久我山昔話



    65 年前に出来た道

絵 丸山しげる氏aaaaaa

昭和 20 年代(1945~)のことじゃつた。
東原の人〔現久我山5丁目〕は、人見街道から久我山駅に向かって 線路内を歩いていたぁんだ。それは、それは、枕木が擦り減るほど じゃつた。危ないと思った大作俊太郎さんは、 住民から10円・2 0円と敷き砂利代を集め、五尺道(上図の右端)を造ったのさ。車 止め石柱を建てることで、三村明さんは私有地を提供したんだと さ。今は、 アスファルトになって安全な道なぁんだ。(平成22 年5 月 17)

六地蔵通り
久我山駅より北に坂を上った処が突き当たりで、そこに六地蔵は、 並んで居たんだ〔今の鳥一の前〕 。急な切通し坂を楽な坂にしよう と六地蔵を久我山共同墓地に移し、 今の坂にしたんだ〔鳥一の前で 登り切った坂を、和花の前まで延ばした〕。
だから、この道を20 年前に六地蔵通りと久我山東自治会は、名付 けたんだとさ。 (平成 23 年1月 25 と平成 27 年9月 79 を編集)

17