久我山昔話






井の頭行きの馬車
明治の頃、久我山の
いのまつ と呼ばれたよろずや〔何でも売ってい る店・現在の久我山5-8-4〕前から井の頭弁財天まで乗合馬車が走 っておった。ある初弁財天の朝じゃった。
井の頭に向かって馬車を進めていると、朝霧の中にすらっとした 女が立って手を上げた。“どうっ どぉ どぉぉ”と馬を止めると 女は無言で乗り込んだ。他に客はなく、 霜で白くなった田んぼと雑 木林との間の砂利道をコトコトと馬車は走った。
“お客さん 着きましたじゃ”と振り返ると女は居なかった。“あ れぇー 確かに乗ったのになあー”と座席を見るとびっしょりと 濡れておった。
“あれは、弁天様のお使いの白蛇(しろへび)じゃったのか”
おぉ 寒むぅ おぉ 寒むぅ
〔久我山東自治会は平成5年にこの道を防災避難路“馬車みち”と 定めた〕(平成 21 年2月 2)


人心同
明治 21年(1888)7月に朝鮮(韓国)李朝期の政治家で金玉均(キム・ オッキュン)氏が飯田作右衛門の願いにより、小笠原島で書いた碑 文が有るんだ。久我山稲荷神社に参ってごらん、力石の隣に建って いるよ。石碑は、親不幸を詫びる内容で、人の心は同じと書かれて いるんだ。175年前の出来事だ。(平成25 年9月 55)











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