりとりのあった日)の晩、堀部弥兵衛かたへ参り、弥兵衛の心底を尋ねたところ、弥兵衛が申されるには
弥『中山安兵衛事、はじめて会った折から養子にして然るべき人品と存じ、養子に望む方があれば相談できようかと尋ねたのは、親類縁者の意向やら意趣遺恨を含む者があるかなどの吟味もなく養子にしようという下心からでござる。(このあたり誤写か文意をとりがたい箇所があるが)父子の契約調った後、旦那(浅野長矩)が不相応に存ぜられ願いの通り申しつけられずとも、父子の契約を変えることなく、我らの養子として何方へなりとも有り付けさせる覚悟でござる。手前の長屋に引き取るつもりでござるが、これもお許しがなければどこへでも扶持米を送り生計を立てさせるとまで覚悟してござる。それから本名の中山のままで養子に貰い受ける。この趣を安兵衛に申し聞けられ、本人さえ承知ならば私宅へ参られよと言い含めて下され。二人で互いの心腹を聞き届け相談いたそう』
と、まあこういうことでござった。この上安兵衛に何の存じ寄りもあるまい」

有名な、中山姓のままでの養子という破格の条件が、ここで示されたのである。
源「弥兵衛殿の心入れ承った。本名さえ名乗れるなら、ほかの存じ寄りがあるといっても説得しましょう」
ということになった。堀内は麻布の親類に用事があり、その晩は泊まり、明晩帰る予定なので安兵衛に言い聞かせ、明後26日の朝に中根方に行かせるということに取り決めた。
閏5月26日、中山安兵衛は中根長大夫を訪ねた。中根は堀内に話した通りを告げる。
安「堀内先生からもその通り承りました。このたびは御苦労御世話、御厚情かたじけなく存じます。この上は何の存じ寄りもございません」
長「おぬしへ直談し、心腹を承り、弥兵衛方へ申し遣わすことになっている」
安「よろしくお願い致します」
ということで、事態は逆転、一挙に養子縁組成立へと向かうことになる。

(4)

翌27日、中根長大夫から中山安兵衛に手紙が届く。長大夫が弥兵衛に首尾を伝えた事に対する返状が添えられ、このうえは直談で変わることもないだろうから、まず相役と知人になり、状況によっては大目付とも引き合わせるから、来月1日昼時前後に来るようにとあった。安兵衛は長大夫にその意を得た旨、返答した。
元禄7年6月1日の昼前、中山安兵衛は堀部弥兵衛を訪問する。
安「このたび御志の趣、中根長大夫方より委細承り、かたじけなく存じます。中根殿に申し上げたとおりの私の心底でしたが、それを承知でお養い下さるとの思し召し、本望至極に存じます。向後よろしくお願い致します」
弥「すべて承った。我ら心底感悦の旨、悦び入っておる。中根殿に申したとおり、今日おいでの上は同役にも引き合わせよう」
と言って、建部喜六のところへ申し越したところ喜六がやってきて近づきとなり、つぎに喜六と同道して大目付植村与五左衛門を訪問、その後喜六とともに弥兵衛宅に戻った。喜六と一緒に弥兵衛の家内皆々と対面、父子契約の盃事をいたして、料理も出た。同席したのは、喜六のほか、目付・志村佐右衛門とその兄で町医者の周仙、弥兵衛と安兵衛をいれて五人であった。引き出物として扇子に刀(高田重行作)は佐右衛門が持って出た。 七つ過ぎに料理しまい、川村忠右衛門が弥兵衛名代として中根長大夫へあいさつに行ったという。めでたく縁組成立である。

さて安兵衛が堀内源左衛門に報告に行くと
源「今日、早速祝儀の調ったこと、珍重に存ずる。このたびの弥兵衛殿の養子に所望の志、無類というべきである。父子の契約調った上は、礼儀もあること。自分の本意ばかり達しては快からず、養子の願いを近々差し出すであろうから、その前に堀部の名字を相続すると申し出ておけば、弥兵衛殿もいよいよ満足、心底も打ち解け、礼儀も立つというものであろう」
との師の教訓。
安「わかりました。これまでは自分の存念を通させてもらいましたので、この上は御了簡に従おうと思います。追って右の通りご挨拶いたし、よき時節に堀部を所望したいと存じます」
と、中山姓を捨てるという大決断が示される。ここまでのこだわりからは理解し難いところもあるが、武士の義理というのはそんなものなのであろう。

6月4日に堀内方へ弥兵衛から書状。明後6日に在所(赤穂)へ飛脚が行くので、安兵衛の実方の親類書を養子願書といっしょに差し出すから、来てくれという伝言。
安兵衛が堀部方におもむき、親類書を作成した。この親類書も重要な史料であるが、今は省略する。その作業が済んで 安「このたび御志をもって養子になされたる段、かたじけなく存じます。本名(中山姓)断絶いたしがたき儀は、中根長大夫様に申し上げ、お聞き届けの通りでございます。さりながら、かように御懇意のうえは一分の志ばかり達しては快くもございません。近日養子の御願書を提出し、私実方の親類書も差し上げることですので、堀部の名字も名乗りたいと存じます。この上は御了簡次第、堀部でも中山でも、よろしいようにして下さい」
弥「心入れの趣聞き届け、満足に存ずる。しかしながら、まず中山安兵衛にて書き出そう。旦那は願いを聞き届け、中山安兵衛のままで召し使われるかも知れぬし、願いの通り聞き届けられなかった時は中山安兵衛で差し置くという心づもりであったので、その後はそなたの勝手次第とするがよかろう」
6月29日、在国の主君からの返答が伝えられる。家老・安井彦右衛門、大目付・植村与五左衛門、用人・奥村忠右衛門列座にて、安井から弥兵衛に「その方養子願いの趣、もっともに思し召され、勝手次第に仕り候様に」と申し渡される。要するにフリーハンドで許可が出た訳である。そこであらためて盃をいたし、堀部安兵衛になったのである。その夜、建部喜六の紹介で安井・奥村とも知人になった。
7月4日に堀内源左衛門方から堀部弥兵衛方に引っ越し、これで一件落着である。

(5)

さて「実説安兵衛婿入」と題して述べてきたが、実のところ「婿入」の話は一文字もない。あるのは養子縁組、父子契約ばかりである。紅だすきのロマンスはもとより期待していなかったが、弥兵衛の娘が影も見えないのは少々物足りない。しかし、それが「実説」である。
弥兵衛が自ら安兵衛を掻き口説くという場面もない。交渉しているのは主として中根長大夫と堀内源左衛門である。恐らく一般的に、当事者同士ではなく仲人が取りまとめるものなのであろう。二人が直接話すのは、交渉にはいる前と実質的に決まった後だけだった。
注目したいのは、堀内の存在の大きさである。「宿」「介抱」ということで、実質的な保護者として振る舞っている。単に剣術の師であるという以上のものがあろう。こうなったのは高田馬場一件以後で、それまでは旗本・稲生七郎右衛門のもとに身を寄せていたらしい。そのあたりの経緯は、省略した親類書の、佐藤新五左衛門(条右衛門)に関する注記部分にある。
中根長大夫は、留守居同士という縁から堀部弥兵衛の代理人として行動しているものの、この話を取りまとめるのが安兵衛のためだという思いも感じられる。それは三沢喜右衛門にしても同様である。仕官先を求めることの困難を知っている中根や三沢にしてみれば、中山姓にこだわってこの機会を逃すのはもったいないことだったに違いない。中山姓を立てたいとする安兵衛を支援する堀内にも理解可能なことだったから、このまま打ち捨てるのも残念と思ったのであろう。
最終的に「中山姓のままでもよいから」という弥兵衛の「志」に安兵衛が応え、「自分の一分ばかり通しては快からず」として堀部姓を選択する。武士の義理というものをよく物語る佳話であるが、単純にそうとばかり言えないかも知れない。安兵衛の人柄に惚れ込んだ弥兵衛である。その後の反応も予想はついたはずでないか。計算ずく、だとニュアンスは異なって、安兵衛もうんとは言わないだろう。だが、本気で言えば本気で応えてくれるという見通しを、弥兵衛ほどの巧者が持たなかったとも言い難い。江戸留守居という藩の外交官、海千山千の交渉専門家が二人でタッグを組んでいるのだ。純朴青年と剣術使いのコンビでは、勝負は最初から見えていたのかも知れない。