京滬線で南京駅に到着したのは、その日の午後7時過ぎだった。東京では8時過ぎである。駅には孫万歌教授をはじめ政府関係者も入れて、数人の出迎えが来ていた。はるばる日本から応援に来てくれたとあって、大変な歓迎ぶりで、あっという間に手荷物がそれぞれの出迎えの人に渡ってしまった。ほとんどの人が日本語が達者である。孫教授は日本に何年も留学していたし、李鵬陽や趙先雲なども日本で教育を受けた若手の学者である。アクセントが違うだけで、立派な日本語を使いこなす。
 人民日報の記者とカメラマンも来ていた。一人一人挨拶をした時、白浜宏美を見て少しびっくりしたようだった。博士が、
「コンピューターのソフト開発では第一人者で、今回の観測では軌道計算を素早くやってのける複雑な計算をプログラミングした本人です」と説明すると、記者は、
「そうですか、頼もしい」
と、何度も白浜を覗き込みながら、盛んに記事の素稿を書いていた。写真もかなり撮ったようだ。
 その記者とカメラマンとは、駅で別れて、残った中国側の関係者4人と博士一行3人は2台のタクシーに分乗して、南京大学の寮に向かった。広い街路で、車は少ない。道路両側にはうっそうとした樹木で埋まっている。プラタナスである。かつての日本人による南京大虐殺があったとされるところとは思えない平和な街である。
 十分もかからないで、寮に着いた。それぞれの個室に案内されて、荷物を置いたあと、一息つく暇もなく、今日はご馳走をするといって、三門楼賓館に連れて行かれた。鼓楼から中山北路を北西に五、六分行ったところである。昼間なら城壁が見えるが、その向こうに南京長江大橋がある。三門楼賓館は南京大飯店などと並ぶ長い歴史を持つホテルで、昔はイギリス領事館だったこともある豪華な造りの建物である。
 南京市では一番料理が美味しいところだといって、特別室に案内された。すでに政府筋の特別接待として予約がしてあったようで、博士は、従業員の態度やサービスが違っているように感じた。料理がつぎつぎに運ばれてきた。
 孫教授が乾杯を促してグラスを持ち「本当に遠いところはるばる来てくださいました。ダオ シェ ニン ダ バン マン」と、言った。ちょっと中国語にも訛りがあるようであった。ダオではなく、北京ではドゥオである。茅場はそんなことを考えながら、博士にマオタイをついだ。
「ウェイ リー ジョン ヨー ハオ ガン ベイ」
「乾杯」
「乾杯」
「マオタイは強いよ。あまり飲まない方がいいと思うよ」
 茅場は白浜に小声で言った。
「わかってる。・・・・中国の方って本当にお酒に強いのよね」
 と、言いながらも、白浜は少し口をつけて、ごほんごほんと大きな咳をした。大きな、といっても若い女性の咳は可愛い。すぐ傍の政府関係の世話人が、お嬢様にはビールがいいでしょう、といって有名なチンタオピーチューをもってきてくれた。
 孫教授が湯呑みの中のお茶で箸をがちゃがちゃいわせているので、白浜が、孫教授には聞こえない囁き声で茅場に尋ねた。
「ねぇ、何なさってるの?」
「あぁ、中国の礼儀作法の一つなんだ。ぼく達もやろう。ぼくのする通りやって」
 と、小声で白浜に指示し、最近では特に改まった席とか、高級レストランでしか、中国の人もやらなくなった作法をした。 まずお茶を湯呑みに7分目ほど入れて、その湯呑みを洗う。洗うといっても軽くすすぐように回せばいいのだが。そして今度はその中に箸を入れてがちゃがちゃいわせて箸を洗う。そのお茶は茶壷に捨てる。そして新しいお茶を入れて、ゆっくり飲む。これだけのことであるが、気が付くと皆がやっていたので、白浜はほっとした。
 
「昨日夕方、荷物が届きました。早速明日からお仕事ということになりますが、よろしくお願いします」
 孫教授が丁寧に挨拶をした。
「はい、わかっています。機材の取り付けをお昼に済ませ、夜から早速観測に入ります。・・・・ところで、冥王星の軌道変化が落ち着いてきたことはマスコミその他から情報を得られましたか?」
 と、博士は食事より仕事の話の方がよいとばかり、話をきりだした。
「はい、チリのS天文台の発表が先日ありましたね。しかし、私どもの観測ではまだ確認は出来ておりません。というよりお恥ずかしい話ですが、数時間の観測だけで軌道計算できるほどのコンピューターを持っておりませんので、まだですといった方が正確なのですが」
「コンピューターというより、軌道を計算するソフトの内容でしょう」
「それとCCDカメラ」
 と、茅場が口をはさんだ。
「ああ、話には聞いていますが、わが国のものは、まだ500万画素程度です。今度お持ちになったCCDカメラはエレメントはいくつですか」
「2000万画素です」と茅場が答えた。
「ジェン ダ マ?」李鵬陽と趙先雲が同時に声をだした。
「はい」
「それは心強い。それがコンピューターと直結されるわけですね」
 と、李鵬陽が言った。
「そうです。計算プログラムを作ったのが、こちらの白浜君です。NASTRANなど高度なソフトを駆使しています」
 と、博士が言ったが、すぐ白浜は、
「計算式を開発したのは、茅場さんですの。わたしは、ただそれをアセンブラー言語を使ってプログラムしただけですわ」
 と、はにかみながら言った。
「ああ、やはりアセンブラーですか。BASICなどではいけませんか」と、今度は趙先雲が白浜に答えて貰いたいというように、彼女に向かって言った。
「いけないことはないですが、時間がかかりますね。プログラムも長くなしますし。わたしはアセンブラーだけでなく、16進のマシーンワードも織り混ぜて組んでいます。データと一緒にサブルーチンにジャンプする際、よく使います」
「ひぇー、たまげた」
 趙がすっとんきょうな声を出したので、皆がわっと笑った。
 それにしても、<ひぇー>とか、<たまげた>などという言葉をどこで覚えたのだろうか、そう思いながら博士は、
「とにかく計算速度が早く、三十分ほど連続に追跡すれば、その軌道を正確に計算してのける素晴らしいものです。良い助手を持って幸せです」
 と、茅場と白浜を見ながら言った。
「すごいですね。もう百人力です」
「早く見たい」
 口々に感心したり、誉めたりしていたが、孫教授が急に真面目な顔になり、武田博士に尋ねた。
「一体、冥王星の軌道が変動した理由は何でしょうね。武田さんはどうお考えですか」
「今のところ、観測結果だけで言えば、軌道が落ち着いたということは、大きな彗星とか隕石が衝突して、軌道をちょっと狂わせた、ということだけかも知れません。しかし、私たちのその後の軌道を綿密に計算したら、公転周期が小さくなっているのです。今まではご承知のように公転周期は248年でしたが、計算によると245年になっています。軌道は内側に寄ってきました。これは明らかに、何かとてつもない大きな質量を持つ物体が公転軌道方向の反対側から、内側に躍り込んで来たことを意味します。しかも一週間ほどの間に軌道変動が落ち着いたのですから、この物体は物凄いスピードであったに違いありません」
「なるほど。・・・・冥王星というのは、本当に不思議な運命を持っている星ですね。もともと冥王星は海王星の衛星だったのですよね。これがたまたま通りかかった、大きな天体が衝突して海王星から離れて太陽の周りを回る惑星になったのですから」
「そうなんですね。冥王星の軌道傾斜角は十七度もあり、惑星の中では特異な存在であることや、その質量組成が月や水星型であることから、昔は海王星の衛星だったことは今では通説になっていますね」
 と、李鵬陽と趙先雲が起源について語った。
「そのことですが、たまたま通りかかった、というのではない、と私は最近思うようになったのです」
 と、武田博士が言った。
「どういうことですか」
 身を乗り出して孫教授も、他の二人も、聞き入ろうとした。
「現在の太陽系は、三世代目くらいであることはご存じと思いますが、その前の太陽が燃え尽きて爆発し、超新星になった時の飛び散った残骸が、非常に長い周期で、現在の太陽系の周りを回っているのではないかというものです。それこそ何万年という長い周期で。これが周期的に近付いては、太陽系に異変を起こしているのです」
「そういえば思い当ることは過去何回もあったようですね。六千万年前の恐竜絶滅は巨大隕石の地球への落下によって、もたらされたというのもそれですね。恐竜以外にも六千万年から七千万年くらいの周期で地球上に異変があったことは地質学上の調査ではっきりしていることですし」
 孫教授は食事そっちのけで、話を深く掘り下げようとした。
 茅場と白浜は、よほどお腹がすいていたとみえて、はじめはアヒルが可哀相などと言っていた南京板鴨を美味しそうに雑談しながら食べている。
「そうです。はぐれた小惑星が隕石となったものもあるでしょうが、非常に大きい周期でしかも大きな地球的規模の異変は、その超新星の残骸によるものであろう、というのが私の考えです。したがって偶然の産物ではなく、必然だと思われるのです」
「じゃ、今回の冥王星の軌道変化も、只の偶然ではなく、その超新星の残骸が、太陽系に入ったということですね」
 と、趙が言った。
「とすると、非常に重たい天体でしょうね」
 今度は李が口をはさんだ。
「その通りです。地球上のどんな大望遠鏡でも冥王星の傍にそんな天体は発見できなかったのですから、きわめて小さな、かつ質量はとてつもなく大きな天体でしょう」
「早く見付け出したい」
「そうだ、そうだ」
 李と趙は興奮気味に、お互いの顔を見合わせながら言い合った。
 料理は山東系の北京料理と違って、南京は江浙系で海老や蟹料理がうまい。特に上海蟹は揚子江下流に生息する淡水の蟹で、非常に美味しい。この十月から一月頃までが食べ頃である。