| 大 隈 重 信 候 |
大隈記念館の大隈像とその生家
大隈 重信公候は天保9年(1838)佐賀市水ヶ江二丁目にあるこの生家で生まれた。幼名を八太郎と呼び、長じて弘道館に学びのち蘭学寮に入るが、弘道館に合併されるや、その教授
(23歳)となる。
29歳で副島種臣と共に脱藩して京都に行く
が、藩吏に捕まり佐賀へ送り返され謹慎を命じられる。そのあと藩主鍋島直正に時局を説き上京を促すが成功しなかった。
翌明治元年、政府に召し出され外国事務判事として長崎に勤務中、キリスト教信者の処分問題でイギリス公使パークスと論争して名を挙げる。
明治3年、参議となり6年(42歳)には大蔵
卿となり、13年まで財政面を司るが、伊藤博文と意見が合わず、翌14年10月参議を辞任し、立憲改進党を結成してその総裁となる。そして15年には早稲田大学の前身である東京専門学校を設立した。
明治21年、外務大臣となり、不平等条約改正に取り組むが翌年暴漢に襲われ右足を切断した。
明治31年6月、憲政党を結成し日本初の政党内閣である大隈第一次内閣が成立したが、11月に解散。35年に東京専門学校が早稲田大学となり、
明治40年、早稲田大学総長となる。大正13年(84歳)で死去、国民葬が行われた。