世界中の天文台が、まさに白熱の競争で、謎の天体の第一発見者になろうと観測を始めた。いや天文台だけではない、アマチュア天文家まで一斉に土星に集中した。
紫金山天文台でも、四人の精力的な観測が続いていた。自動装置にせず、リアルタイムの観測である。全天をくまなく探すという場合は自動装置でも良いが、今度はある程度の範囲が絞れた観測であるため、手動によって丹念に探す方が見逃す確率が少なくなる。
・・・すでに十二時を回っていた。
ドームから李が下りてきた。
「CCDからの信号は異常なく、こちらに届いていますか?」
「OK、OK。大丈夫ですよ。モニターで、どんな小さな天体でも見逃さないと、にらめっこしているよ。見えない天体を探す最も良い方法は、恒星を横切ると、その恒星が一瞬姿を消す事なんだよね。いわゆる食ですね。これだ!ってことになるわけだけど、まだ発見できないよ」
と、茅場がハイビジョンモニターの輝度の微調整をしながら言った。
「武田先生、土星の衛星の追跡はもう本当にしなくていいですか?」
と、李が博士の方に歩みながら、まだ衛星に未練があるのか、やりたそうに言った。
「ああ、他の天文台に任せておけばいいでしょう。私たちは出来るだけ早く謎の天体を見付けることだから」
博士は李をなだめるように言った。
その時、外で車の音がした。どさどさと数人の、車から降りる足音が聞こえた。やがて息をはずませながら入ってきたのは、南京放送のTV取材班であった。二人である。
「突然、申し訳ありません。報道局の命令で、どうしても密着取材せよ、との事で、お邪魔を承知で中継車を持ち込みました。今、外で調整中です。観測の妨げになるような事のないようにしますから、どうぞよろしくお願いします」
と、入って来るなり、いきなり大きな声で、3人に代わるがわるお辞儀をしながら、その一人、多分レポーターだろうと思われる三十才前後の顔立ちの良い男性が言った。もちろん中国語である。
博士は躊躇しながらも、別に邪魔にならなければいいだろうと思い、茅場と白浜、それに李に向かって目で相づちをしながら、「かまいませんが、くれぐれも邪魔にならないようにお願いしますね」と念を押した。
「ありがとうございます。・・早速ですが、そのハイビジョン出力信号を、PAL信号に変換することは出来ませんか。本日夕方の衛星中継では、日本にNTSCで送信していましたが、わが国ではPAL方式ですので、ぜひ、そうお願いしたいのですが」と、もう一人の技術系の仕事をするらしい、同じく三十才前後の男性が言った。
日本やアメリカ、カナダ、韓国ではテレビ信号は、走査線五百二十五本、毎秒送像数三十フレームのNTSC方式で放送されているが、中国をはじめ、イギリス、西ドイツ、スイスなどでは、PAL方式といって走査線は六百二十五本、毎秒送像数は二十五フレームとなっているものである。どの放送局も、このNTSC方式とPAL、あるいはフランスやロシアなどで採用されているSECAM方式等の、相互のコンバーターは持っているものだが、日本で開発された、独自のハイビジョン方式は、走査線千百二十五本、毎秒送像数三十フレームという特殊な高精細度テレビであるため、それをNTSCやPALに落とすコンバーターを持って来なかったのである。
武田博士と茅場は、顔を見合わせて、どうしたものかと声を出さないで相談した。というより二人とも同じ事を考えた。出来ない事はない、つまり一旦NTSCにコンバートしてから、それをPALにすればいい、ということだ。しかし、そうすると、かなり解像度やS/Nは劣化するし不本意な方法だ。そうだ、CCD信号はハイビジョンだけでなく、いま趙のいる天文台ドームでは、NTSCでもモニターしている、あの信号をバッファーを通してデバイディングすればいい。博士は茅場も同じ事を言うだろうことを予想して、
「あいにくハイビジョン信号をPALに落とすコンバーターは持って来てないんですよ。したがって・・」
と言いながら、茅場に話を渡した。
「ドームにはNTSCモニター信号がありますので、それをPALに変換すればいいでしょう。しかし、このハイビジョンほど鮮明な映像ではないので、細かい星は判別できません。解像度が全然違いますから」
と、茅場はたどたどしい中国語で言った。
少し残念がってはいたが、取材陣は、さっそくケーブルを玄関前の中継車からドームまで引き回し始めた。李鵬陽が、率先して指示しながらスムーズな接続を終了した。
・・・中継テストも順調にいき、思いのほか鮮明な映像がスタジオに届いたので関係者の喜び様は大変なものであった。さすが、<日本の機械は素晴らしい>の連発であった。
思わぬ飛び入りのため、観測が一時中断しそうになったが、白浜のおかげで間断なく未知の天体探査は続けられていた。
もうとっくに夜中二時を過ぎ、さすがの白浜宏美も疲れが溜まっていた。めまいと、たまに襲うフーっとした体のふらつきは、か弱い女性の限界を示していた。最初にそれに気付いたのは武田博士であった。
「白浜君、私たちはとりあえず宿舎に帰って休もう。このあとは茅場君や李さん、趙さんに任せておけばいい」
「いえ、わたしはまだ・・」
「いや、いや。今日は・・・・そういえば昨日からだね。・・・・連続で休む暇もなく、ようやってくれた。・・・・ありがとう」
博士は、コンピューターの前に弱々しく、やっと座っているかのような白浜の両肩に優しく手をかけながら言った。
忙しくあちこちの観測装置や映像関係の点検をしていた茅場も、ようやく博士と白浜に気付き、白浜の傍へ駆け寄り、曇り顔で言った。
「ごめん白浜君、そんなに疲れていたとは・・・・気付かなかった・・・・天体にばかり夢中になって、君のことを・・・・」
「いえ、別にわたしは・・」
と、弱々しい声で白浜は言った。
「・・・・」
茅場は思わず胸が熱くなり、声がつまった。
「・・・・ありがとう・・・・先生と宿舎に帰って・・・・そうしてよ。あとはぼく達に任せてくれればいい・・・・」
「・・・・はい・・」
一辺に気が抜けたのか、白浜は自分で立つことすら出来なかった。博士と茅場が両腕を支えるようにして立たせた。茫然として見ていたのは取材に来ていたスタッフ達だった。<ああ、この人が美人科学者と話題になった白浜宏美さんか>と、スタッフだれもが今更ながら、覗き込むようにして、白浜の弱々しい美しさに見惚れるのだった。もともと白浜は、そう弱々しくはない。細身のプロポーションの良さと可愛いさはあっても、決して弱身ではない。・・しかし、さすが今日の、いや昨日からのハードな仕事は女性にはきつかった。
・・・女性らしい身の回りの手荷物、バッグ類をまとめて、着替えることなく、白衣のまま博士の運転する車で宿舎に戻った。
その夜は、茅場ら三人とテレビ局スタッフ数名による徹夜の探査が行なわれたが、未知の天体はついに発見できなかった。
茅場は、その日はお昼十二時過ぎまで熟睡した。やはり疲れていたせいだろう。南京に来て以来、これほど長時間に渡って張り詰めた神経を持続させた事はなかった。動き回って体もくたくたになっていた。しかし、目が覚めて体調は元に戻っていたので安心した。
考えてみると、今日のスケジュールはまったく決めてなかった。どこへ何時に集まるかなどを決める余裕すらなかったのだ。あれから白浜君は博士と、この宿舎に戻った、夜明けと共に李と趙も帰宅した、取材班も一旦、局に戻ると言って、器材を置いたまま解散した、天文台は宿直の老人が守っている筈だ、など寝る迄の事を頭の中で整理しながら、ベッドの整頓をし、乱雑に置いてあった服や下着類を片付けた。
<お腹もすいた、とりあえず、いつもの学食の食堂に行ってみよう>と部屋を出ていったが、ふと、<そうだ、白浜君はどうしているだろう、熱でも出して一人で苦しんでいるのではないだろうか>と心配になってきた。気になり始めたら、どうしようもない性分の茅場は、急ぎ足で白浜の棟に向かった。
・・・いた、窓からこちらに大きく手を振っている。<良かった、元気そうだ>
「茅場さーん、お早ようー、いまお目覚め?」
大きな声で叫んでいる。静かな森のなかといった宿舎だから、ずいぶん声が通る。いまお目覚め?なんて、もうお昼だから、ちょっと恥ずかしい。<そんな大きな声を出さないで>と言いたかったが、よく考えてみると、ここは中国だ、日本語の判る人はまずいない。安心して茅場も負けず大きな声で、
「お早ようー、元気そうだねー、よかったー」
と、手を振りながらダッシュした。
・・・窓越しに二人は、まるで本当の恋人同士のように、にこやかに顔を見合わせた。二人とも、しばらく口が利けなかった。茅場は、昨夜の白浜の倒れんばかりの仕事ぶりを思い出しながら、また白浜は、茅場の優しくいたわってくれたことばを思い出しながら、目と目が離れなかった。
「心配かけてごめんね。本当言うと、ちょっと疲れていたの」
と、白浜は照れくさそうに、甘え声で言った。
「ちょっとどころじゃないよ、あれは。気が付かなかったぼくの方こそ悪かったんだ。もう大丈夫かい?」
「うん、すっかり。・・・・私もよく寝たわ。茅場さんに負けないくらい」
一緒に声を出して笑った。
茅場は、見るともなしに、見てしまった洗濯物から目を離し、<食事は?>と聞こうとしたが、それより早く、白浜が、その洗濯物に茅場が気付いたことから、
「男ものと女ものの洗濯物があるなんて、おかしいわね。知らない人が見たら、きっと誤解するよ」
と、くすくす笑いながら言った。可愛い仕草が一層魅力的に見えた。
「先生はお勉強中よ。修さんも持ってきて。洗うわ」
もうこのところ、ずっとやってもらっているが、こうやって目の当たりにきちっと干してある洗濯物を見ると、茅場には親近感以上の何かを感じるのだった。
「ありがとう、あとでね。・・・・それより食事は?」
「食べてないの。コーヒーを一杯飲んだだけなの。お腹すいたわ」
「ぼくもなんだ。行こうか」
「先生もまだよ。一緒に行きましょう。ちょっと待ってて。用意してすぐ行く」
手を振りながら、窓を閉めた。中で支度をしながら鼻歌が聞こえる。昨夜は、あんなにふらふらになるほど頑張った彼女が、いまは元気ではしゃいでいる。本当によかった、と茅場は改めて白浜宏美のタフネスというか、力強いものを感じるのだった。
武田博士は、昨夕のテレビインタビューや、報道陣への公開内容をまとめていた。中国科学院へ提出するものである。茅場と白浜に誘われてやっと自分も空腹であるのに気が付いた博士は、喜んで三人で朝食、いや昼食をとった。ゆっくりと昨夜の話をしながら食べた。
昨夜といっても今朝のことであるが、茅場は、博士と白浜を送ったあと、念入りに謎の天体が移動しただろう範囲をくまなく探査したこと、取材に来ていたスタッフの中には寝袋で平気でぐうぐう寝ていた人もいたこと、反対にとても熱心に、また興味深く観測の手伝いまでもしたスタッフもいたこと、流れ星がいつになく多かった事などを詳しく、そして楽しく語らった。
博士は宿舎に戻り、白浜を部屋に連れて行ったあとは、もうバタンきゅーで寝てしまったことを、目の前に元気でいる白浜に、よかった、よかったと言いながら話した。
白浜は、女性らしいはにかみを示しながら、そのあと、ちゃんとお風呂には入って、さっぱりしてから休んだこと、今朝は十時までぐっすり寝た事などを、目を細めて話した。・・
「あ、そうだ。李さんと趙さんはどうしているかな。今日のスケジュールを全然決めないで解散したものだから」
と、茅場が思い出したように、腕時計を見ながら言った。もう二時前である。
「そうだね。天文台に電話してみようか。もう行っているかも知れないから」
と博士が言いながら、席を立とうとしたのを、すぐ白浜が、
「いえ、私が電話してみます。お座りになってて」
と、博士を押し止めて、言った。
この学食はセルフサービスであるが、その食券を渡すところの横に、古そうな公衆電話がある。小走りに駆けていって、電話した。・・・
首を縦に振りながら、戻って来た。
「もう、いらしているそうです。二人とも。宿直の方が出て、おっしゃってました。わたし、だいぶん中国語判るようになったでしょう」
白浜は得意そうに満面に笑みを浮かべて言った。
「えらい!二ヵ月ちょっとで、これだもんね」
と、茅場が手を叩いて誉めた。
「ほんとだね。大したもんだ。もう一人で街に出ても平気だね」
と、博士も嬉しそうに言った。
「じつは・・・・もう一人で買物に行ったことがあるの」
「え?」
と、茅場が急に心配顔になった。
いままで、何かというと、いつも二人で買物には行っていた。白浜はあまり中国語を口にしないし、<一緒に行って>と、茅場を誘うから、時間をつくって一緒に出掛けていたのである。それが一人で出掛けたとなると、茅場も心配である。
「だってェ・・・・わたしの下着とかなんですものォ」
と、白浜は恥ずかしそうに、下を向いて、小さい声で言った。
「いや、いや、えらい、えらい。あまり茅場君を当てにしちゃいかん。そういう買物まで茅場君を連れて行っちゃいかん」
わっはは、と大声で博士は笑った。二人も心の底から笑い転げた。
「ところで・・・・李さんと趙さんのことですけど・・・・」
お腹を抱えて笑いながら、そしてごほんごほんと咳をしながら、白浜が話題を変えるように言った。
「そうだった。忘れちゃいかん」
博士がそう言って、急に真面目顔になったので、またそれが可笑しくて白浜はくすくす笑った。
「あと三十分か、一時間くらいしたら、ここへ迎えにくるそうです」
「おお、そうか。それは助かった」
「先生もいらっしゃいますか?・・・・先生はこちらでお仕事をなさっていてかまいませんけど。昨夜の観測結果の分析ではないし、今夜の予想軌道を計算したりするだけですから」
と、茅場は博士の忙しさを知っていたので、宿舎の方へ留まるように言った。
「そうですわ。先生。もしどうしても気になられるようでしたら、夜観測に入ってからでおよろしいのでは?」
「そうか、そうさせて貰おうか。・・・・科学院への報告書を書いているんだが、慣れない中国語に苦心惨憺だよ。時間ばかり食って、少しも進まんのだ」
「お手伝いしたいんですけど、片言の中国語がほんのちょっと話せるようになっただけでは駄目ですわね」
にこにこ笑いながら白浜が言った。
「いや、いや、その気持ちだけで十分だ。・・・・じゃ、そうさせて貰うよ」
食堂の中で、しばらく団欒が続いたが、博士はさっそく仕事にかかりたいと、宿舎に戻って行った。
二人になった茅場と白浜は、久しぶりに東京にいる惑星研究室の仲間の一人である関口修一と、博士が昨夜電話で話したことなどが話題になり、向こうでも観測をしている事の心強さを確かめあった。
・・しばらくして、趙先雲が例のあまり立派とはいえないワゴン車で迎えに来てくれた。ゆっくり寝てはおれなかったと、十一時過ぎには、もう李と一緒に天文台に行ったということだった。観測機器の手入れや、取材陣の汚していったあとなどの清掃をしてさっぱりしたそうだ。いつもの活発な言動である。
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